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第8話 吸血鬼、初めて怪異を狩る

 深夜の御影坂高校。


 静まり返った体育館の重い扉の向こう、校舎一階の東廊下から、奇妙な音が響き続けていた。


 ――コツン。


 ――コツン。


 古いゴムボールが、誰もいないコンクリートの床を跳ねるような無機質な音。


 久我陽介は、顔を覆う遮光グラスの奥で、自身の瞳がかつてないほどの熱を帯びているのを感じていた。


 視界が明滅し、分厚い鉄扉を物理的に透かして、その向こう側の光景が脳内に直接スタンプされていく。


 真っ暗な廊下の床を、赤黒い、太い糸の束のようなものが這いずり回っている。それはただの染みではない。明確な意思を持って脈動し、触手を伸ばすように周囲を探っている。


「久我さん、見えたものを言語化して詳細を報告し続けてください。判断と指揮はこちらで取ります」


 かれんの冷静な声が、久我の意識を現実へと引き戻した。


 久我はごくりと唾を呑み込み、一度深く息を吸った。


 焦るな。情報を整理しろ。会社でシステム障害が発生した時、クライアントに被害状況を報告するのと同じだ。


「……赤黒い糸の束が、体育館の扉の外から東廊下の奥へ向けて伸びています。太さは、大人の手首くらい。動き自体は遅いですが、全体が脈打っています。床の上を這っているというより、床板に染み込んだ泥のようなものが這い進んでいる感じです」


 迷いのない的確な報告に、剣持がわずかに眉を上げた。


「マジか。初見でそこまで正確に言語化できるのかよ」


「会社員として長年培ってきた、報告連絡相談の賜物ってやつかね」


 源がワンカップの酒を揺らしながらニヤリと笑う。


「怪異相手に、サラリーマンの業務経験が役に立つ日が来るとは思いませんでしたよ」


 久我が自嘲気味に返すと、かれんが即座にチームの配置を指示した。


「迎撃態勢を取ります。剣持さんは前衛。源さんは後方から鉄球での封鎖と遊撃。杖子さんは体育館入り口に簡易結界を展開。美島さんは被害状況の確認と後始末のために後方待機」


 各々が短く返事をし、それぞれのポジションにつく。


「久我さんは観測役です。絶対に前に出ないでください。……澪さん、久我さんの横について、護衛と必要時の連絡役をお願いします」


 名指しされた澪が、ビクッとジャージの肩をすくませたが、すぐにギュッと拳を握りしめた。


「は、はい! 吸血鬼の先輩として、陽介さんをしっかり守ります!」


「身体能力の出力だけならすでに久我さんの方が上ですが、現場経験は澪さんの方がありますからね」


 かれんが冷徹に事実を補足する。


「補足の仕方が毎回えぐい! 私、ただの壁役にされちゃうじゃないですか!」


「澪さん、俺もさっきから実力不足を遠回しに刺され続けてるんで、一緒に耐えましょう」


 久我がなだめると、澪は涙目でコクリと頷いた。


 剣持が腰の訓練刀をゆっくりと引き抜く。竹光のように見えたその刀身は、月明かりを反射して鈍い金属質の輝きを放っていた。


「じゃあ、歓迎会を始めるか」


「歓迎会って言葉の定義が、この一週間でどんどん物騒になっていくな」


 久我のぼやきを合図に、体育館の重い扉が静かに開け放たれた。


       *


 扉の向こう、夜の冷たい空気が流れ込んでくる東廊下は、非常灯の緑色の光だけが頼りの完全な暗闇だった。


 だが、久我の魔眼には、その暗闇とは全く別の色が見えていた。


 ――コツン。


 ボールの跳ねる音が近づく。


 床一面に、先ほどの赤黒い糸が毛細血管のように絡みついている。壁の低い位置にも、何かが擦れたような黒い筋が残っており、空気中には微細な赤い粉塵のようなものが漂っているのが分かった。


「床の糸は、廊下の奥の角へ続いています。壁にも細い筋がある。高さは……大人の膝より下、子供の背丈くらいです」


「低いな。這いずり系か、あるいはボールそのものに憑いてるやつか」


 源が鉄球を指先で弾きながら分析する。


「ボール系やと、旧体育倉庫由来の残滓かもしれへんなぁ」


「旧体育倉庫、先週も微弱な反応出てませんでしたっけ?」と杖子。


「記録では『軽度』の反応でした。今回の密度と濃度はまったく違います」


 かれんの冷静な分析を聞きながら、久我は内心でドン引きしていた。


(……全員、普通に怪異のカテゴリーや発生源を会議みたいに話し合ってる。会社で言うところのインシデント分類みたいなものか。いや、怪異のインシデントってなんだよ)


 直後。


 廊下の暗がりから、コロコロと音を立てて、古びたゴムボールが転がり出てきた。


 泥に塗れ、半分空気が抜けてひしゃげている。


 誰も蹴っていないし、触れてもいない。だが、ボールは自らの意思を持つように、コツン、と床を叩きながら跳ねた。


 ボールが床に触れるたび、そこから赤黒い糸がジュワッと広がる。


 糸が急速に絡み合い、盛り上がり、やがて――小学生くらいの背丈の、どす黒い泥のような人影を形成した。


 顔はない。手足は異様に細長く、泥の身体はドロドロと波打っている。そして、その胸の中心に、先ほどの古いゴムボールがボコンと埋まり込んでいた。


「……ボール憑き」


 澪が息を呑む。


「低級だが、糸の濃度が濃い。放っておくと校舎の基礎に根を張って厄介になるタイプだな」


 剣持が刀を斜めに構え、重心を落とす。


「久我さん、怪異の『核』は見えますか?」


 かれんの問いに、久我は魔眼のフォーカスを絞った。


 遮光グラスの奥で、視界がさらに一段階深く赤に染まる。


 泥のような身体を構成する無数の赤黒い糸。そのすべての起点が、胸に埋まったゴムボールの中心にある『小さな硬い輝き』に収束しているのが見えた。


「胸……いや、ボールの中心です! そこにある硬い光から、すべての糸が出ています」


「了解」


「旦那、見えるってのは便利でいいな」


「便利扱いされても、こっちは心臓バクバクなんですけどね」


 ――ピチャッ。


 ボール憑きの怪異が、突然カエルのように廊下を跳ねた。


 床から赤黒い糸が触手のように伸び、前衛の剣持の足首を狙う。


 剣持は半歩後ろへスライドし、訓練刀を鋭く振り抜いた。


 刃の軌跡に沿って薄い光の刃が走り、迫る糸を両断する。『刀剣強化』の能力。


「澪、横に回れ! 直接触るな、蹴るなら影の輪郭の外側を狙え!」


「は、はいっ!」


 指示を受けた澪が、ジャージ姿のまま廊下を駆け出す。


 速い。普通の高校生ではあり得ない、文字通りの『吸血鬼の速度』だ。彼女は廊下の壁を蹴って三角跳びのように軌道を変え、怪異の側面へと回り込もうとする。


 だが、実戦経験の浅さからか、踏み込みがわずかに深すぎた。


 怪異の背中から無数の糸が爆発的に伸び、澪の足元に絡みつこうとする。


「あっ――」


 ガンッ!!


 凄まじい金属音が廊下に響いた。


 源の放った鉄球が、澪のつま先数センチの床を正確に叩き割り、伸びてきた糸を粉砕したのだ。


「澪、前に出すぎだ! 夜目が利くからって、自分の足元の影を見落とすな!」


「す、すみません!」


 久我はその後方で、瞬きもせずに戦況を見つめていた。


 吸血鬼である澪の異常なスピード。剣持の淀みない太刀筋。そして、見えない手で操られているかのように正確無比な源の鉄球。


 これが、現代異能社会の『現場』。


 ただの会社員だった自分が、到底足を踏み入れていい領域ではない。圧倒的な経験値の差がそこにあった。


 だが。


 怪異が再び床にドロリと溶け、形を崩した瞬間。


 剣持や源の視界からは、ただの影が揺れているようにしか見えていないはずのその動き。久我の魔眼は、その『赤黒い糸の流れ』の真の軌道をはっきりと捉えていた。


 糸は左の壁へ向かって伸びているように見せかけている。だが、本体のエネルギーの奔流は、古い床板の隙間から完全に『床下』へと潜り込んでいた。


「左じゃない! 床下です!」


 久我は喉が裂けるほどの声で叫んだ。


「剣持さんの足元の、二枚先の床板の真下!」


 剣持は一切の躊躇なく、その場から大きくバックステップを踏んだ。


 直後。


 剣持がさっきまで立っていた場所の床板が内側から弾け飛び、黒い泥の腕が突き出してきた。


 空振りに終わった泥の腕が、虚しく空を掻く。


「助かった、陽介さん!」


「いい目だ、旦那!」


「久我さん、素晴らしいです。そのまま核の位置報告を継続してください」


 かれんの指示に、久我は震える声で応じた。


「核はまだボールの中心……床下に潜っても、赤黒い糸は全部そこに戻ってます。逃げ先は……東階段の方向!」


「逃がすかよ」


 剣持が刀を正眼に構え、一気に踏み込む。


 源の二つ目の鉄球が空気を切り裂いて飛び、東階段への逃げ道を完全に塞ぐように壁に着弾した。


「後ろは私が塞ぎます!」


 杖子がステッキを掲げ、体育館側の廊下に淡く光る半透明の結界を展開する。


「うわ、これ床板完全にいっとるなぁ……あとで直すん、うちやんか」


 後方で美島がぼやきながらも、復元の準備に入る。


 退路を絶たれた怪異が、床下から再び姿を現した。澪がその進路を塞ぐようにフェイントをかけ、怪異の注意を上手く引きつける。


「今、核が上がりました! ボールの中心、剣持さんの真正面!」


「見えた!」


 剣持の訓練刀が、鋭い呼気とともに振り下ろされた。


 強化された刃が、怪異の胸に埋まったゴムボールを真っ二つに両断する。


 中から、圧縮されていた赤黒い糸が一気にほどけ、弾け飛んだ。


 怪異の形がドロドロと崩れ落ち、糸が床に触れた瞬間、黒い煙のようにシュウウと音を立てて蒸発していく。


 静寂が戻った廊下に。


 ――チャリン。


 小さな、硬い金属音が響いた。


「……あの。今、何か落ちませんでした?」


 久我が恐る恐る尋ねると、美島が軽い調子で答えた。


「落ちたなぁ」


「……怪異って、倒すと物を落とすんですか?」


 剣持が刀を鞘に収めながら振り返る。


「落とすやつは落とすな」


「ゲームみたいなこと言わないでください」


 源が床から鉄球を回収し、その横に落ちていたものを拾い上げた。


「実際、ゲームみてえなもんだ。怪異ってのは、人間の強い感情や古い記憶、その場所に染みついた『念』を核にして形を作る。倒して霊的なガワが剥がれると、その核の依り代になってた物質が、こうやって現実にポロッと残ることがあるんだよ」


 かれんが事務的なトーンで行政説明を引き継ぐ。


「怪異由来の残留物は、すべて八咫烏が回収します。センターで鑑定後、霊的な危険性が低く市場流通が可能なものについては、協力者への『報酬』として換金処理の対象になります」


「換金対象」


「たまに、貴金属っぽいのが落ちるんです」と澪が小声で付け足す。


「今日は指輪やな。銀かな? ええやん、お小遣いになるわ」


 美島が覗き込んで喜んでいる。


「え……じゃあ、怪異を倒すと貴金属がドロップするってことですか?」


「だから言ったろ。落とすやつは落とすって」


 久我は額に手を当て、深い絶望の吐息を漏らした。


「……現代異能社会、役所の手続きと病院の検診と確定申告の義務があるだけじゃなく、『ドロップアイテム』の概念まで存在するのか……」


「金になるからな、若い連中は割とこれでやる気を出すんだよ」


「ただし、未鑑定品の私的な持ち帰りや横流しは法律で厳しく禁止されています。バレたら資格剥奪です」


「そこはちゃんと公務員の管轄なんですね……」


       *


 初回の戦闘を終え、体育館の詰所へと戻る。


 その途中、美島が廊下のえぐれた床板の前にしゃがみ込み、両手をかざした。淡い光が漏れ、バキバキに割れていた木材が、まるでビデオの逆再生のようにスルスルと元の形に戻っていく。


「……本当に、直るんですね」


「せやで。壊したらうちが直す。せやから、派手に壊す時は事前に『ここ壊すで!』って言うてな」


「壊す前提のチーム運用なのが怖いんですけど」


 体育館に戻ると、かれんが手元のタブレットに記録を打ち込みながら久我に向き直った。


「初回実務としては上々です。久我さんはパニックを起こさず、怪異の核の位置と進行方向を正確に言語化して報告できました。魔眼の出力も安定しています」


「観測役としては、完全に即戦力寄りだな」


 剣持の評価に、澪も目を輝かせる。


「陽介さん、初日なのにすっごく冷静ですごいです……!」


 だが、久我の顔はどこか複雑だった。


「……褒められて嬉しいんですけど、怪異の『赤黒い糸』が見える才能を高く評価される人生のフェーズに、まだ自分の精神が受け入れきれていないというか」


「そのうち慣れるさ」


「慣れたくないものが多すぎますよ、源さん」


       *


 その初怪異戦のあと、数日間は大きな戦闘はなく、深夜のグラウンドでの訓練と軽い巡回だけが続いた。


 久我の生活リズムは完全に狂っていた。


 昼間は会社で働き、夜は日付が変わる前に少しだけ仮眠を取り、零時から四時まで御影坂高校へ通う。会社では、高橋が鬼の形相で課長の残業要求を撥ね除けてくれるおかげで定時退社できているが、それでも身体の疲労は隠せない。


 チルド室の血液パックの消費量が、規定量より少しだけ増えた。


 澪とは、巡回の合間に『吸血鬼あるある』を語り合うことで、少しずつ打ち解けてきた。かれんは別の任務があるのか、毎日来るわけではなく、彼女が不在の日は剣持と源が現場を回していた。


 そして、覚醒から十日目の夜。


 かれんが不在の体育館で、源がいつものようにワンカップを傾けながら指示を出した。


「今日は嬢ちゃんがいねえ。現場は剣持、八咫烏絡みのイレギュラーがあれば俺が対応する。……旦那は、まずグラウンドで走れ」


「走る?」


「吸血鬼型はな、自分の身体能力の『上限』と『ブレーキの掛け方』を身体に叩き込まないと、いざって時に自滅する。今日はグラウンドで全力走だ」


 剣持の言葉に、澪が少し得意げに胸を張った。


「最初はちょっと怖いですよ。思ったより身体が前に出ちゃいますから」


「経験者の顔してるなぁ……」


「私は初日、止まれなくてグラウンドの砂場に頭から突っ込みましたから!」


「砂場で済んでよかったなぁ、あれ」と美島が笑う。


 深夜のグラウンド。


 月明かりに照らされた白線の上で、久我は軽くアキレス腱を伸ばした。


「まず流して一周。次に八割。最後に全力で回れ」


 剣持の合図で、久我は走り出した。


 最初は、普通の社会人のジョギングのつもりだった。だが、地面を蹴るたびに、足裏からゴムまりのような反発力が跳ね返ってくる。


 一周目の『流し』の時点で、すでに三十五歳の全力疾走に近い速度が出ていた。


 二周目。『八割』にギアを上げる。


 風が顔を叩き、景色が後ろへ飛んでいく。


 そして三周目。『全力』。


 久我の視界が、前方へと猛烈な勢いで引き伸ばされた。


 地面のわずかな凹凸、砂の粒の反射、ラインのかすれ、さらにはトラックの向こう側で見守っている澪の表情の微細な変化までが、スローモーションのようにくっきりと見えた。


 速い。怖い。


 そして――止まれない。


「……っ! これ、ブレーキどうするんだ!?」


 久我が焦って叫ぶと、澪がトラックの脇から身を乗り出して叫んだ。


「膝じゃなくて、腰を落としてください! あと、地面を蹴り返しちゃ駄目です!」


「身体を横に逃がすな! 前傾姿勢のまま、殺せ!」


 剣持の指示が飛ぶ。


 直後、源の放った鉄球が、久我の進路の少し先のグラウンドに着弾し、土煙を上げた。


 それを目印にするように、久我は強引に腰を落とし、スニーカーの底を削りながら数メートル滑って、なんとか急停止した。


 ザザザッ、と砂が跳ねる。


「……はぁっ、はぁっ……」


 膝に手をつき、荒い息を吐く。


「三十五歳の……身体能力じゃないな、これ」


「吸血鬼だからな」


「説明が雑だけど、百パーセント正しい」


 澪がとてとてと駆け寄ってきた。


「陽介さん、初回で転ばなかったのすごいです!」


「澪さんの的確な助言のおかげだよ。ありがとう」


 久我が素直に礼を言うと、澪はえへへと嬉しそうに鼻の下を擦った。


 訓練を終えて体育館に戻ると、長机の上に細長いジュラルミンケースが置かれていた。


「届いたな。八咫烏から支給された、陽介さんの初期装備だ」


 剣持がケースを開ける。


 中に入っていたのは、黒い強化樹脂製の鞘に収まった、刃渡り十五センチほどの『軍用ナイフ型訓練兼実戦用ブレード』。そして特殊警棒、強光ライト、通信用イヤホン、簡易防護札の束だった。


「……どう見ても、完全に軍用ナイフにしか見えないんですが」


「軍用ナイフだな」


「一介の社会人が、公的機関から軍用ナイフを支給される日が来るとは」


「会社のボールペンよりは長持ちするぞ」と源が笑う。


「比較対象が嫌すぎます」


 剣持はナイフを手に取り、久我に向き直った。


「順手でも逆手でも、基本は変わらない。重要なのは、刃物を持った時点で『自分が相手を殺せる道具を持っている』と明確に理解することだ」


 久我の表情が引き締まる。


「……重いな」


「軽く考えるやつには絶対に持たせない」


 剣持の目は真剣だった。


「対人間を想定した実戦では、まず胴体を狙うな。そこには内臓がある。素人が下手に刺せば、簡単に相手は死ぬ。脚も同じだ。大きな血管がある。出血がひどければ、吸血鬼である陽介さんや澪は、その血の匂いに引っ張られて理性を失うリスクがある」


 久我は顔をしかめた。


「それは……たぶん、あります。匂いには抗えない」


「私も、血が多いとちょっと……怖いです」


 澪も横で小さく頷く。


「だから、人間相手に刃物を使うなら、狙うのは『武器を持つ腕』だ」


 剣持はナイフを構え、訓練用の人形の右腕を軽く叩いた。


「深く入れる必要はない。動きを止める。握る力を奪う。相手が武器を使えない状態にする。人間相手なら、殺すのではなく『無力化』を最優先しろ。刃物は殺すためだけの道具じゃない。使い方を間違えなければ、殺さずに終わらせるための道具にもなる」


 源がワンカップの酒をちびりと飲んで口を挟む。


「綺麗事に聞こえるかもしれねえが、現場じゃそれが一番大事だ。殺さずに済ませられるなら、その方が後が圧倒的に楽だからな」


「後って……精神的なトラウマとかですか?」


「それもある。だが一番は『書類』だ」


「……現代日本だった」


「ただし」


 剣持の声が一段低くなった。


「相手が『怪異』の場合は別だ。怪異相手には一切遠慮するな。基本的に核は頭か胴体の中心にある。陽介さんの魔眼でそれが見えたなら、躊躇なくそこを狙って破壊しろ」


「……人間相手と怪異相手で、考え方が完全に違うんですね」


「違う。人間は止める。怪異は『祓う』。その線引きだけは絶対に見誤るな」


 それからの一時間は、久我にとって初めてのナイフ訓練となった。


 ダミー人形を相手にナイフを振るが、動きはひどくぎこちない。長年のデスクワークで染み付いた会社員の身体感覚が、闘争の動きを拒絶している。


 だが、魔眼の視覚処理だけは異常だった。


 ダミーの関節の可動域、剣持が見せる模範演技の筋肉の連動、重心の移動。そのすべてがコマ送りのように正確に脳にインプットされる。


「……見て覚えるのは、めちゃくちゃ早いな」


 剣持が感心したように言う。


「頭で理解できるのと、実際に身体が動くかは別問題ですけどね」


「最初はそれでいい。見えてるなら、あとは反復練習で身体を合わせるだけだ」


 その横で、澪も吸血鬼の基礎動作のステップを練習していた。


 彼女は身体能力とスピードは申し分ないが、気が弱いため踏み込みが浅く、攻撃の軌道が常に逃げ腰になっている。


 二人の様子を交互に見て、剣持がため息をついた。


「陽介さんは見えすぎて身体が遅れる。澪は身体が先に出て頭が遅れる。足して二で割ればちょうどいい前衛ができるんだがな」


「足して割れません!」


「できる技術があるなら、今すぐお願いしたいくらいですよ」


       *


 数日後。


 体育館での休憩中、剣持がスポーツドリンクを飲みながら久我に話しかけた。


「陽介さん、学校の夜間警備だけじゃ、そろそろ経験値の入り方が偏ってくるな」


「……経験値って言い方、やっぱりゲームっぽいんだよな」


「実際、怪異対応は場数とドロップ品の質がモノを言うからな。社会人だから平日は無理だろうけど、次の休日あたり『異界ダンジョン』にも行ってみた方がいい」


 久我は頭を抱えた。


「とうとう、ダンジョンまで出てきた」


「都内にも八咫烏が管理してるゲートがいくつかあるぞ。休日はそこそこ混むがな」と源。


「混むんですか、ダンジョンが」


「人気スポットやで。低層は初心者向けのレベリングにちょうどええし、素材のドロップ狙いのフリーランスも多いしな」と美島が笑う。


「それに、鳥カゴの人たちもよく潜ってますよ」


 杖子の言葉に、久我は首を傾げた。


「鳥カゴ?」


「能力者待機所の通称だよ」


 剣持が説明する。


「正式名称は無駄に長い。八咫烏の管轄下にある能力者が、日中待機したり、情報交換したり、専用のフロアで模擬戦したりする施設だ。暇な能力者が集まって、勝手にバトルして腕を磨いてる」


「勝手にバトル」


 源が楽しそうに喉の奥で笑った。


「悪くねえぞ。対人戦はな。相手が能力を発動する瞬間のピリつき、読み合い、間合いの測り方。同じ行動パターンしかねえ低級怪異の処理より、よっぽど血が湧いて面白い」


「源さん、怪異相手の仕事はつまらないんですか?」


「怪異はな、癖が見えちまえばただの『作業』になる。だが対人は違う。相手も考える。能力の底を隠す。こっちを騙そうとする。だから楽しいんだ」


 久我はドン引きして一歩後ずさった。


「……俺は、そういう血生臭いのはいいかな……」


「まあ、爺さんみたいな戦闘狂の能力者は多いぜ。俺も嫌いじゃないしな」


 その横で、澪も小さく首を横に振っていた。


「私も、対人戦はちょっと……嫌です。人間相手だと、もし血が出たら……理性が飛んで、吸いたくなっちゃうかもしれないし……」


「あー……俺も間違いなくそうだわ。想像するだけで怖い」


 吸血鬼二人が同時に顔を見合わせ、深く同意し合う。


「怪異相手の真っ暗な学校より、明るい部屋での人間相手の訓練の方が怖いですよね……」


「分かります。血の匂いに反応する自分を自覚するのが一番怖い」


 そんな二人を見て、源が呆れたように鼻を鳴らした。


「吸血鬼組は、随分と真面目でビビリだな」


「真面目な方がいい。血を見ることに慣れすぎた吸血鬼は、いつか必ず一線を越えて危ない」


 剣持が静かに肯定し、そして提案した。


「良かったら、次の休み、俺が付き合うぜ。初心者向けの都内の低層ダンジョンなら、俺が案内と前衛を兼ねてやる」


 久我は少し迷った。


 社会人としては、貴重な休日は泥のように眠って過ごしたい。


 だが、魔眼の制御、吸血鬼としての身体の使い方、そして怪異への対応。どれも実戦で慣らしておかなければ、いつか会社や街中で暴発して取り返しのつかないことになる。


「……じゃあ、お願いします。あくまで初心者向けの低層だけで」


「了解。無理はさせない」


 そのやり取りを、澪が横で羨ましそうに見つめていた。


「いいなぁ……」


「澪さんも行きたいんですか?」


「だ、だって……私、ダンジョンってまだ引率で一回しか行ったことないし……陽介さんだけ剣持先輩に案内してもらうの、ちょっとずるいというか……私の方が吸血鬼としては先輩なのに……」


 もじもじと抗議する澪を見て、剣持が呆れたように言った。


「じゃあ、お前も来いよ」


 澪の顔が、パッと花が咲いたように明るくなった。


「やったー!」


「じゃあ、澪と陽介さんでパーティー組んで連携訓練だな。俺が前に出て注意を引く。二人は吸血鬼組として、後方からの遊撃と観測の動き方を実戦で覚えろ」


「パーティー……とうとう本格的にゲーム用語に侵食されてきたな」


「ダンジョン潜るんやったら、パーティー組むんが普通やろ」と美島。


「ドロップ品の分配ルールもありますしね!」と杖子。


「ドロップ分配」


「現代異能社会はな、役所の帳簿と分配率が命だ。覚えとけ」


「結局そこに戻るんですね、源さん」


 久我はパイプ椅子に深くもたれかかり、自身の現状を整理した。


 一週間前。自分は会社の薄暗いオフィスで、みなし残業に命を削られるただの社畜だった。


 それが今や。


 夜の高校で怪異の痕跡を魔眼で追い。


 倒した怪異から貴金属がドロップする仕様を知り。


 深夜のグラウンドを吸血鬼の脚力で爆走し。


 役所から軍用ナイフを支給され。


 高校生たちに怪異との戦い方を教わり。


 次の休日に、都内のダンジョンへ潜る約束をしている。


(……どう考えても、人生の進路変更の角度が急すぎるだろ)


 隣で、澪が少し嬉しそうに微笑んだ。


「陽介さん、休日のダンジョン、一緒に頑張りましょうね!」


 久我は小さくため息をつき、だが、口元には自然な笑みが浮かんでいた。


「はい。吸血鬼歴の先輩、当日はよろしくお願いします」


 澪はえっへんと嬉しそうに胸を張った。


「任せてください!」


 その様子を、少し離れた場所から剣持と源が見守っていた。


「吸血鬼組、意外と相性いいな」


「ビビリで怖がり同士は、現場じゃ長生きする。悪くねえ組み合わせだ」


 会社の外にも、どうやら自分の新しい居場所はでき始めているらしい。


 それが深夜の高校の体育館と、怪異の巣食う異界ダンジョンであることには、まだ完全に納得しきれてはいないのだが。


 こうして久我陽介の次の休日予定は、睡眠でも休養でもなく、人生初のダンジョン探索パーティーに決定したのだった。


最後までお付き合いいただき感謝します。


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