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第64話 吸血鬼、火神蓮司と護衛任務に就く

 体育館での剣持との実戦訓練から、数日後の夜。


 久我陽介のスマートフォンに、皇かれんから直接の連絡が入った。


 今日は、夜間警備班としての通常の巡回予定は入っていない。


『久我さん。本日は、臨時任務をお願いします』


「了解です。何ですか?」


『護送です』


 久我の背筋に、少しだけ嫌な予感が走った。護送と聞いて、ろくな思い出がない。


「……警察署からですか?」


『はい。現在、都内の警察署が一名の能力犯罪関係者を保護しています。その人物を、八咫烏の管理施設まで移送します』


 ただの被疑者の移送ではない。警察の一部担当者と八咫烏が連携し、表向きには『特殊事件の重要参考人の移送』として処理される極秘案件だ。


 対象は、篠崎亮介。三十二歳。


 都内で活動していた能力犯罪グループの、元構成員だという。


 直接的な殺人を担当するような戦闘員ではない。犯罪資金の移動、隠れ家の確保、犯人の逃走補助、違法な能力物品の運搬など、組織の『裏方』として手を汚していた人間だ。


 つまり、普通に犯罪者である。


「八咫烏の保護対象ではあるけど、無罪の人じゃないんですね」


『はい。それとこれとは別です』


 かれんの線引きは、先日逮捕した殺人容疑の吸血鬼・相良の事件から一貫して明確だった。


 なぜ、今夜急いで移送するのか。


 篠崎は、組織の内部で最近始まった粛清の動きを察知し、「自分も消される」と恐れて逃亡した。そして最終的に、自分から警察署へ駆け込み、「普通の警察じゃなく、八咫烏を呼んでくれ」と要求したのだ。


 彼は、自分が知っている組織の情報をすべて八咫烏へ話す代わりに、元仲間からの報復から保護してもらうという『取引』に応じている。


 警察署の留置場に長く置いておくことはできない。彼が駆け込んだという事実は、すでに元仲間にも漏れている可能性が高い。


「八咫烏の施設へ入ったら全部話す」と篠崎が言っている以上、組織側からすれば、そこへ着く前の『移動中』が、彼を永遠に黙らせる最後のチャンスになる。


 襲撃の可能性は、極めて高かった。


       *


 指定された都内の警察署、地下駐車場。


 久我が到着すると、そこにはすでに黒い無標識のワゴン車が停まっていた。


 そして、その車の横には、見覚えのある男が腕を組んで立っていた。


「……火神さん?」


 火神蓮司。以前、呪物《哭き骨の楔》を運搬する任務でコンビを組んだ、後衛型の魔術師だ。


「久しぶりだな」


 火神が、短く挨拶を返す。


「今回、一緒なんですか?」


「らしい」


 二人は、黒いワゴン車を見た。


「俺たち、前に組んだ時も運送だった気がするんだが」


 火神が呆れたように言う。


「前回は呪いの荷物でしたけど、今回は生きた人間ですね」


「それ、状況として少しは良くなってるのか?」


「少なくとも、人間なら勝手に箱の中で呪いを撒き散らしたりは――」


 言いかけて、二人は同時に前回あの車内で起きた大惨事を思い出した。


「……やめましょう」


「そうだな」


 護送の体制は、極力目立たないように組まれていた。


 車両は、このワゴン一台のみ。運転は八咫烏の専任職員が担当する。


 後部座席に、護送対象の篠崎。そして久我と火神が同乗する。


 久我が篠崎のすぐ近くに座り、火神は少し距離を取って、外部からの攻撃に術式で対応しやすい位置を確保した。


 増援車両は、露骨な車列を作らないよう、別ルートから一定の距離を保って追従する手はずだ。


       *


 やがて、二人の警察官に両脇を固められ、男が地下駐車場へ姿を現した。


 篠崎亮介。疲労の色が濃く、無精髭が伸びている。手首には、上着で隠されているが手錠がかけられていた。特別屈強には見えない、ごく普通の体格をした男だ。


 篠崎は、ワゴン車の前で待つ久我と火神を値踏みするように見た。


「……この二人?」


「不満そうですね」


 久我が言う。


「いや。思ってたより、二人とも普通だなって」


 火神が、冷たい声で返した。


「その感想、あとで後悔するぞ」


 篠崎は裏社会に身を置いていた人間だ。久我の顔をじっと見つめ、鼻をヒクつかせる。


「……あんた、吸血鬼?」


「そうです」


 久我は隠さずに即答した。


 篠崎が、警戒して一歩後ずさった。


「俺を護衛するの、吸血鬼なの?」


「何か問題あります?」


「いや……」


 篠崎は言葉を濁した。


「犯罪組織にいた人から警戒されるの、ちょっと納得いかないんですけど」


 久我がボヤく。


「そっちは?」


 篠崎が火神を見る。


「魔術師」


「……」


 篠崎は絶句した。


「大丈夫ですよ」


 久我がフォローを入れる。


「何が?」


「俺にも分かりません」


「おい。安心させる気あるのか、お前」


 火神が突っ込む。


       *


 出発の直前。


 かれんから、インカムを通じて最終確認の通信が入った。


『久我さん、火神さん。護送対象の生存を最優先してください』


 そして。


『襲撃者が現れても、深追いは禁止です。対象の防衛と、施設への無事な到着のみに専念してください』


「了解です」


「護送だからな」


 火神が久我を見る。


「敵を倒す任務じゃない」


「はい」


 それは、数日前に剣持から教わった、すべてで勝とうとせず、目的に合わせて自分の行動を選ぶという考え方とも深く噛み合っていた。


 車へ乗り込む直前、篠崎が久我へ尋ねた。


「一つ聞いていいか?」


「どうぞ」


「もし本当に、俺を消すために連中が来たら」


 篠崎は、少し間を置いて言った。


「俺を置いて、逃げる?」


「置いていったら、護送任務にならないでしょう」


 久我の即答に、篠崎は少しだけ黙り込んだ。


       *


 警察署の地下シャッターがゆっくりと開き、黒いワゴン車が夜の東京へと滑り出した。


 何事もない道路。切り替わる信号。明るいコンビニ。行き交うタクシー。


 ごく普通の夜の風景だ。


 だが、久我は小さく緊張の息を吐いた。


「怪我、完全に治ったのか」


 後部座席で、火神がふと尋ねてきた。


「え?」


「人狼のハンターにやられて、死にかけたって聞いた」


「その話、火神さんまで知ってるんですか?」


「結構有名だぞ」


「もう嫌だ、この組織……」


 久我が頭を抱える。


「酒の席のツマミとしては、かなりウケると思うぞ」


「当の本人は、一ミリも笑えませんよ!」


「それで、剣持に頼み込んで稽古をつけてもらったらしいな」


「なんでそれまで知ってるんです!?」


「狭いんだよ、実働部隊は」


 久我は長いため息をついた。


 ただ、その表情は以前のようにただ怯えているだけではなく、少しだけ前向きな意思を宿していた。


 前の座席で話を聞いていた篠崎が、信じられないという顔で振り返った。


「人狼に殺されかけた?」


「はい」


「強いの?」


「ものすごく」


「俺を狙ってくる連中より?」


「比べるのが失礼なくらいです」


「……本当に大丈夫なのか、俺のこの護送」


「不安になるところ、そこですか?」


       *


 出発から二十分ほどが経過した頃だった。


 比較的交通量の少ない幹線道路を走行中。


 前方から走ってきた一台の配送用ワンボックス車が、突然、交差点の中央で斜めに急停止した。


 完全に道を塞ぐ形だ。


「障害車両!」


 運転手が鋭く声を上げる。


「警戒!」


 火神が即座に身構えた。


 道路脇の暗がりから、一人の男が歩み出てきた。


 神崎修司。事前資料で共有されていた、篠崎の元仲間の一人だ。


 隠れる気など一切ない。悠然と、護送ワゴンの真正面へと立ち塞がった。


 そして、両掌を、車体へ向けて真っ直ぐに突き出す。


 久我の右目に、《魔眼》が展開された。


 男の肩の筋肉の収縮。腕の角度。そして、能力使用の明確な予兆。


「来ます!」


 ドンッ!!


 見えない空気の塊が、巨大なハンマーのように車のフロント部分を殴りつけた。


 《衝圧》。


 護送車が激しく揺さぶられ、フロントガラスがピキピキと危険な音を立てて軋む。運転手が必死にハンドルを保持し、車体を安定させる。


「分かりやすい歓迎だな!」


 火神が叫んだ。


       *


 久我は、反射的にドアのノブへと手をかけていた。


 外へ出て、正面で攻撃を続ける神崎を止める。これまでの久我なら、迷わずそうしていただろう。


 でも。


 久我の手が、ピタリと止まった。


(……なんであんなに、目立ってる?)


 神崎は、道路の中央でこれ見よがしに派手な攻撃を続けている。


 護送対象の篠崎を奪いたいはずなのに。逃走路を作るような動きでもない。車へ距離を詰めてくるわけでもない。


 ただただ、正面で派手に暴れているだけだ。


 しかも、神崎の視線は、久我が乗っている側の側面を、何度もチラチラと気にしている。


 久我の脳裏に、剣持の言葉が蘇った。


『相手が選びたくなる答えを、こっちで置いとけ』


 逆に、自分が選ばされる側だとしたら?


 神崎は、「車から出てきて、俺を止めろ」という選択肢を、あまりにも分かりやすく久我の目の前に提示しているのだ。


(……俺を、外に出したい?)


 久我は、ドアのノブから手を離した。


「久我?」


 火神が不審に思って声をかける。


「火神さん」


 久我は、前を見たまま言った。


「正面、お願いできますか」


 火神は一瞬だけ目を見開き、そして即座に状況を理解した。


「お前は?」


 久我が、篠崎を見る。


「俺は、ここに残ります」


 久我は、篠崎の前へと移動し、自分の背中を車の外側へと向けた。


「床へ伏せてください」


「何?」


「いいから!」


 久我が篠崎を無理やり座席の下へと押し込んだ、その直後だった。


 ギィィィッ。


 車両の側面から、金属を鋭利な刃物で引っ掻くような、耳障りな異音が響いた。


       *


「やっぱり!」


 久我が身構える。


 側面のドアの外側から、見えない力による細い亀裂が走った。


 一本。二本。三本。


 分厚い金属板が、紙のように切断されていく。


 誰かが、車の側面に完全に張り付いているのだ。


 宮本紗季。同じく事前資料に載っていた、近接・潜入を得意とする篠崎の元仲間だ。神崎の派手な攻撃は、すべて彼女を安全に車へ取り付かせるための囮だったのだ。


 正面は、火神が担当する。


 火神は、神崎からの二発目の《衝圧》による車体の揺れに耐えながら、運転席の後ろで低く身を沈めた。


 小さく詠唱を開始する。


 短い術句を数秒かけて重ね、最後に一言。


「――風」


 術式が成立する。


 《四象攻術・風》


 凄まじい突風が、車の正面から神崎へと向かって放たれた。


 神崎の《衝圧》と真正面から衝突し、空気が爆発したような轟音が鳴り響く。


 神崎が、圧力に耐えきれず数メートル後退した。


「三秒稼げ!」


 火神が叫ぶ。


「三秒!?」


「次の詠唱だ!」


       *


 ドン!


 側面ドアの一部が、外側へと強引に曲げ開けられた。


 切断された隙間から、宮本の腕が車内へと伸びてくる。


「うわっ!」


 床に伏せていた篠崎が悲鳴を上げる。


「亮介!」


 宮本の声だ。


「来い!」


「紗季……!」


 篠崎が、かつての仲間の名前を呼ぶ。


「お前がペラペラ喋る前に、連れ戻すぞ!」


 どうやら、この時点での第一目的は殺害ではなく、生きたまま連れ戻すことらしい。


「戻るわけねえだろ!」


「選べる立場だと思ってんの?」


 宮本が、篠崎の襟首を掴もうとさらに腕を伸ばす。


 そこに、久我が割り込んだ。


 《血装》を纏った腕で、宮本の手を弾き飛ばす。


「チッ!」


 宮本は即座に能力を発動した。


 《裂断》。


 ザッ!


 久我の《血装》の赤黒い表面に、深い線状の裂傷が走る。


(切れる!)


 完全には装甲を抜かれていない。しかし、同じ箇所へ数度繰り返されれば、腕ごと切断される危険があった。


       *


 車内という極端に狭い空間。


 宮本は外。久我は中。


 互いに自由に動き回ることはできない。だが、それはむしろ久我にとっては都合が良かった。


 宮本が篠崎へと至るルートは、久我が塞いでいる『この一方向』だけなのだ。


 先日、剣持から学んだ『相手の選択肢を減らす』という戦術が、この狭い車内では自然と成立していた。


 宮本もまた、賢い能力者だった。


 無理に久我と連続して打ち合おうとはしない。一度、外へとサッと退く。


 久我は、追わない。


 宮本は、車の別のドアへと移動し、再び《裂断》で金属を切り裂こうとする。


 久我も車内を移動し、その前に立ち塞がって《血装》で防ぐ。


「邪魔!」


 宮本が苛立たしげに叫ぶ。


「それが、俺の仕事なんですよ!」


「もっと何とかしてくれ!」


 背後で震える篠崎。


「今やってるでしょうが!」


       *


 正面。


 火神の詠唱中を狙い、神崎が戦術を変えた。


 護送車そのものを狙うのではなく、側面から《衝圧》を放ってきたのだ。


 ドンッ!


 ワゴン車が、大きく横へと傾く。


 久我は片足を壁に突っ張り、篠崎の身体を押さえ込んだ。横転寸前のところで、車体はなんとか持ち堪える。


「――凍れ!」


 火神の詠唱が完了した。


 《四象攻術・氷》


 神崎の足元、アスファルトの道路表面が、一瞬にして分厚い氷で覆われた。


 踏ん張りが利かなくなる。


 神崎が次の《衝圧》を放とうとした瞬間、その反動で彼自身が氷の上を激しく滑り、体勢を大きく崩して転倒した。


「一人、少し黙らせた!」


 火神の声が車内に響く。


       *


 その直後。


 側面に張り付いていた宮本が、一度大きく後退し、道路脇へと離れたのが見えた。


 明らかに、不自然なほどの『隙』だった。


 今の久我から見れば、車外へ飛び出せば、確実に彼女の背中に追いつけそうだった。


 宮本が、チラリとこちらを振り返る。


 久我の足が、反射的に動きかける。


(……追わせたい?)


 剣持の教えが、再びフラッシュバックした。


『相手が選びたくなる答えを置け』


 久我は、宮本の姿を冷静に見た。


 あまりにも、「追いかけてください」と言わんばかりの絶好の立ち位置。


 久我は、ピタリと動きを止めた。


「……違う」


 久我は、すぐさま首を反対側へと向けた。


 そこには。


 さっき火神の氷で滑って倒れたはずの神崎が、すでに立ち上がっていた。


 火神は、次の詠唱へと意識を集中しており、すぐにはこちらへ割り込めない。


 神崎の視線は、真っ直ぐに、車内の篠崎へと向けられていた。


 宮本が久我を外へと引き出し、その隙に、神崎が反対側から護送対象の篠崎へ向かって、直接《衝圧》を叩き込む。


 生きたまま連れ戻すのが難しいと見て、今度は口封じへ切り替えたのだ。


 そういう、二段構えの囮作戦だった。


       *


 神崎が、両掌を突き出した。


「死ね!」


 最大出力の《衝圧》が放たれる。


 だが、そこには、外へ出ずに残っていた久我が立ちはだかった。


 篠崎の真正面。《血装》を両腕と胸に極限まで集中させる。


 ドンッ!!


 凄まじい衝撃が、車体を貫いて久我を襲う。


 《血装》に深い亀裂が入り、久我の肩と肋骨に激しい痛みが走る。


 それでも。


 後ろには、守るべき篠崎がいる。


 だから、一歩も下がらない。


『食らうなら、自分で選んで食らえ』


 久我は、頭部と心臓周辺を《血装》で厚く守り、肩、腕、胴へ衝撃を逃がすように身体を傾けた。


 完全に防ぐのではない。致命傷になりにくい部位へ負荷を散らしながら、残りの衝撃を正面から受け切る。


       *


 神崎は、大出力の《衝圧》を放った直後だった。


 両腕を前に突き出し、腰、肩、重心のすべてを、その一撃の攻撃動作へと使い切っている。


 久我の《魔眼》が、その『一瞬の完全な固定状態』を捉えた。


(今!)


 久我は、今度は自分から車外へと飛び出した。


 敵の誘導に乗って出るのではない。自分の意思で、勝つために選んで出たのだ。


 神崎が攻撃後の硬直から立ち直る、そのコンマ数秒の隙へと踏み込む。


 右拳に《血装》を纏わせる。


 神崎が、ハッとして避けようと身体を捻る。


 久我は、その動きを追わなかった。


 神崎が逃げやすい側は、車体で塞がれている。反対側は、火神が作った氷の路面だ。


 選択肢は、極端に狭い。


(……こっちへ来る)


 久我は、神崎が逃げるであろう空間へと、自分の右拳を『先に置いて』待った。


       *


 ドンッ!


 鈍い手応え。


 久我の拳が、自ら飛び込んできた神崎の頬へ、クリーンヒットした。


 神崎が、大きく体勢を崩してよろめく。


(……当たった)


 久我自身が、一瞬だけ驚いた。


 あの規格外のダン相手ではない。達人の剣持相手でもない。


 でも。


 数日前の訓練で覚えた戦術が、初めて実戦の場で見事に形になった瞬間だった。


 だが、喜んでいる暇はない。


「っ!」


 背後から、宮本が迫っていた。


 《裂断》。


「うわっ!」


 久我の肩の《血装》が、鋭く切り裂かれる。


(そりゃそうだ!)


 訓練のように、相手が親切に動きを止めて待っていてはくれないのだ。


       *


「伏せろ、久我!」


 火神の詠唱が完了した声が響く。


 久我は、一切の躊躇なくその場にバタンと伏せた。


「――雷!」


 目も眩むような閃光が、宮本へと向かって放たれた。


 直撃ではない。宮本の足元のアスファルトへ雷撃を落とし、跳ねた電流だけを彼女の両脚へと走らせる。


「アァッ!」


 宮本の筋肉が強烈な電流で硬直し、そのまま道路へと崩れ落ちた。


 だが、神崎はまだ立っていた。


 頬から血を流しながら、激怒した顔で久我へと突進してくる。


「ふざけんな!」


 近接戦。


 《衝圧》は強力だが、連続して大出力を放つには僅かな間が必要だ。久我は《魔眼》でそのタイミングを読み、防戦を展開する。


「久我!」


 火神が叫ぶ。


「長引かせるな! 護送対象を動かすぞ!」


 そうだ。敵を全滅させることが任務ではない。


「了解!」


 久我も、ここで欲張ることはしなかった。神崎を追撃して完全に倒そうとはせず、篠崎を守れる車内の位置へと素早く戻る。


「車両、走行可能です!」


 運転手が叫ぶ。側面ドアは破損しているが、エンジンもタイヤも無事だ。


「乗れ!」


 久我が車へと飛び乗る。


 宮本は麻痺して動けない。神崎が、血走った目で車を追おうとする。


「――風!」


 火神が短い詠唱で放った突風が、神崎の身体を道路脇へと吹き飛ばし、最後の足止めを果たした。


 その間に、ワゴン車は急加速し、襲撃の現場から一気に離脱した。


       *


 車が走り出して数分。


 篠崎は、荒い息を切らしながら後方を振り返った。


「……逃げるのか?」


「はい」


 久我が即答する。


「あいつら、あそこで完全に捕まえなくていいのかよ?」


 火神が、冷ややかな視線を篠崎に向けた。


「俺たちの仕事は何だと思ってる?」


「……」


「お前を、目的地まで無事に届けることだ」


 窓の外へ流れていく夜景を見ながら、久我も深く同意した。


 以前の彼なら、「捕まえられる状況なら、悪党は捕まえておきたい」と考えていたかもしれない。


 でも、今は違う。車内には、守るべき護送対象がいる。ここで無駄にリスクを負って戦場に戻る理由は、一つもないのだ。


「火神さんの言う通りです」


『増援班が、襲撃地点へと到着しました』


 かれんからの通信が入る。


『宮本紗季、現場で確保。神崎修司、逃亡を試みましたが、周辺封鎖により短時間で捕縛完了しました』


 自分たちで無理に追わなくても、組織が確実に後処理をしてくれる。それが、八咫烏という巨大なシステムの一部として動くということだ。


       *


 篠崎は、どこか信じられないという顔で久我を見た。


「……俺のこと、本当に目的地まで運ぶんだな」


「だから、最初からそう言ってるでしょう。あなたは護送対象なんですから」


 篠崎は、少しだけ自嘲気味に苦笑した。


「俺、犯罪者だぞ」


「知ってます」


「それでも?」


「それとこれとは、別です」


 久我の答えは揺るがなかった。


 久我にとって、犯罪者である篠崎を命がけで守ることは、少しも矛盾していない。


 彼が罪を犯したのなら、八咫烏が調べる。法の下で裁く。必要なら処罰する。


 でも、だからといって、元仲間が勝手に私刑にして殺していい理由にはならないのだ。


 これは、あの連続殺人犯の相良に向けて言った言葉と同じ、久我の中の明確な線引きだった。


       *


 火神が、少しだけ笑って久我を見た。


「お前、前一緒に組んだ時より、少し戦い方が変わったな」


「そうですか?」


「さっき。最初の女が隙を見せた時、追わなかっただろ」


「……ああ」


「前のお前なら、敵が動いたら全部律儀に目で追って、釣られてただろ」


 久我は、少し耳が痛かった。


「数日前に、剣持さんにも全く同じようなことを指摘されました」


「だろうな」


 火神は頷く。


「今日は、相手の表面的な動きじゃなくて、『相手が自分に何をさせたいか』を見てた」


 先輩からの評価に、久我は少しだけ嬉しくなった。


「まあ」


 火神がニヤリとする。


「その直後に、普通に肩を切られてたけどな」


「そこ、今言います!?」


 後部座席で、篠崎が思わず吹き出して笑った。


       *


 深夜。


 八咫烏の管理施設、地下搬入口。


 厳重なゲートが開き、破損した護送車が到着した。


 待機していた職員たちが、篠崎を引き取る。身体の安全確認、拘束状況の確認、そして引き渡し書類のサイン。


 これで、任務は完全終了だ。


 施設へと入る直前、篠崎は振り返り、久我たちを見た。


「……約束通り、俺が知ってる連中の名前は、全部話すよ」


「そうしろ」


 火神が短く応える。


「その方が、あなた自身のためにもいいです」


 久我も頷く。


 篠崎は少しだけ迷ったような顔をしたが、最後はスッキリとした表情で言った。


「今夜俺を襲ってきた連中だけじゃない。裏で繋がってる奴らの名前も、全部出す」


 ここから先は、八咫烏の調査部の仕事だ。篠崎の供述は、関連する犯罪グループを追うための重要な手がかりとして扱われることになる。


 篠崎が奥へと消え、重いゲートが閉ざされた。


 久我は、長く、深い息を吐き出した。


「……終わった」


「ああ」


 そして。


 二人は、自分たちが乗ってきた護送車を見た。


 側面ドアは鋭利に切断されてひしゃげ、フロントガラスには蜘蛛の巣状のひびが入り、車体のあちこちが大きく凹んでいる。


「なあ」


「はい?」


「俺たち二人で護送任務やると、毎回、乗ってた車両がボロボロに壊れてないか?」


「……」


 呪物の腕を運んだ前回。そして今回。


「偶然ですよ」


「次に俺がお前と組む時、また『護送だ』って言われたら、その場で任務断ろうかな」


「俺まで巻き添えにして評価下げないでください!」


       *


『お疲れ様でした』


 かれんから、任務完了の通信が入った。


『久我さん。正面の襲撃者の陽動に釣られず、篠崎さんの側へ残った判断は、極めて適切でした』


 かれんが評価したのは、敵を撃退したことではなく、状況を見極めたその判断力だった。


「ありがとうございます」


『剣持さんとの訓練が、早速役に立ったようですね』


「……はい」


 久我は、少し照れくさそうに笑った。


 ふと。


 久我は、自分の右拳を見た。


 神崎の頬へ、今度はかすっただけではなく、的確なタイミングでちゃんと一発、重い一撃を入れることができた。


 もちろん、あの化物のようなダンとは比較にならない相手だ。でも。


 小さな、しかし確かな実戦での成功体験。


 久我の口元が、少しだけ緩む。


「なんで笑ってんだ?」


 火神が訝しげに聞く。


「いや。ちょっと、今日は一発ちゃんと自分の拳が当たったな、と思って」


「……」


 火神は、最近の事情を思い出して呆れた顔をした。


「お前。まさか今の襲撃犯相手に、ダン用の殴る練習をしてたんじゃないだろうな?」


「してませんよ! 結果的に試せただけです!」


「まあ、次はダン本人に当ててみろ」


「言われなくても、絶対そのつもりです」


「返り討ちにされて殺されるなよ」


「そこは、本当に気をつけます」


 少し間を置いて。


 火神が、真面目な顔で付け加えた。


「あと」


「はい?」


「次にダンと会っても、護送中や任務中に大声で喧嘩するのはやめろよ」


「俺を何だと思ってるんですか!?」


「社会人」


 久我の動きが、ピタリと停止した。


 ダンの、あの軽い声が脳裏に甦る。


『お前、社会人だろ? まず仕事しようぜ?』


 久我は、今日一番の渋い顔をして顔をしかめた。


「……今、その単語、あんまり聞きたくないんですよ」


「なんでだよ」


 不思議そうな火神に、久我はただ深くため息をつくだけだった。


最後までお付き合いいただき感謝します。


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