遠足
ゴールデンウィーク初日の朝、緑谷中学吹奏楽部は琳太郎に言われた通り、緑谷駅の駐輪場前に集合した。仮入部の部員を含め、部員のほとんどは自転車でやってきたが、自転車に乗れない史門は健治のママチャリの荷台に乗せてもらった。怜は足の手術を受けるため、不参加だった。
「おはよう。みんな集まったな」
駐車場から歩いてきた琳太郎が、部員達の顔を見渡して言った。荷台の乗り心地が悪かった史門は、青ざめた顔で琳太郎を睨みつけた。今日の琳太郎は、涼しげなアイスグリーンのカットソーにデニムパンツと白いスニーカーを合わせている。カジュアルな私服姿は新鮮で、響はずっと目を奪われていた。一緒に来ていた雛形はいつも通りのすっぴんメガネにパンツスーツなので、まりあがクスクス笑っていた。
「おはようございます。今日、どこ行くんですか」
直樹が聞いた。
「遠足だよ。さあ行こうか」
琳太郎が人数分の切符を用意して、爽やかに言った。部員達を引き連れて階段を上る。琳太郎がやけに大荷物を抱えているので、伊久馬が手伝おうとしたが、重すぎて階段に尻もちをついてしまった。皆が爆笑しているところ、ガタイのいい幹生が黙って荷物を引き受ける。皆で改札を通り、エスカレーターを降りると、上り電車のホームについた。数分で電車が到着し、ぞろぞろと乗り込んだ。
窓からの眺めはのどかな田園風景だった。それが次第に住宅街に変わり、ビルが増えてきた。都市部に入り、電車が目的の駅に到着した。改札を出て、人混みで溢れる歩道をどうにか十六人で固まって歩き、目的地へ到着した。
「どこですか、ここ」
直樹が聞いた。目の前には巨大な四角い箱のような建物が鎮座していた。手前には植栽が美しい階段とギリシャ建築のような背の高い柱が立ち並ぶ。その奥に一面ガラス張りのエントランスがあり、人々が出入りしていた。
「さいたまシンフォニーホールだよ」
琳太郎が答えた。
入り口をくぐると広々としたホワイエがあり、吹き抜けになっている。一階には大ホールと小ホールがあり、スケジュールに合わせてコンサートや演劇が催されている。琳太郎は階段を上り、二階の廊下をずんずん進んだ。廊下の両脇にはいくつか扉があり、リハーサル室や会議室、音楽資料室などが並ぶ。琳太郎は一番奥の扉を開けた。防音仕様の二重扉になっていて重い。二枚目の扉を開けると、急にクラシック音楽が流れ込んできた。
琳太郎が会釈すると、一人の男がそれに気づいた。それから左手で壁の方を指差した。右手はタクトを振るったままで、止める様子はない。そこに居た人間達は総勢八十人を超え、その男を取り囲むように半円状にパイプ椅子を並べ、着席していた。それぞれが管楽器だったり、弦楽器だったり、様々な楽器を手にして演奏している。何人かチラチラと見てきたが、琳太郎と吹部が入ってきても演奏を止めない。琳太郎は男に指さされた方に向かって歩いた。畳まれたパイプ椅子が積まれていたので、琳太郎は椅子を立て始めた。部員達もそれに続いた。
部員達には訳がわからなかったが、二列ほどに椅子を並べ、演奏を聴くことになった。どうやらこの団体は、どこかの市民楽団らしい。世代はバラバラで、若い人もいれば年寄りもいる。男性も女性もいるし、共通しているのはみんな部屋着のような、ラフな格好をしていた。それでも、演奏は素晴らしかった。少なくとも自分達より遥か雲の上のレベルで演奏していることは、そこで聞いている全員が理解した。
「よう。琳太郎」
演奏が終わり、指揮者が琳太郎に挨拶した。琳太郎は立ち上がり、改めて挨拶をする。
「おはようございます。忙しいところすいません。今日はよろしくお願いします」
「まあな。こいつらは最強の兵隊だから大丈夫だろ」
指揮者が言うと、演奏者達はどっと笑った。
「俺たち、次はどこの城に攻めに行くんですか?」
クラリネットを持った太った男性が聞いた。
「決まってんだろ。まずニューヨーク。その次はパリ」
指揮者が言うと、今度は健治がゲラゲラ笑った。健治の笑いを受けて一瞬だけ間が空いたのち、演奏家達もゲラゲラ笑い出した。
「君。パートは?」
指揮者が健治に尋ねた。
「く、クラリネットです…」
健治は蚊の鳴くような声で答えた。
「なるほど。寺前。ちょっとアレやれ」
指揮者がアゴでしゃくった。
「えー。俺っすか」
寺前と呼ばれたのは、先ほどの太った男性である。指揮者に怖い顔で睨まれると「へーい」と諦めたように言って、クラリネットを構えた。
「松井田」
「はい」
松井田と呼ばれた男性がコントラバスを構えた。弓を置き、指でイントロらしき音を弾き始めた。
「ドラムとバイオリンも入れ」
指揮者に言われて、ドラムとバイオリン奏者達も伴奏に加わった。前奏が終わったらしく、寺前がクラリネットで旋律を吹き始めた。健治は知らない曲だ。何だがわからないけれど格好良かった。エキゾチックで怪しげで、かと思えば急に華やかになって。とても健治には出せそうもない高音を速い運指で吹きこなしてゆく。コントラバスも激しくダイナミックな動きでベースラインを支え、クラリネットのメロディーをがっちり引き立てる。
「先生」
健治が小声で、隣にいる琳太郎に声をかけた。
「これ、何て曲ですか?」
「キャラバンって曲だ。かっこいいだろ」
琳太郎が格好よく微笑んでみせた。健治は演奏に魅せられた。ただただ心を奪われっぱなしだった。
演奏が終わると、琳太郎が指揮者のところへ楽譜を持っていった。
「電話でお話ししたアレ、やってもらっていいですか」
「おう。少し待ってろ」
指揮者が頷いた。
「おい。みんな、アレな」
「はい」
一同は返事すると、バタバタとパイプ椅子を片付けたり、譜面台を畳んだり、楽器の配置を変えたりし始めた。琳太郎は生徒達にプリントを一枚ずつ配り、自分は三脚を組み立てていく。雛形ももう一台、三脚を手にすると、部屋の前方へ駆けて行った。そこで、同じようにセッティングし始めた。
プリントにはいくつかの曲目のリストが書かれている。生徒達には何のことか分からなかった。何をすればいいのかも分からないので、邪魔にならないよう部屋の隅で傍観することにした。
少しの間に、大所帯の楽団が小編成の楽団になってしまった。フルート兼ピッコロ奏者が一人、クラリネット奏者が二人、バスクラリネット奏者が一人、アルトサックス奏者が一人、テナーサックス奏者が一人、トランペット奏者が二人、ホルン奏者が二人、トロンボーン奏者が二人、チューバ奏者が一人、そしてパーカッション奏者が三人の、計十六人の編成だ。弦楽器奏者を含め、残りの演奏家達はぞろぞろと部屋を出て行った。
「なんかうちみたいな編成だー」
銀之丞が言うと、琳太郎が微笑みながら「ほぼ正解」と頷いた。
「ほんとだ」
直樹も感激して言った。
三脚の上に乗せたビデオカメラをいじりながら、琳太郎が先に雛形へ合図を送った。雛形からもOKの合図が返ってきた。今度は指揮者に手で合図を送った。それを見て梅子が口の前に人差し指をあて、シーッと言った。
十六人の演奏家達は指揮者に従い、次々に演奏していった。
すべての曲の演奏が終わり、生徒達は力の限り拍手を送った。素晴らしい演奏に誰もが素直に感動し、お礼を言った。退室するとき、琳太郎は生徒達にホワイエで待つよう伝えた。何やら話すことがあるらしく、雛形と部屋に残った。
「いいなあ。俺もあの人達みたいに、あんだけ吹けたらな。どこの楽団だろ?」
健治が売店で買ったジュースを飲みながら言った。
「今日は耳が、一ミリも疲れませんでしたね」
まるで、普段は疲れるのだとでも言いたげに、珍しく史門が話の話に加わった。
「でっかくて、綺麗な音だった。あの人たちが教えてくれたらいいよね」
史門を無視して梅子はミルクティーを飲みながら頷いた。
「だねー。それが叶ったら県大も楽勝だろーし」
銀之丞が言った。リュックサックからポップコーンを取り出してもぐもぐ食べる。
「あの鳴沢学園も倒せる」
公彦が鋭い目つきで言った。鳴沢学園は埼玉県北部地区最大の強豪校である。
「うん、全国も楽勝だね」
健治が調子づいて言った。
「みんな、早くできるようにならないとですね」
史門が偉そうに言うと、部員達の目が釣り上がった。
「いや。それより君がまず、自転車を乗れるようにならないとだね」
公彦が突っ込むと、一同はどっと笑った。
「先生とあの人達はどういう繋がりなんすか」
大輝も話に混ざってきた。
「やっぱあれじゃない。音大繋がり」
梅子が腕を組みながら言った。
「きっとそうだね。先生って本当に何者なんだろ」
直樹が頷いた。
「先生、楽器なんでも出来るしねー。何で中学の教師なんかやってんだろー」
銀之丞が片手を腰に当てながら、少し首を傾けて言った。
「本当。なんでうちらみたいな弱小クラブに来ちゃったの」
自嘲気味に健治が苦笑いした。
「演奏家だけで食ってくのが大変だからじゃない?」
梅子が訳知り顔で言った。
「先生なら動画サイトで投げ銭、いっぱいしてもらえそうだけどね」
毎日、アイドルの動画チェックを欠かさない健治が言った。
「教職の方が、先生が自分らしく生きられるんじゃないのかな。先生はいつも俺たちを導いてくれてるし」
直樹が真面目な声で言った。
「先生なら雑誌のモデルも出来そう」
ずっと黙っていた響が唐突に口を挟んだ。
「まあ、あれだね。職業・ハンサムだしね」
公彦が厳格な調子で決まり文句を言い放ったので、一同は吹き出した。
夕方になって、部員達は緑谷駅で解散した。素晴らしい演奏がまだ耳に残っているうちにフルートを吹きたい、ゴールデンウィークは徹底的にフルートの練習をしてやりたい、そう強く思った直樹は、楽器を取りに学校へ戻ることにした。鍵を取りに職員室に向かうと、第二音楽室の鍵はすでに持ち出されていた。誰かいるのかと思ってそのまま第二音楽室に向かうと、中からピアノの音色が聞こえてきた。何の曲かすぐに分かった。これも姉の部屋でよく聞いたラヴェルの「水の戯れ」だ。演奏が終わると、直樹は拍手をした。弾いていた女子生徒が振り向いた。直樹の知らない、髪が赤っぽくて背の高い女子生徒だった。
「すごく上手いね」
直樹は素直に褒めた。女子生徒は何も言わずに直樹の方を漫然と見る。直樹は言った直後で後悔した。以前、公彦に「直樹の口癖は『すごい』だね」と皮肉られていた。頭の中で言葉を一生懸命、組み立ててみる。
「本当に水同士が、遊びながら流れてるみたいだよね。音の一粒一粒が煌めいているのが伝わってくるよ」
直樹が言うと、女子生徒は驚いて直樹の顔を見た。
「君も、吹奏楽部に入ってくれたらいいのに」
思わず直樹の口をついて出てきた言葉がそれだった。女子生徒は立ち上がると、一言も口をきかず、部屋を出て行ってしまった。




