琳太郎の誕生日
自宅のアパートの駐車場へ車を停めると、琳太郎は助手席を見た。雛形はドアの窓におでこをくっつけて、スースーいいながら眠り込んでいる。
再び雛形を助手席から下ろして肩を担ぎ、玄関のドアを開けた。雛形の靴を脱がせて、寝室へ向かう。雛形の背中と膝に自分の腕を通して抱き上げると、ベッドの上にそっと下ろした。
琳太郎はぐったりして、エアコンの電源を入れ、スーツのジャケットと靴下を脱いで放ると、ベッドを背にして床に座り込んだ。ちらりと後ろにいる雛形を見る。彼女は体を横向きにして、Sの字にくねらせた。顔はアルコールで紅潮し、メガネの縁を敷き布団に押しつける。琳太郎が声をかけるも、反応はない。メガネを外してやり、サイドボードに置いた。
困った。この状況を安彦に見られたら命はないだろう。かといって店の駐車場や自宅の庭に放置してきたとなったら、それはそれで命はないだろう。
琳太郎は立ち上がって、キッチンへ行った。コップに水を汲んで寝室に戻った。
「雛形先生。ほら、水。飲んでください」
琳太郎はそう言うとベッド脇にしゃがみ込んで、雛形の頬にコップを押しつけた。雛形は冷たさで目を開けた。なかなか焦点が合わないらしく、ぼうっとしている。
「あれ? 何?」
「それ、飲んでください」
琳太郎は目を合わせずに言った。
「琳太郎先生だー。あはははは」
雛形は普段とはまったく違う陽気な声で、馴れ馴れしく言った。
「…そうですよ、琳太郎先生ですよ」
琳太郎は一瞬黙ったのち、大人しく調子を合わせた。
「今日すごかったねー! もも、感動しちゃったもん!」
雛形が大の字になって言った。もも、というのは自分のことかと、琳太郎は理解する。
「先生の指揮、すっごく良かったよー。それにね、それにね」
雛形は両手の拳を天井に突き上げ、幼い声ではしゃぎたてた。再び横向きになって、琳太郎の耳に顔を近づけた。
「今日もイケメンだね」
声をひそめながら吐息を吹きかけ、囁いた。琳太郎は一瞬固まって、ため息をつく。
「そうですよ。俺はイケメンですよ」
琳太郎はおうむ返ししながら、かいがいしく雛形にタオルケットをかける。雛形は暑そうにして、それを払いのける。
「もも、イケメンて大っ嫌いなんだよねー」
「そうなんですか」
酔っ払いの機嫌は、山の天気と同じくらいコロコロ変わる。払いのけられたタオルケットを手に取り、再び雛形のお腹あたりにかけてやりながら、琳太郎は相槌を打った。
「しつこいしさ。髪とか肩とか腕とか、ベタベタ触ってくるしさ。セクハラで訴えるっつーの」
雛形が鬱陶しそうに髪を払い、仰向けになりながら言った。暑いのか、シャツの第一ボタンを外した。琳太郎は床に座ったままベッドに頬杖をつき、雛形の顔を見つめる。
「やめてくださいって言うと、コミュニケーションの一環でしょう、とか、ももちゃんが悪いみたいに言うし」
雛形は悔しそうに続けた。ときどき横向きになって咳き込むので、琳太郎は水を差し出したり、背中をさすってやった。
「何しても許されると本気で信じてるし」
そう言って雛形は体制を変えると、琳太郎の顔を両手で押さえつけた。琳太郎は雛形の目を静かに見つめる。
「そんなんだからもう、スカートなし! 化粧なし! 全部なーし!」
雛形は琳太郎の顔から勢いよく手を離して言い、首を回すと、結んでいたヘアゴムがはらりと取れた。長い黒髪が肩や胸の辺りにかかった。琳太郎は雛形の怒った顔をまじまじと見る。雛形が男よけだと言っていた詳しい訳が分かった。化粧をせず、分厚いメガネをかけていることだけでなく、体の線が出ない服を着ていることも、露出の多い服を避けていることも、そっけない態度も。
「…本当にそうですね」
琳太郎が同情して言って、長いまつ毛をしばたいた。
「そうだよ。謝って」
雛形が頬を膨らませて、横柄に言った。再びベッドに仰向けになり、足で虚空を蹴ってみせる。
「すいません」
琳太郎が大人しく頭を下げた。雛形は顔だけ琳太郎の方を向いて、半眼で睨む。睨みながら、右手で琳太郎の前髪に触れ、指に巻きつけたり、引っ張ったりした。
「でも、琳太郎のことは好きだよ」
雛形は急に満足そうに微笑んで言った。瞳の奥には情熱的な炎がともっている。
「そうなんですか?」
琳太郎は、雛形と目を合わせないようにして聞いた。
「お姉さんが、キスしてあげよっか」
雛形は獲物を狙う蛇のように細い目をして、耳元で囁く。雛形は今度は琳太郎の髪を撫で、頬を撫でた。琳太郎は何も言わない。微動だにしない。雛形は上体を起こして、琳太郎のおでこに自分のおでこをくっつける。今度は、悩ましげに上目遣いをした。目は潤んでいる。完全に女の顔だ。琳太郎は頭を垂れて深呼吸した。体が熱くなり、震えてきた。もうこれ以上は理性を保てそうにない。限界だ。これは不可抗力というやつだ。悪いのはこの女だし、俺が悪いんじゃない。琳太郎は雛形の視線を捕え、唇を親指でそっと撫でた。自分の顔をゆっくり雛形の顔に近づける。
「嘘に決まってんじゃーん」
雛形が大声で言うと、いきなり琳太郎の顔面を枕で殴った。琳太郎はそのまま背後の床に倒れ、ゴーンと頭を打った。雛形は声の限りに高笑いした。再びベッドへ仰向けになり、目をつぶった。
「いって…。はいはい、そうですよね、どうせ嘘ですよね」
琳太郎は打ちつけた頭をさすりながら舌打ちし、体を起こした。ベッドの上の雛形を見る。
彼女の体は、吐瀉物まみれになっていた。
翌朝、インターホンが鳴った。眠いので無視するも、何度も何度も鳴る。雛形は目をこすって起きると、我に帰った。見知らぬ部屋の見知らぬベッドの中に自分がいる。ここはどこだ。なんでここにいる。今着ているデカいスウェットは何なのか。
左の手首がやけに温かいのに気づいて見ると、琳太郎がベッドの脇の床に座り込み、顔だけベッドに乗せて目を閉じている。雛形の手首をがっちり握って、眠り込んでいるようだ。
昨夜の記憶が断片的に、ゆっくりと蘇ってきた。赤ワインを何杯も飲んで、視界の解像度が低くなり、モザイク模様になっていった。なぜか琳太郎の困っている顔が浮かび、自分を見つめてくるので、あれこれ言ったような気がする。そしたら琳太郎がいつも以上にかっこいい顔で迫ってきた。それで…それでどうなったんだっけ。私は何をどうしたんだろうか。思い出せないこともあって、しかも現に今、自分がどうしてこんなことになってるのか理解できず、動転した。声も出なかった。途中経過はともかく、自分は琳太郎とともにここで朝を迎えている。インターホンが繰り返し鳴り続けるので、琳太郎の手を振り払って起きた。それから玄関のドアを開けると、強烈なユリの匂いが鼻をついた。
「琳太郎さーん! お誕生日、おめでとー!」
甘ったるく強烈なキンキン声が雛形の耳を襲った。次に、花束を押しつけられた。白いユリを基調にした豪華な花束だ。雛形はそれを持って数歩、後退した。玄関に立つ女は、相手が琳太郎ではないことに気づき、頭の上にクエスチョンマークをつけていた。
「あれ? ここって鳥飼さんのお宅じゃないんですか?」
竹田牡丹が珍妙な表情をして、雛形に尋ねた。
「竹田さん…」
手に持っている花束と牡丹を交互に見つつ、雛形がつぶやいた。
「あれ? あなた、こないだ会いましたよね?」
牡丹が険しい目つきで、雛形ににじり寄った。雛形はたじたじとなって後ずさりする。
「牡丹さん」
男の声が正面奥から響いた。牡丹が顔を上げると、Tシャツと短パン姿の琳太郎が立っている。琳太郎の顔は恐怖の色に染まっていた。
「え? なんで、どういうこと?」
雛形を脇へ押しやり、牡丹は琳太郎に詰め寄った。顔は紅潮し、まるで罪人を追及する奉行人のようだ。琳太郎は慌てて牡丹の両肩を掴み、玄関口へ押し戻した。
「いや、違うんです。これは」
「違うって何がですか」
牡丹は食い下がった。
「私はこれで失礼します」
雛形は自分のバッグを寝室から取ってくると、脇をすり抜け、玄関の外へ駆け出した。
「ちょっとあんた、待ちなさいよ!」
牡丹は叫んで追い打ちをかけつつ、琳太郎の両腕をがっちり掴んで言った。
「お誕生日のお祝いに来たんですけど」
牡丹はすぐさま満面の笑みで問いかけた。琳太郎は冷や汗をかきつつも、ようやく冷静さを取り戻す。
「牡丹さん。お話があります」
夕方になると、くたくたになった琳太郎は自宅の玄関ドアの前に辿り着いた。すると、背後から声をかけられた。
「こんばんは」
雛形が言った。うつむいて、手には紙袋と四角い箱を持っている。
「ああ、雛形先生」
琳太郎の声は急に張りが出た。
「昨晩は…。大変、申し訳ありませんでした」
雛形は深く頭を下げて詫びた。琳太郎は苦笑いする。
「あの、これ、お借りした着替えです。洗濯してきました」
雛形は紙袋を手渡す。中には琳太郎のスウェットが入っていた。
「あと、こっちは、お詫びです」
琳太郎はそれを受け取ると、「これは?」と聞いた。
「ケーキです。あの。お誕生日、なんですよね? おめでとうございます。それじゃ、私はこれで」
雛形がそう言って立ち去ろうとすると、琳太郎が雛形の腕を掴んだ。
「待って。あの、あがってってください」
琳太郎が玄関ドアを開けて言った。雛形は琳太郎の顔を一瞬だけ見て、すぐに目を逸らした。
「いえ、もうこれ以上ご迷惑おかけできませんので」
再び大きく頭を下げて雛形は言った。もういい。どうか自分を帰らせてほしい。雛形の顔からは今にも火が出そうだ。もう昨日のことなんて今すぐ忘れろ。私もこの男も、今すぐ記憶喪失になってしまえ。パニックが始まりかけて、目頭が熱くなった。
「雛形先生の服も洗って、乾燥機かけますんで。ケーキ食べながら待っててもらえませんか」
「え?」
「下着とかもありましたよ」
琳太郎は急にニヤニヤして言った。
「はい? なんで」
言いながら、雛形は急に立ちくらみがした。
「ほら、だってー。ゆうべ、本当に大変だったんですよ。先生、全ー部吐いちゃって。俺が全ー部脱がせて、全ー部着替えさせてあげたんですよ」
琳太郎が迷惑そうに目を閉じて腕を組み、首を横に揺らして言った。
その言葉は、雛形の頭の中で何かを弾けさせた。絶望のうめき声をあげ、雛形は琳太郎の襟元を掴むと、背後の壁に押し当てた。そういえば今朝、自宅に着くまで気づかなかった。スウェットの下はノーパンノーブラだったのだ。琳太郎が裸を見たのは言うまでもない。
「じゃあ、見たの? ねえ、見たの? …み、見ただけ?」
「そりゃー、まあ、ちょっと。でも、ほんと、ちょっと見ただけですよ。何もしてません」
琳太郎は目の前で人差し指と親指でCの字型をつくり、ウインクして言った。
「ちょっとって何」
耳の先まで赤くなりながら、雛形は食い下がった。もういい。死にたい。どうか死なせてほしい。神に祈った。仏にも祈った。
「いろいろ可愛かったからいいです」
琳太郎は満足そうに思い出し笑いをした。
「いろいろって」
雛形は琳太郎の胸をポカポカ叩いた。
「ほら、こんなところで話すのもなんですし、中でケーキ食べましょうよ。こんなに大きいの、一人じゃ食い切れないし」
琳太郎は雛形の両手首を掴み、はつらつと笑った。雛形は「そんなことって…」とぼやきつつ、今更何をどうこうしても無駄だと悟った。時間は巻き戻せない。琳太郎の笑顔の仕返しを、甘んじて受け入れるしかない。
「あ、でもお父さんには内緒にしてくださいね。俺、まだ殺されたくないんで」
「言いません」
雛形は当然だとばかりに即答した。
「朝帰りなんかして、大丈夫でした?」
「そりゃー、まあ、大変でしたけど…。琳太郎先生の名前は出してません」
「よかった」
琳太郎はほっとして胸を撫で下ろした。
雛形は玄関で靴を脱いだ。あがったところは小さなキッチンになっていて、その奥のリビングに通された。大きなグランドピアノが部屋の大半を占有していて、隅に小さなソファと丸テーブルが置いてある。
「狭いですけど、座ってください」
琳太郎がソファをすすめて、キッチンに戻った。
「ここ、ピアノOKの物件なんですね」
雛形はそう言って部屋を見回すと、もう一つ、ドアがあった。ドアの隙間から、見覚えのあるベッドがチラリと見えた。今朝まで琳太郎とあの場所で過ごしていたことを思い出し、顔が蒸気機関車みたいに蒸気を噴き出した。
琳太郎がコーヒーとケーキを箱ごと抱えて持ってきたので、雛形は背筋を伸ばして座り直した。
「あの。とにかく、ゆうべは本当にごめんなさい。ご迷惑おかけしてしまって」
雛形は床に頭がつきそうなほど、頭を深く下げた。琳太郎はわざとらしくニコニコする。
「よく覚えてなくて…」
「そうなんですか? じゃあ、まったく覚えてないっていうわけでもないんですね」
テーブルにコーヒーの入ったカップを置きながら、琳太郎はおどけて聞いた。
「いつ、どうやって琳太郎先生の部屋に来たかは覚えてません。でも、部屋で…寝かせてもらって…なんとなくその辺は…」
雛形は顔も上げずに、コーヒーをすする。
「琳太郎のことは好きだよって言ったのは?」
琳太郎も顔を上げずに、含み笑いしながら聞いてみた。
「は? 何それ」
雛形はガチャンと音を立ててコーヒーカップをソーサーの上に置いた。
「イケメンは嫌いだけど、俺のことは好きなんですよね」
琳太郎は吹き出しそうになりながら、発言の真意を確認した。雛形は疑心暗鬼になった。カップを握る指の内側が汗ばんできた。
「そういう嘘つくの、やめてください」
「嘘だと思います? じゃあ、キスしてあげようかって言ったのは?」
琳太郎がわざと低くてかすれた声で聞くと、雛形は勢いよく立ち上がった。顔には怒りと恥じらいと混乱と、「まさか」という感情が入り混じっている。
「すんごく色っぽくて…。あー、あれ、よかったなー…」
琳太郎は恍惚としながら回想してみせた。
「ちょっと。それで? 私はしたの? してないの?」
自分の行動を思い出せない。記憶にない。恐ろしい。何故なんだ。雛形は琳太郎の肩を揺さぶって聞いた。
「さー、どうだったかなー」
琳太郎は揺さぶられ、すっとぼけながら、コーヒーカップを手に取ろうとする。
「教えてよ」
雛形は、今度は琳太郎の頬を両手で掴んで揺さぶった。琳太郎はしわくちゃな顔になりながら大笑いする。
「ははははは! ももちゃんは乱暴だなー。自称ももちゃん、可愛いね」
頬を雛形に両端へ引っ張られて、三角形の顔になった琳太郎が目に涙を浮かべて言った。笑った顔が不恰好に歪んでいる。
「言ってません、そんなこと」
雛形は強情に否定した。
「ケーキ食べませんか?」
からかうのをやめて、琳太郎が聞いた。箱からホールケーキを台座ごと、ずるずると引きずり出す。
「…ロウソク立てないと」
雛形はむくれて、ケーキ箱の中からロウソクを取り出した。
「いや、いいですよ。今更、30本も立ててもらうわけにもいかないし」
琳太郎が片手を振って苦笑した。
「え? なんですかそれ」
雛形は訳が分からず目をひんむいた。
「年の数だけ立てるんでしょ」
きょとんとした顔で、琳太郎が聞き返した。
「だから30本って」
雛形は尚も聞き返す。
「年の数です」
琳太郎は果てしなく当たり前だというふうに言ってみせた。
「え? 30歳なの?」
雛形は心底驚いて聞く。聞き間違えではないのか。
「はい」
琳太郎は即答した。
「嘘でしょ」
雛形はまだ信じられないでいる。そんなわけがないだろう。この男はまだ肌艶がよくて、幼さが少し残っている。どうみても20代前半だ。当然、自分の方が歳上だと思っていた。
「嘘じゃないです」
琳太郎はミルクを入れたコーヒーを飲みながら、平然と答えた。
「だって、そんなに少年みたいなのに」
どうしても納得のできない雛形は食い下がった。
「昔から、童顔だってよく言われるんですよね。ヒゲもあんまり生えないし」
琳太郎は顎をさすって、少し寂しそうに言う。
「おかしい。いろいろ、絶対におかしい」
雛形は心から、語気を強めて言った。
「すいません。雛形先生より歳上で。でも、俺が後輩っていう設定でもいいですよ。綺麗なお姉さんにもてあそばれていたいし」
琳太郎は再び恍惚とした表情をしてみせた。それからくすくす笑った。
「もう、忘れて!」
雛形は紙袋を投げつけ、笑っている琳太郎の顔面に当てた。
「ロウソク立てて歌うのはやめましょう。歳上の、しかも音楽の先生の前で歌うとか気が滅入るし。というか腹立つし」
雛形は怒って言った。
「お、美味い」
琳太郎は雛形の言葉をスルーして、ケーキをどんどん食べ進めた。
「お誕生日おめでとうございます」
雛形は事務的に言うと、一口だけ食べて、フォークを置いた。なんだか感情が忙しくて、強烈な疲労感が襲ってきた。
「いい大人な琳太郎先生。ピアノ、弾いてくださいよ。展覧会の絵が聴きたいです」
裏切られた気持ちを隠さずに雛形が言うと、琳太郎は機嫌よく立ち上がってピアノ椅子に座った。展覧会の絵の「プロムナード」を弾き始める。雛形は大人しく聴き入った。
琳太郎の弾くプロムナードは、吹部の演奏するプロムナードと違ってテンポが早く、淡々としていた。それでも気品があって、雛形の耳に心地よく響いた。雛形は、ピアノを弾いてるときの琳太郎から漂う品の良さが好きだった。さっきまでの赤面するようなやりとりが、遠い彼方へ置き去りにされていくようだった。
プロムナードが終わるとそれより先の曲は弾かず、琳太郎は別の曲を弾き始めた。ドビュッシーの「月の光」だ。雛形は優美な音色に身を任せた。琳太郎の長い指が鍵盤を軽やかに叩いてゆく。明るさのなかにどこか切なさがある、甘いメロディーが部屋中を満たした。
丸テーブルの上で、琳太郎のスマートフォンが静かにバイブした。画面には牡丹と琳太郎のツーショット画像が映り、ショートメッセージが届いた。
『今日はありがとう。琳太郎さんの気持ち聞けて嬉しかったよ。またね』
文面を読んだ瞬間、何かが勢いよくしぼんだ。雛形の胸の内で膨らんでいた何かが。琳太郎はまだ弾き続けている。あれは何を思って弾いているのか。こみ上げてくるものがあり、雛形は天井を向いて目をしばたいた。
琳太郎が演奏し終えると、雛形は勢いよく立ち上がった。
「そういえば観たいドラマあるんだった。急いで帰りますねー。今日はありがとうございました」
人工的な明るい声で言うと、雛形はバタバタと玄関から出て行った。琳太郎は呆気にとられて、雛形の背中に手を振った。
つづく




