表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
緑谷中学吹奏楽部  作者: taki
2
PR
45/272

祝勝会

《あらすじ》

無事に地区大会を突破した緑谷中学吹奏楽部ミドスイ。大会後の打ち上げで副顧問の雛形は飲みすぎ、顧問の琳太郎宅で一夜を明かす。副部長の梅子は時間が無いなか、ユーフォニアムに挑戦する。部員達は大会直前に夏合宿へ出発するが、思わぬ事態へ発展する。


《登場人物》


緑谷中学校職員

鳥飼琳太郎とりかい りんたろう】音楽科教師。吹奏楽部の顧問

雛形桃子ひながた ももこ】家庭科教師。吹奏楽部の副顧問

鸚鵡林おうむばやし】校長

鶏田けいだ】副校長


緑谷中学校吹奏楽部メンバー

白鳥直樹しらとり なおき】フルート兼ピッコロの二年生。部長

鶴岡響つるおか ひびき】クラリネットの二年生

鴨井健治かもい けんじ】クラリネットの二年生

鷺沼大輝さぎぬま だいき】バスクラリネットの一年生

鳳錬三郎おおとり れんざぶろう】アルトサックスの二年生

雉谷きじたにまりあ】テナーサックスの一年生

千鳥川公彦ちどりがわ きみひこ】トランペットの二年生

鳩山結那はとやま ゆな】トランペットの一年生

鵜森恵里菜うのもり えりな】ホルンの一年生

百舌野史門もずの しもん】ホルンの一年生。琳太郎の甥

目白梅子めじろ うめこ】トロンボーン兼ユーフォニアムの二年生。副部長

大鷹怜おおたか れい】トロンボーンの二年生

鷲宮幹生わしみや みきお】チューバの一年生

烏川銀之丞からすがわ ぎんのじょう】パーカッションの二年生

朱雀音羽すざく おとわ】パーカッションの二年生

雁谷伊久馬かりや いくま】パーカッションの一年生


講師

竹田友徳たけだ とものり】バスクラリネット講師。木管楽器全体の講師を兼任。牡丹の父

椎名英雄しいな ひでお】ホルン講師。金管楽器全体の講師を兼任

桜川晴子さくらがわ はるこ】フルート講師

後藤正ごとう ただし】サックス講師

楠庄五郎くすのき しょうごろう】トランペット講師

杉田文子すぎた あやこ】トロンボーン講師

松野翔平まつの しょうへい】チューバ講師

栗原武くりはら たけし】ユーフォニアム講師


ほか

雛形安彦ひながた やすひこ】雛形(桃子)の父。あまや楽器の古株店員

雛形雪乃ひながた ゆきの】雛形(桃子)の母。生け花教室の講師

竹田牡丹たけだ ぼたん】竹田の実娘。琳太郎の見合い相手。保育士

磯貝いそがい】鈴やホテルの支配人

審査発表の三十分ほど前、吹奏楽コンクール埼玉県北部地区大会の審査員控室は、和やかな雰囲気だった。

「はー! 皆さん、お疲れっす」

若くて派手なスーツを着込んだ、チャラい男性審査員がペットボトルのお茶を配りながら言った。

「ありがとう。休憩時間短いし、疲れた、疲れた。肩凝るし、まいったね」

サンタクロースのような長い白髪と顎ヒゲの男性審査員が言った。首を回したり、両腕を回したりしてストレッチをする。審査員はそれぞれプロの管楽器奏者や打楽器奏者、作曲家など数名で構成されている。全三十一校を首尾よく審査するには、相当な集中力が必要とされた。

「審査って心が削られる作業っすよね…。でも、まだ地区大だから、かなり実力差ありましたね」

チャラ男がパーマのかかった髪をもてあそびながら言った。

「そうだな。一位がぶっちぎりだ。正直なところ、あれはシードでいいと思うよ」

顎ヒゲが豪快に笑った。のっぽの男性審査員も話に混ざってくる。

「あの学校、なんていう学校でしたっけ」

「鳴沢学園です。あそこは組織力がありましたね。この辺りだと有名な学校らしいです」

太い首に首輪のようなネックレスをつけた、熟女の審査員が答えた。暑いのか、扇子で熱心に自分の顔を仰いでいる。

「毛色の違う学校が一つありましたねえ。えーと、あの小編成の学校」

のっぽが思い出そうと首を傾げながら、頬を指でかいた。

「ああ。自由曲、出だしでトランペットがちょいミスったところっすよね。なんて学校だったかな」

チャラ男がお茶を一口飲みながら言った。

「決定的ミスというほどでもないからまあまあ。その後のストーリー展開も悪くなかったし。ただ、あの学校、課題曲の方が良かったですね」

熟女が一層、扇子を仰ぐ手に力を込めながら言った。

「そうだね。スネアとバスドラがいい。指導者が頑張ったんだろう。中学生にしては、まあまあ基本はできていたよ」

熟女のつくった扇風でヒゲをそよがせながら、顎ヒゲ審査員が寛大な調子で言った。そよがせながら、ヒゲの先端がペットボトルの中に入り込んでしまった。

「私もそれ、講評に書かせていただきました。管楽器がもっと育てば、いいバンドになると思います」

アニメ声の若い女性審査員が微笑んだ。

「個々の能力はまだまだだし、粗も目立つけど、あの人数で展覧会の絵をやろうっていう心意気を、僕は買いましたよ。ステージに立った時のオーラが違うなって思ったし」

のっぽが両手を開いて、感心して言った。

「なんつうか少し、キラッとしたもんを俺も感じましたね。少子化も進んでるし、ああいうのがこれから増えていくんすかね」

椅子にもたれかかったチャラ男が、指にはめたゴツいリングをいじりながら言った。

「そうね。ただ、いくら今年から小編成団体も全国大会に出場できるようになったとはいえ、大編成と比べるとまだ物足りない。どこまで戦えるかしらね」

熟女が重々しく言った。

「小編成が大編成を押しのけて全国まで行ったら、ちょっとしたニュースになりますね」

のっぽが愉快そうに微笑んだ。

「そうだね。じゃあ、審査シートも提出したことだし、我々はお暇するとしようか」

顎ヒゲが椅子から立ち上がり、皆を出口へいざなった。


審査発表が終わり、各学校の生徒達が帰り支度をしている頃、ミド中の校長と副校長が会場のホワイエに現れた。

「校長、どうも閉会式も終わっちゃったみたいですよ」

副校長が太った顔や首をハンカチで汗を拭きながら、呑気な声で言った。八月の暑さは尋常ではなく、夕方になっても三十度を超えていた。さらにホワイエは人ごみでごった返していて、エアコンの冷風はほぼ無効化していた。

「まあ、いいんじゃないのか。聴いてたってことにしておけば」

校長は手でパタパタと仰ぎながら、面倒臭そうに言った。

「ですね。どうせ予選落ちでしょうし、それでもこの場に我々がいるってことが保護者にとっては大事でしょうしね」

副校長も苦笑いしながら言った。とにかく大事なことは、面倒な保護者を黙らせることである。

「そうそう。また保護者会なんか開かせないためにもね、お宅のご子息ご令嬢の頑張りは素晴らしかった、感激した、拍手してもし足りない、ってねぎらったらいい。そうしたら、すぐ帰ろう。一刻も早く」

「そうしましょう、そうしましょう」

副校長が力強く同調すると、健治の母が駆け寄ってきた。

「あらー、校長先生、副校長先生。どの辺りに居たんですか? 見に来てくださったんですね」

健治の母がそう言いながら会釈すると、他の保護者を呼び集めた。

「ああ、皆さんも応援に来てくださり、ありがとうございます。いい演奏でしたね」

校長は紳士的に微笑みつつ、口から出まかせを言った。副校長は途端に背筋を伸ばして、礼儀正しく頭を下げた。保護者達が集まり、社交辞令合戦が始まる。

「ミド中の校長先生、ちょっとだけ、インタビューしてもいいですか?」

ちょうどそこへ、ボイスレコーダーを持った男とカメラを持った男が近づいてきた。校長は眉間に皺を寄せて、二人の男をジロリと見た。

「『広報みどりや』の者です。ミド中、県大会出場おめでとうございます。校長先生から一言、お願いします」

記者の男が礼儀正しく頭を下げ、ボイスレコーダーを突き出しながら聞いた。広報みどりやとは、緑谷町役場が毎月発行している刊行物だ。二人とも「緑谷広報」の腕章と名札をつけている。

「え? 県大?」

校長は驚いて聞き返した。副校長も意外そうな顔をしていたが、すぐに平静を装っている。

「ええ。今月号に写真と、先生のお言葉を掲載しようと思いまして。上位三校に食い込んだ生徒さん達に向かって、一言」

記者がボイスレコーダーを構えて、再び言った。

「あ、ああ、いや、それはまあ、実に素晴らしいことだと思いますよ、私は。彼らは常に努力してましたし、常に素晴らしい演奏をしてくれました。私どもももちろん、常に信じていました。心からの拍手を送りたいと思います」

校長は挙動不審になりつつも、頑張って言葉を捻り出した。

「そうですね。顧問の鳥飼先生は、どのような指導をしているんでしょうか?」

記者が質問した。

「ああ、鳥飼先生はね…。えーと、何というか、その、ユニークな先生なんですよ。一緒に朝練とかやってね。生徒に混じって一緒に勧誘活動なんかしちゃってね。気さくですし、とにかく生徒にも保護者にもすごく人気がある先生です。私も先生のファンなんです」

だんだんエンジンがかかってきて、校長は愛想よく褒めちぎった。副校長もそれに合わせてうんうんと頷く。頷きすぎて、被り物がズレた。

「みんなに好かれている先生なんですね」

記者が微笑んで言う。カメラマンがカメラを向けて、パシャパシャとシャッターを切る。

「ええ、そりゃあもちろん」

校長はさらに作り笑いに徹した。

「あ、鳥飼先生」

副校長が琳太郎に気づいて声をかけた。琳太郎も気づいて頭を下げると、そばに歩み寄った。

「鳥飼先生。県大会出場おめでとうございます。まだ若い先生なのに素晴らしい指導ぶりですね」

記者がボイスレコーダーを向けて言った。カメラマンが再びシャッターを切る。

「ありがとうございます。いえ、私なんて全然」

琳太郎は恐縮して言った。

「いや、この鳥飼先生は我が校の誇りです。日頃から私ども教員も、彼を見習って精進しているところなんですよ」

校長は尊大な口ぶりで、琳太郎の肩を抱きながら言った。そばで激しく首を盾に振る副校長が視界に入った。頭の被せ物が九十度回転してしまっているのに目が奪われてしまい、琳太郎は困惑した。

記者とカメラマンはそれから他愛もないことをいくつか質問した後、去っていった。琳太郎も「じゃあ僕、まだ片付けがありますので」と言ってすぐさま退散した。保護者達も手伝うと言って、琳太郎の後を追った。残された校長と副校長は、呆然と立ち尽くしていた。

「…県大出場ですか」

副校長がつぶやいた。被せ物のズレに気づき、サッと直した。

「ああ。そうみたいだな」

校長は無愛想に言った。


県大会出場を祝って、会場近くのお好み焼き屋で祝勝会が行われた。吹部と琳太郎、雛形のほか、一部の保護者も参加した。

「県大会出場決定、乾杯ー!」

琳太郎が音頭を取ると、一同はグラスをぶつけ合った。テーブルは数卓に分けて、大人達はアルコールを、子ども達はソフトドリンクを片手に祝った。真面目な反省会は後回しで今日は無礼講だと琳太郎が言うと、一同は歓声をあげた。それぞれテーブルごとに好きなお好み焼きを注文し、鉄板で焼き始めた。女子達は女子同士でかたまり、高い声をあげたりお互い抱き合ったりして、早くも盛り上がりを見せていた。

「みんなお疲れ」

直樹はウーロン茶を飲みながら言った。同じテーブルには二年の男子が集まっている。

「鳴沢、すごかったよな」

健治はそう言って、オレンジの炭酸ジュースを飲む。鳴沢学園の演奏の余韻が、健治の耳からはまだ消えずにいた。彼らは間違いなく埼玉北部ナンバーワンの実力だった。

「あのティンパニには勝てねえわー」

銀之丞がお好み焼きを器用に返しながら言った。

「あっちは三年だろ? うちには三年いねーもん。銀は二年なのに、ティンパニ、すげーかっけーじゃん」

コーラを片手にした怜が、銀之丞の鮮やかな手つきに感心しながら言った。

「やった、怜に褒められたー。そりゃー、琳太郎先生に手取り足取り教えてもらってるからさー。先生はすげーよ。絶対怒んない人だけど、絶対甘いことも言ってくんないんだよなー。まともについていけるのは音羽ちゃんだけだよー」

銀之丞は日々の特訓の壮絶ぶりを吐露した。琳太郎の指導は本当にきつかった。いつも無表情の音羽ですら、休憩になると床にへたり込んでいるほどだ。伊久馬に限っては年中、メソメソ泣いていた。「ママ」とか「家に帰りたい」とか心の声がしょっちゅうダダ漏れていたのには笑えたが、気持ちは痛いほど分かった。何度も腱鞘炎になりかけたし、手が痺れてドラムスティックを取り落としてしまうこともあった。

「へー、そうなんだ。うちの竹田氏なんか、怒らない日はないよ」

ストローでズルズル音を立てて、健治がしんどそうに言った。木管講師の竹田は週に一度、来るたびに健治を叱っている。畏れ多い存在なので、本人がいないところでは健治は苗字に「氏」をつけて呼んでいる。

「それはお前が課題やってこないからだろ。鶴岡さんはちゃんとやってるし、怒られてないじゃん」

直樹が半眼になり、容赦なく言う。

「鶴岡さんはかなり上手くなったと思うんだよね。僕は木管のことは詳しく知らないが、高音が前より綺麗に出るようになったね」

お好み焼きを取り分けながら、公彦が響の技術を褒めた。

「確かに鶴岡さんて上達したよね。リードミスもほとんどしないし」

錬三郎はお好み焼きを一口食べ、同調した。

「そりゃ、1st(ファースト)クラだもん。あーあ、俺もやりたかったな、1st」

健治は拗ねて言った。仮にも一年先に入部しているのに、完全にクラリネットのエースの座は響に奪われてしまった。健治は2nd(セカンド)担当だ。

「お前が1stになりゃーいいじゃねーか。実力社会なんだろ、この部は」

怜があぐらをかきながら小手を振りかざし、怠そうに言った。健治は口を尖らせて黙りこくる。

「まあね。鶴岡さんはほら、小学校の頃からクラリネットやってるし。健治より経験はあるから」

直樹がちょっとだけ健治を擁護するつもりで説明した。響ばかりがスポットライトを浴びているので、劣等感を抱かずにいられないのだろう。ただ、響は努力の質も量も違った。健治が愚痴を言っている間も、一人で黙々と練習に取り組んでいた。

「健治。お前、ナヨナヨしてっから女に負けんだよ。筋トレしてんのかよ」

怜が吐き捨てるように言った。

「ええ? し、してるよ、ちゃんと。そんなこと言って、怜だって2ndだし、梅ちゃんに勝ててないじゃん」

健治が慌てて反発した。

「は? 俺のことはいいんだよ。梅子のことを俺ぁ、尊敬してるからよ。それよりお前ら、とくと見ろ」

そう言いながら怜が、堂々と自分のワイシャツをまくり上げた。引き締まり、鍛え抜かれた腹筋が現れ、みんなは「おおー」と感心した。怜は自信満々に目を細めて、「だろー」と言う。

「怜、すげー。そりゃー女子にモテるわー」

銀之丞がゆったりした調子で言った。バッグの中からティンパニのマレットを取り出し、その腹筋をグッと押してみる。硬い筋肉はピクリともブレなかった。

「ダメだ俺、すでに惚れそうだもん」

錬三郎が腹筋を凝視しつつ、笑って言った。

「だろ? おい、健治、てめえの腹も見せてみろ」

怜が鋭い目つきで健治を突き刺した。

「やだよ、そんなの」

健治が服の裾をとっさに抑えて拒否した。ところが、鉄板の向こう側にいたはずの怜がいつの間にか健治のすぐ隣に来て、服を勢いよくまくり上げた。

「ほらな! 見ろよこのたるんだ肉を。オッサンか、てめえは」

怜が健治の脇腹を引っ張りながら言った。健治は顔を真っ赤にしてバタバタと暴れるも、怜の馬鹿力には及ばなかった。一同は爆笑した。

「ここでプランクしろ。二分間な」

怜が命令した。プランクとは、うつ伏せになった後、二本の腕だけで上体をあげて支える、腹部の筋トレである。

「ええー、やだよ!」

健治は必死に抵抗したが無駄だった。そして、笑っていた側の直樹も、なぜか健治と一緒にプランクをさせられてしまった。

アルコールの入った大人達の宴席も賑やかだった。こちらは生徒の保護者による琳太郎いじりで盛り上がっていた。

「鳥飼先生、今日はかっこよかったですー。先生の指揮のおかげで勝ち取ったんですよね、県大会出場権」

健治の母がいきなり切り込んできた。琳太郎は冷や汗をかきながら愛想笑いをした。

「ほんとほんと。私も鼻の穴おっぴろげて、ハスハスしてましたよー」

梅子の母もビール片手にノリノリだ。

「いや、今日は本当に生徒に助けられました。僕は何にもしてないんです」

「そんなこと言って。素敵でしたよー」

温和な直樹の母も、他の母と調子を合わせてきた。

「さ、どうぞどうぞ。いつも息子がお世話になっております」

「あ、すいません、車なので。ノンアルでいただけますか?」

錬三郎の父がビールを勧めたのを琳太郎が断ると、ノンアルコールビールを注いでくれた。

「あー。私があと二十、若かったら!」

健治の母が言った。まりあの母も乙女のように胸の前で指を組んで頷く。

「ですよね。そうすれば私、琳太郎先生の彼女にしてもらえたのに!」

琳太郎はノンアルコールビールを吹いた。

「やだー、先生、はい、おしぼりどうぞ」

「キャー。私も彼女にしてほしーいー。二番目でもいいから」

「私は三番目でいいわ」

「じゃあ僕は四番目の彼女でいいです」

母親達に混ざり、錬三郎の父までふざけて続いた。

「先生のハーレムに入りたい人、この指とーまれ!」

「キャー」

一連の騒々しいありさまを、まるで地球の反対側の出来事を見ているような気持ちで雛形は傍観していた。琳太郎の人気ぶりは生徒の間だけではなく、保護者の間でも健在だ。ついこないだまで、保護者会でガーガー言われていたのが嘘のようだ。

「鳥飼先生は、どんな女性が好み?」

直樹の母が顔を近づけて、面白がって聞いた。

「わあ。知りたい知りたい」

まりあの母がテーブルに肘をついて聞いてきた。

「えーと、それは、そうですね。僕なんかは、世代関係ないですね。ストライクゾーンが広い方だから」

琳太郎はへらへらしながら、いい加減に答えた。

「キャー」

琳太郎は女達を喜ばせるのが上手い。ただでさえ顔がいいのにと、雛形はだんだん腹が立ってきた。自分が腹が立っていることにも腹が立ってきた。ここは黙って赤ワインをオーダーするのが正解だ。何杯か飲んでいると、次第に目の前の世界が回り、だんだん楽しくなってきた。

「あらっ、雛形先生。随分飲んでますけど大丈夫です?」

直樹の母が気づいて声をかけた。

「ええ。今日は親が迎えにきてくれるって言ってるんで、ご心配なく」

雛形は分厚いメガネ越しに、愛想良く答える。

「あらあ、そうなの。それならよかったわ」

直樹の母が黙って冷水の入ったグラスを脇に置いた。雛形はそれには手をつけず、再び赤ワインを飲み始めた。赤ワインはいつだって美味しい。甘くて酸っぱくて、適度に渋みがある。まるで自分の人生のようではないか。雛形はボトルを片手に持って、グラスに注ぎ続けた。

「ちょっと、雛形先生。大丈夫ですか」

しばらくして、雛形がトイレの前にしゃがみ込んでいるのを見つけて、琳太郎が声をかけた。

「大丈夫ですよ。もうじき親が迎えにきますから」

「もうそのくらいにしときましょ。ね」

幼な子に話しかけるように琳太郎が諭した。

「ふふふ。うふふふふ」

雛形は笑いが止まらなかった。目はすわっている。遠視のレンズの中で、目は不自然に大きく光った。

「うふふじゃないですよ」

琳太郎が困惑して手を差し出そうとすると、雛形は手を払い除けた。

「触んないで」

そう言って、雛形は勢いよく立ち上がると、再び席に戻った。


散々飲み食いした後、祝勝会はお開きになった。それぞれの家族が車で迎えにきて、酒を飲んだ大人や子ども達を引き上げていった。琳太郎はそれを見送った。最後の一台が駐車場を出たのを見届けると、自分の車に向かおうとした。ふと、店の入り口前の縁石にへたり込んでいる女性が視界に入った。

「雛形先生。ご両親、まだ来ないんですか?」

琳太郎が問いかけるも、返事はない。

「雛形先生。おーい。雛形先生」

背中をぽんぽん叩きながら琳太郎は繰り返した。

「来るわよ。大丈夫よ」

雛形は面倒くさそうに手を払いのけた。

「じゃ、来るまでそっちのベンチに座ってましょう」

琳太郎が手を引いて、雛形を縁石から入り口脇のベンチへ誘導した。雛形は大人しくちょこんと座った。

「夜なのに、まだ蒸し暑いですねー」

手で顔を仰ぎながら、琳太郎が話しかけた。雛形は前かがみになってうつむいたまま、無言だ。灰色の雲が星空を覆いかくし、生温かい風を運んでくる。琳太郎は両手を広げて伸びをした。

「今日、本当にお疲れ様でした。ドテカボチャさまさまですよ」

さらに話しかけたが、やはり無反応だ。

「生徒も落ち着いて()れたし、本当にありがとうございます」

琳太郎は雛形の後頭部に向かって言ってみた。

「…ないです」

「え?」

「親、来ないです。なんか、二人で出かけちゃったみたい…」

雛形は力なく言うと、手に握っていたスマートフォンを琳太郎に見せた。メッセージのやり取り画面が表示されていて、母らしき人物から「これからお父さんと出かけてくるね」という文面が送られている。雛形は上体を起こすと、ベンチの背もたれに寄りかかった。それから、すぐに真横に倒れた。琳太郎の太ももに頭を乗っけて、いびきをかいている。

琳太郎は引きずるようにして雛形を助手席に乗せると、車を走らせた。どうやら過保護な雛形の父、安彦は迎えに来ないらしい。琳太郎は雛形が両親と同居しているのは知っているし、一緒に海に行ったときから自宅の場所も知っている。玄関に送り届けた途端、あの過保護な安彦が植え込みから飛びかかってきやしないかと、ハラハラしていた。

雛形の自宅に着いた。戸建ての家からは明かりが漏れているところがなく、真っ暗だった。車庫に車もなく、人がいる気配もない。

「雛形先生、着きましたよ。起きてください」

琳太郎がそう言って、雛形の肩を揺さぶった。それから雛形の肩をかつぎ、玄関ドアを開けようとした。鍵が閉まっている。

「雛形先生、家の鍵はどこですか」

「…バッグ」

雛形が蚊の鳴くような声で言ったので、琳太郎は雛形のバッグを開けた。財布とハンカチ、ティッシュ、化粧ポーチなどが出てくる。

「それ」

雛形が薄目を開けてバッグの中を指差した。それは学校の音楽室や準備室の鍵束であった。

「なんでこんなの持ってきちゃったんですか。いや、それより家の鍵は?」

琳太郎の困惑した問いに、雛形は答えない。

「勝手口とか、どこか開いてるところ、ないですか?」

琳太郎はスマートフォンの照明であちこち照らしながら、様子を伺う。窓も勝手口も、どこも開かなかった。

「ない…。家、入れないみたい」

雛形は他人事のように言うと、地面にへたり込んだ。今にもその場で寝てしまいそうだった。琳太郎は腕を組んでしばらく思案すると、雛形を再び車に乗せた。シートベルトを締めて、エンジンスタートボタンを押した。

つづく

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ