アイリッシュダンス
年が明けて二日目の朝、緑谷駅で上り電車のドアが開いた。琳太郎が乗り込んでくる姿を見つけると、長椅子に座っていた雛形が手を振った。琳太郎は歩み寄り、雛形の隣に座った。それから手袋を外し、雛形の手を握りしめた。雛形は車窓からの景色を眺め、あの日のことを振り返った。
グリーンガーデンパレスの併設ホテルに宿泊した翌日、琳太郎と雛形は広報部のオフィスを訪問し、花山へ謝礼を返した。
「すみません、これ、せっかくですがもらえないので、お返しします」
雛形が申し訳なさそうに言った。公務員はアルバイトが禁止されている。金銭を受け取れない旨を簡単に説明すると、花山は少し驚きつつ、受け取った。
「お二人とも学校の先生だったんですか。それじゃあ、どうしましょう」
花山が謝礼の入った封筒をしばらく見つめ、考え込む。
「僕達、素敵なスイートルームに泊まれたんで、十分です」
琳太郎は花山に向かって太陽のような笑顔で言った。雛形はうつむいて、真っ赤な顔をしている。
「そうでしたか。何かご不便はありませんでしたか」
花山が雛形の様子に気づき、からかうように尋ねた。
「何も。最高の夜でした」
琳太郎がこれ以上ないほど幸せに満ちた顔で答えた。
「んまあ」
花山が堪えきれずに吹き出した。雛形は琳太郎の背中をグーで思い切り殴った。
「でも、タダ働きってわけにもいかないし」
花山が笑いたい感情をなんとか捨て去り、真面目な調子に戻した。琳太郎は背中をさすり、苦しそうに笑う。
「こちらはどうですか」
すぐそばの椅子に座っていた男性がゆっくりと立ち上がり、封筒を琳太郎に手渡した。どうやら花山の上司らしく、花山も姿勢を正してそれを見る。琳太郎が中身を開けると、なかには一通の手紙が入っていた。「グリーンガーデンパレスお台場 内覧会のご案内」というタイトルで、申し込み用紙が付帯している。
「うちのグループがお台場に新しい式場をつくりまして。オープンに先駆けて、マスコミ関係者を呼んで、内覧会をやるんですよ。披露宴用のフルコースをお出ししますので、是非」
男性が優しい笑顔で説明した。
「これ、いつですか?」
雛形が聞いた。
「今度のお正月です。学校の先生でしたら、冬休みかと」
男性が日程が書かれている部分を指さし、答えた。
「もちろん、そこで式場予約していただいても、構わないんですよ」
花山が再びくすくすしながら言った。
「それも悪くないですね」
琳太郎が神妙な顔して答えると、今度は雛形に手をつねられた。
「それでは、こちらにご記入、いただけますか。私が申し込んでおきますので」
男性が優雅な物言いで言い、申し込み用紙を差し出した。
「行ってみようよ」
琳太郎はつねられたところをさすりつつ、雛形に問いかけると、雛形は少し考えてから頷いた。ペンを受け取ると、琳太郎が自分と雛形の名前、それぞれの連絡先を書き込んだ。
雛形が帰宅すると、安彦が大変な剣幕で駆け寄ってきた。
「この不良娘は昨日、どこで何をしていた」
「雪の中で遭難しているお婆さんを、家まで送り届けてきたの」
雛形は玄関で靴を脱ぎながら、口から出まかせを言った。
「バカ言うな」
安彦が頭の上で一喝した。
「お父さん、もう本当にやめてあげなさいよ」
雪乃がキッチンから走り寄り、安彦を制した。
「お母さんだけ、ちょっと来て」
雛形は雪乃の腕を引っ掴み、洗面所に押し込んだ。安彦も追いかけてきたが、鼻の先でドアをガチャリと施錠されてしまった。
「何よ」
雪乃が困ったような顔をしつつ、にやついた。ドアの向こうでは安彦が何かを喚いている。
「彼氏が、できた」
雛形は小声で言った。
「ええ。それってもしかして」
雪乃は目を見開いた。
「その、もしかして」
雛形は照れながら、低い声で答えた。
「きゃあ。いやだあ。あの美形な先生ね。お母さん、嬉しい」
雪乃は途端に夢見る少女の顔になり、雛形の両手を強烈に握りしめた。洗面所のドアは向こう側から、ドンドン叩かれている。
「だから、お母さん、協力してよ」
雛形が上目遣いで言った。
「うんうん。するする」
雪乃は乗り気だ。
「もっと一緒にいたいし、外泊することも増えると思う」
雛形は伏し目がちに、言いにくそうに言った。
「うんうん。そうよね、そうよね。いいのよ」雪乃は嬉しそうに娘を肯定する。「あっちもご家族と?」
「ううん。一人暮らし」
雛形が言うと、雪乃は黄色い声を上げた。
「だったらもう一緒に住んじゃいなさいよ」
雪乃は興奮しながら提案した。
「それは、まだ、ちょっと」
雛形は躊躇する。
「まあ、そこら辺はどっちでもいいわ。ねえ、今度うちに連れてきて。お願い」
雪乃は目を潤ませて懇願した。
「それはまずいでしょ」
雛形は憂鬱そうにドアを見た。まだ安彦が何かを叫びながら、ドンドン叩いている。
「そこは、私に任せて」
雪乃もドアをつまらなそうに見てから、ニヒルに笑ってみせた。
琳太郎と雛形は電車を乗り継ぎ、浅草駅に着いた。隅田川の川沿いを少し歩き、雷門通りに入ると、通りは観光客でごった返していた。人力車の呼び込みや、外国人観光客がひっきりなしに写真を撮りまくり、二人は思うように前に進めなかった。
「お正月の浅草ってすごいんですね」雛形は圧倒されながら、琳太郎の手をしっかり握った。「私、都会に慣れてないから、人に酔う」
琳太郎は雛形の肩を抱き寄せ、人の波にもまれながら歩を進めた。
どうにか雷門前に到着すると、琳太郎が一枚だけ、二人の姿を自撮りした。それから門をくぐり、仲見世通りを歩いた。雛形は琳太郎がはめているインディゴの手袋を見て微笑んだ。
「ねえ、それ、あったかい?」
雛形が聞くと、琳太郎は振り返り、穏やかな笑みを浮かべた。
「すごく」
琳太郎は幸せそうに頷いた。
手袋は雛形が編んだものだ。琳太郎の大切な指を守りたい気持ちを込めて、雛形は密かに自宅で編み進めていた。スイートルームに入った時に、あいにくマフラーじゃないんだけどと言って渡したら、琳太郎が感激していた。そのときの嬉しそうな顔を思い出し、雛形は少し笑った。
二人は常香炉の前にやってきた。多くの観光客がそこに寄り集まり、大きな香炉から立ち昇る煙を手で仰ぎ、自分の体に浴びせている。常香炉の煙を体の悪いところにかけると、治りが良くなると言われているためだ。琳太郎は手袋を外し、黙って左手に煙をかけた。雛形も一緒に、琳太郎の左手や手首、腕の部分に向かって煙をあおってやった。
その後は本堂に向かって賽銭を投げると、二人並んで手を合わせた。
「先生は何をお祈りしたんですか?」
本堂から門へ引き返す道すがら、雛形が琳太郎に尋ねた。
「聞かなくても分かるくせに」
琳太郎がにやついた。
「分かりません」
雛形は膨れてみせた。
「今年こそ全国大会ー!とか、暑苦しいことは祈ってないよ」
琳太郎がすまして言う。
「え? それが一番大事じゃないんですか?」
雛形は目をぱちくりさせた。
「俺の一番は、そんなのじゃないよ」
琳太郎は、愛しそうに雛形を見つめた。雛形は一瞬、言葉に詰まった。
「私は副顧問として、ちゃんと祈っておきましたよ。今度こそ全国、行きたいです」
両手で拳をつくり、生真面目な調子で雛形が言った。
「ねえ。ところで、いつまで敬語なの」
おかしそうにクックッと笑いながら、琳太郎が尋ねる。
「なんか、まだ慣れないんです」
雛形は口を尖らせ、正直に言った。
「先生っていうのもやめようよ」
琳太郎が困ったように笑う。
「先生、の方が呼びやすくていいです」
雛形は言い返した。
「俺は桃子って呼びたい」
琳太郎は優しい眼差しを向けて言う。
「別にいいですよ。どう呼ばれても」
雛形は恥ずかしそうに下を見る。すると琳太郎は桃子、桃子と繰り返し呼んでは笑った。
「桃子。琳太郎って呼んでみてよ」
琳太郎が雛形の顔を覗き込み、楽しそうに笑った。
「恥ずかしい」
雛形は琳太郎の頭を掴み、後ろに押しやった。
「式場では呼んでくれたのに」
「あれは勢い」
「まあ、いっか」
琳太郎は雛形の手を繋ぎ直すと、浅草駅の方へ戻った。
駅のすぐそばにある水上バスの乗り場に着くと、二人は隅田川を前に風にあおられ、ぶるっと震えた。
「これでお台場に行こう」
琳太郎がデッキから川をさっと跨いで水上バスの縁に足を乗せ、雛形の手を引いてやった。
「先生、なんだか慣れてますね」
雛形はきょろきょろしながら、水上バスの中を見回す。船内はカマボコのように円柱を半分に切ったような空間になっており、ガラス張りの窓から隅田川の周辺の景色を見渡せた。
「昔、都内に住んでたから」
琳太郎は簡潔に答え、雛形の手を繋いで椅子に座った。雛形は、きっとこれにも女と乗ったことがあるんだろうと思いつつ、琳太郎の過去に嫉妬している自分に呆れ、ため息をついた。
水上バスが隅田川をくだり、お台場に到着すると、二人はグリーンガーデンパレスお台場へ向かった。
グリーンガーデンパレスお台場の内覧会は、なかなか盛大に行われていた。有名どころの情報誌やウエブサイトの編集者達、各編集プロダクションのライターやカメラマンなどが集まり、場内を埋め尽くしている。現場の広報達は忙しそうに方々へ歩き回って挨拶したり、式場の宣伝に尽力していた。
琳太郎と雛形は受付を済ませると、最初にチャペルを訪れた。緑谷町にあったガラス張りの、豊かな緑が見渡せるチャペルとは趣が違った。頭上にはアールを描いた白亜の天井があり、両サイドの壁には彩り豊かなステンドグラスの窓がいくつも並び、足元には深海のように青く美しいバージンロードが設けられていた。二人はそれからあちこち見て回った。五百人は収容できそうな大きな披露宴会場や、写真撮影にぴったりであろう、絢爛豪華なシャンデリアが取り付けられたロビーと吹き抜け階段、よく手入れされた中庭と、その中庭を見渡せるバルコニーも見た。雛形は琳太郎の手を引き、楽しそうにはしゃいだ。琳太郎は言葉少なに、終始笑顔で雛形について回った。
二人はお腹も空いてきたので、食事をいただくことにした。
「美味しい」
雛形はキャビアと野菜ムースのアミューズに舌鼓を打った。琳太郎は音を立てず、静かに食べている。
「琳太郎先生って、食べ方、綺麗ですよね」
雛形は琳太郎の様子をまじまじと観察しながら言った。
「普通だよ」
琳太郎はこともなげに言う。
「育ちがいいんだなって、思う」
雛形がつぶやいた。少し足元が寒くなって、左右の足をぴったりくっつけ、ふくらはぎをこすった。
「そうでもないよ」
琳太郎は少し笑ってナプキンで口元を拭くと、デキャンタを傾け、雛形のグラスに水を注いでやった。さらに、会場のスタッフを呼び付け、小声で何か注文をつける。そのスタッフは一旦、奥へ引っ込むと、膝掛けを持ってきた。
「すごく気が利くし。本当にモテそう」
雛形は膝掛けを受け取ると、うんざりした様子で言う。
「そこは否定しない」
琳太郎はほくそ笑む。
「私、なんかこの先、ずっとやきもち妬いてそうで、嫌です」
フォアグラのテリーヌをナイフで切りながら、雛形がため息をつくと、琳太郎がくすくす笑い出した。
「それ、完全にブーメラン」
「え?」
雛形が聞いても、琳太郎は首を横に振って笑うだけだった。
式場を出ると、二人はお台場周辺を散歩した。外はすっかり暗くなり、夜空に星が瞬いていた。
「ねえ、先生」
「何?」
「なんか、変な感じがします」
雛形がつぶやいた。
「どうして?」
「先生と、本当に付き合ってるのかなあって。なんだかふわふわして、実感がまだ湧かない」
雛形がはにかみながら、琳太郎を見上げて言った。琳太郎は立ち止まって、黙って雛形を見つめ返す。
「じゃあ、もう少し恋人らしいことしようか」
琳太郎は優しく微笑むと、雛形の手を引き、駅に向かって歩き出した。
ゆりかもめに乗って新橋駅に着くと、琳太郎は雛形を連れて大通りを抜け、小道に入った。多くの飲み屋が並ぶなか、琳太郎は一軒のバーの前で立ちどまった。
「ここは?」
「アイリッシュパブ。おいで」
琳太郎は雛形の手をとり、地下へと続く階段を降りた。
ドアを開けると賑やかな音楽が流れ込んできた。店内の白い天井には太い梁が架かり、足元にはビンテージ風の赤茶色の床板が張りめぐらされている。入り口左手にはL字型のカウンターが設けられ、その奥には厨房があった。正面には丸テーブルがいくつか並び、酒を酌み交わす客のほか、ギターやバイオリン、バンドネオン、ティン・ホイッスルなどの楽器を構えた奏者達が、ケルト音楽、すなわちアイルランドの伝統音楽を楽しそうに奏でていた。その奥では十人ほどの男女グループが、互いに手をとりあい、笑いながら踊っている。
「なんか、すごいところですね」
店内の音量が大きすぎることと、その場の雰囲気に圧倒され、雛形はつぶやいた。その声はかき消され、琳太郎は何も言わずにカウンターへ向かって注文した。やがて黒ビールが入ったジョッキを二つ手に抱え、雛形と空いているテーブルについた。
「先生はこういうところ、よく来るんですか」
雛形が黒ビールをまじまじと見ながら、音楽の音量に負けないよう、大声で聞いた。
「最近はご無沙汰だった」
琳太郎は黒ビールに口をつけ、楽しそうに言った。
「私、こういうところ初めてで、すごく新鮮。先生って多趣味なんですね」
雛形は店内を面白そうに眺めながら言った。
「そうでもないよ」
「アイリッシュって、アイルランドですよね。どこにある国でしたっけ」
「イギリスの隣」
「だからなんですね。あの人、フィッシュ&チップス食べてる」
雛形は少し離れた先に座っている客を見て言った。琳太郎は軽く頷く。
「ねえ、先生」
雛形は琳太郎に視線を戻す。
「何?」
「なんか、今日、私ばっかり喋ってません?」雛形が気になって聞いた。「先生、あんまり喋らない」
「んー、と言うより、」
琳太郎が頭を傾げて腕を組むと、雛形を頭のてっぺんからつま先まで、ゆっくり見つめた。今日の雛形は髪を頭の低い位置でまとめ、後れ毛のあるラフなお団子をつくっている。顔にはファンデーションはほぼ塗らず、ピンク系のチークとリップでまとめ、グレーのマキシワンピースを着、やや厚底の黒いスニーカーを履いている。
「桃子に見とれてるだけ」
琳太郎は目を細めて微笑んだ。雛形は真っ赤になって、黒ビールに口をつけた。
「行こう」
琳太郎が急に席を立って、雛形の手をとった。
「え、何」
「踊ろうよ」
琳太郎は白い歯を見せて、爽やかに笑った。
「私、できない」
雛形は動揺して、琳太郎の手を引き戻し、その顔を見つめる。
「大丈夫。難しく考えないで」
琳太郎は優しい目を向け、再び雛形の手を引き、店の奥へ小走りで駆け寄った。
「混ぜてください」
琳太郎が元気な声で、グループに向かって声をかけた。
「いらっしゃい。どうぞどうぞ。経験者?」
グループのうちの一人、四十代くらいの男性が明るく笑いかけ、尋ねた。
「ちょっとだけ。この人は初心者です」
琳太郎が雛形の両肩をポンポン叩いて言った。雛形はおずおずとして頭を下げた。
「じゃ、お兄さん、フォローできるよね」
男性が尋ねると、琳太郎は頷いた。
「マズルカ・セット、いくよ」
何人かが抜け、脇の椅子に座り、琳太郎と雛形がグループの輪に入った。
演奏者達が、陽気で心地よいイントロを演奏し始めた。ほかの六人が互いに手を繋ぎ始めたので、琳太郎と雛形も手を繋ぎ、八人で円をつくった。リズムに合わせ、皆はステップを刻み、四拍かけて円の中央へ寄り、再びステップを刻みながら、四拍かけて後退した。それを二回、繰り返した。琳太郎は慣れた様子で、同じようにステップを刻んでいる。雛形も辿々しく、それを真似した。
今度は四組のペアに分かれ、その場でくるくる回り出した。琳太郎と雛形もペアになった。琳太郎は左手で雛形の右手をとり、右手で雛形の背中を支えてやると、くるくる回った。雛形はしがみつくように、がんばって一緒に回った。今度はそれぞれのペアが回るのをやめた。二組のペアは脇に退き、場所を開けた。一組のペアが、ステップを刻みながらフロアを横切った。琳太郎と雛形ペアも同じように横切った。雛形は足がもつれそうになるも、琳太郎がしっかり体を支え、動きを先導した。
今度は、脇に退いていたペアが前に進み出て、四人一組になった。それぞれが互いの背中を支え、くるくる回った。
雛形は琳太郎が次の動きを小声で教えてくれるのを聞き、それに従った。琳太郎は背筋を伸ばし、慣れた様子で雛形をフォローしていった。ときどきペアを入れ替え、雛形は他の男女にもフォローされながら、ステップを真似して、踊りを楽しんだ。
曲が鳴り止むと、ほかの六人が楽しそうに笑いながら、琳太郎と雛形に拍手を送った。雛形は息を弾ませて微笑み、拍手を送り返した。琳太郎も軽く笑って拍手した。琳太郎と雛形が輪から抜けると、他の客が入れ替わりに入り、今度は違うダンスを踊り始めた。
「どうだった?」
琳太郎がテーブルに戻り、黒ビールを飲みながら聞いた。
「よく分かんなかったけど、楽しかったです」
雛形が満面の笑みで答えた。琳太郎は長いまつ毛をしばたかせ、雛形を見つめると、今度は演奏者達の方に目を向けた。バンドネオンが速いリズムに合わせて流れるような旋律を弾き、ギターがリズムをとってバッキングしている。琳太郎はほぼ無意識に、テーブルの下で左足でリズムを取り出した。
「先生、やっぱり音楽の先生ですね」
雛形がくすりと笑った。
「うん」
琳太郎は頷くと席を立ち、カウンターに向かった。雛形が見ていると、琳太郎は何か小皿に入った料理と取り皿を持って、テーブルに戻ってきた。
「それは?」
雛形はじっと見つめながら聞いた。グラタンのような見た目で、熱い湯気が立ち昇っていた。
「シェパーズパイ」
そう言って、琳太郎はスプーンですくいあげ、小皿に取り分けた。
「名前だけなら知ってる」
雛形は頷きながら、ニンニクの香りに鼻をくんくんさせた。
「家庭科の先生のお口にあいますか?」
琳太郎が小皿を雛形の前に置いた。雛形は一口食べて微笑んだ。
「美味しい」
二人は店を出ると、周辺を歩いた。芝公園の前につくと、すぐ真上に東京タワーが見えた。闇夜の中でオレンジ色に輝くタワーを見上げつつ、雛形は辺りを見回し、公園のなかを行き交う人間が少ないことを確認した。
「さっきの、もっと踊りたいです」
軽く酔いが回った雛形は、琳太郎の両手を取り、甘えた声で言った。琳太郎は黙って雛形の手を取り、もう一方の手を雛形の背中に回すと、その場でくるくる回り出した。雛形は琳太郎をじっと見た。まつ毛の長いセクシーな目が見つめ返してきた。その目に吸い込まれ、雛形は恍惚とした。
それから琳太郎は回転速度をあげた。雛形は面白がって笑った。琳太郎も笑った。先程の店で踊ったものよりも琳太郎が勢いをつけて回るので、雛形はついていけず、慌てながら笑った。やがてキャーキャー言い合いながら高速で回転し続け、雛形が地面に倒れそうになったところを、琳太郎ががっちり支えた。
「続きはまた後で」
琳太郎はふらふらしている雛形の肩を抱き抱えると、ベンチの上に座らせた。
「ねえ、先生」
雛形は息を切らして、目の前に立っている琳太郎を見上げた。
「何?」
琳太郎も息を切らしつつ、穏やかな声で聞いた。
「今日、すごく楽しい」雛形が微笑んだ。「先生のその目が、好き」
雛形の瞳に夜景が映り込んでいた。琳太郎は前屈みになり、優しくキスした。
「今日は帰らなくてもいいんだろ」
琳太郎が額をくっつけて聞くと、雛形は頷いた。
「夜はまだまだ、これから」
琳太郎が幸せそうに微笑むと、雛形の手を引いて立たせ、二人は公園を後にした。
つづく




