帰宅後の部員達
「ただいまー」
夕方、健治が帰宅すると、母がキッチンから駆け寄ってきた。
「おかえり。また遅かったね。早く夕飯食べなさい」
健治がそのままダイニングに入ろうとすると、母が一喝する。
「先に手を洗ってから!」
健治はのそのそ洗面所へ向かった。部活でくたびれていて、口ごたえする余力がない。
「まったく、なんでそんなに遅くまで部活やってるの? 塾に間に合わなくなるでしょ」
「仕方ないじゃん」
健治は面倒くさそうに答えた。
「学校に言っといたのに。あまり遅くまで部活させないでください、勉強する時間がなくなりますって。あの先生、来たばっかりで、ちょっと分かってないんじゃないの? 前はどこの学校だったのかしらね? その話、あんた聞いてる?」
母はくどくど続けた。健治はほぼ無視してダイニングチェアに座った。今夜の夕食は牛もも肉のソテーにマッシュポテトの付け合わせ、オクラと海藻のサラダ、ごはん、味噌汁で、料理の前には箸が並べられていた。
「今どき、熱血教師なんて流行んないんだから。やめてくれないかしらね。馬鹿馬鹿しい。クラブ活動は所詮、ただのクラブ活動でしょう」
「お母さん、うるさい。そんなことお兄ちゃんには関係ないじゃん」
廊下から入ってきた健治の妹がさえぎった。二歳下の妹は小学六年生だ。健治よりも反抗期のそれが顕著で、健治よりも弁がたった。
「うるさいとは何よ! ほら、あんたはこれからピアノでしょ? ちゃんと練習したの? 発表会まで間に合うの?またゲームしてたんじゃないでしょうね。目が悪くなるから一日三十分って言ったでしょ? 何度言ったら分かるの!」
母は妹をガミガミ叱り始めた。妹は母を睨みつけながら、キッチンのシンクで手を洗った。
「ただいまー。ねえお母さん、お小遣い前払いしてー」
今度は健治の姉が帰宅した。姉は同じ中学に通う三年生で、同じクラスの男子と付き合っている。デート代がかさむのか、最近よくせびっている。母は知らないが、健治と妹は知っている。
「愛佳! またなの?どうせまたくだらないことに使うんでしょ!」
母はガミガミを長女に向けた。
「くだらなくないよ。今週クラスの友達とカラオケ行くの。足りないからちょうだい」
姉は妹と違って、母と正面からぶつかり合うことはしない。吹部だと銀之丞と同じタイプだ。のらりくらり言い訳しながら欲しいものを全力で取りに行く。健治にはない才能だ。クラスの友達というのも、どうせ彼氏のことなんだろう。
「小遣いの前借りはダメです。ほら、梨花もさっさと食べなさい! ピアノ教室に遅れるわよ!」
健治は矛先が自分以外に向いたのをいいことに、自分は静かに夕食を食べることにした。
「お母さん、私にばっかりピアノピアノ言うんなら、お兄ちゃんにももっと部活部活って言えばいいじゃん。吹奏楽がただのクラブ活動なら、私のだって、ただのピアノ教室だよ」
妹の梨花に正論を突かれて、母は烈火のごとく怒った。健治はこちらに再び火の粉が飛んでこないうちに急いで食べ切ると、塾の支度をするために自室へ駆けて行った。母が塾へ車で送ってくれるまであと十分ほどある。それまでえりジェンヌの動画を見よう。
同じ頃、直樹は自宅の自室にいた。今日の練習内容が自分の中で納得がいかず、楽器を持ち帰ってきたのだ。楽器ケースからフルートのマウスピースだけを取り出し、息を吹き込む。ピーと音が出た。唇の周りの筋肉にグッと力を入れてみた。さっきよりも一オクターブ高い音が出た。その音をピー、ピー、ピー、ピーとタンギングしてみる。音程が安定せず、なかなかしんどいが、学校でやった時よりは上手くできている。
「直樹ー」
ドアを開けて入ってきたのは、高校生の姉だった。直樹は吹くのをやめた。
「ちょっと私にも触らせてみせてよ」
「いいよ」
直樹はフルートのマウスピースに本体を取り付け、姉に持たせてやった。直樹がやったように構え、息を吹き込んでみるが、まったく鳴る様子がない。
「難しい。全然出ない」
「最初はみんなこうだよ」
直樹は得意げに言った。部活にはフルートの後輩ができなかったので、ちょっといい気分だ。
「吹けたら楽しいだろうねえ」
姉はマウスピースから口を離して言うと、フルートを直樹に返した。
「楽しいよ。それに、すごくいい先生が来てくれたから」
「またその話」
姉は少し呆れたように言った。直樹は琳太郎がやってきて以来、毎日その話を家族に聞かせていた。
「うん。でも、俺達本当にね、すごい吹部になれると思うんだ。すごい頑張ってるし、すごいきつい練習だし、すごい…」
「とにかく何でもすごいんだね」
姉は純粋な弟を可愛く思い、愉快そうに返した。
「うん。すごいんだ、本当に」
「何でこんな田舎にそんな先生が来てくれたんだろうね」
「何でだろう。先生の知り合いもすごい人なんだ。こないだ電車に乗って行ったホールに来てた人たち、帝国フィルハーモニーオーケストラなんだよ」
「えー。それはちょっと嘘なんじゃない? 帝フィルがあんた達なんかに会ってくれるはずないじゃん」
姉は声を立てて笑った。
「え? でも本当だよ? 今度レッスンにくる先生達も、帝フィルだよ」
「あはははは。きっとそれは冗談だよ。そんな人達のレッスンが毎週受けられると思う? レッスン代、馬鹿高くなっちゃうよ」
「うーん。そう言われると、うん…。でも…」
直樹は、あのバスクラ講師の竹田がだんだん胡散臭く思えてきた。もしかして帝フィルは嘘なのかもしれない。みんなを和ませるための琳太郎のジョークなのかもしれない。
「ねえ、ちょっとピアノと合わせてみない?」
姉が急に話題を変えた。姉も音楽が好きでピアノが趣味なので、フルートとの合奏に興味津々だ。
直樹はフルートを持って姉の部屋に行った。机とベッドのほかにアップライトピアノが置いてあり、姉はその椅子に座った。サン=サーンスの「白鳥」の楽譜が置いてある。
「ここの主旋律、弾いて」
姉はそう言うと、ピアノでイントロを弾き始めた。直樹は楽譜を読みながら吹き始めた。楽譜は簡単で、読むのは難しくない。ただ、美しく吹けるかどうかはまた別の話だ。音程は合ってないし、息が続かないし、途中で高音が出せず裏返ってしまった。それでも、直樹にとってはとても楽しかった。たった二人だけでも、心から楽しかった。




