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第9話 吸血鬼、休日にダンジョンへ行く

 休日の午前十時。


 平日は無数のビジネスマンが行き交う都内のオフィス街も、今日ばかりはどこかのんびりとした空気が流れていた。


 歩道沿いのカフェのテラス席には犬を連れた夫婦が座り、コンビニからはパンとコーヒーを買って出てくる若者の姿が見える。


 そんな穏やかな休日の風景の中、久我陽介は一人、黒のナイロンパーカーに動きやすいチノパン、そして少し色付きの遮光グラスという、どこかスポーティで怪しげな出で立ちでビル風に吹かれていた。


 肩から下げたリュックの中身を、もう一度頭の中で確認する。


 財布、スマートフォン二台、会社用と個人用。協力病院から支給された血液パウチを収めた保冷ケース。そして――八咫烏から支給された軍用ナイフ、強光ライト、通信用イヤホン。


 さらに胸ポケットには、数日前に発行されたばかりの『特殊体質者仮登録証』。


(……どう考えても、休日の散歩に持ち歩くラインナップじゃないな)


 久我が立っているのは、三十階建ての巨大なオフィスビルの前だった。


 ガラス張りのエントランスには警備員が立ち、テナントの案内板にはITコンサルティング、法律事務所、大手会計ファームなどのお堅い名前がずらりと並んでいる。


 しかし、その案内板の十階の部分だけが、まるでバグったように異質な文字を掲げていた。


『十階フロア 特別管理区域』


 久我は案内板を見上げ、大きなため息を吐いた。


「……ダンジョンって言うから、てっきり山奥の洞窟とか、廃工場の地下とかを想像してたんだけど。なんで都内のバリバリのビジネスビルの十階なんだよ」


「お待たせしました、陽介さん!」


 背後から明るい声がして振り返ると、そこには剣持と七瀬澪が立っていた。


 剣持はカーキ色のラフなジャケット姿だが、背中には明らかに長尺の訓練刀が収まったケースを斜め掛けにしている。澪は白のオーバーサイズパーカーに黒のショートパンツという、年相応の可愛らしい私服姿だった。


「おはようございます。……休日の朝っぱらから、ダンジョン前集合なんていうシチュエーションに、三十五歳のおっさんの脳はまだまったく追いついてません」


 久我が正直に白状すると、剣持は苦笑した。


「そのうちすぐ慣れますよ。低層エリアは、近所のコンビニに行くような感覚で来る能力者も結構多いんで」


「頼むから、コンビニ感覚でダンジョンに来ないでほしい」


 澪が両手を軽く握り、えっへんと胸を張った。


「今日は私、吸血鬼の先輩として、陽介さんの案内もサポートも頑張りますから!」


「お前、ダンジョンの中に入るのまだ二回目だろ」


 剣持の容赦ないツッコミに、澪は顔を赤くして反論する。


「い、一回でも来たことがあるなら、それは立派な先輩ですっ!」


「まあ、その理屈で言うなら、俺は完全に後輩ですからね」


「そうです!」


 嬉しそうに頷く澪を見て、久我はこれ以上ツッコむのをやめた。


 三人は自動ドアを抜け、ビルのエントランスホールへと足を踏み入れた。


 大理石の床と、静かなBGM。普通のオフィスビルそのものだ。


 しかし、奥にあるエレベーターホールの手前に、一般客が絶対に立ち入れないよう厳重に区切られたゲートが設置されていた。


 その横に立てられた無機質な看板。


『十階フロア 特別管理区域/異界ダンジョン入口』


『※能力者登録証を持たない者の立ち入りを固く禁ず』


『※未鑑定ドロップ品の外部持ち出し禁止(発見時は資格停止)』


『※区域内での迷惑行為・無許可の対人戦闘禁止』


『※低層区域内における一切の身体・財産的損害は自己責任となります』


 久我は看板の文字を二度見した。


「……掲示板の文言が、あまりにも物騒すぎる」


「これでも低層用だから、かなりマイルドな表現に抑えられてる方ですよ」


「これで緩いんですか」


 ゲートの横には、空港の保安検査場のような受付があり、八咫烏の制服を着た職員が二名座っていた。


 驚いたことに、受付の前にはすでに数組の人間が列を作っていた。


 迷彩柄のカーゴパンツを履いた大学生風のグループ。スポーツウェアで決めた社会人の男女ペア。中には、なぜか高校の制服のまま来ている男子生徒の姿まである。


「……本当に、人がいるんですね」


「休日の午前中ですからね、そこそこ混みます。平日の夕方なんかは、学校終わりの学生能力者で結構賑わってますよ」


「低層は初心者でも安全な訓練場だから、すごく人気なんです!」


 澪の無邪気な言葉に、久我はこめかみを抑えた。


「……『人気スポットのダンジョン』という日本語の違和感が凄まじい」


 自分たちの順番になり、剣持が手元のスマートフォンから八咫烏のライセンス画面を提示した。


 受付の職員がリーダーで読み取ると、モニターに情報が表示される。


『剣持:能力者登録済/戦闘協力員/異界低層区域入場許可/引率者資格あり』


「剣持様、本日は引率での入場が二名ですね」


「はい。久我陽介さん、吸血鬼型仮登録。七瀬澪、吸血鬼型登録済み。低層での連携訓練が目的です」


 久我と澪もそれぞれの登録証を提示する。


 受付職員は久我の『仮登録』の文字と、そこに付記された備考欄を見て、一瞬だけ眉をピクリと動かした。


「……魔眼の初期形成あり。久我様、本日は初回入場ですね。くれぐれも無理な単独戦闘は避け、必ず引率者である剣持様の指示に従ってください」


「はい、肝に銘じます」


「それから、退場時は必ずこちらで『ドロップ品の申告と精算』を行ってください。現金型のドロップアイテムもすべて自動計数の対象となります。未申告での持ち出しは、即時資格停止処分となりますのでご注意を」


 久我は耳を疑った。


「……現金型のドロップ?」


「今回出るのは、たぶんそれですね」と剣持。


「現金が、ダンジョンに落ちてるんですか?」


「低級の『子鬼』エリアでは、千円札相当の現金型残留物が非常によく確認されますからね。では、お気をつけて」


 職員の営業スマイルに見送られながら、久我はゲートを通過した。


「……千円札相当。入場前からすでに、俺の社会人としての常識がゴリゴリと削られていく」


 専用エレベーターに乗り込む。


 操作パネルは普通のボタンだが、十階のボタンだけが血のような赤色に光っていた。


 エレベーターが上昇を始める中、剣持が簡単なブリーフィングを始めた。


「今日入るのは、十階フロアの先にある低層草原型エリアです。出る怪異は主に『子鬼』。小型で数も多いですが、攻撃パターンは引っ掻きと噛みつきくらいなんで、初心者でも十分に対処できます」


「子鬼って、ゲームで言うところのゴブリン的なやつですか?」


「まあ、そんなイメージで間違いないです」


「見た目はちょっと気持ち悪くて怖いですけど、動きが遅いから、慣れると案外簡単に蹴り飛ばせますよ!」


 澪が拳を握って気合を入れる。


「『慣れると蹴れる』という説明がすでにパワーワードすぎる」


「今日は、あまり俺から離れないでくださいね。草原型は視界が広くて開けてる分、油断して散りやすいんです。初心者はすぐ調子に乗って孤立して、囲まれるパターンが多いんで」


「分かりました」


「はいっ!」


「特に澪。お前、テンション上がって無駄に走りすぎるなよ。足が速いんだから」


「わ、分かってますぅ!」


 頬を膨らませる澪を見て、久我は少しだけ不安になった。


 チン、という無機質な電子音と共に、エレベーターが十階に到着した。


 金属製の重い扉が、ゆっくりと左右に開く。


 その向こう側の景色を見た瞬間、久我は絶句して立ち尽くした。


 そこは、ビルの十階のフロアではなかった。


 見渡す限りに広がる、青々とした一面の草原。


 頭上には、抜けるような青空が広がり、白い雲が流れている。頬を撫でる風からは、確かな土と草の匂いがした。遠くにはなだらかな低い丘の稜線が見える。


 しかし、背後を振り返ると、そこには今乗ってきたエレベーターの扉と、金属フレームで組まれた簡易的な受付ゲートがポツンと立っているだけだった。


 つまり、ビルの十階という物理的な空間の一角だけが、この広大な異界の草原へとダイレクトに接続されているのだ。


「……ビルの十階のエレベーターを降りたら、大草原が広がっていた」


「まあ、草原型ですからね」


「説明が雑すぎるけど、見たままの事実だから反論できない」


 ゲートを抜けて草原に足を踏み入れると、すでにそこかしこに能力者たちの姿があった。


 遠くの草むらで武器を振り回して何かの訓練をしている学生グループ。レジャーシートを敷いて休憩している男女。八咫烏のロゴが入ったベストを着て、双眼鏡で監視業務を行っている職員。


 完全な命懸けの未開領域、というわけではない。


 むしろ、行政の手によって完全に管理され、安全を担保された『人工的な狩場』の空気がそこにはあった。


「……もっとこう、入った瞬間に化け物に囲まれるような秘境かと思ってました」


「低層ですからね。ここから先の深部エリアや、別系統の高危険度ゲートに行けば、文字通りの地獄が待ってますけど」


「低層は、初心者講習とか、ひたすら子鬼狩りをして小遣い稼ぎをする人が多いんですよ!」


「子鬼狩りの人」


 歩き出して五分ほど。


 前方の、背丈ほどの高い草むらがガサリと揺れた。


 飛び出してきたのは、全身がくすんだ灰色の肌をした、小柄な怪異だった。


 小学生の低学年くらいの背丈。尖った耳に、異様に細長い手足。口元からは鋭い牙が覗き、右手には棍棒のような太い木の枝を握っている。


 久我が遮光グラスの奥で魔眼のピントを合わせる。


 見える。灰色の肌の奥、胸の中心あたりで脈打つ、小さな赤黒い『核』の光が。


「出ましたね。あれが子鬼です」


 剣持が訓練刀の柄に手をかけながら言った。


 澪が少しだけ緊張した面持ちで、ファイティングポーズを取る。


「澪。とりあえず、いつもの蹴りで一匹仕留めてみろ」


「はい!」


 澪が草を蹴り、走り出した。


 夜の学校で見た時よりも、さらに動きが軽く、迷いがない。吸血鬼の脚力が爆発し、一直線に子鬼へと肉薄する。


 子鬼が金切り声を上げ、木の棒を振り下ろしてきた。


 しかし、澪はその鈍重な軌道をひょいと横へステップして躱すと、遠心力を乗せた見事な回し蹴りを、子鬼の胴体の側面に叩き込んだ。


「おりゃーっ!」


 可愛らしい掛け声とは裏腹に、えげつない打撃音が草原に響く。


 子鬼の身体がボールのように十メートルほど吹っ飛び、地面を数回バウンドして転がった。


 その直後、子鬼の身体が黒い煙となってドロドロと崩れ、空気中に溶けて消滅した。


 そして。


 ひらり、と。


 子鬼が消えた草の上に、一枚の紙幣が落ちた。


 澪がタタタッと駆け寄り、それを拾い上げて目を輝かせる。


「やったー! 千円です!」


 久我は唖然として固まった。


「……本当に、千円札が落ちた」


「低層の子鬼は、だいたいあんなもんです。たまに五百円玉とかも落ちますけどね」


「……子鬼一体で千円。しかも澪さんの蹴り一発で確定ドロップ。これ、普通に時給換算したらかなり儲けが出るのでは?」


「出ますよ。だから、平日は学校サボって入り浸る学生能力者が後を絶たないんです」


「サボり!?」


 澪が千円札を腰の専用ポーチにしまう。その間にも、遠くの方では別の学生グループが次々と子鬼を狩り、千円札を拾い集めているのが見えた。


「……いや、子鬼一体千円でも、学生のお小遣いとしては破格の金額でしょう。バイトするよりよっぽど稼げる」


「だからサボるやつがいるんですって」


「学校の授業はどうなってるんですか?」


「能力者として覚醒して、こういう『裏の世界』の力と金を若くして手に入れちまうと、何も知らない普通のクラスメイトと同じ教室に座って授業を受けるのが、苦痛になるやつもいるんですよ」


 剣持の言葉には、どこか冷めた響きがあった。


「俺は家系がそもそも能力者なんで、そういうもんだと割り切って学校にも行ってます。だから正直、後から覚醒して急に力を持ったやつの感覚はよく分からない。……けど、昨日まで普通の子供だったやつが、突然怪異を狩れるようになって、低層ダンジョンで一日数万円稼げるようになったら、学校の勉強が馬鹿らしくなる気持ちも、分からなくはないです」


 戻ってきた澪が、その言葉に小さく頷いた。


「私も……ちょっとだけ、分かります。授業中、周りの子がアイドルの話とかテストの話をしてる時に、『あ、私、もうみんなと同じ世界の見え方をしてないんだな』って、ふと思う時があります」


「あー……それは、確かにそうかもな」


 久我も同意した。


 彼自身も会社で、エクセルの数字を追いながら、ふと「自分は夜になれば怪異の痕跡を追う化け物なんだ」という事実と、日常の乖離に目眩を覚えることがあった。


(しかし)


 久我は社会人としての打算的な脳髄をフル回転させた。


(子鬼一体で千円。澪でも一撃。慣れれば一時間に何十体も狩れる。休日をフルに使えば、数万円から十万円の現金収入。……ていうか、これなら俺、もう会社辞めてダンジョン専業で生きていけるのでは?)


 その邪念を口に出すと、剣持が呆れたように首を振った。


「学生なんで詳しくは分からないですけど、能力者として稼げても、『表の社会的な肩書き』がないと、いろいろ面倒な場面は多いらしいですよ」


「社会的な肩書き?」


「クレジットカードの審査とか、部屋の賃貸契約とか。ダンジョンで千円札拾って生活してます、じゃ、社会的信用はゼロじゃないですか」


「あー……それがあるか」


 久我は一気に現実に引き戻された。


 怪異を狩って現金が手に入っても、現代日本という法治国家の枠組みの中で生きる以上、会社員という社会的信用と源泉徴収票は、そう簡単に手放せるものではないのだ。


「現代異能社会、ドロップ品で金が出ても、信用情報機関の審査からは逃げられないのか」


「たぶん、そうだと思います」


「そこは高校生に断言されても困るな」


 そんな雑談をしている間にも、草原の草むらから新たな子鬼が三匹、姿を現した。


 澪がポーチの口を締め、嬉しそうに飛び跳ねる。


「陽介さんも、一緒に狩りましょうよ!」


「えっ、俺ですか?」


「はい! 今日は吸血鬼組の連携訓練ですから!」


 久我は剣持の方を見た。


「言われてますよ。行ってやってください」


「初ダンジョンで、女子高生に狩りへ誘われる三十五歳……」


「安心してください。低層の子鬼の動きなら、陽介さんの魔眼なら余裕で見切れます。危なくなったら俺がフォローに入りますから」


 久我は深呼吸をし、腰のホルスターから軍用ナイフを引き抜いた。


 グリップの感触が、手のひらに重く馴染む。


「……分かりました。行きます」


「やった! じゃあ、私が前に出ますね!」


「いや、陽介さんにファーストコンタクトをやらせろ。澪は横でフォローに回れ」


「は、はいっ!」


 剣持の指示で、久我が前に出る。


 子鬼が一匹、木の棒を振りかざして突っ込んでくる。


 久我の魔眼には、その動きが完全にコマ送りで見えていた。


 足の運び。重心の偏り。木の棒を振り下ろす軌道。そして、胸の中央で無防備に明滅している、赤黒い核の位置。


 見えている。あとは、身体がついてくるかだ。


(人間相手なら、無力化して止める。だが、怪異相手なら――確実に『核』を祓う!)


 剣持の教えが脳裏を過る。


 子鬼が跳躍し、棒を振り下ろしてきた。


 久我は半歩だけ横へスライドする。思った以上に、吸血鬼の身体は軽く、俊敏に反応した。


 すかさず、ナイフの峰で子鬼の腕を強く払い除ける。木の棒がポロリと草原に落ちた。


「陽介さん、いけます!」


「核は胸だ。迷うな!」


 二人の声に背中を押され、久我は一歩踏み込み、子鬼の胸の中心へ向けてナイフを真っ直ぐに突き込んだ。


 確かな手応え。


 刃が赤黒い核を正確に貫く。


 子鬼が甲高い悲鳴を上げ、次の瞬間、黒い煙となってボロボロと崩れ去った。


 ひらり。


 草の上に、千円札が一枚落ちた。


 久我はゆっくりと息を吐き、ナイフを下ろした。


「……結構、いけるな」


「初回にしては、完璧な動きですね」と剣持。


「陽介さん、すごいですっ!」と澪が拍手する。


 久我は足元の千円札を見下ろし、呟いた。


「人生で初めて、刃物で怪異を倒して千円札を拾った」


「言葉にすると、かなり変な響きですね」


「現実に起きていることの時点で、もう十分に狂ってますよ」


 そこからは、久我と澪の吸血鬼コンビによる本格的な連携訓練が始まった。


 剣持は少し離れた場所から腕を組み、監督役として見守っている。


『パターン1:澪の突撃と久我の追撃』


 澪が猛スピードで前に出て、子鬼を蹴り飛ばして体勢を崩す。


 久我が魔眼で子鬼の核の位置を瞬時に確認し、追撃を入れる。


「澪さん、右に逃げます!」


「はいっ!」


 澪が素早く右へ回り込み、進路を塞ぐように回し蹴り。よろけた子鬼の胸に、久我のナイフが正確に突き刺さる。


『パターン2:久我の観測と奇襲』


 久我が魔眼の広域視界を使い、草むらに潜む子鬼を先手で見つける。


「左奥の草むら、二体潜伏してます」


「了解です!」


「先に見つけられるのは、かなりデカいな」と剣持が頷く。


 飛び出してきた一体を澪が蹴り飛ばし、もう一体を久我が冷静に処理する。


『パターン3:前線でのポジション修正』


 魔眼の視覚情報に引っ張られ、久我が無意識に前に出すぎそうになる。


「陽介さん、前に出すぎです! もっと下がって!」


「っ、すみません!」


「私の方が現場経験は先輩なんですから、ちゃんと私の影を使ってください!」


「はい、先輩!」


 澪が少し得意げに胸を張り、久我が素直に下がる。二人の距離感が、連携を通じて急速に縮まっていくのが分かった。


 そんな中、少し離れた草むらから、不意に新たな子鬼が飛び出してきた。


 距離がある。澪がステップを踏んで距離を詰めるよりも早く、久我の魔眼がその子鬼の胸の核を完璧にロックオンした。


(……あそこなら、届く)


 久我は無意識のうちに、右手のナイフを軽く振りかぶり、手首のスナップを利かせて投擲した。


 ビュッ!!


 吸血鬼の腕力によって射出されたナイフは、普通の人間の投擲とは比較にならない恐るべき初速と直進性で空を裂いた。


 ズッ!


 正確無比な軌道を描いた刃が、子鬼の胸の核に深々と突き刺さる。


 子鬼が黒煙となって消滅し、地面にナイフがポトリと落ちた。


 そして、ひらりと舞い散る千円札。


 草原に、一瞬だけ奇妙な沈黙が落ちた。


「……今、投げたな」


 剣持が呆れたように言った。


「投げましたね」


「普通、初心者には武器を手放す投げナイフなんて絶対にお勧めしないんだが」


「すみません。魔眼で核のピンポイントが見えたんで、あそこなら届く気がして、つい」


 剣持は少し考え込むように腕を組んだ。


「吸血鬼の身体能力と筋力があれば、投げナイフでも怪異の核を貫く十分な威力が出るのか。しかも魔眼で補正がかかってるなら、命中精度もチート級だな」


「陽介さん、それずるい……私なんか足で蹴りにいかなきゃいけないのに……」


「また『ずるい』って言われた」


「ただし」と剣持が釘を刺す。


「武器を手放すことになるリスクは高い。乱戦で多用するな。使うなら、確実に回収できる状況か、他に選択肢がない時だけだ」


「了解です」


 その後もしばらく、三人は草原で子鬼を狩り続けた。


 澪のポーチの中には、みるみるうちに千円札の束が増えていく。


「やった、また千円! これで今月のお小遣いが倍になります!」


 無邪気に喜ぶ澪の横で、久我は現金の束を見て複雑な顔をした。


「完全に休日の小遣い稼ぎバイトじゃないですか……」


「低層ダンジョンは、そういう側面もあるんですよ。だから八咫烏が厳重に管理してる。未成年だけで無謀な深層に行かないように、入場制限もかけてますしね」


「なるほど。これ、ちゃんと規制しないとマジで危ないですね」


「能力が覚醒したやつほど、『自分ならもっと下層に行ってもっと稼げる』って勘違いしやすいですから」


 久我は、さっき剣持が言っていた「学校をサボる学生」の話を思い出した。


 特別な力と、それに見合う金が簡単に手に入ってしまう世界。だが、社会的な立場や法的な責任は、高校生だろうが大人だろうが容赦なく降りかかってくる。


 能力者の子供たちが抱える危うさを、久我は少しだけ理解した気がした。


 一時間の狩りを終え、ゲート近くの安全地帯で水分補給の休憩を取る。


 少し離れた場所で、剣持がスマートフォンで誰かと連絡を取っている間。澪がスポーツドリンクのペットボトルを両手で持ちながら、久我にぽつりとこぼした。


「私、学校で普通の友達と話してる時、たまにみんなのことがすごく『遠く』感じるんです」


「遠く?」


「はい。みんなは来週の小テストの話とか、部活の先輩の話とか、好きなアイドルの話をしてるのに。私は、夜中に怪異を蹴り飛ばして、休日はダンジョンで子鬼を倒して千円札を拾って、冷蔵庫の血液パックの残量を気にしてて……」


 澪は少しだけ寂しそうに視線を落とした。


「なんか、同じ教室に座っているのに、もう全然違う世界に生きてるみたいで。……私だけ、置いてけぼりにされてるような気がして」


 久我は黙って、澪の横顔を見つめた。


 会社での自分が、まさにそれだった。


 体調の異変、夜の異常な集中力、血への渇望。同僚たちと同じフロアで、同じエクセルシートを見つめながら、自分だけが『こちら側』から滑り落ちていく恐怖。


 誰にも言えなかった。理解されるはずがなかった。


「……分かります」


 久我は静かに言った。


「俺も会社で、周りの同僚と同じように笑って、同じように愚痴を言いながら。もう彼らとは同じ景色を見ていないような気がして、すごく怖くなる時があります」


「陽介さんも……?」


「はい。だから、こうやってダンジョンで澪さんと話せるのは、結構精神的に助かってるんですよ。同じ立場で悩んでる人がいるってだけで」


 澪はぱちぱちと目を瞬かせ、やがて、はにかむように小さく笑った。


「私も……です」


 休憩を終え、戻ってきた剣持が手を叩いた。


「よし、今日はこのくらいでいいだろ。低層とはいえ、初ダンジョンで調子に乗って長居すると、集中力が切れて事故るからな」


「正直、助かります。休日なのに、なんだかんだで平日以上に頭と身体を使った気がする」


「でも、けっこう稼げましたね!」


 澪がポーチをポンポンと叩く。中には数十枚の千円札が入っているはずだ。


「人生初ダンジョンの成果が、千円札の束というのがまた、なんとも言えない生々しさですが」


「低層らしくていいじゃないですか」


 出口ゲートへ戻り、受付の職員にドロップ品を提出する。


 千円札型の残留物は、専用の計数機兼・鑑定機のような機械に通された。


「危険性なし。すべて正規の換金対象です。……引率者様、参加者様の分配率、および管理手数料、八咫烏の税務回収分を差し引いた金額を算出します」


「本当に、きっちり帳簿処理されてる……」


「後日、皆様のご登録口座へ自動的に振り込まれますので、明細をご確認ください」


「ドロップ品が口座振込」


「現代日本ですからね」と剣持が笑う。


「もう誰が言っても、最後はその言葉に着地するんですね」


 澪が明細のレシートを受け取り、嬉しそうに飛び跳ねた。


「やった! 私、今日の分の稼ぎで新しいワイヤレスイヤホン買おうかな……!」


「学生のお小遣いとしては、確かに夢がある金額ですね」


 しかし、剣持がすかさず釘を刺す。


「稼げるからって、平日に学校サボって入り浸るなよ」


「わ、分かってますって!」


「陽介さんも、会社サボって来ないでくださいよ」


「そこは社会人としてのプライドにかけて守ります。……たぶん」


「たぶん?」


「平日昼間にここで子鬼を狩り続けた方が、みなし残業で会社に拘束されるよりよっぽど稼げる可能性に気づいてしまったので」


「悪いことに気づかないでください」


       *


 ビルの一階、エントランスを出る。


 外は、普通の都内のビジネス街だった。


 休日の昼下がり。おしゃれなカフェに入っていくカップル、買い物袋を提げた家族連れ、信号を待つ人々。


 誰も、このビルの十階で先ほどまで、怪異を相手にしたダンジョン攻略が行われていたなどとは、微塵も思っていないだろう。


 久我の鞄の中には、血液パウチと軍用ナイフ、そしてダンジョン報酬の明細レシートが入っている。


(……ビルの十階で草原を走り回り、子鬼をナイフで倒して千円札を拾い、その報酬の口座振込を待つ休日。これを人は何と呼ぶんだろうか)


 澪が隣で、楽しそうに笑いかけてきた。


「陽介さん、また一緒にダンジョン行きましょうね!」


「はい。吸血鬼組の連携訓練としては、かなり有意義だったと思います」


 澪がえっへんと胸を張る。


 少し後ろを歩いていた剣持が、意地悪く笑った。


「次はもう少し数を増やして、囲まれた時の訓練でもするか。慣れたら二階層のエリアも見せてやるよ」


「ちょっと待ってください。俺、まだ一階層の千円札システムに精神が追いついてないんですが」


「すぐ慣れますよ」


「最近、その言葉が一番怖い」


 こうして久我陽介は、休日の貴重な休養と引き換えに、都内ビル十階の大草原で子鬼を狩れる程度には、吸血鬼として順調に、しかし本人の意思とはあまり関係なく、成長してしまったのだった。


最後までお付き合いいただき感謝します。


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― 新着の感想 ―
飛び道具適正があるなら、いっそカッターの刃辺りを大量に傾向するのもありかな。
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