第九七五話 不屈の聖女
ブラックトレモの頭上に表示されたのは、残り時間三分を示す数字。
されどクリスティアに臆する様子はなく。ここまで散々逃げ隠れを繰り返し、すっかりボロボロになってしまった彼女は、しかし。
この残り三分という時間を、如何にして消化してみせるか。その方針をしかと定めたかのように、真正面からブラックトレモへと対峙する。
やけに色の濃い、真っ赤な闘気を纏ったメイスを右手一本で構える。
左腕は肩を砕かれ、動かそうとするだけで激痛の走る有様。足も痛めており、身体中至る所に打撲もある。
頭もくらくらするし、頭痛だってしていた。悲惨な状態だ。
だが、それでも。クリスティアに弱気の虫は寄り付かず。瞳は力を帯び、闘気は強く存在を主張した。
幸いなことに、闘気の発動に伴うペナルティが発生した様子はなく。それはここまでの道中も同じこと。どうやら禁止されてはいないようだ。
裏を返すのなら、そうであるからこそクリスティアはここまで生き延びてこれたとも言えるのだけれど。
であればこそ、これより成さんとしていることは、新たな試み。彼女らしからぬ選択だった。
逃げるのでも、隠れるのでもなく。かと言って攻撃に転じるわけでもなく。
ブラックトレモの繰り出す全ての攻め手を、尽く受けきってやろうというのだ。
もとより、その他に取れる選択肢など無い、というのはその通りなのだけれど。
しかしクリスティアが“受け切る”という選択をしたのは、ポジティブな理由から来るもので。
自らの目指す、望む在り方を『杖』としたことが、彼女を強烈に駆り立てた。
他者を、ましてミコトを支えようという者が、この期に及んで逃げ隠れしてどうするのかと。
それよりも、この機会に『折れず屈せず』を体現し示すことが、自らに課せられた真の試練なのだと。
覚悟と認識を改め、目の前の脅威を睨みつけるクリスティア。
対するブラックトレモは、残り時間が三分を切ったことで行動の苛烈さに拍車がかかる。
一見すると追い詰められた現状はしかし、クリスティアにとって寧ろ都合が良かったのかも知れない。
タイムリミットが迫るに連れて、動きに粗さの目立ち始めるブラックトレモ。
それは真正面から対峙した場合、捌きやすい動作として捉えることが出来るのだから。
そう考えるのならば、図らずもクリスティアは最適解を引いたことになるだろうか。反面、一手一手が重たいものになりはするのだけれど。
ハイリスク・ハイリターンを狙い、ブラックトレモが動いた。クリスティアと同等の身体能力に加え、ステータスの恩恵を上乗せした一撃。
されど、繰り出されるメイスの軌道上に、防御を差し込む程度のことが出来ない彼女ではなく。
頭上から力任せに振り下ろされたそれを、右手一本にて握ったメイスを用い、受け止めんとした。
本来であれば、力負けの避けられない場面。ブラックトレモ側からしたなら、寧ろそれを狙い、何なら次の動作すら加味した上での行動。
けれど、結果は意外なものであり。意外が故に、そこに生じたのは驚きだった。
さながら、どっしりと大地に根を張った大樹でも殴りつけたかの如く。ブラックトレモのメイスは軽々と弾かれたのだ。
対するクリスティアには、まるで堪えた様子の一つもなく。先程までとはてんで様子が異なっていた。
逃げ隠れに全力を費やし。見つかったなら、その場しのぎに全力を尽くす。そうして命からがら、また物陰に身を潜める。これの繰り返しだったのが、先程までの彼女だ。
ところが今のクリスティアはどうだ。逃げるという選択肢を擲って、堂々たる姿勢で対峙しているじゃないか。
これが普通のモンスターであったならば、彼女の変化に対して幾らか警戒を示しただろう。
けれど、ブラックトレモは一顧だにすることもなく、直ぐさま次なる攻撃を仕掛けたのだ。
ガツン、ガツンと。鈍い激突の音が繰り返される。テンポもリズムもない、気まぐれな調子。
振るわれる鎚矛は尽く阻まれ、ただの一撃とて有効打に化けることはない。
そうこうしている間にいよいよ残り時間が、一分を切ろうとした。その時だった。
散々繰り返された単調な攻撃に紛れ込むように、差し込まれたのはフェイント。
ピタリと的確に、軌道上へ立ちはだかったクリスティアのメイス。しかしブラックトレモは、手首を返すようにして自身のメイスをコントロール。半ば強引に激突を回避し。
空振りからの素早い復帰。意表を突かれて目を見開くクリスティアへ、迫るは鎚矛の脅威。
狙いは彼女の手首だった。散々邪魔立てをしたクリスティアのメイスも、それを握る手を負傷してしまえばどうしようもないだろう。
一際、鈍い音がした。他でもないクリスティア自身が理解する。
右手首の、骨が逝ったと。
メイスを握るだけの力を保持できず、弾かれたように得物がくるくると宙を舞う。
纏った赤も霧散して、虚しく床にぶつかり転がるクリスティアのメイス。
ブラックトレモの行動は速い。この時を待っていたとばかりに、得物を繰り出した。最短距離からの殴打である。
ゴッ、と。
一際鈍い音を立て、彼女の下顎を打った。
更に振り上げ、振り下ろす。何度も、何度も。そのたび痛々しい音がボス部屋に響く。
勝負あった。……そのはずだった。
だというのに、クリスティアは倒れない。ばかりか、血の一滴すら流すこともなく、ブラックトレモをじっと見据えている。
「言ったでしょう」
言葉を吐いたその顎を、鎚矛の先端が強烈に打った。だが、まるで動じず、彼女は続ける。
「折れるものなら、折ってみなさいと」
発せられた、言い知れぬ迫力。堪らずブラックトレモが僅かにたじろぐ。
されどそれも一瞬のこと。直ぐ様気を取り直し、一層苛烈にメイスを振り回した。
残り一分を切り、動きの粗さと引き換えに強烈な打撃を次々と繰り出すようになるブラックトレモ。
それがふと、クリスティアの砕けた左肩に触れた、その時だ。僅かに顔をしかめた彼女。
ブラックトレモは目ざとくも、そこに目をつけたのである。
執拗に、クリスティアの左肩と、右手首めがけて得物を振るい続けた。
あからさまに彼女の表情が険しくなる。けれど、反比例するように彼女から発せられる迫力は膨れ上がり、眼光は鋭さを増した。
赤。
クリスティアを得物で叩く度、衝突箇所には火でも点いたように濃密な赤が灯る。
殊更それは、負傷した箇所を狙った時ほど顕著で。
時間に追われ、判断力の低下したブラックトレモには、その赤こそが彼女の盾であると。そう解釈する事こそ出来ても、適切な対処というのには及びもつかなかった。
故に、ただただ力任せに得物を振るうのみ。そんなブラックトレモへ向けて、クリスティアは宣う。
「得物が『杖』なのではありません。私が、この身この心こそが、天使様の杖」
両手で振るった、渾身の横薙ぎ。さながらそれはバットスイングが如く、猛烈な勢いで彼女の体側を打ち据えた。
けれど、彼女はもはや身じろぎすらせず。メイスの激突したクリスティアの右手首は、あたかも真っ赤な花でも帯びたかのように彩られ。
こともなげに、言を継いだのである。
「あなたに折ることは、出来ません」
一歩。静かにブラックトレモへ踏み込み、距離を詰める。振るわれる殴打を無視し、また一歩。もう一歩。
間合いを維持するためか、はたまた気圧されたが故か。ブラックトレモがジリジリと後ずさる。
頭上のカウントは、何時しか残り一〇秒を切り。
ここに来て、ブラックトレモは賭けに出る。飛び退り、踵を返して大きく距離を取ったのだ。
何をするつもりか、なんてことは明白。助走をつけて殴ろうというのだ。身体強化が解禁された今、最後にして最大の一撃を見舞うことが出来る算段である。
今のクリスティアならば、それを真っ向から受けるだろうと。そんな何処から湧いたとも知れぬ根拠を鵜呑みにし、ブラックトレモは距離を離した。
そして、いざ最後の一撃に取り組まんと、助走に入るべく振り返った、その時だ。
視界の中に、彼女の姿が無いことに気づいたのである。
ブラックトレモらしからぬ狼狽ぶりを見せ、慌てたように光球を放つ。透過効果を有する光球。彼女の有する特殊なスキルだ。
手当たり次第にばら撒いてみたなら、屈み物陰に身を隠していた彼女と視線がぶつかった。
ニコリと笑顔を見せる彼女に、ブラックトレモは半ば狂乱して一直線に突っ込んだ。
だが、クリスティアは“物陰”に身を隠していたのだ。当然双方の間には障害物があり。
いよいよ残り時間が底をつきかけたブラックトレモは、そんなことすら忘れてしまったかのように、イノシシが如く真っ直ぐに彼女へ向けて駆けたのだ。
必然、障害物に突っかかり、派手な転倒を見せるブラックトレモ。
藻掻くように、足掻くように、手足を懸命にばたつかせ姿勢を立て直すと、やっとこさメイスを振り下ろす。
それを、ガツンと首筋で受け止め。最後に大きく詰め寄ったクリスティアは、しかと宣言したのである。
「私の、勝ちです」
頭上の数字はゼロを示し。
呆然としたかのように、ピタリと動きを止めたブラックトレモはそのまま、サラサラと黒の粒子へ還っていくのだった。
その様を間近で認め、見送り。
そうして他に脅威が無いことを慎重に確認したクリスティアは、ボス部屋の奥に見知らぬ扉が出現しているのを見つけ、やっとこさ大きなため息をつくのだった。




