第一章 18. 金色の昼下がりを祝うノネット
らくがきロザリオ陛下(with剣) → http://8388.mitemin.net/i71929/
らくがき帽子屋(とバランスが逝ったアリス) → http://8388.mitemin.net/i71935/
浮ついた華やかさとともに、春はどことなく大きな不安をも運んでくる。 ―――恩田陸「球形の季節」
「――――――遅いな」
呟かれた言葉に、周囲の使用人が身を固くする。
なんの感慨もない、他愛の無い呟き。しかし、手中で弄ばれる物品を見る限り、それは迫る危険が相当に大きいことを示していた。
短剣。鞘を握り込む優美な五指の隙間からみえる装飾は薄く色が剥げ落ち、古美術のような風情を漂わせていた。錆びた色合いの柄を右手で軽く握り、離し、巧みに玩具扱いする一挙一動に、彼女の後方に並ぶ数人の使用人の視線が吸い寄せられる。左利きであったはずの自身らの主が、利き腕ではない方の手で行う遊びはなかなかに魅せるものだったが、それを鑑賞する余裕はない。
城外の一角、高く細く伸びる塔の下で、そそがれるプラチナ色の陽光に、濃い紅の瞳をほそめ、”ハートの女王”であるロザリオは、羽織ったケープを面倒くさそうに払った。控えめな裾の羽毛がかろやかに空を舞い、また背を覆うように垂れる。古びた天鵞絨のように、なめした艶やかさを帯びたそれを一瞥し、ナイフで切ったようにすっと秀麗な目元を一度瞬かせた。
「―――――暑い」
あまりに唐突に落とされた言葉に、一瞬硬直した使用人の一人、上等な布地の女中服の女に、ばさりと大きな鳥が飛び去ったような音を立ててケープが投げつけられる。うろたえながらも伸ばした両腕でなんとかそれを地に落とさずに保つと、「仕舞っておけ」と短く告げられ、慌て一礼する。「承知いたしました、」と性急に言葉を返すと、発条仕掛けの人形のように跳ねながら石造りのアーチをくぐり城内へ駆け戻っていく。その様子を横目で見つめながら、ロザリオは残った四人の者に目を向けた。「お前達」
貴様、ではなく、お前、と呼んでもらえたことに些かの安堵を覚えながら、定規を入れたように背筋を伸ばす四人。「はい、陛下」
揃えた声音も意に介さず、彼女は中庭の方へ貌を向けた。「あのイカれた懐中時計の持ち主を呼んで来い。来なければ俺が直々に首を落として遣ろうぞと伝えろ」
二人の年若い青年、女が、揃って踵を返す。急きたてられたように、古い扉から暗い城内へ戻っていった。残った二人に、ロザリオは鋭い美貌をみせ、向き直った。
「お前達は?」
「私共は、陛下の付き添いでございます」
比較的歳を経た艶のある容貌の女が、丁寧に頭を下げる。”先代”から仕えていた数少ない者だった。記憶の引き出しからその情報を摘み上げると、ロザリオは腕を組んで、そのまとめて結われた頭部を睥睨する。「そうか。では問おう。”女王”の仕事は一体何だ?」
わずかに持ち上がった口角も見ることなく、女は頭部を下げたまま、言う。「”招待客”の出迎えと、”アリス”様のご紹介。この二つが最優先の業務でございます」
「よくできた女中だ」
にやり、とロザリオの口角が明確に上がる。「光栄です」と、そつなく女は答えた。
中世から連綿と絡み続ける蔦の這った壁に背を預ける。そこから見える景色は、長身の彼女がどれほど視線を上げても、春の空には、視界の下半分をさえぎる古びた建築の向こうに細く屹立する時計塔が見えるだけだった。文献を遡及すればそれは以前、毎刻に時を告げていたという緑青をふいた鐘が小さく確認できる。
「――――もう鐘がなるぞ」
そう囁いたと同時に、その声の余韻をかき消すかのごとく、大音声の割れた鐘の音が響いた。午前十時の鐘だ。ロザリオは目を細める。三時課の鐘(午前九時頃)とは叩き方が違う。舌打ちをしたロザリオは、踵を返し、既に茶会の準備は整えられ、招待客も入れ始めた中庭の方へ足を向けた。”女王”である手前、客の出迎えをしなくてはならない。
「―――…あの遅刻魔め。まさか奴のせいでアリスも遅れてるのか?」
「―――――――――まさかも何も、それ以外の選択肢があり得る?」
ロザリオの足が止まった。素早く周囲を見回す。「――――――誰だ?」
注意深く視線の向きは選んだつもりだったが、彼女が見た方向とは真逆の方向から、「声でわかんない?」と、続けて小馬鹿にしたような忍び笑いが聞こえてきた。ぐっとロザリオは歯を食い縛る。挑発に乗るな。挑発はチェシャ猫の専売特許だ。
「つまり、女王陛下は、ピアノも、ヴァイオリンも御得意ではいらっしゃらない御様子で? ―――ま、それも当然か」
耐えろ。相手にしてはだめだ。
謳うような甘い声は虚空から降り落ちてくる、それが更にロザリオの眉間の皺を深めさせる。
「アリスはうさぎを追ってくるんだ、うさぎが遅れりゃアリスも遅れる。自明の理だろ? 女王サマ」
ロザリオは行動を起こした。腰を落とし、素早く腕を振る。
彼女の袖口からすべりでたのは古風な鞘のナイフ。細緻な模様が彫りこまれた見るからに高級そうな代物で、油を染みこませたハンカチでよく磨きこまれているらしい鞘は美術品と呼んでもいい程の色艶をおびていた。手首を軽く撓らせ、ナイフを一閃。空を切るナイフを五指に握りこむと同時に流れるような動作で鞘を抜き放ち、鋭利な刃をさらす。
手首が撓って返ってくるまでの一動作で鞘から抜刀したロザリオは、抜き身のナイフを虚空に向かい一閃、長い腕を振り抜いた形のまま止め、「姿を現せ、リュンヌ=ノワール・ド・ロゼ」と硬質な声音で問うた。
「――――これはこれは、申し訳ありません、ハートの女王陛下」
芝居がかったテノールに、わざとらしいほど優雅に一礼してみせる男。耳触りな音を立て、場に相応しくないパンキッシュな衣装のアクセサリが鳴る。ロザリオがナイフを向けた方向の、広葉樹。青みがかったスプリンググリーンの枝枝の隙に身をひそめていたのか、銀の指輪をはめた長い指に、一枚若々しい葉をはさみ、眼を細めて笑んだ。
「陛下じきじきの御招待。本来ならば陛下御自身に、わたくしが御挨拶に伺うべきなのでしょうが――――」
ひらり、と、ロザリオの所業を真似たように手首を返す。なめらかな動作でもう一度立てられた二本の指に、今度は若葉ではなく、端のわずかによれた、白い封筒がはさまれていた。開封された痕ののある蠟の印に、ロザリオは憎々しげに眉間に皺を寄せた。”チェシャ猫”得意の手品。隠しもしない嫌悪の翳りに、リュンヌは肩を竦めた。そのまま招待状を横に引いた唇に当て、細い三日月めく笑みをわずかに開き、囁く。
「生憎わたくしの興味は、麗しきアリス=リデル嬢にしかあらせられませんので」
御挨拶はまたの機会に、とウィンクして見せる。
言外に、あるいは明白に、関心が無いと言い捨てられたも同然のロザリオの表情がさっと険しくなる。
「―――――獣が」
吐き捨てた言葉に合わせるように、手のナイフをリュンヌに向かって投擲する。胴を狙った。首は急所だが、外れるリスクが高い。
しかし弾かれたように飛びのいたリュンヌは、一瞬のその間に、地に着いた足を蹴り空を舞う。驚くほど高く跳び上がった彼はすぐに身を捻り、軽やかに離れた地面へ着地する。流れるその動作はまるで俊敏な猫そのもののようで、ロザリオは嫌悪感を露わにした表情で吐き捨てる。
「薄汚いチェシャー・キャットめ。この俺を愚弄する気か?」
「嫌だなー陛下、ナイフは俺の専売特許なんですけど? 俺の十八番奪わないでよー」
明らかに弄するのが目的のような言葉に、ロザリオの目元が朱に染まる。しつこい挑発に、投擲してしまったナイフは少なくとも十フィート先だ。一蹴りで届く距離にあるものの、注意を逸らせば、このいけ好かない紫の猫は、すぐにどこかへ消えてしまう。聞えよがしに舌打ちし、ロザリオはリュンヌに背を向けた。
「あっれー、陛下。俺いま超無防備なんですけど? 攻撃していいよ? ほらほら」
今ならあなたのそのナイフ程度だって当たるでしょ――――とホールド・アップした手を振ってみせたのを知ってか知らずか、ロザリオはそれ以上挑発には乗らなかった。リュンヌは手を下ろし。息をつく。
「……ま、あの人が本気になったら、俺の命の保証は無いんだけどね」
幼なじみの役得ー、と言いながら、彼もまた去っていくロザリオに背を向けた。
ふと、芝生に落ちたままの、抜き身のナイフが目に留まる。
―――後で拾いにくるつもりかな。
金の瞳を細め、ちらちらと光を反射して銀にきらめく刃を見る。そこに浅く彫られた名を認め、リュンヌは思わず顔をしかめた。
「うわぁ……」
なんなら拾って、「ほらほらロザリオちゃん、ほしければ素直に”返してください”って頭下げたら返してあげるよー? あれ、物の頼み方くらい教えられてこなかったのかなー?」などとロザリオで遊ぼうなどと考えていた邪な心持が、急速に萎んでいく。
「ロザリオぉ……」
天を仰ぎ、切り取られた箱庭の空を見上げ、リュンヌはつぶやく。
過去を引きずる女は、重たいぜ?
テーブルセットは十。椅子はざっと三、四十。とはいえど、遠近感から云って相当に広いこの中庭という場所には、あまりそれに見合うだけの人はいなかった。せいぜい二十。春らしいグリーンのドレスをまとった貴婦人が、娘らしい淡いピンクの衣装の女の子と笑いさざめきながら、ひとつのテーブル上のお菓子のフルコースを検分するように眺めている。楽しそうだ。
衣装を私が着るまでのすったもんだとかてんやわんやだとかにっちさっちだとかは総て省略させていただこう。これに紙幅を割いていたらきっと上下二巻の文芸大作が出版できるに違いない。
何にせよ、私は今、服のあちこちに細心の注意を払いながら、人目に付かないように中庭をうろちょろしている。
小さな器に飾られたかわいらしいお菓子。見たこともないほど繊細なものが、おもちゃの街のようにカラフルに並べられている。
琥珀糖入りヌガー。ラズベリー、ストロベリー、クランベリー、チェリー、甘酸っぱくて紅くて小さい果実を砂糖でくるんで固まらせたローズドロップ。とかしてゆくと、きっと甘いイチゴのジャムがあらわれる。同じ様に、粒々をのこした採れたていちごのジャムと特製クリームチーズをさっくりまぜて焼きあげたストロベリー&クリームチーズ・マフィン。銀砂糖をふりかけてある桜色の生地をていねいに焼きあげた小さなミルフィーユ。メロンかキウイのような彩りの、フレッシュで甘酸っぱい味わいのゼリー寄せ。水色の小さなバラを淡緑のリボンレースでアレンジしたコサージュのようだ。淡緑の色あいが、いかにも砂糖菓子。氷のなかにうずもれている早春の緑、といった透明感のある色合いがいかにも目新しくて、思わず隠れていたバルコニーの影からこっそり近寄ってしまった。きれいなリーフグリーンに、見とれた。そのお皿の隣にはココアパウダーをたっぷりまぶしたチョコレート。アーモンド粉がはいっていて、さくさくしていそう……
「………アリス嬢、なんでそんなとこ隠れてんの?」
シナモンパウダーで化粧した蜜苹果。を、頬張りながら、呆気にとられたような表情で立っているやけにショッキングな色彩の男。
「賊かぁぁぁあぁぁあああッ!」「待ってアリス嬢ちょっと待って俺招待状もってるから! ていうかツッコミどころそこじゃないねうん!」
羞恥と驚きと綯い交ぜになり思わず絶叫してしまったが、目前の青年の表情が思いの外必死になったので口を閉じる。口に押し込んでいた苹果を慌てて噛み砕きながら、彼は銀の指輪をはめた左手の人差し指を薄い唇にあてた。沈黙を示すゼスチャに、つられて指先で口元を覆う。少し困ったように眉根は寄せたまま、口唇が綺麗な弧を描く。愛嬌のある笑み。緊張を解く力を持っている。しかし、私はあれを根に持っている。
「ありがと、アリス嬢」
やわらかく微笑む。妙に笑顔のバリエーションが豊富な奴だ、だが私は騙されんぞ。貴様にはファースト・キ…キ…むにゃむにゃ(頬)を奪われた過去がある!
などと臨戦状態に突入していた私に、彼は「ん」と何かを差し出してきた。反射的に受け取ると、それは、彼が齧っていたのと同じ蜜苹果だった。自分では飲んだこともないシナモンティーに似た香りがする。元の世界で、屋敷に来た客人が、シナモンスティックで紅茶をかき回していたのを思い出した。
「アリス嬢、痩せすぎっしょ? もっと食べなきゃダメだよー」
少しはにかんだように、白い歯を見せて笑った奴の顔は、癪だが確かに美形だった。少し斜に構えた服や目元も、こうして爽やかに笑ってみせると、逆にギャップとなり好感度を上げる。おのれ汚い奴め。しかしせっかくもらったものを無碍に投げ捨てるのも憚られたので、仕方なく、前歯で少しだけ表皮を齧る。
「! ……甘い」
思わずつぶやいた言葉を聞き取ったらしいチェシャ猫は(さすが猫だ)、「でしょ?」とにやりと笑った。「俺、甘党なの」と、若干、嬉しそうににやにやしている。……しかし本当によく笑うな、こいつ。
私はもうひとくち、それに歯を立てようとした。
その刹那、
風切り音、そして、
「そんな蛆のたかったゴミなど食すな、アリス!」「え、ちょ、俺ウジ虫扱い?」
またたく間に私の掌から消え去ったりんご(が元あった空間)を、私が茫然と見つめていると、ロザリオ女王陛下が、その長いおみ足でもって、たった五歩で私とウジ虫のいるところまでやってきた。
ものすごい圧迫感を発する陛下は、何かを投げたような手の形をしていた。
……どうも、何か投擲なさって、私の手からブツを弾き飛ばしたらしい。素晴らしいコントロールだ。
「陛下、どうも」
言いながら頭を下げた私に、チェシャ猫がわざとらしく驚いて嘆く。
「えーっ、アリス嬢、そんな魔界の王みたいなのがいいの?」「殺すぞ」
簡潔に言い放った陛下の方へ駆けて行く。「あー」と後方から残念そうなチェシャ猫の声が聴こえてきたが、聞かない。
尊大に腕を組み、威圧感を放つ表情で、彼女は長い足を一歩踏み出した。磨かれた革靴が芝生を踏みしだく。相対した状況に持ち込み、陛下は憎々しげな表情をつくった。薄い唇が歪み、眉間の皺が深くなる。それに、あくまで普段の三日月のような笑いで返すチェシャ猫、リュンヌ。ちょっと信じ難いことに、この二人は目線の高さがそう違わない。私は思わず陛下の足元に視線を落としたが、ごく普通の黒の革靴を履いているようにしか見えない。
「まったくもって不愉快なツラだな、チェシャー・キャット。大体なんだそのツリ目。女王たるこの俺と被っているじゃないか、下賤な獣の分際で高貴な俺と同じ印象を読者に与えていいと思ってるのか阿呆め、よって俺はお前に顔面設定を即刻改変することを強く要求する、つーかもう上瞼の骨格そのものが抉れろ、ついでにその毒物みてーな青紫の髪も根こそぎ抜けむしろ禿げ散らかせ、貴様の墓の飾りに使ってやる、女王より目立つな地面にめり込め、これは不変の真理だ、俺の中で」
「その真理ってけっこうツッコミどころ満載っていうかむしろツッコミどころしかないよね、上瞼抉れろってどんだけピンポイントで指示してくんの童顔になっちゃうじゃん、それと俺禿げたくない、ちなみに墓は樹木葬が希望なんで。あと俺ホームレスじゃないです陛下」
「黙れミジンコ」
長い台詞を名調子で言い上げた陛下に、同じく長文で返したチェシャ猫は、簡潔なる陛下の罵倒に苦笑し、意外にも素直にくるりと踵を返した。
「んじゃあね、アリス嬢。魔王さまにとって喰われないよーに」
その姿が一瞬で消えたように思い、私は瞬きした。人々の中に、もうあの目立つパンクファッションは見当たらない。どこへ行ったのだろう、と思案していると、
「誰が魔王だ」
憤懣やるかたないといった様子で、陛下は足を一度踏み鳴らした。私は苦笑し、「服が黒尽くめだからでは?」と言う。上から下まで、タキシードの袖口と襟もとからから覗く白いシャツ、それと胸元の深紅のリボンタイ以外は、それこそ黒一色の女王陛下は「礼服は黒が基本だろう」と苛立たしげに呟く。
「陛下は紅がよくお似合いです。女性ですし、もう少し飾りをつけても綺麗だと思います」
そこまで言ってから、しまった、口を出し過ぎたか、と思ったが、陛下は別に気に障った風もなく「飾りか」と、尖った顎に白い手袋をはめた指を当て、何か考え込み始めた。彼女もまだ十代の女性なのだから、きっとかわいらしいものにだって興味があるだろう(見かけは下手すりゃ一番の男前だが)。と、彼女は顎から指を離し、
「よし、ラビを呼べ。今度あの忌々しいチェシャー・キャットの髪と歯でブローチを作らせy」「陛下後生ですから思いとどまってくださいおねがいします!」
突然呼びとめられた使用人の方も真っ青な顔で首を振っている。「ローゼ・フォン・ルビーン様は、そのう、お客様の御対応中で、」と、明らかにしどろもどろな雰囲気で答える。まだ若い女性だ。真新しいメイド服に、幼い顔立ちが畏怖に揺れる。
「―――お前、新入りか?」
陛下の低い問いかけに、彼女はかわいそうなほど身をちぢこめ、消え入りそうな声で肯定した。陛下の眉が寄る。あ、これはまずいな、と思った矢先、がんっと布越しに硬いものが殴打される音が響いた。
「――――――そうか。新入りならば、覚えておけ。女王陛下が嫌いなものは、不味い紅茶と、無意味な書類と、受け答えが愚図な輩だ」
強く拳で殴られたテーブルが揺れて白磁のティーカップが倒れ、白いテーブルクロスに濃い色の染みが広がっていく。ロールシャッハテストのようだ。談笑の気配に包まれていた中庭は静まり返り、今や、御茶会に招かれた人々のほとんどが、気難しい主人と、その恨みを買った哀れな娘の演目を、遠巻きに注視している。まるで対岸の火事でも見ているようだ。誰も彼女を助けようとはしない。白いエプロンの裾を握りしめ、必死に唇を噛んで恐怖からの嗚咽を堪える少女に、女王はさらに畳みかけた。
「どうしてそこで黙る? なんとか言ったらどうだ。それが愚図だって言って……」
「陛下」
割って入った声があまりにも大きく響き、思わず足が止まりかけたが、私はそのまま彼女の前へ立ちはだかるように立ち位置を変えた。突然割り込まれ、狼狽したように言葉を途切れさせた陛下は、目元を険しくし「アリス、」と、動揺しながらも尖った声で私に呼びかけた。
「陛下。申し訳ありません。彼女を咎めないでください」
下げた頭の上から、今度こそ狼狽した声が振ってくる。「アリス、止めろ。何をしてるんだ、頭を上げてくれ」
私は動揺し、思わず彼女の表情を窺うように目線を上げてしまった。困惑の表情に、息を呑む。陛下を戸惑わせてしまった。私は頭を上げ、もう一度言った。「申し訳ありません」
眼を閉じ、歯を食い縛る。差しでがましい真似だと罵られて当然の行為だ。けれど、私は、年若いメイドの彼女が罰せられるようなところは見たくない。なら、普段から殴られ慣れている私の方が適任だ。心配ない、力の受け流し方は心得ている。さあ来い、と覚悟を固めたところだったが、
「――――――アリス、」
覚悟した衝撃は訪れない。不思議に思って眼を開ければ、陛下は表情を歪ませ、苦しそうに「アリス、」と名前を呼んだ。
「――――――お前は、いつもそうしてきたのか?」
理解、できなかった。
こうするのはおかしいことなのだろうか。だが、同じ物事を担当するのに、それに不慣れな人間と経験豊富な人間がいれば、どちらがそれを受け持った方がいいかは目に見えている。私は至極合理的な判断をしたつもりだった。
だが、陛下の反応は、信じがたいものを見る目と、声音だった。
周囲の人々も、遠巻きに私の方を見て何か言っている。
失敗、か。
私は内心秘かに嘆息する。差し出がましい真似ばかりか、私の行動は空回りだったようだ。あきらめて、罰を貰う心を決める。
まあしょうがない。私が悪いのだから、
「―――――…お前は悪くない」
思わず下げた頭をあげてしまった。
陛下の表情は、何かに苦悩するように歪んでいた。歪んでいてもなお、美しいという感想を抱かせるのだから、生半可じゃない。
陛下は大きく踵を返すと、乱暴にテーブルに手をついた。そのまま、何を言おうか思案している様子で、しばらく瞑目していた。やがて、
「…………お前は下がれ、新入り。厨房の手伝いをしていろ」
低く絞り出された声に、半泣きのメイドさんは飛び上がって、「は、はいっ」と一目散に屋内へ走っていった。
しかし、去り際、彼女は涙声で、私に「私なんかのために、本当に、本当に申し訳ありませんっ、」と、謝っていた。
待ってくれ、どうしてあなたが謝らなければならないんだ。
私はその場に残され、途方に暮れる。
「……アリス。俺はお前を罰しようなんて思ってない。おかしいだろう?」
私は何もおかしくはないと思うのだが、陛下は苦しそうに「悪い、ちょっと席を外す」と言い、中庭の入り口の方へ歩いていった。取り残された私は、さらに途方に暮れる。
私の行動は間違っていたのだろうか?
私は以前、元の世界で、屋敷内ではこう振舞ってきた。どうせその場で私が何か言わなくとも、義母は何かと理由をつけ、私を痛めつけたがった。だから、他人のものを最初から肩代わりした方が、面倒くさくなくて済んだのだ。
だが、こちらではこの習慣は通じないらしい。
未だに続く噂話に居心地悪くなり、私は近くのテーブルに寄って、そこの給仕係をすることにした。いくつか並んだ、オールド・ノリタケに似たティーポットのひとつを手に取り、客を待つ。
………しかし、客が来ない。
気まずい。
心なしか、周囲の視線が私に向けられている気がする。よほど奇異な人間だと思われたのだろうか。だとしたらなかなかショックだ。
ふと、隣のテーブル付近でかわされている会話が耳に入った。
「――――――さすが”黒の女王”の生まれ変わり、」
「あのような言葉遣い、」「はしたないこと」「仕方がない」「先祖返りでは、」
さざめきは耳を澄まさないと聞こえない。美しいはずの梢を風が渡る音も、豪奢な衣擦れの音も、今は邪魔で仕方がない。それでも聞き取れた会話の断片は、陛下に関する話題。わざわざ声を潜めた様子、言葉の端々に滲む感情、そして――――義母とそっくりの歪んだ態度。
お前らの方がはしたない、と内心毒づきながら、私はその場を離れた。まだ私の方をちらちらと窺っているような視線を感じるが、すぐに剥がれるだろう。ふと、視界の端に、女王陛下の御姿が映った。やはり群を抜いてスタイルが良い。というか、集団の中で抜きんでて背がでかい。………女性、だよな?
私はそれを見て思案する。
陛下は、あの言葉遣い、物腰が似合っている。それに、王族である以上、丁寧、優雅、お淑やかな動作ができないわけではない。敢えてしていないだけだろう。彼女の動きの一つ一つを見ていれば、乱暴に見えて、それらすべてが無駄がない、優美な動作であることがわかるはずだ。自分に似合う態度、スタイルを通し続けるには、身分が上であればある程、並大抵のことではない。それを、あの集団は、いとも容易く穢すのだ。
本当に、嫌だ。
ふと、人々が軽くざわめいた。さざ波のように立つ人の声の中心に目を向けると、招待客のひとりであろう、紺色の燕尾服の青年が見えた。よく見れば、見覚えのある人物であることがわかる。確か、私がこの世界に落ちてきた際、白兎とチェシャ猫の次に会った人だ。帽子屋と名乗った人だった。名前は確か――――――クロシェ。
彼はとても洗練された動きで陛下に向かって一礼すると、何事か囁きかけた。
「………今回は、……変わった……………の…うだな、」
「……正直、……て…………いい……わからねえ。……だ、あ…は」
「さあな。…僕ご…きが…………てい…問題…はない……う」
会話が遠く、よく聞こえない。何か問題がどうとかわからないとか言っているが、パズルかクイズでもやってるんだろうか。
近づいてもいいものかと逡巡したが、私の周囲の会話が一瞬途切れ、鮮明に二人の会話が聞き取れた。
「テメェんとこの三月兎なら、厨房でちょこまか菓子を作ってるぜ。うちの料理人顔負けの出来だ」
「奴は菓子作りが生き甲斐だからな。菓子を作るために生きていると言っても過言ではないだろう」
「いや、それは過言だろ。………あいつはどうした? ほら、あの、ネズミの」
「折角の御招待だが、あいにく彼は”眠りねずみ”だ。来ないとぬかして屋敷で寝ている」
「だろうな。………挨拶わざわざ御苦労さん、あとは好きにしろ」
チェロケースを抱えた帽子屋はゆっくりと一礼する。黒いシルクハットの簾のような銀飾りが澄んだ音を立てた。
踵を返して、芝生を優美に横切る彼に、招待客がわずかに身を引き、道をつくる。モーセというほど大げさではないが、すべての人が、確かに敬意を払っている。
いや、敬意というほど、遠ざけてもいない。どこか親しみのこもった感情であるようで、少し不思議だ。敬意と親愛が両立するものだろうか。少し考え込んで、はたと、―――――
――――誰か、私のちかくに、すぐちかくに、そんな感情を向けられている人がいた、ような、
「アリス」
耳に心地よい低音。透明感のある呼び声に、はっと顔を上げる。「紅茶、くれないか」
「あ、はい」
手に持ちっ放しだったティーポットを近くのカップに傾けようとする、と、「こっちに」と、チェロケースの細くなだらかな曲線が長く伸びた部分にかけられた、ベルベットの濃い藍色の巾着袋(とはいっても、相当につくりは上等だ。貴族の持ち物なのだろう)から、わずかに東洋の色を感じさせる薄翠のティーカップとソーサーを出してきた。丁寧にソーサーに載せたカップを私の方へ捧げ持つように差し出してくれる。しかし、
「いやマイカップて」
「正確には僕のものではなく屋敷にあったものだ。断じて僕が紅茶狂だとか疑わないでくれ。変な行為だということは自覚しているんだ」
自覚済みかそうか。深くはつっこまずに流し、テーブルの上に並んだティーポットに目を向ける。
「……アールグレイと、オレンジペコと、ダージリンと、―――あとは――……」
銘柄が分からず口ごもった私に、「アールグレイを」と親切に言ってくれる帽子屋。名前はクロシェさんと言ったろうか。濃いオレンジ色の紅茶を丁寧にそそぐ。ベルガモットの香りがふわりと湯気に混じり立ち上った。
優美に湾曲した柄を摘み、軽く縁を傾げて紅茶を口に含む。
「紅茶の趣味だけはいいんだがな、昔から……」
呟く。誰のことだろうか。
と、そこで。
「帽子屋! 何故”アリス”に給仕などさせているのですか! そんなものそこいらのメイドに任せておけばいいでしょう、アニー? どこへ行ったんですか、アニー?」
うるさい。
アニーさんというのは先程のメイドさんだろうか、そのアニーさんがいないのは貴様が陛下のお傍にいなかったからだろうがハゲ、と脳内で突っ込みながら、男声にしては高めの騒音の方向に体を向ける。
はたして予想通りの人物がいたので、彼こと白兎のラビ青年に向かって釈明を始める。
「これは私の趣味だから、別によくて」「どこですかあのアマは! 紅茶を淹れるのが特技だとぬかしていた癖に」「聞け」「ハイ」「これは、私の、趣味だから、別に、いいんです」「ダメです」「いいんです」「ダメです」「強情張るとあなたのポケットのにんじんが紫と桃色のしましまになるらしいですよ白兎さん」「何ソレ怖いです」
何故か繊細なレースじみたにんじんの葉を腰ポケットから覗かせている白兎に脅しをかける。
すると彼は、手触りがいいであろうその葉の部分を、残念ながら手袋越しにつかんでポケットから引きずり出し、細長く甘そうに色づいたキャロットオレンジの根菜部分を確認して安堵の表情をうかべて元へ戻す、いや、戻すのかよ。というよりも何で入れてるんだよ。気になるよ。
「今日のお茶菓子用だったんですけど、よかったです、あんな某味オンチ国のお菓子みたいな色になってなくて」
なんで真面目に安心してるんだよ。胸なでおろすなよ。ならねーよにんじんはショッキングパープル&ピンクなんてアヴァンギャルドな色彩には。ていうか紅茶に合うのかそれ。合う紅茶があるのか。
などと状況判断力においては怒濤の瞬発力を誇るマイ脳みそでツッコミ倒していたら、ラビ青年は「とにかく、」と私の手から、それなりに手になじむ重みのあったティーポットを取り上げてしまう。思いのほか大きな身長差に、私は手を宙に泳がせた。錘を失った右手は頼りなく、おろした掌でわけもなくスカートの裾を握った。
何をすればいいのかわからない。そのまま立ち尽くすわけにもいかず、周囲を見渡せば、闖入者を咎めるように、招待客からの視線が突き刺さる。私は思わず足元を見降ろして、ぎゅっと強く裾を握った。
「――――――――――――客は揃ったか?」
教会の鐘の音にも似た、人々の意識を集める凛としたアルトに、顔をあげた。声のした方向には、一階のバルコニーの手すりに無造作に体をもたれた、女王陛下の姿があった。
整ったスタイル。クロシェはロザリオを見る度にそう思う。小さな頭に長い手足。しなやかな肢体は背が高く、多くの者が見る目に羨望が混じる。クロシェ自身、彼女よりも身長の低い男のひとりだ。ただし、わずかに、である。けして相当な差があるわけでない。そこだけは主張したいと思っている。
ロザリオは、無造作に髪を掻き上げた。男物である簡素な礼服に、その動作が非常に絵になる。これでY染色体すらあれば、と時折、男である己ですら惜しく思うのだから、晴れ舞台でのみ、彼女の姿を仰ぐことができるだけの女性たちにおいては何をいわんや。
ランダムに選ばれた住民の女たち。愛らしく着飾った華やかなドレスに身を包んだ貴族の娘や、精一杯の晴れ着を着てきたのであろう平民の娘の目に浮かぶ熱といったら―――それこそ女王が灼けてしまいそうだ。
とろけるような視線をものともせず、壇上で凛と威厳をもって佇む姿――――”Alice”とはまた違った意味で、この国を支える、偉大なる支配者だ。
クロシェは目を伏せ、先ほどのロザリオとの会話を反芻した。
「………今回は、相当変わった”アリス”のようだな、」
「……正直、なんて言ったらいいのかわからねえ。何なんだ、あれは」
「さあな。僕ごときが口を出していい問題ではないだろう」
手慣れた給仕や、躊躇のない自己犠牲。しかも、”助けなければ”という大義名分を元に動いたのでなく、”こちらの方が合理的だから”とばかりに、自ら罰に身を差し出した、十六歳の少女。
―――――――おそらく、日頃から、誰かの失敗を肩代わりして―――あるいは、させられてきた人間特有の感覚。
お前のせいだから。
あなたが悪い子だから。
あんたさえいなかったら。
「虐待、か」
呟いた言葉は誰にも聞かれることはないが、クロシェの心に深く影を落とした。
珍しいタイプの”アリス”だ。珍しい、というより、初めて、と言った方が正しいだろうか。
今までの”アリス”は、文献を見る以上、中流以上の家庭の少女が多い。両親に愛され、何不自由なく育ってきた多少勝気な少女―――多少勝気というところは当てはまるかもしれないが、どことなく、危なっかしい強さだ。
既視感を、覚える。
その姿に、目前の光景が霞むほどの、既視感を。
( しろいばらの喪 )
( そのパヴァーヌは彼女のために、 )
( *****、と笑う彼は白く白くそして限りなく青かった。 )
アリスさんはある意味一番狂ってるある。←
あ、まえがきのロザリオ陛下のらくがきが構えてる剣は作中のナイフとは全然縁もゆかりもありませんので悪しからず。




