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第61話 吸血鬼、穏健派の吸血鬼ハンターと仕事をする

 オレンジ色に染まる夕暮れ時。


 久我陽介は、自宅の洗面所にある鏡の前に立ち、ワイシャツのボタンを外して前を大きくはだけさせていた。


 無言のまま、自分の身体をじっと観察する。


 胸。肩。脇腹。腕。


 つい数日前まで、そこには見るも無惨な傷が刻まれていたはずだった。巨大な人狼の手刀によって抉り取られた左胸から肩にかけての深い裂傷、何度もへし折られた左腕の骨、粉々に砕けた肋骨、そして全身を覆っていた凄まじい打撲痕。


 それらがすべて、跡形もなく綺麗に治っている。傷痕どころか、皮膚の変色すらほぼ残っていない。


「……ひどい目にあった」


 鏡の中の自分と目を合わせながら、久我は心底うんざりしたような声で呟いた。


 本当に、それしか感想が出てこなかった。ただ会社から帰宅する途中だっただけなのに、なぜあんな絶望的な死闘を繰り広げなければならなかったのか。理不尽にも程がある。


 久我は左腕を曲げ伸ばししてみた。全く問題ない。スムーズに動く。


 肩をぐるぐると回してみる。違和感も痛みもない。


 大きく深呼吸をしてみる。肺が膨らんでも、折れていた肋骨が軋むような痛みは皆無だった。


「吸血鬼って、こういう時は本当に便利だなぁ……」


 死の淵を彷徨うほどの重傷を負い、大量の血液を失いながらも、自宅で数日間、八咫烏から支給された大量の血液製剤をひたすら摂取し、安静にして再生能力に身を任せていただけだ。それだけで、完全回復を果たしてしまった。もし普通の人間であれば、何か月もベッドの上で寝たきりになり、後遺症に苦しんでもおかしくないほどの深手だった。


 しかし。


 久我は、綺麗に治った自分の胸へと視線を落とし、小さく溜め息をついた。


「……でも、吸血鬼だったからこそ、これが原因で狙われたんだよな」


 吸血鬼だから、死にかけても元通りに再生できた。


 だが、そもそも吸血鬼でなければ、あんな通り魔のような吸血鬼ハンターに命を狙われること自体がなかったのだ。


 便利なのか、不便なのか、本当に分からない身体になってしまったものだ。


       *


 あの日、久我を襲撃した人狼については、その後もまだ見つかっていなかった。


 八咫烏からは、久我のスマートフォン宛てに何度か捜査の進捗を知らせる連絡が来ている。


 現時点で判明しているのは、相手が『巨大な人狼』であること、『吸血鬼ハンター』を自称していること、日本語が不気味なほど流暢であったこと、海外から『旅行中(休暇中)』として日本を訪れているらしいこと、そして、普段は『銀の杭』を好んで常用しているらしいこと。


 そして何より、久我陽介という存在に対して明確な殺意を持っていること。


 それだけだった。


 本名も、現在の所在も、一切不明。


 久我が決死の思いで緊急通報のボタンを押した後、現場に八咫烏の増援が到着する気配を察知した人狼は、あまりにも早く、そしてあっさりと逃亡してしまった。


 現場周辺の監視カメラの映像も洗ったようだが、奴は人気のない路地裏やビルの屋上ばかりを巧みに移動したため、決定的な手がかりは得られていない。


 何よりも八咫烏の捜索を困難にしているのは、久我が見たのは相手の『完全な人狼形態』だけだということだ。普段、人間社会に溶け込んでいるであろう『人間としての姿』を、久我は知らない。街中を歩いていても、すれ違っただけでは絶対に気づけないのだ。


「……また来るって、あいつ確かに言ってたんだよなぁ」


 久我は、ワイシャツのボタンを留め直し、ネクタイを締めながら暗い顔で呟いた。


 準備を終え、玄関のドアを開けて外へ出る時。


 久我は、無意識のうちにアパートの薄暗い廊下を端から端まで見渡し、背後を二度も確認してしまった。


 以前の彼なら、こんな神経質な真似はしなかっただろう。完全にトラウマとして心を病んでいるわけではない。しかし、夜の帰り道、背後から突然「Hi!」と陽気な声で呼び止められる恐怖は、今後一生、心の片隅に警戒として刻み込まれてしまっていた。


       *


 夜。御影坂高校。


 静まり返った校舎の一角にある、夜間警備班の詰所。


 数日間の療養休暇を終えた久我が、扉を開けて姿を見せると、詰所の中にいた面々が一斉に顔を上げた。


「陽介さん! 本当にもう大丈夫なんですか!?」


 七瀬澪が、パイプ椅子から弾かれたように立ち上がり、久我に駆け寄ってきた。


「はい。完全に治りましたよ。ご心配をおかけしました」


 久我が苦笑しながら答えると、澪は疑わしそうに久我の腕をジロジロと見る。


「折れてた腕も?」


「治りました」


「バキバキだった肋骨は?」


 鏡宮千鶴も、心配そうに尋ねてくる。


「治りました」


「損傷していた内臓も、すべて問題ありませんか?」


 杖原つかさが、手元のカルテデータのようなものを見ながら確認してくる。


「治りました」


 久我は苦笑いを深めた。


「……こうして怪我の箇所を一つずつ並べられると、改めてすごい状態だったんだなと実感しますね……」


 澪が、ギリッと奥歯を噛むような表情をして、小さく拳を握りしめた。


「見つけたら、絶対に私が蹴り飛ばします」


「いや、七瀬さん。相手は規格外の化け物ですよ。正面から突っ込むのは危険すぎます」


「大丈夫です! ちゃんと相手が死なないように、手加減して蹴りますから!」


「いや、俺が心配してるのはそこじゃなくてですね……」


 久我が宥めようとするが、澪の怒りは収まらないようだった。


「七瀬さん。今回の件については、個人的な感情で動かず、八咫烏の実働部隊の捜査に任せるべきです」


 千鶴が、冷静な声で嗜めた。


「……分かってますよ」


 澪は不満げに頬を膨らませた。彼女がこれほどまでに感情を露わにするのも無理はない。先日、血まみれになって完全に意識を失った久我が施設に運び込まれてきた姿は、この夜間警備班のメンバーにとってもかなりの衝撃だったのだ。


       *


 そこへ、詰所の奥の部屋から皇かれんが姿を現した。


「久我さん、復帰初日から申し訳ありませんが……早速、本日の任務について説明します」


 かれんが手元のタブレットを操作すると、壁のモニターに一人の男の顔写真が映し出された。


 少し神経質そうな、痩せ型の男だった。年齢は四十代前半といったところか。


相良圭吾さがら・けいご』という名前が併記されている。


「彼は、吸血鬼です」


 かれんの言葉に、久我は一瞬だけ表情を強張らせた。


「……吸血鬼、ですか」


 先日、自分が吸血鬼であるという理由だけで理不尽に命を狙われたばかりだ。同族に関する事件となれば、どうしても微妙な顔になってしまう。


「相良圭吾は、日本国内で正式に八咫烏に登録され、管理下にあった吸血鬼です。覚醒からおよそ十年。これまでは、定期的な血液製剤の受給ルールを守り、人間社会で大きな問題を起こすこともなく生活していました」


 かれんは、モニターの資料をスクロールさせた。


「しかし、約一ヶ月前から突然、連絡が途絶え、所在不明となりました。そしてその後……都内で発生した三件の殺人事件への関与が、強く疑われています」


「殺人……」


 久我が息を呑んだ。


「さらに、一名の一般人が現在も行方不明のままです。ただ、ここで強調しておきたいのは、彼はまだ『容疑段階』であるということです。裁判も、正式な事情聴取も行われていません」


 かれんは、久我の目を真っ直ぐに見た。


「したがって、今回の私たちへの命令は、殺害ではなく『生きた状態での身柄確保』です」


       *


「容疑段階とは言いますが、証拠はかなり揃っています」


 杖原が、横から補足の説明を入れた。


「被害者三人との事前の接触履歴。遺体の首筋に残されていた、吸血痕らしき特有の傷。大量の血液の喪失。そして何より、現場の一つに残されていた微物から、相良圭吾本人に由来すると考えられる血液反応が検出されています。失踪した時期と、事件の発生地域、彼の移動記録も完全に一致しています」


 そこまで聞かされれば、誰の目にも明らかだった。


「それって、ほぼ犯人確定じゃないですか?」


 澪が顔をしかめる。


「可能性は非常に高いです。……それでも、可能性と確定は別です。組織として、法的な手続きを無視することはできません」


 かれんが毅然と答える。


「まず生け捕りにして、本人の口から直接話を聞く。そういうことですね」


 久我の確認に、かれんは短く「はい」と頷いた。いつもの、日本側における八咫烏の基本方針だ。


「しかし、問題は彼の居場所の特定と、その捕縛方法です」


 杖原が表情を曇らせた。


「相良は吸血鬼です。夜間に行動し、人間を凌駕する身体能力と再生力、そして警察犬以上の鋭い嗅覚を持っています。しかも十年以上、自分の能力と付き合ってきた経験がある。逃亡生活にもすっかり慣れ始めているようです」


 実際、八咫烏の追跡部隊がこれまでに二度、彼の所在をかなり狭いエリアまで絞り込んだが、その度に間一髪で包囲網を抜けられ、逃げられているのだという。


「そこで今回、八咫烏の上層部は、吸血鬼の追跡経験が極めて豊富な『外部の専門家』を現場に呼ぶことを決定しました」


 かれんが、モニターの電源を切った。


「今回、外部から一名、強力な協力者がこの班に同行します」


「協力者?」


 久我が首を傾げる。


「吸血鬼ハンターです」


       *


 久我の動きが、文字通り完全に停止した。


 隣にいた澪も、ピタリと動きを止めた。


「……今、なんて言いました?」


 久我が、自分の耳を疑うように聞き返す。


「吸血鬼ハンターが同行します」


 かれんは、全く同じトーンで繰り返した。


 久我は、自分の顔を指差した。


「かれんちゃん。俺、吸血鬼なんですけど?」


「承知しています」


「私も吸血鬼です!」


 澪も、慌てて自分を指差してアピールする。


「承知しています」


 かれんは表情一つ変えない。


「いや、承知してるならおかしいでしょう! その状態で、吸血鬼ハンターをチームに同行させるんですか!?」


 久我はたまらず声を荒げた。よりによって、本職のハンターに心臓を抉られて死にかけた数日後だ。いくらなんでもタイミングが悪すぎる。


「ご安心ください」


 かれんが、なだめるように言う。


「今、世の中で一番信用できない言葉がそれなんですが」


「今回の協力者は、吸血鬼ハンターの中では比較的『穏健』な人物です」


「……穏健」


 久我は、妙にその単語に引っかかりを覚えた。穏健な吸血鬼ハンターとは、一体どういう存在なのだ。殺す前に一応話を聞いてくれるのか、それとも痛くないように殺してくれるのか。


「海外のハンターも、決して一枚岩ではありません」


 かれんが、以前久我も吸血鬼街で聞いたことのある事情を説明する。


「吸血鬼という存在そのものを憎悪し、見境なく殺す者。賞金のかかった犯罪者だけを狙うビジネスライクな者。金次第でどのような仕事でも受ける者。登録証を確認しただけで矛を収める者。様々です」


 久我の脳裏には、問答無用で殺しにきたあの巨大な人狼の姿が浮かんでいた。あいつは間違いなく『見境なく殺す者』の典型だろう。


「今回同行する人物は、正式な『契約任務』においては、依頼元のルールを厳格に守るプロフェッショナルなタイプです。今回の『殺害禁止・生け捕りによる捕縛』という命令にも、完全に同意しています」


「……任務中は、ですか?」


 久我が、ふと気になって尋ねた。


「任務中は、です」


「なんで今、そこ限定して繰り返したんですか!?」


 かれんのこの説明は完全に正しく、そして恐ろしい事実を示唆している。


 あの人狼は、仕事の契約であればそのルールを完璧に守る。捕縛と言われれば捕縛するし、味方だと言われれば吸血鬼とも平気で組むだろう。


 しかし、それはあくまで『仕事中』の話だ。


 休暇中、たまたま道端で吸血鬼を見つけたら、「じゃあ殺すか」となる。


 彼の中では、ただ公私を完全に分けているだけなのだ。


       *


 深夜。


 任務の開始地点に近い、人気の少ない広大な駐車場。


 夜間警備班の面々――久我、澪、千鶴、杖原の四人が、偽装車両の横で待機していた。かれんは今回は現場の遠隔指揮へ回り、ここにはいない。


「来ましたね」


 杖原の視線の先、暗がりから一人の外国人男性が悠然と歩いてくるのが見えた。


 でかい。


 人間としての姿であっても、明らかに周囲から浮くほど大きい。身長は百九十センチ台後半はあるだろう。肩幅が異常に広く、厚手のジャケットの上からでも、その下に隠された鋼のような筋肉の隆起がはっきりと分かる。


 年齢は三十代の後半程度。彫りの深い顔立ちで、非常に明るく、人懐っこい表情を浮かべている。


 そしてその右手には、ギターケースよりも一回り太く、頑丈そうな黒いハードケースが軽く提げられていた。


「どうも!」


 男は、チームの面々を見るなり、滅茶苦茶に流暢で明るい日本語で挨拶をした。


 男は、挨拶をしながらチームの顔を順番に見ていった。


 杖原。千鶴。澪。


 そして。


 久我。


 男と久我の目が、バチリと合った。


 男の明るい笑顔が、一瞬だけピタリと停止した。


 瞬きを一つ。


 次の瞬間。


「ブッ!」


 男は、盛大に吹き出した。


「……何か?」


 突然吹き出された久我が、ムッとして眉を寄せる。


 男――人狼側からすれば、この状況は喜劇以外の何物でもなかった。


 つい数日前、休暇中、夜飯を食べてホテルへ戻る途中で、偶然道端に見つけ、当然のように殺しかけた、あの『変な臭いのする吸血鬼』。


 それが今、今日の正式な『仕事仲間』として、自分の目の前に立っているのだ。


 しかも、相手の吸血鬼は、自分があの人狼と同一人物であることに全く気づいていない様子で、怪訝な顔をしている。


 笑うしかなかった。


「いや……」


 男は、大きな手で口元を覆い隠し、必死に笑いを噛み殺した。


「悪い、悪い。なんでもないんだ」


「何なんですか、いきなり」


「いや、本当に何も」


 男は、久我の顔を見るたびにまた笑いそうになり、慌てて視線を逸らした。


       *


「奇遇だなーと思って」


 男が、ようやく笑いを収めて言った。


「奇遇?」


 久我が首を傾げる。


「いや、こっちの話。気にしないでくれ」


 男は軽く手を振る。


 久我は、眉を深く寄せたまま、目の前の男をじっと観察した。


 何かが引っかかる。


 声のトーン? 少し軽薄な喋り方? それとも、この威圧感のある巨大な体格?


 しかし、久我が数日前に見たのは、二メートルを超える灰褐色の毛に覆われた『狼の化け物』だ。目の前にいる、明るい笑顔の大柄な外国人男性とは、どうしてもイメージが結びつかない。


「自己紹介が遅れたな。俺はダニエルだ。ダンでいいよ」


 男が、気さくに名乗った。


「久我陽介です」


 久我が名乗ると、ダンは「知って――」と言いかけて、一瞬口をつぐんだ。


「……いや。よろしく、久我」


「今、知ってるって言いませんでしたか?」


「八咫烏からもらった事前のプロフィールで見たんだよ。優秀な実働員だってな」


「ああ……そうですか」


 ダンは、ギリギリのところで上手く誤魔化した。


       *


 ダンの視線が、久我の隣に立つ澪へと移った。


 その瞬間、ダンの高い鼻が、ヒクッと僅かに動いた。


「君も、吸血鬼?」


 ダンが尋ねると、澪は明らかに警戒した顔で一歩引いた。久我が死にかけた直後だ、ハンターと名乗る男に良い感情を持っているはずがない。


「……そうですけど。何か文句ありますか」


「いや。よろしくな」


 ダンは、何事もないように巨大な右手を差し出した。


 澪はかなり嫌そうな顔をしたが、久我が目で促したため、渋々その手を握り返した。


 握手。ごく普通だ。銀の粉を仕込んでいるわけでも、怪力を込めて骨を砕こうとするわけでもない。


 久我の認識が、少しだけ改善された。


「……本当に、大丈夫な人なんだ」


「何が?」


 ダンが不思議そうに聞く。


「いや、吸血鬼ハンターって、もっと血走った目で襲いかかってくるような、物騒な人が多いのかと思ってました」


「はははは!」


 ダンは、腹を抱えて豪快に笑った。


 数日前に、吸血鬼というだけで久我を襲った張本人が笑っているのだから、地獄のようなブラックジョークだ。


「まあ、色んな奴はいるからな。でも俺は、仕事してる時は吸血鬼とも仲良くするぜ?」


 ダンが、ウインクしながら言う。


「仕事中は、ですか」


「ああ。仕事中はな」


「そこを何度も強調されるの、ちょっと怖いんですけど」


「気にすんなって」


 ダンは笑って久我の肩をバンバンと叩いた。


 仕事以外なら、狩る。本人は何も隠していないようでいて、一番大事な前提条件だけを意図的に省いているのだ。


「俺は、仕事は仕事、休暇は休暇だって、きっちり分けるタイプなんだ」


「へえ。ちゃんとしてるんですね」


「俺、公私混同しない主義だからさ」


 久我は「真面目な人だ」と感心しているが、「お前のその休暇の過ごし方が大問題なんだよ!」と叫びたくなる状況だ。


       *


 久我の視線が、ダンの足元に置かれた大きなハードケースに留まった。


「それ、何が入ってるんですか?」


「俺の商売道具」


 ダンがケースの留め具をパチンと外し、中を開けて見せた。


 内部のクッション材に綺麗に収められていたのは、数本の鋭い『銀製の杭』、特殊な合金製の拘束用ワイヤー、折りたたみ式の金属製の短槍、そして重厚な手錠型の拘束具など、対吸血鬼に特化した物騒な装備品の数々だった。


 久我は、その中身を見た瞬間、なんとなく、ものすごく嫌な感じがして背筋が寒くなった。


 ダンが、その中から一本の太い銀の杭を手に取り、愛おしそうに指で撫でた。


「こいつは、俺の特にお気に入りなんだ」


「……」


 久我は言葉を失った。理由は分からない。だが、『銀の杭』という単語に、妙な聞き覚えがあった。あの死闘の最中、人狼が何か言っていなかったか。


 久我は、ダンの顔、その巨大な体格、声、そして手にしている銀の杭を、じっと見つめた。


「……」


「何?」


「うーん……」


 久我は首を傾げた。


「俺たち、本当にどこかで会ってません?」


 ダンは、一拍だけ間を置いた。


 そして、満面の笑みを作って言った。


「いやー。それ、自分、完全に気のせいちゃう?」


「ちゃうって……」


 久我は思わずそこへ引っかかった。


「日本語滅茶苦茶流暢なのに、なんで急にそこだけ変なエセ関西弁なんですか」


「昔の友達に、関西人がいてな。うつったんだよ」


 ダンは、実に適当な理由で完全に話を逸らした。


       *


 そのやり取りを、少し離れた場所から、千鶴が静かに観察していた。


 ダンを見る。次に久我を見る。そしてまたダンを見る。


 彼女の鋭い観察眼が、何かに引っかかっていた。正体が人狼であると見抜いたわけではない。だが、この二人の間にある空気感が、絶対におかしい。


「久我さん?」


「はい、鏡宮さん?」


「いえ」


 千鶴は、ダンに向かって静かに言った。


「随分と、初対面にしては楽しそうな方だと思いまして」


「俺は、誰とでもすぐに仲良くできるオープンなタイプだからな!」


 ダンが快活に笑う。


「いい人そうですね」


 久我が無邪気に言う。


「そうだろ?」


 ダンが胸を張る。


 最悪のすれ違いが、目前で展開されていた。


       *


「無駄話はそこまでにしてください」


 杖原が、硬い声で強引に仕事へと引き戻した。


「今回の任務目的を、外部協力者であるダンさんにも改めて再確認します」


 杖原が端末の画面を見せる。


「対象は、相良圭吾。命令は、あくまで『生存状態での捕縛』です。いかなる理由があろうとも、対象の殺害は固く禁じます」


「了解」


 ダンは、軽い口調だが即答した。


「対象の無力化は許可しますが、銀の杭による心臓の破壊も禁止です」


「分かってるって。俺を信用してくれ」


 ダンがケースを閉める。


 なぜか久我は、その会話を聞いているだけで、背中に冷たい汗が流れるのを感じていた。


       *


 だが、ここからが重要だった。


 任務が開始された途端、ダンの纏う雰囲気がスッと変わったのだ。


 軽口や飄々とした態度は残っている。しかし、その目つきは完全に獲物を追う『プロの狩人』のものへと切り替わっていた。


 八咫烏から提供された現場の周辺情報、被害者の遺体の状況、相良のこれまでの移動経路。それらを一瞬で頭に叩き込み、現在の風向き、路地の構造、最適な逃げ道を的確に確認していく。


(……本当に、ちゃんとした本職のハンターなんだな)


 久我は素直に感心した。


 つい数日前に自分を理不尽に殺そうとしたあのイカれた殺戮者と、今目の前で的確な分析を行っているこの有能な専門家が同一人物だとは、夢にも思わない。仕事中のダンは、それほどまでに完璧なプロフェッショナルだった。


       *


 追跡が開始された。


 相良が最後に確認された地域は、夜の華やかな繁華街から少し離れた、古い倉庫と古びた住宅が混在する寂れたエリアだった。


 チームが音もなく路地を進む中、先頭を歩いていたダンが不意にピタリと立ち止まった。


 鼻を少しだけ上へ向け、フン、と夜の空気を深く嗅ぐ。


「……」


 久我の脳内に、猛烈な既視感が走った。


「吸血鬼って、匂いで追えるんですか?」


 久我が小声で尋ねる。


「慣れればな。血の臭いだけじゃない。人間の発する匂いとは、微妙に違うんだよ」


 ダンはそう言いながら、振り返って久我を見た。そして、ニヤッと笑う。


「特に、変な臭いのする奴は分かりやすい」


「……なんで、俺の顔を見てそんなこと言ったんです?」


「気のせいだろ」


 ダンはまたしても肩をすくめて誤魔化した。


 澪が、久我の背後に回り込み、ヒソヒソ声で話しかけてきた。


「陽介さん」


「はい」


「あの人、なんか陽介さんにだけ、妙に距離感おかしくないですか? 初対面っぽくないというか……」


「俺もそう思うんですよ。なんか馴れ馴れしいというか……」


 千鶴も同調する。


「少なくとも、完全な初対面の人間として接しているようには、私にも見えません」


「ですよね?」


「後ろの方、全部聞こえてるぞー」


 前を歩くダンが、振り返らずに言った。


「「「耳もいい!」」」


 三人の心が、妙なところで一つになった。


       *


 ダンが、古びた廃ビルの脇の狭い路地で足を止めた。


 コンクリートの壁、散乱するゴミ袋、そして黒ずんだ排水溝。


 ダンは壁に顔を近づけ、鼻をヒクつかせた。


「いたな」


「いつ頃ですか?」


 杖原が確認する。


「半日以内だ」


 ダンはさらに排水溝の縁を指でなぞり、匂いを嗅いだ。


「それに、こいつ怪我してるな」


「そこまで分かるんですか?」


 久我が驚く。


「血の臭いが、普通の状態より強い。焦って逃げた形跡もある」


 ハンターとして、彼の追跡能力は並外れて有能だった。


 だが、ダンは再び空気を嗅ぎ、その表情を僅かに険しくした。


「……もう一人、いるな」


「吸血鬼ですか?」


 久我の問いに、ダンは首を横に振った。


「いや」


 もう一度、確実に匂いを確認する。


「人間だ」


 チームの空気が、一気に緊迫した。


 相良の事件では、三人の遺体の他に、現在も『一名が行方不明』となっている。


 つまり、その四人目の被害者が、まだ相良と共に潜伏している可能性があるということだ。今なら、まだ生きているかもしれない。


 杖原が即座にかれんへと通信を入れる。


『人命の安全を最優先してください』


 かれんの指示が下る。殺人容疑者の捕縛だけではない。人質救出という、より難易度の高い任務へと優先度が切り替わった。


 澪の表情が、獲物を追う夜叉のように鋭く変わる。千鶴も集中力を高め、杖原はいつでも結界を展開できるよう呪具を手に取った。久我も、両腕に薄く《血装》を展開する準備を整える。


       *


 相良が潜伏していると特定されたのは、使われなくなって久しい小規模な物流倉庫だった。


 錆びついたシャッター。割れたまま放置された窓ガラス。内部は完全な暗闇に包まれている。


 倉庫の周囲には、確かな血の臭いが漂っていた。吸血鬼である久我の鼻にも、それがはっきりと分かる。


「……中にいる」


 ダンが低く告げた。


 突入の前。


 ダンは、足元のハードケースを開いた。


 久我は、彼が当然あの『お気に入りの銀の杭』を手にするものだと思っていた。


 しかし、ダンは銀の杭を一瞥しただけで、それには触れなかった。


「使わないんですか?」


「今回は捕縛任務だろ?」


 ダンは代わりに、拘束用の太い特殊合金ワイヤーと、打撃用の短い金属製の棒状武器だけを取り出した。


 本当に、契約のルールを遵守しているのだ。


「……思ってたより、ずっと真面目ですね」


 久我が感心して言うと、ダンはニヤリと笑った。


「だから言っただろ。仕事中は、な」


 またしても、その不気味な限定付きだった。


       *


 音もなく、配置につく。


 澪は、圧倒的な速度を活かして倉庫の側面へと回り込む。


 千鶴は少し離れた位置から、割れた窓ガラスの僅かな反射面を利用して内部の状況を視認する。


 杖原は、相良が逃亡した場合に備えて裏口の封鎖を担当する。


 そして、久我とダンが正面から突入する。


「……見えます」


 インカムから、千鶴の張り詰めた声が届いた。


「倉庫の内部。人影があります。一人は床に倒れています。もう一人は、その横に立っています」


「二人います。間違いありません」


       *


 久我とダンが、音もなく倉庫の正面の扉を開け放った。


 薄暗い月明かりが差し込む倉庫内。


 中央に、男が立っていた。相良圭吾だ。


 彼のシャツは赤黒い血にまみれ、顔色も異様なほど赤黒く火照っている。過剰な吸血による興奮状態だ。


 その足元の床には、一人の人間が倒れている。首筋から血を流しているが、胸が微かに上下しているのが見えた。


「生きてる!」


 久我が叫ぶ。


 側面に回っていた澪が、即座に救助のために動こうと身を屈めた。


 しかし。


 相良が、侵入者である久我たちの方へとゆっくりと顔を向けた。


「……八咫烏か」


 相良の目は、血走り、狂気を孕んでいた。


「相良圭吾さん」


 久我が一歩前に出て、静かに告げた。


「連続殺人と、失踪事件についての容疑で、事情を聞きます。抵抗せずに投降してください。そうすれば――」


 相良は、喉の奥からヒュゥッという気味の悪い音を出して、嗤った。


 唇の間から、吸血鬼特有の鋭く長い犬歯が覗く。


「同族まで連れてきたのか。八咫烏の犬め」


「俺は、これが仕事なので」


「馬鹿だな、お前は」


       *


 相良の視線が、久我の隣に立つ大柄な外国人――ダンへと移った。


 その瞬間、相良の顔から余裕の笑みが消え、強烈な警戒と恐怖の表情へと変わった。


 吸血鬼の本能が、目の前の男から発せられる『死の気配』を敏感に感じ取ったのだ。


「……お前」


「どうも」


 ダンが、片手を軽く上げて挨拶する。


「ハンター……!」


 相良が後ずさる。


「正解」


 ダンがウインクする。


「やっぱり、ハンターって同族から見ればそんなに有名なんですか?」


 久我が尋ねると、ダンは肩をすくめた。


「まあ、そこそこな」


 相良は、投降する気など毛頭なかった。


 ハンターを連れてきている時点で、捕まれば終わると判断したのだろう。即座に身を翻し、倉庫の後方へと向かって全速力で駆け出した。


「クソッ!」


 杖原が裏口に張っていた結界が、相良の突進を阻む。


 そこに、側面に回っていた澪が先回りして立ち塞がる。


 戦闘開始は、目前だった。


       *


 だが。


 ダンが、ゆっくりと首を左右にゴキボキと鳴らした。


 肩を大きく回し、深く息を吸い込む。


「?」


 久我が、その不穏な動きに気づいて眉を寄せる。


「じゃ」


 ダンは、実に楽しそうに笑った。


「仕事、するか」


 その言葉を合図に、ダンの身体が、異様な音を立てて変化し始めた。


 ミシッ。メキメキッ。


 骨格が異常な速度で膨張し、組み替わる。


 盛り上がる筋肉が、着ていた服を内側から引き裂かんばかりに張り詰める。


 身長がさらに伸び、二メートルを優に超える。


 露出した皮膚から、剛毛な灰褐色の毛がブワッと生い茂る。


 太く伸びた腕の先、指先には、黒く鋭利な刃物のような爪が飛び出す。


 そして。


 人間の顔の骨格が前へとせり出し、鼻が伸び、耳が尖り――。


 完全に、凶悪な『狼の頭部』へと変貌を遂げた。


 久我の表情が、完全に停止した。


       *


 久我の脳内で、バラバラだったすべてのピースが、最悪の形で一つに繋がった。


 オレンジ色の街灯の下。


『Hi!』


 心臓を抉り取ろうとした、死神の手刀。


『避けたか』


『旅行だよ』


『妙な臭いがする』


『今度は杭を持ってくる』


 目の前にいる巨大な人狼。


 同じ顔。同じ毛色。同じ巨体。


 あの夜、自分を無残に打ちのめし、絶望の淵へと追いやった、あの『狼の化け物』そのものだった。


「…………」


 久我は、言葉を失い、ただ口をパクパクと開閉させた。


 完全な人狼形態へと移行を終えたダンが、不思議そうに首を傾げた。


「ん?」


 久我の全身の血が逆流した。


 彼は、震える指先で目の前の人狼をビシッと指差し、肺の底から絞り出すような、裏返った大絶叫を倉庫中に轟かせた。


「お前ぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!?」


 その悲鳴に、周囲の全員が硬直した。


「えっ!?」


 先回りしていた澪が、驚いて振り返る。


「久我さん!?」


 外から見ていた千鶴が、インカム越しに声を上げる。


「どうしました!?」


 杖原も裏口から叫ぶ。


「何なんだお前ら!?」


 逃げようとしていた容疑者の相良でさえ、予想外の展開に混乱して立ち止まった。


       *


 人狼――ダンは、顔を真っ赤にして絶叫する久我を見下ろし、狼の口の端をニッ、と三日月型に吊り上げた。


 数日前の夜に見たのと同じ、あの底知れぬ狂気を孕んだ獣の笑顔だった。


「あ」


 ダンは、悪びれる様子など微塵も見せずに、実に軽い調子で言った。


「バレた」


「やっぱりお前かぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」


 久我の怒りの叫びが、再び虚しく倉庫の中に響き渡る。


「だから、奇遇だなって言っただろ?」


 ダンは、腹を抱えて愉快そうに笑い声を上げた。

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