親子丼
「おう。大鷹」
翌日の昼休み、怜がクラスの友達と昼食を食べていると、野球部顧問の島田が教室にやってきた。怜は軽く会釈する。二人は中庭に出て、ベンチに並んで座った。
「お前、マネージャーにならないか」
島田が提案した。怜は無言だった。
「お前の気持ちは分かるよ。ピッチャーだったからな。そうそうサポート役なんかになれるわけがない」島田は下手くそな笑顔をつくって、顎の肉を撫でた。「でも、中学三年間を無駄にしたくないだろ? そこでだ。マネージャーになって助けてほしい。チームのためにも、お前が必要なんだよ」
怜は無言を継続する。
「高校に行ったらまた野球、続けたいだろ? そのためにはほら、何か実績作っとかないと。マネージャーとしてチームに貢献しました、っていうのをな」
島田はさらに下手くそさに磨きをかけて笑ってみせた。
「…あいつに言われたんすか」
「あいつって?」
島田はきょとんとした顔で言った。
「鳥飼」
その名を口にするのも不愉快そうに怜が言った。
「鳥飼先生がどうした」
島田は意味が分からないようだった。
「鳥飼先生は大鷹を吹部に欲しいんです、素晴らしい素質があるんですとか言ってるけど、あんなショボいところにお前を入れるわけにゃならんだろ。お前には強豪・野球部のマネージャーがふさわしい。新入生達の指導もしてもらいたいしな。今日は練習にこいよ」
島田の率いる野球部は周辺の中学の中では強豪だった。伝統的に部員達は坊主頭に徹底し、挨拶や丁寧な言葉遣いを重んじ、厳しい上下関係を敷いている。ピッチャーとして実力のある怜のことを重宝していた。だが、それも捻挫を繰り返すまでの話だ。
「…ウス」
怜は小さな声で返事した。
午後になって、怜はグラウンドに行った。野球部の二年生と三年生はキャッチボールの練習を行い、仮入部中の一年生にはダッシュとランニングをやらせていた。
「ミド中ー、ファイ、オー、ファイ、オー」
ランニングしている一年生達に向かって、怜はベンチに座って「声が小さい」「聞こえない」と叫ぶ仕事を任された。イライラが募っていた怜にはそれも悪くないと思い、ひたすら叫ぶことに徹した。
夕方になり、一年生だけ一足先に帰されることになった。一年生は全員、大声で怜にありがとうございましたと叫び、元気よく帰って行った。二年生、三年生はまだ別の練習に励んでいる。怜が部室に入ろうとしたら、中から声が漏れ聞こえてきた。
「あいつ、すげえ声デカいよな。気合い入りすぎ」
一人の部員が言った。怜の聞き覚えのある声だ。怜といつもつるんでいる高橋だ。
「ほんとほんと。一年の声、怜のせいで聞こえねえし。ベンチ座ってるだけだしな」
別の部員が言った。怜に、梅子にボールを投げつけるようけしかけた佐藤の声である。
「こないだ弁当屋行ったらああいうジジイが居たんだよ。待合席座って『俺の頼んだのまだか』って叫んでるジジイ。うぜえ」
高橋が言うと、ほかの部員達が爆笑した。それぞれが言いたいことを言い合う。
「弁当ジジイがなんで野球部にいるんだよ」
「ジジイだから足くじいたくらいで入院騒ぎなんだろ」
「ピッチャーはもう無理。大人しく引退した方が…」
怜はドアを開けるのをやめ、回れ右した。
「今日、大鷹先輩きてないのかな」
第二音楽室でテナーサックスを吹かせてもらっていたまりあが、結那に聞いた。今日はまた新たな一年生が見学に来ていて、大型楽器のチューバに挑戦している。まりあと結那を含む、ほかの一年生はほったらかされていた。
「来てないみたいだね」
あんな人、居なくていいとばかりに、結那はトランペットを吹いてみた。吹奏楽部は思った通り楽しく、結那は是非ともトランペットパートに入りたいと考えているところだった。ただ、まりあが怜のことばかり気にかけているので、一緒にやっていけるか不安だった。
「見たかったのになー。まり、ナヨナヨしてる男に興味ないしなー」
恵里菜に干渉しながら屁理屈を並べている史門を見て、まりあが言った。
「文化部の男子なんてみんなナヨナヨなんじゃない?」
まりあほど男子に興味を持てない結那が言った。
「文化部の女の先輩は結構可愛いのに。鶴岡先輩、可愛いよねー」
「うん」
結那が会話に飽きて、つまらなそうに返事をすると、公彦が近づいてきた。
「鳩山さん、音出せるようになった?」
「あ、いえ、全然ダメです、もう一回教えてくれますか」
公彦に話しかけられて、結那はホッとした。まりあは公彦を頭のてっぺんからつま先まで見て値踏みした。それから、小さくため息を吐いた。
「おかえり」
怜が夕方六時前に帰宅すると、珍しく母がいた。怜の母は、とある会社の社員食堂に勤務していて、帰宅はいつもなら夜八時過ぎだ。母は怜の背中に向かって言う。
「今日、早上がりだったんだ。怜も今日は早かったんだね」
捻挫する前はいつも帰りが夜七時くらいだった。それに合わせて母が風呂のタイマーをかけてくれているので、まだ湯は沸いていない。
怜は無言で母の前を通り過ぎ、ベランダへ向かう。洗濯物を取り込むのは怜の仕事だ。二人分の衣類を洗濯かごに詰めてリビングに入り、その場で畳む。自分の衣類だけ持って自分の部屋に向かう。怜の家は2DKの賃貸アパートだ。北側にはダイニングキッチンとトイレと浴室、南側にはリビング兼母の寝室と怜の部屋がある。怜の部屋は六畳の和室で、学習机とタンス、カラーボックス、窓際に簡素なパイプベッドが置かれている。机の上には漫画や雑誌が山積し、畳の上には服が脱ぎ散らかしてある。その服の上にスポーツバッグを放り出し、衣類をタンスへ突っ込むと、怜は制服のまま、ベッドの上に仰向けで寝転んだ。
野球部に居場所はない。陰口叩かれながらマネージャーなんか絶対にやらない。何がチームのためだ。何がお前が必要、だ。俺がこれまでチームのために頑張ってきたことは何だったんだ。一方で吹部の連中の顔も浮かんでくる。どいつもこいつも馬鹿正直で生意気で本当にウザい。あいつら、チンドン屋って馬鹿にされてるの、分かってんのか。怜は頭を掻きむしりながら体を横向きにして、しばらく目を閉じた。何も考えないようにした。ふと、美味しそうないい匂いが鼻をくすぐった。キッチンからは、ぐつぐつと何かを煮る音がする。
「ご飯だよー」
母の声がした。ちょうど腹も減ったので怜はすぐにキッチンへ向かった。ダイニングテーブルには黒くて大きなどんぶりと、少し小さめな白いどんぶり、キャベツとコーンのサラダ、味噌汁が置かれていた。どんぶりの中身は親子丼だった。いつもだったら「また制服のままで」とか「着替えてきなさい」とか小言が出る母だが、今日は特に何も言わなかった。
親子丼は怜の大好物だ。子どもの頃から貧しくて、高い鶏もも肉はほとんど買ってもらえず、食卓に出てくるメインの大半は鶏胸肉だった。鶏胸肉を使った料理の中でも、特にこの親子丼はご馳走だった。
怜はいただきますも言わずに食べ始めた。
「ん」
最初の一口で、怜は思わず箸を止めた。
「ん?」
母も同じ言葉で聞き返した。
「もも肉…」
「うん。来月から、ちょっとだけ給料上がるんだ。美味しく食べよ」
母はにっこりして、自分もどんぶりに手をつけた。
「美味い」
怜はつぶらな目をしばたいて言った。親子丼の中の肉は、鶏もも肉だった。噛むほどに弾力があり、ジューシーな脂が口いっぱいに広がった。その脂の旨みを吸った卵や白飯も、とてもおいしかった。
「そうでしょー。おかわりもあるからね」
母がフライパンの中を指さして言うと、怜は一杯目を一気にかき込んだ。二杯目は大盛りにしてもらった。母は嬉しそうに顔を綻ばせて言った。
「今日ね、職場の若い子たちに『お母さん』って呼ばれちゃった。私、まだ若いのにねえ。ひどいよねえ。でも、少し嬉しかった。そうやって慕われるって悪くないね」
怜はぼんやり母の笑顔を見た。母は怜が幼い頃からずっと一人で頑張ってきた。怜の父が交通事故で亡くなってから、再婚することもなく、両親に頼ることもなく。鶏もも肉は高いからと、いつも鶏むね肉を買ってきた。怜は特に不満を漏らすことはなかったが、友達の弁当に入っている鶏もも肉の唐揚げを一つもらった時には、その美味しさに感動した。でも、母に作ってとは言わなかった。言えなかった。
最初はアルバイトから始めて、栄養士の資格を取り、数年かけて正社員になった。今は食堂の栄養士兼調理スタッフとして働いている。今度は管理栄養士の資格を取ると、怜に熱く語った。
「じゃあ母さんはそこのボスになったんだ」
怜がぼそりと呟くと、母は頬に親子丼を含んだまま笑った。
「まだボスじゃないよ。中ボスくらいかな」
「中ボスだから手下がたくさん居るんだろ」
「まあね。でも中ボスって呼ばれないよ。お母さんって呼ばれる。実際、あんたのお母さんだから間違いではないけど」
母はにこにこして言った。
「俺にも手下がいたんだけどさ」
怜が切り出した。
「うん」
母は目を一瞬大きく見開いたが、視線を丼に移し、また食事に戻った。母からのプレッシャーが消えたので、怜は話を続ける。
「俺が…、手下になりそう」
「そう」
母は少し声のトーンを落として、相槌を打った。
「でも、もう…、それでいい。手術したら…、手下になりにいく」
怜は、喉が締めつけられる思いで、何とか声を絞り出した。
「そうなんだ」
母は少し考えながらも、優しい眼差しで怜を見た。怜はすぐに目を逸らした。鶏もも肉の大きい塊にかぶりつく。肉の断面からじんわり肉汁が溢れ出た。すると、怜の目からも涙の粒がじんわり溢れ出た。最初は右目から。そのうち、左目からも。母に悟られたくなくて、真下にある丼を見下ろす。雫が一つ、また一つと、親子丼の表面に静かに落ちた。
「いいんじゃない。世界一の手下になれば」
そう言って、母も鶏もも肉にかぶりつく。美味しそうに目を細めながら、ゆっくり咀嚼していく。怜は母の顔が見られない。誰よりも誠実で、真正面から社会と戦って生きてきた母のことを尊敬していたし、怜の誇りだった。野球部での頑張りを認めて、いつも応援してくれた。これからもずっとそうなのだろう。穏やかで包み込むような声だけが、怜の耳の奥へ心地よく響く。
「世界一の手下になれば、誰も怜のことを手下のまんまにしておかないよ」
母はそばの棚に置いてある箱ティッシュを手に取ると、怜に差し出した。怜はとっさにティッシュを二、三枚引き出すと、勢いよく鼻をかんだ。




