伊久馬の憂鬱
部活の休憩時間になり、伊久馬は第二音楽室の床に体育座りして休むことにした。
パーカッションなんかやりたくない。面白くない。ママに言ったら、何とかトロンボーンにしてもらえるだろうか。怜のように足が悪ければ、トロンボーンになれたのだろうか。パーカッションは立って演奏することが大半だ。ペダルを踏んで演奏する楽器もある。つまり、足が丈夫な奴から配置されるのだろう。伊久馬は座ったまま、右足で左足の甲をぐりぐりと踏みつけたが、痛みに耐えかねてやめた。伊久馬の気持ちを見透かすように、直樹が話しかけた。
「足がどうかはともかく、雁谷君はリズム感がいいんだと思うよ。仮入部でタンバリン叩いていたとき、先生が褒めてたじゃん」
伊久馬はチラリと直樹の顔を見た後、第二音楽室の後方を見た。銀之丞がふざけてドア枠にぶら下がり、チンパンジーの真似をして部員達を笑わせているところだった。音羽はというと、うつろな表情で窓の外を見ている。この女の先輩はピアノが上手いので有名らしいが、パーカッションも輪にかけて上手い。しかも、皆の前で勝手にシンバルを叩けるほどすごく度胸があるし、誰とも群れないで一人の世界に浸っている。近づきがたく、得体が知れないと思った。
「僕は別に、いいと思いません」
伊久馬は謙遜しつつ、涙目になっていた。もう、家に帰りたい。ママ。
「そのうち、だんだん好きになるよ」
直樹が伊久馬の隣に座りこみ、励ました。
そうだろうか、と伊久馬は疑問だった。パーカッションに決まってから、腕立て伏せやスクワットの練習ばかりさせられて腹が立った。集中力がつくからと、校庭で走らされたりもする。これじゃ運動部と変わりないじゃないか。
「俺も本当はサックスがよかったのに、フルートにさせられた時はすごく嫌だった。しかも、サックスになった奴は半年でやめた。でも、今はフルートがすげー好きなんだ」
「へえ」
伊久馬は少しだけ直樹に興味を持った。この先輩も自分と同じような境遇だったとは。
「フルートじゃなくて、パーカッションになってたら、それも多分、好きになってたと思う。要はさ、今の練習を一生懸命頑張れば、次の練習もさせてくれるだろうし。どんどん好きになってくもんだよ」
「…」
伊久馬は黙って聞いていた。何やら鼻の奥がつうんとする。
「銀、あんな奴だけど、すげーいい奴だし、俺なんかより明るいし面白いし。梅ちゃんが先輩だったら、すげー面倒くさいことになってたよ」
「えっ、そうなんですか」
伊久馬は梅子の話に興味を示した。あの陰気でチビデブな女の先輩である。
「そうだよ。俺、部長やってんじゃん。梅ちゃん、副部長だろ。いつも『部長なんだからもっとしっかりして』とか『部屋片付けて』とか『時間守って』とか。あなた、俺のお母さんですかって思う」
直樹が困惑したような顔をして言うと、伊久馬が吹き出した。
「本当だ。お母さんみたいですね」
「うん。だからさ、銀の後輩でいる方がいいよ。銀って怒ったとこ見たことないし。…朱雀さんも、そんなに悪い人じゃないと思うよ」
直樹は音羽が入って来てくれたことが嬉しくて、おまけ程度にフォローして言った。
「そうなんですか」
伊久馬は、少し離れたところでまだ窓の外を見ている音羽を見ながら言った。
「梅ちゃんなんか怒ってるとこしか見たことないよ」
直樹が、梅子が起こった時の顔を真似しながら言った。
「さすがお母さん。ギャハハハ」
伊久馬は明るい声で大笑いした。何だか、パーカッションも悪くない気がしてきた。
「誰の話、してる?」
低い声が頭の上から降ってきた。直樹と伊久馬が前を見ると、太くて短い足がそこにあった。
「お母さんって誰」
梅子が再度問いかけると、二人は猛スピードで廊下を駆けていった。




