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第63話 吸血鬼、剣持に一発だけ当てたいと相談する

 数日後。


 御影坂高校、夜間警備班の活動開始前。


 久我陽介は、指定された時間よりも少し早く体育館へと到着していた。


 まだ皇かれんたち他のメンバーの姿はない。広い体育館の隅では、剣持が一人で黙々と身体を動かしていた。


 愛用の刀は脇のベンチに置かれたままだ。


 軽いシャドーボクシングのような動き。しかし、その足運びには一切の無駄がなく、体幹は少しもブレていない。いかにも幾多の死線を潜り抜けてきた、実戦慣れした人間の淀みのない動きだった。


 久我は声をかけず、入り口付近でしばらくその動きを眺めていた。


 やがて、剣持が軽く息を吐いて動きを止めたタイミングで、久我は歩み寄った。


「剣持さん、ちょっと相談いいですか」


 剣持が振り返り、首にかけたタオルで汗を拭いながら眉を上げた。


「ん?」


「ちょっと、戦闘について聞きたいことがあるんですけど」


「珍しいな」


 剣持は、少し興味深そうな顔をした。


 これまで、久我が訓練で剣持から教えを請うことはあっても、自分から具体的な戦闘の課題を持ち込んでくることはほとんどなかったからだ。


「何だ?」


       *


 久我の表情は、大真面目だった。


「俺より圧倒的に強くて」


「うん」


「俺より圧倒的に速くて」


「うん」


「戦闘経験も、俺より遥かに豊富にあって」


「うん」


「普通に真正面から殴っても、ほぼ効かなくて」


 そこまで聞いて、剣持はだんだんと久我が何を言おうとしているのか察しがついた。


 久我は、真剣な目で続けた。


「そういう『人狼』に、一発だけでもまともにパンチを当てるには、どうしたらいいですか?」


 数秒の沈黙。


 剣持が、呆れたような顔で言った。


「……ダンのことか?」


「なんで分かったんですか!?」


 久我が素っ頓狂な声を上げる。


「あのな」


 剣持がため息をつく。


「お前を道端で本気で殺しかけた狂ったハンターが、数日後に外部協力員としてお前と一緒に仕事して、正体バレして大喧嘩になったんだろ?」


「……はい」


「八咫烏の実働部隊の現場じゃ、その話、もう結構有名になってるぞ。酒の席のいいツマミだ」


「最悪だ……」


 久我は両手で顔を覆った。


 剣持が、堪えきれずに短く笑った。


「で?」


「はい?」


「勝ちたいのか? あいつに」


 久我は、自嘲気味に即答した。


「それは、今は無理です」


       *


「勝てるとは、自分でも思ってません」


 久我は、自分の実力を冷静に分析していた。


「真正面からやり合ったら、今の俺の身体能力じゃ、何回やってもボコボコにされるだけです」


 あの夜の死闘を思い返す。


 防御のための《血装》は、ただの標識の一撃で粉々に砕かれた。《魔眼》で相手の攻撃の軌道が見えていても、自分の身体が反応しきれず避けきれなかった。切り札である《内在時間》まで一瞬だけ使ったのに、心臓への直撃をギリギリで外して守るだけで精一杯だったのだ。


 久我は、ギュッと拳を握りしめた。


「でも……」


「でも?」


「次に会った時、またあんな余裕ぶった顔で『Hi!』とか言って笑われるのは、ものすごく腹立つんですよ」


 久我の目には、理不尽に命を弄ばれたことへの静かな怒りと、圧倒的な格上になす術もなく敗北したことへの、痛烈な悔しさが宿っていた。


「だから、一発」


 久我は、人差し指を立てた。


「一発だけでいいんです。あいつの顔面に、ちゃんと俺の拳を当てたいんです」


       *


 剣持は、しばらく黙って久我の顔を見ていた。


 そして。


「ハハッ!」


 声を出して笑った。


「ちょっと、笑わないでくださいよ。こっちは大真面目なんですから」


 久我がムッとして言う。


「いや、悪い悪い」


 剣持は笑いながら手を振った。


「でも、そのくらいの目標の方がいい」


「いいんですか?」


「ああ。今の身の丈に合わない、最初から『勝とう』とするような無謀な目標よりは、遥かに現実的でマシだ」


 剣持はタオルをベンチに投げ捨て、体育館の中央へと歩き出した。愛用の刀は置いたままだ。


「ほら」


「はい?」


「俺に、その『一発』を当ててみろ」


 久我が目を丸くする。


「今からですか?」


「今からだ」


「いや、俺まだ準備運動も全然してないんですけど」


「ダンがお前を襲った時、準備運動する時間なんてくれたか?」


「……しませんでしたね」


 久我はネクタイを外し、ワイシャツの袖を捲り上げながら中央へと歩み出た。


「じゃあ、来い」


       *


 第一回。


 久我は右目に《魔眼》を起動し、両腕の拳の周辺にだけ、打撃力を上げるために薄く《血装》を展開した。


 真正面から、剣持の動きを見る。


 肩の筋肉の収縮。腰の回転。膝の角度。重心の移動。


 魔眼の視界には、すべてが情報として可視化されて見えている。


 久我が踏み込む。


 真っ直ぐな右拳。


 しかし、剣持は僅かに首を傾けただけで、その一撃を完全に躱した。


 久我はすぐに左拳を繰り出すが、それも空を切る。下段への蹴りも、軽々とステップでかわされた。


 三十秒。


 一分。


 久我は、ただの一発も剣持に当てることができなかった。


 剣持は、反撃すらしていない。ただ、久我の攻撃を最小限の動きで避けているだけだ。


「……っ!」


 拳。空。


 拳。空。


「遅い」


 剣持が冷たく言い放つ。


「分かってますよ!」


 久我は焦りから、さらに大振りな攻撃を繰り返す。


       *


 二分程度が経過した。


 久我はすでに息を切らし、肩で息をしている。


 対する剣持は、呼吸一つ乱さず、開始位置からほぼ同じ場所に立っていた。


「終わり」


「まだ――」


 久我がさらに踏み込もうとした、次の瞬間。


 剣持の指先が、いつの間にか久我の額のド真ん中に、コツン、と当てられていた。


「今ので、実戦ならお前は死んでる」


「……」


 久我は、突きつけられた圧倒的な事実の前に、言葉を失った。


       *


「やっぱり、俺の純粋な身体速度が遅いからですか?」


 久我が息を整えながら尋ねる。


「違う」


 剣持は即答した。


「違う?」


「いや、お前が遅いのも事実だ」


「ありますよね、やっぱり」


「でも、お前の攻撃が当たらない一番の根本的な問題は、そこじゃねえ」


 剣持は、自分の目を指差した。


「お前、さっきからずっと俺のことを見てただろ」


「魔眼で、ですか?」


「そう。肩が動いた。重心が変わった。次に俺がどこへ動くか、お前の目には分かってたはずだ」


「はい」


「で、分かってから、俺の動きを『追って』きた」


 久我は、黙り込んだ。


「だから、全部が『後手』なんだよ」


 剣持の厳しい指摘が、久我の胸に突き刺さる。


「相手が動く。お前が目で見る。脳で判断する。そして、身体で追う。……そんなチンタラしたプロセスを踏んでたら、格上には絶対に当たらねえ」


 久我の脳裏に、あの夜の人狼戦の絶望がフラッシュバックした。


 まったく同じだった。


 相手の攻撃の軌道は、魔眼で見えていた。でも、見えてから対応しようとした結果、身体の反応速度が追いつかずに、全てが間に合わなかったのだ。


       *


「お前のその目、確かに便利なんだよ」


 剣持は言う。


「便利すぎる」


「便利すぎる?」


「ああ。見れば大抵のことが分かるから、無意識のうちに『相手の動きに合わせて対応する』っていう、受動的な癖が染み付いてる」


 それは以前から指摘されていた、久我の『魔眼への依存』の、さらに一歩先にある深刻な弊害だった。


 見えるからこそ、相手の動きを待ってしまう。それが、格上相手には致命的な隙となるのだ。


「お前より速い奴を、見てから追いかけるな」


「じゃあ、どうするんです?」


「追わせろ」


「……俺を、ですか?」


「違う」


 剣持が、久我の胸をトンと指差した。


「お前が用意した筋書きを、相手に追わせるんだ」


       *


「相手に、選ばせろ」


 剣持の教えは、極めて実践的だった。


「どんなに強い奴だって、無限に選択肢があるわけじゃねえ」


 例えば。


 久我が、わざと自分の右側を大きく空ける。


 相手には、『右を狙う』『左を狙う』『下がる』という、いくつかの選択肢がある。


 でも。


 もし、相手の左側が壁で、後ろに障害物があり、久我の右側だけが明確な隙としてぽっかりと空いていたらどうなるか。


 相手が、『右を狙う』確率が飛躍的に上がる。


「予知能力なんかなくてもいい。相手がどうしても選びたくなるような『答え』を、こっちから先に目の前に置いといてやるんだ」


「誘導……ですか?」


 久我が、理解の糸口を掴みかける。


「そう。単なるフェイントよりも、もっと広い意味でのな」


 剣持が拳を握る。


「殴る瞬間だけじゃない。立つ場所。構え。視線。何を守って、何を空けるか。その全てを使って、相手の次の行動の選択肢を狭めていく」


「それで、相手が来る場所に、こちらから先に攻撃を置いておく?」


「そういうことだ」


       *


「何してるんですか?」


 体育館の入り口から、声がした。


 振り返ると、澪、千鶴、そして杖原の三人が連れ立って入ってくるところだった。


「剣持さんに、ダンを一発殴るための方法を教えてもらってます」


 久我が答えると、澪の目が一瞬でギラリと光った。


「私もやります」


「なんで七瀬さんまで!?」


「私も、あいつには一発蹴るだけじゃ全然足りないですから」


「話の趣旨が変わってくるから、お前はちょっと待ってろ」


 剣持がため息をついて止める。


 そこへ、少し遅れてかれんも到着した。


 事情を聞いたかれんは、「なるほど」と深く頷いた。


「止めます?」


 久我が恐る恐る尋ねる。


「いいえ」


 かれんは即答した。


「圧倒的な格上との遭遇経験を、ただの恐怖で終わらせず、具体的な戦闘の課題へと変換するプロセスは、実働員として非常に有益です」


「普通に許可された」


 組織の合理性が、今回は久我に味方した。


「じゃあ、せっかくだ」


 剣持が、ギラギラしている澪を見た。


「こいつにも、お前の訓練を手伝ってもらうか」


「はいっ!」


 澪が満面の笑みで答える。


「嫌な予感しかしないんですけど」


 久我の顔が引き攣った。


       *


 第二訓練。


『澪を捕まえろ』


「七瀬。全力はいらん。七割くらいの速度で動け」


「分かりました」


「いや、七割でも相当速いんですけど」


 久我が抗議する。


「あのダンとかいう化け物よりは遅いだろ」


「そうですけど!」


 課題は単純だ。逃げ回る澪の肩へ、久我が一度でも触れることができればクリア。


 開始。


 澪が、七割とはいえ高速で移動を開始する。


 久我は《魔眼》でその動きを追う。


 見える。右へ行く。追う。


 だが、久我が動いた時には、澪はもう左へ切り返している。


 左へ追う。


 澪はすでに後ろへ回り込んでいる。


「速っ!」


「陽介さん、さっきより目が完全に私を追いかけちゃってますよ!」


 澪が楽しそうに笑う。


「だから、追うなって言っただろ!」


 剣持の檄が飛ぶ。


       *


 久我は、動きを止めて考えた。


 体育館の中央に立っていては駄目だ。ここなら、澪には全方向への自由な逃げ場がある。


 そこで。


 久我は、ゆっくりと体育館の壁際へと移動した。


「?」


 澪が首を傾げる。


 自分から逃げ場を減らしたのだ。


 剣持が、それを見て少しだけ満足そうに笑った。


 久我は、壁を背にした状態で、右肩を僅かに下げた。


 自分の右側の空間を、意図的に広く空ける。左側は壁に近すぎる。


 前には久我。後ろは体育館の壁。


 今の澪の視点から見れば、久我の右側を高速で抜けるのが、最も簡単で安全なルートに見えるはずだ。


 澪が、そこへ向かって高速で踏み込んだ。


(右!)


 久我は確信し、澪が来るであろう右側の空間へ、先に手を伸ばした。


 だが。


 澪は、久我の右手が伸びてきた直前で、ピタリと急停止した。


 そして、信じられない挙動で逆の左方向へと切り返し、久我の左側を悠々と駆け抜けていった。


「えっ!?」


 久我は、完全に空気を掴んだまま硬直した。


「馬鹿」


 剣持の声が響く。


「いまの、完璧に誘導できてましたよね!?」


「ああ、できてた」


「じゃあなんで!」


「相手だって、考えて動くからだよ」


       *


「誘導したら、相手が絶対にそこへ来るなんて思うな」


 剣持が呆れたように言う。


「そこへ来る『可能性』を上げるだけだ。七瀬だって、お前がそこで露骨に待ち構えてるのが見えれば、当然ルートを変える」


「……なるほど」


「だから、もう一段階いる」


「もう一段階?」


「お前が何を狙っているかも、相手に見せろ」


 剣持の高度な理論に、久我は目を白黒させる。


「見せるんですか?」


「隠すだけが騙しじゃねえ」


 例えば。


 右を狙っているということを、あえて相手に理解させる。


 相手は当然、危険な右を避ける。


 ならば、『右を避けた先のルート』へ、自分の本命の攻撃を置いておくのだ。


「……二段階の罠を張るってことですか?」


「ダンみたいな古株の化け物に一発入れたいなら、最低限そのくらいは頭を使え」


       *


 三回目。


 久我は再挑戦する。


 壁際。右を空ける。


 澪が、再び右の空間へと入ろうとする。


 久我は、右拳を突き出した。


 澪は、予想通り、その右拳を避けるために途中で強引に左へと切り返した。


 でも。


 久我の右拳は、最初から当てるつもりなど全くなかった。それは、自分の身体を左へと素早く回すための、単なる『反動の動作』に過ぎなかったのだ。


 本命である左手。


 それが、切り返した澪の進路のど真ん中へと、最初から『置かれて』いた。


 久我の指先が、澪の制服の袖に、ほんの僅かに触れた。


 スッ。


 澪が、驚いて急停止する。


「……触った?」


 久我が自分の指を見る。


「袖だけな」


 剣持が厳しく判定する。


「でも、触りましたよ!」


「相手が七割の力しか出してない、女子高生だけどな」


「少しは喜ばせてくださいよ!」


 久我が文句を言う。


「陽介さん、今のちょっと嫌でした」


 澪が、袖を払いながら不満げに言った。


「嫌って何です?」


「なんだか、自分の行きたいところに、強引に追い込まれたみたいな嫌な感じがしました」


 それこそが、誘導が成功した何よりの証拠だった。


       *


「ダン相手なら、これだけじゃまだ足りねえ」


 剣持が言う。


「でしょうね。あいつは七瀬さんより強いし、速いし、何より場数が全く違います」


「ああ。ああいう歴戦のハンターには、普通のフェイントなんて全部見抜かれると思え」


「じゃあ、結局当たらないじゃないですか」


 剣持は、久我の胸を真っ直ぐに見た。


「だから、お前にしかできない方法を使え」


「俺にしか?」


「お前、多少身体が壊れても、すぐに治るだろ」


 久我は、ものすごく嫌な顔をした。


「……その言い方、すごく嫌なんですけど」


「でも、事実だろ」


 あの夜のダン戦。


 久我は、心臓などの急所への致命傷を避けることだけに全力を注いでいた。


 それは生存戦略としては当然だ。でも、『一発当てるだけ』という目的に絞るなら。


『致命傷ではない攻撃を、あえて完全回避しない』という選択肢が生まれる。


       *


「全部を綺麗に避けようとするな」


 剣持の教えは、狂気じみていた。


「右肩を殴られる。肋骨を一本折られる。腕を一本やられる。その代わり、相手の懐の絶対的な間合いに残る」


「……」


「圧倒的な格上相手なら、自分だけノーダメージで勝とうなんて甘い考えは捨てろ。何を食らって、何だけは絶対に食らわないか。その取捨選択を自分で決めろ」


 これは、久我がダンの猛攻の中で無意識にやっていた、『心臓・頭・首だけは死守する』という生存本能の、攻撃的発展形だった。


「ただし、不必要に自ら負傷しろという意味ではありません」


 かれんが、横から冷静に補足した。


「当たり前だ」


 剣持が頷く。


「食らうなら、自分で選んで食らえって話だ」


 久我には、《魔眼》がある。


 相手の攻撃の正確な位置が分かる。だからこそ、「この一撃なら、ここで受けても即死はしない」というギリギリの判断ができる。


 そこに《血装》を集中させて被害をさらに限定し、最後は吸血鬼の再生能力で強引にカバーする。


 これなら、久我の戦い方と完璧に噛み合う。


「安全な範囲のダメージを自分から選択して受け入れ、相手を『攻撃動作』へ完全に固定する……」


 久我は呟いた。


 攻撃中の相手は、完全な自由状態ではない。拳を振った瞬間、蹴りを放った瞬間、相手の重心、腕、腰は、一瞬だけその動作に縛られる。


 その隙を突く。


(……その瞬間だけ、《内在時間》を使えば)


 久我は、自分だけが知る秘密の能力を思い出した。誰にも話してはいないが。


 相手に攻撃を選ばせる。受ける場所を決める。攻撃に相手の身体が固定された瞬間、《内在時間》を発動し、そこから反撃に転じる。


 あの夜は逃げるために使った能力を、次は攻めるために使えるかもしれない。


       *


「じゃあ最後」


 剣持が、再び体育館の中央に立った。


「俺に、今の理屈で一発入れてみろ」


「今度は、反撃ありですか?」


「ありだ」


「急に難易度が跳ね上がりすぎません?」


「ダンがお前に反撃してこねえのか?」


「思い切りしてきますね!」


 条件は以下の通り。


 剣持は刀を使わず、素手のみ。久我も《血装》と《魔眼》を使用可能。《内在時間》は秘密なので使用しない。


 目標。久我が剣持へ一撃でも入れることができれば終了。


 剣持側は、久我を戦闘不能にしたら終了。


「始めてください」


 かれんの合図で、最後の訓練が開始された。


 久我が構える。剣持は自然体で立つ。


 久我は動かない。さっきまでのように、無闇に自分から突っ込むことはしなかった。


「ほう」


 剣持が少しだけ笑い、自ら踏み込んできた。


 速い。


 久我の《魔眼》が捉える。肩の動き。拳。顔面への鋭いジャブ。


 久我はそれを最小限の動きで避ける。


 次。腹部への強烈な蹴り。


 久我は《血装》を展開してそれを受ける。


 数回の攻防。


 久我は完全に翻弄されていた。


「また、俺の動きを追ってるぞ!」


 剣持の檄が飛ぶ。


「分かってます!」


 このままでは、あの夜と同じだ。


       *


 久我は、一度大きく後退して距離を切った。


 体育館のライン。背後の壁との距離を測る。


 剣持が、悠然と追ってくる。


 久我は、自分から左側へ、少しだけ露骨な隙を作った。


 剣持は当然、それに気づく。


「露骨すぎる」


 剣持は左へは行かず、右から回り込んで久我を吹き飛ばした。


「陽介さん!」


 澪が叫ぶ。


「まだです!」


 久我はすぐに起き上がった。一度目の誘導は失敗。


 二度目。


 今度は、隙を見せない。普通に防御し、何度も右側への攻撃を警戒する素振りを見せる。


 剣持に、「久我は右への攻撃を極度に警戒している」という偽の認識を刷り込んでいく。


 何度も。何度も。


 そして。


 本命の仕込み。


 久我は、わざと左腕の《血装》の展開を薄くした。右側は厚く保つ。


 魔眼で見れば、剣持の視線が、一瞬だけその『防御の薄い左側』へと向いたのが分かった。


(……来る)


 だが、久我はまだ動かない。


       *


 剣持が、致命的な速度で踏み込んできた。


 狙いは、防御の薄い左側の脇腹。強烈なボディブロー。


 久我には、その軌道がはっきりと見えている。避けようと思えば、ギリギリで避けられる。


 でも。


 避けない。


 久我は、左脇腹の一点にだけ《血装》を瞬間的に集中させた。


 ドンッ!


 凄まじい衝撃が久我の身体を貫く。


 血装越しでも、肋骨に強烈なヒビが入る嫌な感触があった。


 普通なら、この衝撃で後方へ吹き飛ばされているはずだ。


 だが、久我は両足で床を強く踏ん張り、身体が悲鳴を上げるのを無視して、その場に留まった。


 逃げない。


 剣持の拳は今、久我の脇腹へ深く食い込んでいる。


 剣持の右肩、腰、重心。そのすべてが、攻撃動作のフォロースルーとして、一瞬だけ完全にその場へ『固定』されたのだ。


「もらった!」


 久我が、右の拳を剣持の顔面へ向けて振り抜く。


 剣持は、当然反応した。達人の反射神経で頭を後ろへ引き、その拳を躱す。


 久我の右拳が、空を切る。


「あっ!」


 澪が残念そうな声を上げる。


 失敗――ではない。


 久我は、剣持が右拳を避けるところまで、完全に罠として計算していたのだ。


 右拳を避けたことで、剣持の顔は、久我から見て左方向へと流れた。


 そこには。


 久我の、本命の左手がすでに待ち構えていた。


 脇腹を殴られた直後なので、動きはひどく鈍い。ギリギリのタイミングだ。


 スッ。


 久我の左拳が。


 剣持の頬を、ほんの僅かにかすめた。


       *


 全員の動きが、完全に静止した。


「……」


 剣持が、自分の頬を指でそっと触った。


「当たった!」


 澪が歓声を上げる。


「……当たった?」


 久我自身も、半信半疑で自分の左手を見る。


「かすりましたね」


 千鶴が冷静に判定を下す。


「かすった!」


 久我が、珍しく両手を挙げてガッツポーズをした。


「よしっ!!」


「そんなに喜ぶほどの一撃じゃねえだろ」


 剣持が呆れて言う。


「一発も触れられなかったところからですよ!? 大進歩でしょう!」


「まあな」


 剣持は、少しだけ満足そうに笑った。


 その直後。


「……痛っ」


 久我が、急に左の脇腹を押さえて顔を歪めた。アドレナリンが切れ、痛みが戻ってきたのだ。


「大丈夫ですか!?」


 澪が駆け寄る。


「今ので、肋骨一本くらいはヒビ入ってるかもな」


 剣持が事も無げに言う。


「かすり傷一発当てるために、肋骨一本折るんですか!?」


「安いだろ」


「価値観が完全に戦闘民族なんですよ!」


       *


 久我が、少し落ち着きを取り戻して尋ねた。


「今の戦法、ダンのような化け物にも通用しますか?」


「一回くらいならな」


 剣持は即答した。


 久我の目が輝く。しかし。


「二回目は絶対に無理だ」


「なんでですか?」


「ああいう本物のプロは、一回見た手は一瞬で学習して、次は確実に潰してくる」


「……でしょうね」


「でも、お前の目標は『一発殴る』ことだろ?」


 剣持の言葉に、久我はハッとして動きを止めた。


 そして。


「……そうでした」


 久我の顔に、ニヤリと悪い笑みが浮かんだ。


「一発だけ入れば、それで俺の目的は達成されるんです」


「陽介さん、ものすごく悪い顔してますよ」


 澪が引く。


「俺だって、たまには悪い顔くらいしますよ」


「覚えとけ」


 剣持が、最後に訓示を垂れる。


「強い奴と戦う時、すべての要素で勝とうとするな。速度で負ける。力でも負ける。技術でも負ける。なら……『一瞬だけ自分が勝てる状況』を、自分の血を流してでも作れ。一秒全部はいらねえ。一瞬でいい」


 その言葉は、久我の戦い方の本質と深く噛み合っていた。


 圧倒的な身体能力はない。戦闘技術も浅い。


 でも、観察できる。考えられる。耐えられる。再生できる。


 そして、秘密の《内在時間》がある。


 久我は、「一瞬だけ条件を揃える」という戦い方と、非常に相性がいいのだ。


       *


「良い訓練だったと思います」


 かれんが、総括するように言った。


「ありがとうございます」


「ただし」


 久我の背筋に、嫌な予感が走る。


「次にダンさんを街で見かけても、絶対に自分から喧嘩を売ってはいけませんよ」


「……」


 澪が久我を見る。千鶴も見る。剣持まで呆れたように見る。


「売りませんよ! 俺をなんだと思ってるんですか!」


「じゃあ、向こうからまた襲ってきたら?」


 澪が尋ねる。


 久我は、少し間を置いて、真顔で答えた。


「……一発だけ殴ります」


「久我さん」


「正当防衛の範囲で!」


 久我の必死の弁明に、剣持がこらえきれずに吹き出した。


       *


 訓練が終了し、夜間警備の時間がやってきた。


 久我は、ズキズキと痛む脇腹を押さえながら、新しいワイシャツへと着替える。すでに吸血鬼の再生能力が働き、ヒビの修復が始まっている。


「本当に、吸血鬼の身体って便利ですね」


 澪が感心したように言う。


「俺も数日前に、自分の家で全く同じこと言いましたよ」


 二人の間に、少しだけ静かな間が空いた。


「……でも、その便利な身体のせいで、俺はあいつに狙われたんですよね」


「そこまで同じこと思ってたんですか」


 澪が苦笑する。


 千鶴が、着替えを終えた久我を見て言った。


「でも。前より、少しだけ楽しそうですね」


「そう見えます?」


「はい」


 久我自身も、それに気づいていた。


 あの日、死にかけた直後は、ただただ恐怖で背後を何度も確認し、また突然「Hi!」と声をかけられるのではないかと警戒していた。


 でも今は、ただ怖がっているだけではない。


 次にどうしてやろうか、どう一発殴ってやろうかと、前向きに考えている自分がいる。


「まあ……負けっぱなしっていうのは、やっぱり腹の虫が治まらないので」


 久我が少しだけ笑うと、剣持が「そのくらいでいい」と短く頷いた。


       *


 夜。


 いつもの巡回が始まった。


 久我、澪、千鶴、杖原、そしてかれん。五人は、普段と変わらない東京の夜の街へと足を踏み出した。


 久我は歩きながら、自分の右の拳をじっと見つめた。


 あの夜。あの人狼の巨体に、自分の拳は一発もまともに届かなかった。


 でも、今度は。


(一発)


 久我は、拳を軽く握りしめた。


(次は絶対に、一発は俺の拳を入れてやる)


 その、決意を新たにした直後だった。


 背後から、不意に声が響いた。


「陽介さん!」


「ビクゥッ!?」


 久我は、肩をビクンと跳ね上げ、獲物を狙う鷹のような鋭い動きで、思い切り背後を振り返った。


 そこには、ただ忘れ物を届けようとしただけの澪が、目を丸くして立っていた。


「えっ!?」


「……あ」


 全員の間に、気まずい沈黙が流れた。


 体育館から少し遅れて出てきた剣持が、その様子を見て腹を抱えて笑い出した。


「おいおい、まだ『Hi!』のトラウマの方は、全然治ってねえじゃねえか!」


「うるさいですよ!!」


 久我の情けない怒鳴り声が、夜の東京に虚しく響き渡った。


最後までお付き合いいただき感謝します。


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