第一部『運命の序章』 第五章 王都への道
春の風が、丘陵を吹き抜けていた。
緑に覆われた大地には色とりどりの花が咲き、遠くの畑では農夫たちが忙しそうに働いている。
フランク王国の辺境に位置するマニエール領。
穏やかなこの土地にも、今年また新しい春が訪れていた。
そして、シャルル・マニエールは十五歳になっていた。
五年前、庭で土の剣を作ろうと悪戦苦闘していた少年は、今ではすっかり背が伸び、少年らしい幼さを残しながらも、少しずつ青年の顔つきへと変わり始めていた。
だが、その瞳に宿る好奇心だけは、昔から何一つ変わっていなかった。
「……よし」
屋敷の裏庭。
シャルルは一本の剣を構えていた。
かつては木剣を握っていたその手に、今は刃を落とした訓練用の剣が握られている。
目の前には、父ピピン・マニエール。
かつて剣士として活躍した男は、今もなお衰えを感じさせない鋭い眼差しで息子を見つめていた。
「準備はいいか?」
「はい、父上!」
「今日は少し本気でいくぞ」
「望むところです!」
ピピンは口元に笑みを浮かべた。
「言うようになったな」
次の瞬間。
父の姿が、視界から消えた。
「っ!」
シャルルは反射的に剣を横へ構える。
かんっ!
金属のぶつかる音が響いた。
重い。
受け止めた瞬間、腕に強烈な衝撃が走る。
「どうした! その程度か!」
「まだまだ!」
シャルルは剣を押し返し、一歩後ろへ下がった。
すぐさま右手をかざす。
「――土よ!」
地面が震え、ピピンの足元から小さな岩の柱が突き出した。
しかし、父は軽く跳躍してそれをかわす。
「甘い!」
着地と同時に、鋭い斬撃が放たれる。
シャルルは剣を構えた。
だが、ただ受け止めるだけではない。
刃に魔力を流し込む。
すると、剣の側面を覆うように土が集まり、瞬く間に硬い岩の突起が形成された。
かんっ!
ピピンの剣が、その突起に引っかかる。
「……ほう!」
父の目がわずかに見開かれた。
「今だ!」
シャルルは剣をひねり、相手の武器を外側へ押し流す。
そのまま踏み込み、胴へ向けて剣を振るった。
しかし。
「惜しい!」
ピピンは体をひねり、紙一重でかわした。
次の瞬間、シャルルの足元が払われる。
「うわっ!」
少年の体が宙に浮いた。
どさっ。
背中から地面へ倒れ込む。
「……いてて」
ピピンは剣を下ろした。
「一本だ」
「また負けた……」
シャルルは仰向けになったまま、青空を見上げた。
父には何度も挑んできた。
剣術を学び、魔術を鍛え、さまざまな工夫を重ねてきた。
それでも、まだ勝てない。
「悔しいか?」
ピピンが尋ねた。
「もちろんです!」
「ならば、もっと強くなれ」
父は手を差し出した。
シャルルはその手を握り、立ち上がる。
「だが……」
ピピンは息子の剣に目を向けた。
「今の技は面白かったな」
「本当ですか?」
「ああ。剣に土魔術をまとわせ、相手の武器を絡め取る。昔のお前が考えていた、変形する剣の応用か」
「はい!」
シャルルは嬉しそうに頷いた。
「まだ自由に形を変えられるわけじゃないですけど、少しずつできるようになってきました!」
「そうか」
ピピンは静かに笑った。
「五年前、お前が土の塊を剣にしようとしていたことを思い出すな」
「あはは……あの頃は、すぐ崩れてましたからね」
「今では、俺の剣を止めるほどになった」
父は息子の肩に手を置いた。
「強くなったな、シャルル」
その言葉に、少年は少し照れくさそうに笑った。
「……ありがとうございます」
*
その日の昼食。
マニエール家の食卓には、いつもより豪華な料理が並んでいた。
焼きたてのパン。
香草を添えた肉料理。
温かなスープ。
そして、色鮮やかな果物。
「今日は何かのお祝いなの?」
ギゼラが不思議そうに尋ねた。
十二歳になった彼女は、以前よりも背が伸び、顔立ちにも少しずつ大人びた雰囲気が現れ始めていた。
もっとも、活発な性格は相変わらずだった。
「ええ。今日は大切なお話があるの」
母ベルトラダが微笑んだ。
シャルルは首をかしげる。
「大切な話?」
ピピンは静かに頷いた。
「シャルル。お前も十五歳になったな」
「はい」
「そろそろ、これからのことを考える時期だ」
シャルルは父を見つめた。
「これからのこと……」
「ああ」
ピピンは一通の封書を取り出した。
厚手の紙に、王国の紋章が刻まれている。
「これは?」
「王都にある、王国剣術魔術学校からの案内だ」
シャルルの目が大きく見開かれた。
「……王国剣術魔術学校!?」
「そうだ」
フランク王国でも有数の教育機関。
剣術と魔術を学ぶ若者たちが集まり、将来の騎士や魔術師を育成する場所。
シャルルも、その名は何度も耳にしていた。
「そこに……僕が?」
「もちろん、入学には試験がある」
ピピンは続けた。
「だが、今のお前なら十分に挑戦できるだろう」
シャルルは封書を見つめた。
胸が高鳴る。
王都。
これまで書物や地図でしか知らなかった、フランク王国の中心地。
そこには、さまざまな人々が集まり、数多くの知識や技術が存在している。
そして、王国剣術魔術学校。
自分と同じように剣術や魔術を学ぶ者たちが集まる場所。
「……行きたいです!」
シャルルは勢いよく答えた。
「僕、行ってみたい!」
ベルトラダは嬉しそうに微笑んだ。
「そう言うと思っていたわ」
ピピンも頷いた。
「ならば、準備を始めよう」
「はい!」
そのとき。
「ちょっと待って!」
ギゼラが声を上げた。
「お兄様、王都に行っちゃうの!?」
シャルルは妹を見た。
「うん。まだ試験に受かるか分からないけどね」
「じゃあ、しばらく帰ってこないの?」
「……そうなるかな」
ギゼラは口を尖らせた。
「ずるい!」
「えっ?」
「お兄様だけ王都に行くなんて、ずるい!」
シャルルは苦笑した。
「ギゼラも、もう少し大きくなったら行けるよ」
「本当!?」
「うん。頑張ればね」
ギゼラはしばらく考えた。
そして、突然立ち上がった。
「じゃあ、私も絶対に入学する!」
「えっ?」
「お兄様より強くなって、王都に行く!」
シャルルは思わず笑った。
「あはは! それは楽しみだね!」
「笑わないで!」
ギゼラは頬を膨らませた。
食卓に、明るい笑い声が響いた。
*
それから数週間。
シャルルは入学試験に向けて、これまで以上に剣術と魔術の練習に励んだ。
朝は父との剣術稽古。
昼は母から魔術の指導。
そして夜には、書斎で歴史や地理、魔術理論の勉強を続けた。
だが、シャルルにとって、それは決して苦しい時間ではなかった。
むしろ、新しい世界へ踏み出すための準備だと思うと、何もかもが楽しかった。
「シャルル」
ある日の午後。
魔術の練習を終えた少年に、ベルトラダが声をかけた。
「少し、お話ししましょうか」
「はい!」
二人は庭の木陰に置かれた長椅子へ腰を下ろした。
ベルトラダは息子の横顔を見つめる。
「王都へ行くのが楽しみ?」
「もちろんです!」
シャルルは笑った。
「いろんな魔術を学べるし、強い人たちにも会えるし……それに、今まで知らなかったことをたくさん知れると思うんです!」
「そうね」
ベルトラダは微笑んだ。
「でも、王都にはさまざまな人がいるわ」
「はい」
「考え方も、育った環境も、持っている力も違う。きっと、あなたとは意見の合わない人もいるでしょう」
「……そうですね」
「そんなとき、どうする?」
シャルルは少し考えた。
「……まずは、話してみます」
「話す?」
「はい。どうしてそう考えるのか、聞いてみたいです」
ベルトラダは目を細めた。
「それでも、分かり合えなかったら?」
「うーん……」
シャルルは腕を組んだ。
しばらく考えた後、答える。
「そのときは、仕方ないかもしれません。でも……」
「でも?」
「最初から決めつけるのは、嫌です」
ベルトラダは静かに頷いた。
「……そうね」
彼女は息子の頭に優しく手を置いた。
「その気持ちを、忘れないでね」
「はい!」
*
やがて、出発の日が訪れた。
マニエール家の屋敷の前には、王都へ向かう馬車が用意されていた。
荷物はすでに積み込まれ、御者が出発の準備を整えている。
シャルルは旅装に身を包み、屋敷の玄関前に立っていた。
長年暮らした屋敷。
毎日のように剣を振るった庭。
魔術の練習で何度も失敗した裏庭。
そして、家族と過ごした食堂。
そのすべてが、今日は少し違って見えた。
「……なんだか、不思議な気分だな」
シャルルは小さくつぶやいた。
楽しみな気持ちはある。
けれど、少しだけ寂しい。
そんな感情が、胸の中で入り混じっていた。
「シャルル」
父ピピンが声をかけた。
「はい、父上」
「準備はできたか?」
「はい!」
ピピンは頷いた。
「ならば、行ってこい」
シャルルは父を見つめた。
「……はい」
「王都には、お前より強い者も、賢い者も大勢いるだろう」
「そうですね」
「だが、焦る必要はない。お前には、お前の強さがある」
ピピンは静かに笑った。
「自分の道を進め」
シャルルは力強く頷いた。
「ありがとうございます、父上!」
続いて、ベルトラダが近づいてきた。
「シャルル」
「母上」
「無理はしないこと。それから、食事と睡眠はきちんと取ること」
「はい!」
「魔術の練習も、危険なことを勝手に試しては駄目よ」
「……はい」
ベルトラダはくすりと笑った。
「本当に分かっているのかしら?」
「分かってますよ!」
「ふふっ。なら、いいわ」
彼女は息子を優しく抱きしめた。
「……元気でね」
シャルルは少し照れくさそうに笑った。
「はい。母上も、お元気で」
そして。
「お兄様!」
ギゼラが勢いよく駆け寄ってきた。
「ギゼラ!」
少女はシャルルの前に立ち、じっと顔を見上げた。
「……絶対、強くなって帰ってきてね」
シャルルは微笑んだ。
「もちろん!」
「それから……」
ギゼラは少しだけ視線を逸らした。
「……たまには、帰ってきてよ」
シャルルは目を丸くした。
普段は元気いっぱいの妹が、珍しく寂しそうな表情を浮かべている。
「……うん」
シャルルは優しく笑った。
「ちゃんと帰ってくるよ」
「約束?」
「約束!」
ギゼラは小さく頷いた。
そして、突然シャルルに抱きついた。
「……頑張ってね、お兄様」
「ありがとう、ギゼラ」
少年は妹の頭を優しく撫でた。
*
馬車がゆっくりと動き始めた。
シャルルは窓から身を乗り出し、大きく手を振った。
「行ってきます!」
屋敷の前に立つ家族たちが、手を振り返す。
「気をつけてな!」
「元気でね!」
「お兄様ー! 絶対帰ってきてよー!」
その声が、少しずつ遠ざかっていく。
やがて屋敷は小さくなり、木々の向こうへと消えていった。
シャルルは窓から身を引き、座席に腰を下ろした。
「……行っちゃったな」
少しだけ、胸が締めつけられる。
生まれてから十五年間。
ずっと暮らしてきた場所。
当たり前のように過ごしてきた日々。
それらから離れるのは、思っていたよりも寂しいものだった。
だが。
シャルルは窓の外に目を向けた。
広がる草原。
遠くに見える山々。
そして、王都へと続く道。
「……でも、楽しみだ!」
少年は笑った。
これから、どんな人たちと出会うのだろう。
どんな魔術を学べるのだろう。
どんな剣士たちと競い合うことになるのだろう。
想像するだけで、胸が高鳴った。
*
王都への道のりは、決して短いものではなかった。
馬車は幾つもの村を通り抜け、広大な草原や森林を越えて進んでいく。
道中、シャルルは窓の外に広がる景色を眺め続けていた。
初めて見る町。
初めて見る人々。
初めて見る建物。
そのすべてが新鮮だった。
「……すごいなあ」
少年は何度も感嘆の声を漏らした。
ある村では、広場に多くの商人が集まり、さまざまな品物を売っていた。
別の町では、大きな石造りの橋が川に架けられ、荷馬車や旅人たちが行き交っていた。
そして、道中で見かけた旅の魔術師が、小さな風魔術を使って荷物を運んでいる姿には、思わず目を輝かせた。
「……ああいう使い方もあるんだ」
シャルルは手帳を取り出し、新しい発見を書き込んだ。
『風魔術で荷物を運ぶ』
『大きな物を動かすときは、下から持ち上げる』
『複数の方向から風を当てれば、安定するかもしれない』
少年の手帳には、旅の途中でも新しい発想が増えていった。
*
数日後。
馬車は、なだらかな丘を登っていた。
御者が前方を指さす。
「シャルル様。まもなく王都が見えてまいります」
「本当ですか!」
シャルルは勢いよく窓から顔を出した。
そして。
「……!」
息をのんだ。
丘の向こう。
広大な平野の先に、巨大な都市が広がっていた。
高くそびえる城壁。
幾重にも連なる建物。
空へ向かって伸びる塔。
そして、その中心には、堂々たる王城が建っている。
「……すごい」
シャルルは思わずつぶやいた。
これが、王都。
フランク王国の中心地。
これまで書物でしか知らなかった場所が、今、自分の目の前に広がっている。
「……本当に来たんだ」
少年はしばらく、その景色を見つめていた。
やがて、ゆっくりと笑みを浮かべる。
「……よし!」
胸の中に、新しい決意が生まれた。
ここで、もっと強くなる。
もっと多くのことを学ぶ。
そして、いつか。
人界だけでなく、魔界も、天界も、妖精界も。
すべての世界を、自分の目で見てみたい。
シャルルは空を見上げた。
青く澄んだ空が、どこまでも広がっている。
その向こうには、まだ見ぬ世界がある。
そして、いつか再び会いたいと願う少女がいる。
「……ヒルデガルト」
少年は小さく、その名をつぶやいた。
五年前に交わした、小さな約束。
いつかまた会おうと誓った少女。
彼女は今、どこで何をしているのだろう。
「……また会えるといいな」
シャルルは微笑んだ。
そして、前を向いた。
王都への道は、もうすぐ終わる。
だが、少年の新しい物語は、ここから始まるのだ。
馬車はゆっくりと丘を下り、巨大な城門へと向かっていった。
十五歳の春。
シャルル・マニエールは、故郷を離れ、王都へと旅立った。
それは、後に四つの世界の運命を変える少年にとって、最初の大きな一歩だった。




