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第60話 吸血鬼、初対面の男に心臓を狙われる

 夜の帳がすっかり下りた、午後九時前後。久我陽介は、一日分の疲労を両肩に背負いながら、駅からの帰り道を歩いていた。今日は会社での業務が長引いたものの、それ以外には何もない日だった。八咫烏の夜間警備班としての出動予定はなく、皇かれんからの緊急の呼び出しもない。着慣れたビジネススーツに、革靴。右手に提げた仕事鞄には、ノートパソコンや書類が入っている。


 ここ最近の夜は、あまりにも濃密すぎた。他人の人生を奪う《空座喰らい》の事件。鏡宮家から届いた、千鶴の母親の重い手紙。そして、首都高を泳いでいた巨大な《水脈魚》の誘導。息をつく暇もない非日常が連続していただけに、久我は心底、今日の平穏をありがたく感じていた。


(今日は、本当に普通に終わりそうだな)


 家に帰ったら、温かいシャワーを浴びて、冷蔵庫の血液製剤を一本だけ飲み、泥のように眠ろう。そんなささやかな予定を頭の中で組み立てながら、久我は家路を急いだ。


       *


 大通りから一本入った、静かな生活道路。時間帯のせいもあり、周囲に人通りはない。怪しい裏路地などではなく、街灯が等間隔で並び、自動販売機が明るく光っている、ごく普通の東京の道だ。閉まった店舗のシャッターが並び、遠くの方で大通りを走る車のエンジン音が、くぐもって聞こえるだけ。久我は、特別な警戒など微塵もしていなかった。吸血鬼の鋭い感覚も、日常のスイッチへと完全に切り替わっていた。


 その、無防備な背後から。


「Hi!」


 妙に明るく、そして軽薄な声が響いた。久我は、道の尋ね人か何かだと思い、ごく普通に振り返った。


「はい?」


 そして、久我の思考はそこで完全に停止した。数メートル後ろ。オレンジ色の街灯の下。そこに立っていたのは、紛れもなく『巨大な人狼』だった。


 見間違えようがない、狼そのものの頭部。全身を覆う灰褐色の深い毛並み。二足歩行で立ち上がったその巨体は、二メートルを軽く超えている。人間の胴体をそのまま一回り以上大きくし、太い首と異常に長い腕を取り付けたような、圧倒的な質量。大きく開いた口からは、鋭く長い犬歯が覗いている。しかし、全裸の獣というわけではない。その規格外の体躯に合わせて作られたのか、かなり大きめの上着とズボンを身につけていた。靴は履けないのか、獣じみた構造の脚の先は裸足だ。化け物が徘徊しているというよりは、『人狼という種族が、服を着てただそこを散歩している』ような、奇妙な自然さがあった。


 久我は、目を瞬かせた。


「……は?」


 本当に一瞬、脳が事態を処理しきれなかった。怪異か?それとも特殊な人外か?能力者?なぜこんな普通の道に?そんな疑問すら、まとまる前のことだった。


       *


 ダンッ!アスファルトが爆ぜるような音と共に、人狼が動いた。速い。あの巨大な身体からは到底想像できない、異常な初速。地面を一蹴りしただけで、一瞬にして久我の目前へとその巨躯が迫っていた。


 振り上げられた右腕。それは拳に握られていなかった。太く黒い爪を持つ指を真っ直ぐに揃えた、鋭利な『手刀』。狙いは正確無比に、久我の左胸。心臓だ。


 思考よりも先に、久我の中に眠る吸血鬼の生存本能が強烈な警鐘を鳴らした。無意識のうちに、身体を強引に右へと捻る。


 ズブッ!鈍く、嫌な音が夜の道に響いた。人狼の凶悪な手刀が、久我のスーツを容易く紙のように裂いた。中心の心臓こそ外れたものの、手刀は久我の左の脇胸から肩寄りにかけての肉を、深く、そして容赦なく抉り取った。


「ッ……!」


 鮮血が夜空に舞い、久我は苦悶の声を漏らしながら後方へ大きくよろめいた。あと数センチ。たった数センチ反応が遅れていれば、心臓を完全に貫かれ、そのまま二撃目で仕留められていた可能性が高い。


       *


 人狼は、少しだけ狼の目を見開いた。


「……ん?」


 自分の右手を見る。黒い爪には、久我のべっとりとした赤い血がついている。そして、よろめく久我を見て、まるで今日の天気を確かめるような軽い調子で言った。


「避けたか」


 それだけだった。通行人を間違えて刺した謝罪もなければ、なぜ襲い掛かってきたのかという理由の説明もない。ただ純粋に、自分の獲物が一撃目を避けたという事実を確認しただけだ。


「な……」


 久我は、激痛よりも先に、そのあまりにも理不尽な状況に圧倒されていた。


「なんだ!?」


 叫びながら、久我は出血している自らの傷口へと意識を集中させる。《血装》。溢れ出た血液が瞬時に硬質化し、赤黒い装甲となって久我の両前腕、胸部、そして首の周辺を覆い尽くした。特に、先ほど狙われた心臓側を分厚く固める。同時に、吸血鬼の治癒能力が稼働し、抉られた肉の再生が始まった。


 久我は大きく後退し、相手との距離を取る。同時に《魔眼》を展開した。視界が切り替わり、目の前の巨大な人狼の身体の内部構造が可視化される。太く速い血流。鋼のような筋肉の密度。異常な心拍数。高い体温。そのすべてが、人間の基準から完全に、そして決定的に外れていた。


       *


「あんた……何者です?」


 久我は、血装を構えたまま低く問うた。


「ハンターだ」


 人狼は、爪についた血を払いながら事も無げに答えた。


「ハンター?」


「吸血鬼狩り」


「人狼が、ですか?」


 久我が聞き返すと、人狼は不思議そうに狼の耳をピクリと動かした。


「何か変か?」


「いや……まあ……」


 変と言えば変だが、今は種族の多様性について議論している場合ではない。


「なんで日本に!?」


 久我の叫びに、人狼は狼の頭をゴトリと傾げた。その仕草が、巨体ゆえに妙に不気味な愛嬌を生んでいる。


「なんでって?日本にも、ハンターくらいいるだろ」


「いや、そういう意味じゃなくて!海外の吸血鬼ハンターが、なんで突然こんな住宅街にいるんだって聞いてるんです!」


「俺は旅行だよ」


「……旅行?」


「休暇」


 人狼は、本当にどこかのリゾート地へでも来ているかのような気楽さで言った。


「休暇中に、初対面の人間を殺そうとしてるんですか!?」


「おいおい。吸血鬼だろ?」


       *


 会話を引き伸ばしながら、久我の左手は、ゆっくりと背後に回した仕事鞄へと伸びていた。鞄のポケットに入っているスマートフォン。八咫烏の登録者用端末にインストールされている、専用アプリ。手探りで画面に触れ、生体認証でロックを解除する。事前に何度も叩き込まれていた、能力犯罪や人外襲撃時の『緊急SOSボタン』。そこを、親指で強く長押しする。GPSの現在地と、本人IDが、自動的に八咫烏の緊急対策本部へと送信される。端末が、ブッ、と一度だけ短く振動した。


(よし、送れた……)


 久我は、内心の安堵を表情に出さず、会話を続けた。


「それで……なんで俺なんです?」


「ん?」


「俺のことを、最初から探してたわけじゃないんですよね?」


「探してない」


 人狼は即答した。


「今、たまたま歩いてて見つけただけだ」


「たまたま?」


 人狼が、フン、と太い鼻を鳴らした。人狼という種族の、異常に発達した嗅覚が周囲の空気を捉えている。


「妙な匂いがする」


 久我の表情が、僅かに強張った。以前、吸血鬼街で出会った派手な服の女吸血鬼の言葉が、脳裏をよぎる。『高位の吸血鬼や、経験豊富な吸血鬼ハンターなら、あんたの異常な気配を感じ取るかもしれない』


「妙な匂い?」


「ああ」


 人狼は、久我の周囲の空気を探るように深く息を吸い込んだ。


「吸血鬼の臭いはする。でも、なんか変だ」


 彼は少しだけ考え込むような仕草をした。


「……古いような。いや、違うな。まあ、なんとなくだ」


「なんとなく?」


「なんとなくで、俺を殺すんですか!?」


 久我が怒りを込めて叫ぶと、人狼は、本気で意味が分からないという顔をした。


「おいおい」


「だから、何です?」


「お前ら吸血鬼だろ?存在してはいけない存在だ」


 久我の顔が、サッと固まる。人狼は、極めて普通のことを言うように言葉を続けた。


「たまたま見つけた。妙な匂いもする。なら、狩る」


 彼は巨大な肩をすくめた。


「それだけだ」


       *


 久我は、すぐに理解した。こいつは、話し合いで価値観を変えられるような相手ではない。彼にとって吸血鬼を見つけて殺すことは、害獣を見つけたから駆除するのと同じ、ただの日常的な処理作業なのだ。だから、そこに罪悪感も、殺意の高揚すらもない。それが、恐ろしい。


 しかし、話している間は殴られていない。緊急通報はすでに通っているはずだ。八咫烏の実働員が、現在地へ向かって急行しているだろう。だから。


(時間を稼ぐ)


 久我は、あえてゆっくりとした口調で口を開いた。


「ちょっと待ってください」


「なんだ?」


「日本では、吸血鬼は八咫烏という組織にちゃんと登録されて、一般社会で生活しています。血液も合法的に供給されていますし、人を襲っていない吸血鬼まで無差別に殺すのは――」


「時間稼ぎが見え見えだぞ?」


 人狼の言葉に、久我は口を閉ざした。


(……バレてる)


「さっき、背中で鞄を触ってただろ。どこかに何か送ったな?」


「……」


「油断しすぎだ。時間を稼ぎたいなら、もう少し自然にやれ」


「初めてなんですよ、仕事帰りの道端でいきなり人狼に殺されかけるのなんて!」


 人狼は、増援が呼ばれたことを完全に理解した上で、焦る素振りすら見せなかった。


「まあいい」


「いいんですか?」


「誰か来るまでに、お前を殺せば済む話だ」


「それ、俺にとっては全然よくないでしょう!」


「じゃあ、始めよう」


 狼の口の端が、僅かに三日月型に吊り上がり、笑った。


       *


 ドォン!人狼が踏み込む。久我は《魔眼》の焦点を絞り、相手の予兆を読んだ。右肩の筋肉の収縮。腰の回転。脚の踏み込み。右の豪拳が、顔面目掛けて飛んでくる。久我は両腕の《血装》をクロスさせ、防御姿勢を取った。


 ドンッ!!衝撃は、久我の想像を遥かに超えていた。防いだはずの両腕から、まるでダンプカーに激突されたような破壊的な運動エネルギーが全身へと伝播する。久我の身体が、そのまま宙に浮き、数メートル後方へと無様に吹き飛ばされた。革靴がアスファルトを激しく擦り、焦げた匂いが鼻を突く。分厚く展開していたはずの《血装》には、たった一発の拳で、ヒビ割れたガラスのような大きな亀裂が走っていた。


(嘘だろ……)


 久我は、震える腕を見て戦慄した。


 距離を取ろうと、久我が後ろへ下がる。だが、巨大な人狼は、久我が下がるスピードと同じ、いやそれ以上の速さで、何食わぬ顔で距離を詰めてくる。前蹴り。久我が間一髪で身体をずらしてかわす。空を切った蹴りが、久我の背後にあった電柱脇の金属製ガードパイプに激突した。ガキィッ!太い鉄のパイプが、いとも容易く


「く」


 の字にひしゃげた。


「……」


「当たってたら、一瞬で楽に死ねたのにな」


「こっちは、全然楽じゃないですよ!」


       *


 ただ守っているだけでは、この異常な膂力に押し潰される。久我は、決死の反撃に出た。破壊された両腕の《血装》を一度解除し、瞬時に《血装》へ回せる血液を右拳一つへと集中させる。相手の左フックを紙一重でダッキングしてかわし、その無防備な懐へと一気に踏み込んだ。狙うは、人狼の下顎。


 ガンッ!硬い骨を砕くような、完璧な手応え。久我の右ストレートが、人狼の顎をまともに捉えた。人狼の頭が、打撃の衝撃で僅かに横を向く。


(入った!)


 しかし。人狼は、ゆっくりと顔を正面へ戻した。


「まあまあ、だな」


 その顔には、ダメージらしいダメージは全く見当たらなかった。強烈な一撃を食らったはずなのに、まるで虫に刺された程度にしか感じていない。


「……マジか」


 次の瞬間、人狼の巨大な左手が、振り抜いた久我の右腕をがっしりと掴んだ。万力のような異常な握力。ミシミシッと、腕を覆う《血装》が悲鳴を上げる。久我は必死に振りほどこうとしたが、まるで巨大な岩壁に固定されたようにビクともしない。


「しまっ――」


 そのまま、人狼は久我の身体を片手で軽々と持ち上げ、容赦なくアスファルトの路面へと投げ飛ばした。バウンドするように、久我の背中が硬い道路へ叩きつけられる。肺から空気が強制的に押し出され、背骨が軋み、肋骨が数本折れる嫌な音がした。すぐに吸血鬼の再生が始まるが、激痛に視界が白く明滅する。


       *


 久我自身が、絶望的な格差を理解した。この相手は、単純な身体能力のスペックだけで、吸血鬼である自分より圧倒的に上だ。さらに最悪なことに、こいつは『異常に戦い慣れている』。久我が《魔眼》を使って相手の攻撃の予兆を読んでも、人狼は『相手が自分の攻撃を読んで避けること』まで計算に入れた上で、次の動作へ繋げてくるのだ。


 巧妙なフェイント。息をつかせぬ連撃。完璧な体重移動。絶対に逃さない間合いの管理。格闘の素人である久我の経験不足を、熟練のハンターは容赦なく的確に突いてくる。


(勝てない)


 久我は、かなり早い段階でその事実を冷静に認めた。だが、この脚力差では逃げ切ることも不可能に近い。ならば。八咫烏の増援が来るまで、這いつくばってでも生き延びる。それだけが唯一の勝利条件だ。


 致命傷だけは絶対に避ける。心臓。頭。首。そこだけは何があっても守り抜く。腕が折れても、肩の肉を削がれても、肋骨が砕けても、脚を潰されても、そこは吸血鬼の力で何度でも再生できる。


       *


 久我は立ち上がり、後退しながら周囲を見回した。近くの大通りへ出れば、まだ走っている車もいるし、夜遅い歩行者もいるかもしれない。そこに逃げ込めば、目立って相手も手出しできなくなるかもしれない。だが、久我はそちらへは逃げなかった。もしこの化け物が、一般人がいても構わずに暴れ出せば、大惨事になる。


 久我は、人狼を誘導するように、さらに人のいない方向へと走り出した。大通りから背を向け、閉店済みの暗い店舗の裏手、小さな駐車場、そして人気の絶えた高架下へと逃げ込む。


 人狼は、悠然とした足取りで久我を追い詰めながら、呆れたように言った。


「そっちは、人間がいないぞ」


「あなた、人がいても気にせずに戦うでしょう!」


「まあな」


「じゃあ、いない方が絶対にいいですよ!」


       *


 高架下の暗がりで、人狼がふと足を止めた。周囲をゆっくりと見回す。


「……?」


 久我が警戒して立ち止まると、人狼は道路の脇に立っている、金属製の道路標識へと歩み寄った。そして、その太いポールを巨大な右手でがっしりと握り込んだ。


「何してるんです?」


「武器の調達だ」


 人狼の腕の筋肉が、異常に隆起する。グッ。ミシッ、と根元のコンクリートの基礎部分から嫌な音がした。ベキベキベキッ!!次の瞬間、頑丈なはずの道路標識が、基礎のコンクリートブロックの一部ごと、あっさりと地面から引き抜かれた。


「……」


 久我は、絶句した。人狼は、三メートル近いその金属のポールを、まるで軽い木刀でも扱うかのように片手で持っている。二、三度、軽く空中で振ってみせる。ブォン。ブォン。金属の塊が空気を切り裂く、重く恐ろしい風切り音が響いた。


「それ、公共の道路設備ですよ」


「後で、お前が弁償しといてくれ」


「なんで殺される側の俺が払わなきゃいけないんですか!?」


「あいにく、愛用の武器をホテルに置いてきててな」


「……ホテル?」


「だから、今は旅行中だって言っただろ」


 人狼が、標識を肩に担ぎ直す。


「いつもの銀の杭があれば、もっと楽に殺してやれたんだがな。痛い思いをさせてすまんな」


「本当に偶然通りかかって、手ぶらだからその辺の標識引っこ抜いて俺を殺そうとしてるのかよ!?」


 久我の口から、つい敬語が消え去った。


「最初から、そう言ってるだろ」


       *


 ブォンッ!人狼が、道路標識を大上段から横薙ぎに振り抜いた。久我の《魔眼》が、その致命的な軌道をコンマ数秒早く読み取る。姿勢を低くして、間一髪でその一撃を避ける。久我の頭上を通過した鉄柱が、背後の駐車場の金属フェンスに激突した。ガシャァン!耳を劈くような破壊音と共に、フェンスが広範囲にわたって飴のようにグニャリと歪み、ひしゃげた。


(これ、まともに受けたら血装ごとミンチにされる……)


 戦慄する間もなく、二撃目が来る。今度は、上段からの強烈な振り下ろし。回避するスペースがない。久我は両腕に《血装》を最大出力で展開し、頭上で交差させて防御した。


 ガァン!!《血装》に、重い鉄柱が直撃する。赤黒い装甲の表面に、一瞬で無数の亀裂が走る。そして。バキンッ!限界を超えた《血装》が、粉々に砕け散った。殺しきれなかった衝撃が、そのまま久我の生身の両腕へと突き抜ける。左の前腕の骨が、嫌な音を立てて折れた。凄まじい衝撃に抗いきれず、久我の身体は後方へ弾き飛ばされ、硬いアスファルトの上を無様に転がった。


       *


「ぐっ……!」


 久我は呻き声を上げながら、折れて異常な方向へ曲がった左腕を押さえた。すぐに吸血鬼の治癒能力が働き、折れた骨がバキバキと音を立てて元の位置へと戻り、裂けた筋肉と皮膚が急速に繋がり始める。だが、その再生が完了するのを、敵が待ってくれるはずもない。


 人狼が距離を詰め、容赦なく追撃の鉄柱を振り下ろしてくる。久我は地面を転がって回避する。直前まで久我がいた場所のアスファルトが、標識の打撃でクレーターのように砕け散った。


 そこからは、完全に防戦一方の地獄だった。《魔眼》で軌道を読む。ギリギリで避ける。避けきれない分を《血装》で受ける。衝撃で吹き飛ぶ。壊れた身体を再生する。そして、また立ち上がる。その絶望的な繰り返し。


 隙を見て反撃しても、分厚い毛皮と筋肉に阻まれ、ほとんどダメージを与えられない。渾身の力で人狼の肩へ拳を叩き込んでも、ビクともしない。腹へ強烈な蹴りを入れても、相手がわずかに半歩後退するだけだ。逆に、人狼の振るう凶器の一撃は、久我の命綱である《血装》をいとも簡単に紙くずのように削り取っていく。


「硬いな」


 人狼が、標識を肩に担いで感心したように言った。


「……褒められてます?」


「いや」


 ガンッ!という鈍い音と共に、鉄柱が久我の脇腹を捉え、再び身体が宙を舞う。


「お前を殺すのに、少し予定より時間がかかるってだけだ」


「全然、嬉しくない……!」


       *


 《血装》の再構成。肉体の再生。また《血装》。この短時間の間に、久我は体内にある大量の血液資源を、信じられない速度で消費し続けていた。喉が、焼けるように乾く。口の中がカラカラになり、唾液すら出ない。視界の端が、酸素不足のようにチカチカと暗く明滅し始めている。


(……血が、足りない)


 今日はただの仕事帰りだ。夜間の実戦任務のように、十分な血液補給を想定した事前準備などしていない。仕事鞄の底には、常に携帯している最低限の緊急用血液製剤が入っているはずだ。しかし、この狂ったような猛攻の中で、鞄を開けてそれを悠長に飲んでいる余裕など、一秒たりとも与えられなかった。


 久我は、戦術を変えた。このまま開けた場所で正面から攻撃を受け続ければ、確実に血が尽きて死ぬ。だから、高架下のコンクリート柱や、不法投棄された廃車、資材置き場の角など、利用できる障害物をすべて使って逃げ回った。人狼からの直接の射線を切り、一直線に攻撃されないように立ち回る。ただし、周囲に停まっている一般人の私有車を盾にすることだけは、本能的に避けていた。


「随分と、器用に逃げ回るな」


 人狼が、呆れたように言う。


「絶対に勝てない相手と、真正面から殴り合う趣味はないので!」


「正解」


「認めるんだ……!」


       *


 だが、人狼側は本当に『狩り』に慣れきっていた。標的が逃げ回ることに苛立つ様子もなく、久我の逃走ルートを冷徹に予測し、最短距離で先回りして退路を狭めてくる。時には、手にした巨大な標識を、槍のように投擲してくることすらあった。重い鉄柱が、久我の頭のすぐ横を風切り音と共に飛び去り、背後のコンクリート壁に深く突き刺さる。人狼は即座にダッシュしてその鉄柱を回収し、再び武器として振るう。武器の扱いにすら、嫌になるほどの熟練の技が見えた。


 《魔眼》の限界が近づいていた。久我には、攻撃の軌道そのものは見えている。でも、『見えている』ことと、『それが避けられる』ことは同義ではない。人狼の連撃の速度が、久我の疲弊した身体の反応速度を上回っているのだ。


 右から拳が来ると分かる。間一髪で避ける。だが、その回避動作を読んだ上で放たれる、次の左の蹴りには、どうしても身体が間に合わない。ゴッ!人狼の重い膝蹴りが、久我の腹部に深々と突き刺さる。


「グハッ……!」


 久我が、たまらず身体をくの字に折る。次。顔面への強烈な掌底。視界が大きく揺れ、久我の身体が宙に浮き、そのまま無慈悲に地面へと叩き落とされた。


       *


 仰向けに倒れた久我の胸元へ、人狼が容赦なく巨大な爪を振り下ろした。二度目の、心臓への直接攻撃。標識などの鈍器ではない。肉を裂き、臓器を貫くための、人狼本来の凶器。


(これは、まずい)


 久我は、躊躇することなく切り札を切った。周囲に味方も、守るべき一般人もいない。秘密を秘匿する理由よりも、ここで生き延びることの方が最優先だ。


 《内在時間》。


 ほんの一瞬だけ、久我の認識の限界が拡張され、世界が泥沼のように遅くなる。しかし。遅くなった世界の中でも、人狼の巨大な身体は、なおも恐るべき速度で動き続けていた。もちろん、通常よりは遥かに遅い。だが、久我がこれまで《内在時間》の中で見てきたどの能力者の動きよりも、圧倒的に速いのだ。


(こんなに、動くのかよ……!)


 完全には、避けきれない。久我は、心臓の急所だけを強引に外すことだけに全神経を集中させた。ズプッ。黒い爪が、久我の右肩から胸にかけての肉を、斜めに深く切り裂く。鮮血が噴き出す中、久我は痛みを無視して強引に身を捩り、致命の領域から離脱した。そこで、《内在時間》の効力が切れ、世界が元の速度へと戻る。


       *


 人狼が、追撃の手を一瞬だけ止めた。


「……ん?」


「なんです?」


 肩から血を流しながら、久我が荒い息を吐く。


「今の、急に避け方のタイミングが変わったな」


 人狼の目は、野生の勘でその僅かな違和感を正確に捉えていた。


「気のせ――」


 久我は、反射的にそう誤魔化しかけ、寸前で言葉を止めた。自分が心にもない嘘をつけない体質であることは、嫌というほど理解している。だから、すぐに別の言葉へ切り替えた。


「俺にそんな悠長な説明をしてる場合ですか!?」


 人狼は、それ以上深追いして追求することはしなかった。


「まあ、いい」


 ただ、彼の頭の中で、目の前の獲物が『妙な匂いのする、予想外に厄介な吸血鬼』だという評価が、さらに一段階跳ね上がったことだけは確かだった。


       *


 久我の状態は、もはや最悪としか言いようがなかった。着ていたスーツはボロボロに引き裂かれ、中のワイシャツは自分の流した血で真っ赤に染まっている。左腕は一度完全に折れ、いまだ再生の途中でひどく痛む。右肩から胸にかけては深い裂傷。肋骨も数本折れたままだ。標識の打撃を受けた脚も、筋肉が損傷して重い。何より、体内から引き出すべき《血装》が、もはや紙切れのように薄く、まともに維持できなくなってきていた。再生に回すための血液そのものが、底を突きかけているのだ。


(……あと、どれくらいだ?)


 久我は、ポケットのスマホで時間を確認する余裕さえない。八咫烏に緊急通報をしてから、一体何分経ったのか。体感ではすでに何十分も経っているように感じるが、実際にはまだ数分しか経過していないはずだ。


(まだか……)


「誰か、助けを待ってる顔だな」


 人狼が、歪んだ道路標識を引きずりながら、ゆっくりと距離を詰めてくる。


「そりゃ待ちますよ!こんな化け物相手に、俺一人でどうしろっていうんですか!」


「なら、死ぬ気で逃げれば?」


「さっきから、必死に逃げてるでしょうが!」


       *


 久我は、肩で激しく息を切らしながら、壁に背を預けた。


「本当に……!」


「何だ?」


「本当に、俺を最初から目当てで追ってきたんじゃないんですよね!?」


 人狼は、呆れたようにため息をついた。


「まだ、そんなことを疑ってんのか?」


 彼が、ひしゃげた標識を大きく振りかぶる。久我が残りの力を振り絞って防御する。ガンッ!


「ホテルから、夜飯を食いに外へ出た!」


 もう一撃。ガン!


「帰る途中の道で!」


 さらに一撃。ガンッ!


「お前から、妙な臭いがした!」


 限界を迎えていた久我の血装が、パラパラと音を立てて砕け散る。


「見たら、吸血鬼だった!」


 強烈な蹴りが久我の腹部にめり込み、身体が宙を舞う。


「だから、狩って殺してる!それだけだ!」


 地面に叩きつけられた久我は、口から血を吐き出しながら、絶望的な声で呻いた。


「……理由が、最悪すぎる……!」


       *


「運が悪かったな」


 人狼は、本当にどこか他人事のように、淡々とした声で言った。


「そっちが言う台詞じゃないですよ……!」


「確かに」


 人狼は、少しだけ面白そうに笑った。この、命のやり取りにおいてすら一貫して失われない『軽さ』こそが、彼が紛れもない本物の殺戮者であることの証左であり、何よりも恐ろしい点だった。


 久我の肉体の再生が、目に見えて鈍くなっている。人狼も、その鋭い嗅覚で久我の体内の血液量が限界に達していることを、正確に察知していた。


「そろそろ限界か」


 人狼は、手に持っていた道路標識を見た。度重なる久我の防御と、アスファルトや壁への激突により、太い鉄柱は見る影もなくひどく


「く」


 の字に折れ曲がっている。


「こいつも、限界だな」


 ガランッ!人狼は、その歪んだ金属の塊を、惜しげもなく足元へ投げ捨てた。


(素手……)


 最初と同じだ。人狼が、両手の黒く鋭い爪を真っ直ぐに揃えた。狙いは、まず久我の心臓。動きを止めて、そのまま確実に仕留めるつもりなのだ。


       *


 久我は立ち上がろうとした。しかし、膝に力が入らず、アスファルトの上でズルリと崩れ落ちる。《血装》を胸の前にだけ薄く展開するが、それはもはや、ただの赤いフィルムのような脆い膜でしかなかった。再生に回す血も、完全に足りていない。


 人狼が、とどめを刺すためにゆっくりと近づいてくる。


「まあ、休暇中の運動にしては、思ったより楽しめたよ」


「こっちは、最初から一秒たりとも楽しくないです……」


 久我は、掠れた声で強がりを返すのが精一杯だった。


 絶体絶命。久我は、最後の悪あがきとして、言葉を絞り出した。


「……一つ、聞いていいですか」


「また時間稼ぎか?」


「はい」


 即答だった。嘘はつけない。


 人狼は、その潔すぎる返答に一瞬動きを止め、それから狼の口を大きく開けて、腹の底から笑い声を上げた。


「ははっ!」


「正直だな、お前!」


「そういう、体質なので……」


       *


 人狼が、笑いを収め、久我の心臓へ向けてその凶悪な爪を振り下ろそうとした、まさにその瞬間だった。


 ピクリ、と。人狼のピンと立った耳が、僅かに動いた。彼は顔を横へ向け、黒い鼻先をヒクヒクと動かして、夜の空気を一度だけ深く嗅いだ。


 久我には、まだ何も分からない。音も聞こえないし、気配も感じない。


「……ん?」


 人狼は、獲物から完全に視線を外し、遠くの暗闇の奥を見つめた。


       *


「もう、タイムアップか」


 人狼が、ひどくつまらなそうに呟いた。遠く。久我の耳にも、ようやくその音が届き始めた。複数台の車両が、猛スピードでアスファルトを蹴るタイヤの摩擦音。そして、急激にこちらへ近づいてくる、複数人の強力な能力者の気配。間違いなく、八咫烏の実働部隊の精鋭たちだ。かなりの速度で現場へ急行してきている。


「お前が呼んだ奴らが、来たみたいだな」


 人狼の言葉に、久我は内心で安堵の息を漏らした。


(来た……間に合った……)


       *


「じゃあ、今日はここまでだ」


 人狼は、目の前に瀕死の獲物がいるにもかかわらず、一切の執着を見せずにあっさりと身を翻した。


「……逃げるんですか?」


「当たり前だろ」


 人狼は、心底馬鹿げたことを聞かれたという顔をした。


「俺たちハンターは、たかが獲物一匹のために、大勢に囲まれて無駄死にするような仕事じゃないんだよ」


 その判断は、野生の獣などではなく、極めて合理的で冷徹なプロフェッショナルのものだった。血に飢えて増援と無謀な死闘を演じるような、愚かな真似は絶対にしない。


       *


 人狼は、数歩離れたところで、ふと立ち止まって振り返った。倒れている久我を見下ろし、もう一度、深く鼻を鳴らす。


「……やっぱり、お前のその奥底にある臭いは、決定的に変だな」


「こっちは、何のことかサッパリ分かりませんよ……」


「まあいい」


 人狼は、肩をすくめた。


「お前を仕留めるのは、また今度の休暇にするか」


「また来る気ですか……?」


「せいぜい、首を洗って気をつけとけ。必ずまた来る」


「もう二度と、日本に来なくていいです」


「今度会う時は、ちゃんと準備してな」


「なんで殺される側の俺が、わざわざ準備して待ってなきゃいけないんですか……」


「俺も、今度はちゃんとお気に入りの銀の杭を持ってくる」


「もっと嫌だ……」


       *


 人狼が、強靭な脚で地面を蹴った。一跳びで、三メートルはある高いコンクリートの塀を軽々と越える。そのまま建物の脇の配管を蹴り上がり、一瞬にしてビルの屋上へと到達した。あの巨大な身体からは想像もつかない、風のような圧倒的な速度。わずか数秒で、人狼の巨体は東京の夜の暗闇へと完全に溶け込み、消え去った。


 久我は、追わなかった。いや、今の身体では、追えるわけがなかった。人狼の気配が、感知できないほど遠くへ消え去った。その事実を頭が理解した瞬間。


 久我の身体を維持していた緊張の糸が、プツンと完全に切れた。胸元で薄く展開していた《血装》が、ボロボロと音を立てて崩れ落ち、ただの赤い液体のシミへと変わる。膝から力が抜け、ガクッ、とアスファルトへ崩れ落ちた。


「……終わった、のか?」


 荒い呼吸が、肺を焼く。喉はカラカラに乾ききり、血の味しかしない。吸血鬼の再生能力は、いまだに限界まで稼働し続けている。だが、もう遅い。大量の血液を失いすぎた。何度も《血装》を破壊され、腕の骨折、全身の激しい打撲、そして内臓への深刻なダメージ。久我の意識が、急速に薄い靄の中へと沈んでいく。


(……まずい)


 どうにか立ち上がろうと、地面に手をつく。しかし、腕は鉛のように重く、ピクリとも動かなかった。


       *


 遠くから。ようやく、タイヤがアスファルトを擦る甲高い音が聞こえた。急ブレーキの音。車のドアが乱暴に開閉される音。そして、複数の足音が、こちらへ向かって猛スピードで走ってくる。薄れゆく久我の吸血鬼の耳に、その音がぼんやりと届く。人狼が言っていた通りだ。増援が、間に合ったのだ。


「久我さん!」


 誰かの切羽詰まった声が、遠くで響いた。それが、皇かれんの声だったのか。杖原つかさの声だったのか。それとも、名も知らない八咫烏の他の実働員だったのか。今の久我の混濁した意識では、それすらも確認できなかった。


 声のする方へ顔を上げようとするが、首が動かない。視界が、完全に真っ黒に塗り潰されていく。


(……普通に……)


(ただ、会社から帰ってただけ、なのに……)


 久我の思考は、そこで完全に限界を迎えた。身体が前へと力なく倒れ込み、冷たいアスファルトへ頬をつける。そのまま、久我陽介の意識は、深い暗闇の底へと完全に途切れた。

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