個人練習
五月も半分が過ぎ、新入部員が本入部して一週間が経った。晴れの日が続き、日中に気温がグッと上がる日が増え、吹部達は汗ばむ体に耐えながら練習をするようになった。
パーカッション担当になった伊久馬はきっちり仕込まれていた。基礎練習の時、先輩の銀之丞はなかなか厳しかった。まず、練習パッドと呼ばれるパーカッション奏者御用達の練習台を、それぞれスタンドを広げて組み立てる。それを三台並べ、メトロノームを鳴らす。全音符、二分音符、四分音符、八分音符、十六分音符、と次第に速く、スティックで正確に練習台を叩き続けるようにするのが難しい。隣にいる銀之丞や音羽のように上手くできない。拍に合わせて正確に叩けるまで繰り返しやらされる。銀之丞は、こないだ琳太郎が教えてくれたことを忠実に実行しているらしい。
それでも、伊久馬はパーカッション担当になって良かったと思えるようになってきた。音羽は三人でいても特に会話に混ざってくる様子はないが、不快なこともしないし、伊久馬が質問すれば知っていることは教えてくれるし、素晴らしい手本を見せてくれる。休憩時間は一人で静かに過ごしていたいようなので、なるべく干渉しないように気をつけた。
一方の銀之丞はいつも陽気で愉快だ。休憩時間になると好きな楽器を好きなだけ叩かせてくれるし、「男前な演奏の仕方」とやらを披露して笑わせてくれる。銀之丞は音楽準備室に入ってくる部員一人一人に挨拶しながら、その挨拶の出来を「チャイム」という楽器で採点評価する。チャイムは長さの違う金属パイプを鍵盤状に並べた打楽器で、某テレビ局の歌番組で採点時に使われることで有名な楽器だ。また、銀之丞はシロフォンと呼ばれる小型の木琴を使い、料理番組の挿入曲を弾いてくれたり、「仁王様」こと響が音楽準備室に入ってくるとウーウーと警報音が鳴る「サイレン」と言う楽器を鳴らし、「ボス」こと梅子が入ってくるとゴングを盛大に打ち鳴らした。
銀之丞がサイレンを放送室に持ち込んで鳴らした時には、緊急事態だと勘違いした学校の生徒達の間でパニックが起きた。当然、銀之丞は校長先生と副校長先生、学年主任、担任の教師に呼びつけられ、こっぴどく叱られた。なぜか一緒に琳太郎も怒られていて、それを陰でこっそり見ていた伊久馬は腹を抱えて笑った。響や梅子には「パーカスのバカ二人組」と白い目で見られているが、そんなバカを貫いてくれる銀之丞は最高だ。師匠と呼ぶに値した。
フルート担当の直樹は、一人でしんどい練習に取り組んでいた。自分は結構吹ける、わりとできる方だと思いこんでいた直樹だが、こないだのレッスンの時に唇の当てかたを指摘された。あの時はすんなり出来たが、すぐにまた前の癖が出てきてしまう。その癖を払拭するのはなかなか骨が折れた。
練習をともにできる後輩が入らなかったことも、一抹の寂しさを覚えた。健治が先輩ぶって大輝にあれこれ話しかけたり、公彦が結那のチューニングを手伝ってあげるのを見るたび、いつも羨ましく思ってしまった。
「それでも」直樹はひとりごちた。「俺はやってみせる」
直樹は地道に、唇の当てかたを忘れないよう、練習を繰り返した。
クラリネットパートの三人は、それぞれ基礎練習に打ち込んでいた。鬼教官の竹田に出された宿題のおかげで、その成果は確実に出ていた。健治は「豊かな息」を出すことに集中していたし、響は「自分の音を聞くこと」に集中していた。一年生の大輝は、丁寧にロングトーンの練習に取り組んでいた。バスクラリネットをやらされることになったときは予想外だったが、これが思いのほかかっこいい。クラリネットよりも音が渋いしダンディーではないか。まだまだ「ピギャ!」と耳障りなリードミスをやらかしてしまう音がいくつかあるので、それが出ないよう探りながら、コツコツと励んだ。
サックスパートはそれぞれまったく別のことをしていた。アルトサックスの錬三郎は息を全力で出す練習のほか、ロングトーン、舌を弾くタンギング、半音ずつ音をあげたり下げたりする半音階と、ごくごく初歩的な基礎練習に取り組んでいた。やり方が間違ってないか、講師に言われたことをメモした五線譜のノートを見ながら、こまめに確認する。気づいたことは、さらにメモを書き加えていく。テナーサックスのまりあはさっきまで熱心にロングトーンを練習していたのに、今はやる気がまったく無いらしい。ちょっと吹いて、ちょっと肩を揉んで、頻繁にため息をつく。時々、トロンボーンパートの方をチラチラ見る。まりあがここに入部したのは怜がいるからだろうと錬三郎は思った。長身で切長の目をした塩顔の怜は、一年生女子から人気がある。まりあもそれに漏れず怜に熱をあげていた。かっこいい。怜の彼女になりたい。なってみんなに自慢したい。時々錬三郎が何か問いかけるも、返事だけは立派で、ほぼ上の空だった。
トランペット担当の公彦は、一年生の結那へ優しく指導することにした。結那が「何もピストンを押さないで出す」開放音を出していくのを見守る。トランペットにはピストンが3つあるが、そのどれも触れず、唇だけで色々な音を出していくという練習だ。
結那は公彦の言うことを素直に聞いて練習に打ち込む。が、息が息として出てしまい、音として出る割合が少ない。結那が行き詰まっている様子を見ると、公彦が包容力のある深い声で「大丈夫だね」「いい子だね」などと繰り返し、やたら大人びた調子で指導する。先日のレッスンで、幼な子に教えるような楠のやり方に感化されてしまったらしい。結那は礼儀正しく「はい」と返事する。するとまたしても公彦は「いい調子だね」「天使のラッパのようだね」と褒めに徹する。
その様子を見たトロンボーンの梅子は、ボエッと奇妙な音を吹き出してしまった。公彦はかまわず続ける。低い音からではなく、ある程度高い音から出す唇を作る練習をしていけば、低い音も出せるようになるのだ。それをこないだ、楠に教わったばかりだ。自分も結那もレベルアップしていければいい。
ホルンパートは一年生同士なので、史門も恵里菜も金管講師の出した宿題に黙々と取り組んでいた。ホルン本体は使わず、マウスピースだけでスケール練習に励む。毎日同じ口の形で吹けるように、というのが地味に難しいと史門は感じていた。横目に恵里菜の様子を観察する。観察しているうちに、鼻の下が伸びていく。
ホルンの恵里菜は真剣に取り組んでいた。椎名に教わったことを思い出しながら、口の中の面積を微調整する。広ければ低く、狭ければ高い音が出る。ドの時はこれだ! などと頭の中で予想してから、口の中の面積を変えてみた。ゆっくりゆっくり、半音ずつ上がる練習を、ひたすら繰り返した。史門はこもった弱々しい音しか出せないが、恵里菜は勇猛なアフリカゾウのように大音量をかき鳴らし、周りを驚かす。史門も真似するが音量がまったく足りない。姿勢が悪いからだよと恵里菜に肩と腰をグッと押さえられ、背筋を強引に伸ばされる。史門は喜びを交えながら悲鳴を上げる。
チューバの幹生は、松野の教えてくれた通りのことをきっちりこなしていった。同じ音を延々と出しているのは楽ではなかった。ただでさえ金管最大の楽器で、重さは九キロを超える。それでも幹生は日に日に、力強く響く低音が好きになっていった。チューバが自分の体の一部になっていくような感覚すらあった。メトロノームを六十に合わせ、四拍かけて吸ったら、四拍かけて吐く。それを二セットやったら、次は三拍かけて吸って三拍で吐く。それも二セットやったら、次は二拍で吸って二拍で吐く。同様に二セットやったら次は一拍で吸い、一拍で吐く。こんな調子で、全身の力を抜いて繰り返す。温かい息であることが大事、冷たい息には絶対ならないようにと言い聞かす。温かい深い呼吸を、楽器を持つ前から意識する。少しずつ体の強張りを外して、全体がリラックスしていくイメージだ。
こうして、部員達は着々と基礎を積み上げていった。




