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第37話 吸血鬼、殴るほど強くなる男を投げる


 地下二階。


 選手用医療区画と表示された白い廊下。


 久我、澪、千鶴の三人の前に、巨大な男が立ちはだかっていた。


 身長は百九十センチを優に超え、肩幅も常人の枠を外れるほどに広い。


 服装は白衣のような医療職員のものではない。


 黒い半袖シャツの上から、地下区画の警備員を示す暗灰色のベストを着用している。


 首元から下がる職員証には、


『第三医療区画警備主任・真壁剛士』


 と表示されていた。


 先ほど、エレベーターを降りた直後に響いた、ドンッ、ドンッ、という重い衝撃音。


 久我の魔眼には、真壁の極端に発達した筋肉と分厚い骨格の奥へ、不自然な衝撃反応が大量に滞留しているのが見えていた。


 さらに廊下の奥にある分厚い衝撃吸収板には、つい先ほど付けられたばかりの新しい打痕が残っている。


 あれは、誰か他の人間を殴っていた音ではない。


 能力者の暴走対策用に設置された衝撃吸収板を、真壁自身が何度も殴りつけていた音だ。


 久我たちが来ることを察知し、戦闘へ備えて自分の身体の中へ何かを蓄えていた。


 ただし久我には、まだその能力の具体的な仕組みまでは分からない。


「……診察を受けに来た顔じゃねえな」


 真壁が低い声で威圧的に言った。


「診察なら、もう終わったはずだ。おとなしくエレベーターへ戻れ」


「今、さっきの試合で倒れた方が運ばれていきましたよね。その状態を確認したいだけです」


 久我は、右腕を庇うように立ちながら答えた。


「お前には関係ねえ」


「心拍がかなり弱っていました。あのまま放っておけば、生命に関わる危険があるんじゃないですか?」


 澪が一歩前へ出て抗議するが、真壁は顔色一つ変えない。


「ここの医療班が適切に処置している。素人が口を出す話じゃない」


「では、なぜ意識のない方を、わざわざ能力抑制拘束具で固定していたのですか?」


 千鶴の静かな問いに、真壁の視線がすっと動いた。


「薬の影響で、急に暴れる可能性があるからだ」


「表の認可医務室ではなく、隠された第三医療区画へ運んだ理由は何ですか?」


「特殊な治療が必要だからだ」


「その治療の記録を、今から特区保安局へ堂々と提出できますか?」


 久我の言葉に、真壁の表情から僅かな余裕が消えた。


 目の前にいる三人が、単なる好奇心の強い参加者ではなく、明確な調査目的を持った者たちだと確信した目だった。


 その時、真壁の背後から、先ほど久我の診察を担当した医療職員が姿を見せた。


「真壁さん。あの人たちは上位参加者証を持っています。診察の体裁は整いましたから、出口まで案内すれば波風は立たずに――」


「お前は下がれ」


「ですが……」


「下がれと言ったんだよ」


 真壁の冷たい声に、医療職員は怯え、逃げるように診察室へ戻っていった。


 直後、第三医療区画の奥から、けたたましい警報音が鳴り響いた。


 担架で運ばれていった衝撃波能力者の心拍が、さらに危険な領域まで低下したことを示すアラームだ。


 澪が反射的に走り出そうとする。


 真壁が、その巨体で完全に進路を塞いだ。


「動くな」


「でも、今の警報は――」


「医者に任せろと言っている」


 分厚い壁の向こうから、慌ただしく動き回る複数の気配と、不規則に揺れる異能反応が伝わってくる。


 治療自体は行われているらしい。


 だが、患者の生命反応が低下しているにもかかわらず、能力反応を測定する機器の動作だけは止まっていなかった。


「……測定を止めずに、治療しているんですね」


 久我が低い声で言うと、真壁の目が細くなった。


「見えすぎる目ってのも、この島じゃ長生きできねえぞ」


 真壁は、太い腕を久我たちへ向けて差し出した。


「通信機器と、その女が持っている記録装置をここに置いて帰れ。それで見逃してやる」


「この地下区画では、個人の持ち物を勝手に没収できる規則があるんですか?」


「ここでは俺が規則だ」


「それは、規則とは言いませんね」


 千鶴がリストバンドへ静かに指を触れた。


 事前に取り決めていた、外部への赤色信号。


 撤退準備、および現地警備員から記録装置の没収を要求されたことを伝える合図だ。


 地下深層のため通信には強いノイズが混じっている。


 それでも、信号だけは外部へ届いた。


『……信号を確認しました。無理に奥へ進まず、退路を確保してください』


 かれんの冷静な声がイヤホンから響く。


『装備の没収に応じる必要はないわ。ただし、そちらから先に攻撃しないで』


 黒瀬の指示も続く。


「聞こえましたか? 俺たちはこのまま帰ります。機器は渡しません」


 久我はエレベーターへ向かって歩き出そうとする。


「それは困るな」


「なぜです?」


「お前らが見たものを、外へ持ち出されると都合が悪いからだ」


 少なくとも真壁は、奥で行われていることを何も知らない警備員ではなかった。


       *


 久我たちがエレベーターへ戻る姿勢を見せると、真壁は素早く退路へ回り込んだ。


 巨体に似合わない俊敏さだ。


「置いていけと言ったはずだ」


「断ります」


 真壁が右手を伸ばした。


 狙いは、千鶴が耳につけているイヤリング型の記録端末。


 千鶴は滑らかな動きで身体を引いて避ける。


 真壁は千鶴へ直接殴りかかろうとはしなかった。


 まず腕を掴み、力ずくで装備を剥ぎ取ろうとする。


 千鶴は真壁の手首へ触れ、合気の技術で力を流して外そうとした。


 だが、真壁の太い腕が、異常な力で千鶴の動きを強引に押し返した。


 単なる身体能力強化だけではない、異質な圧力。


 真壁が左足を踏み込む。


 次の瞬間。


 千鶴の手首へ触れていた真壁の右腕から、爆発的な衝撃が放たれた。


「鏡宮さん!」


 久我が叫ぶ。


 千鶴の身体が、まるで大砲で撃たれたかのように白い廊下の反対側まで弾き飛ばされた。


 しかし千鶴は空中で体勢を整え、壁へ激突する寸前で片足をつき、勢いの大半を殺して着地する。


 大きな負傷はない。


 だが、ただ腕を振って接触しただけとは思えない、異常な威力だった。


 真壁はまだ、本気で殴ってすらいない。


 接触した場所から、事前に蓄えていた衝撃を意図的に放出したのだ。


 千鶴が飛ばされたのを見て、澪が反射的に動いた。


「鏡宮さんから離れて!」


 吸血鬼の高速移動。


 真壁の側面へ一瞬で回り込み、がら空きの脇腹へ掌底を放つ。


 殺傷しないよう速度は十分に抑えているが、それでも吸血鬼の身体能力が乗った重い一撃だ。


 真壁は避けなかった。


 あえて澪の掌底をその身で受ける。


 ドゴォッ、という鈍い音。


 真壁の巨体が僅かに揺れる。


 澪の掌には、まるで鋼鉄の塊を打ったような硬い感触が残った。


 しかし真壁は倒れない。


 むしろ、獰猛な笑みを浮かべた。


「いい衝撃だ。ありがたくもらうぞ」


 真壁が腰を捻り、澪へ向けて裏拳を放つ。


 拳そのものは、澪の顔面へ届かない距離だった。


 それでも真壁が拳を振った瞬間、空気が物理的に爆発した。


 澪の身体が、見えない巨大な衝撃波に正面から吹き飛ばされる。


 久我が素早く滑り込み、左腕に展開した薄い《血装》で澪の背中を受け止めた。


 二人まとめて、白い床を数メートル滑る。


 久我の左腕に、強烈な激痛が走る。


 だが、庇っている右腕だけは何とか守り抜いた。


 久我の魔眼は、今の一連の変化を克明に捉えていた。


 澪の掌底を受けた瞬間。


 真壁の脇腹へ、新しい衝撃反応が生まれた。


 そして裏拳を振った瞬間。


 その蓄えられた反応が消え、澪へ向けて放出されたのだ。


「……受けた物理的な衝撃を、自分の身体の中へ保存しているのか?」


「正解だ」


 真壁が余裕の笑みを浮かべ、自ら能力を明かした。


「俺の能力は《返震》。身体へ加えられた物理的な衝撃を、一時的に蓄積できる。そして蓄えた衝撃は、拳、掌、肘、蹴り、肩、あるいは地面を踏む動作を通じて、任意の方向へ放出できる」


 衝撃を一度受け止め、真壁自身の強靭な身体能力と合わせて返すため、放たれる力は元の攻撃よりも強くなる。


 ただし、無限に増幅できるわけではない。


 真壁自身の肉体も放出の反動を受けるため、蓄積量が限界を超えれば、筋肉断裂、骨折、内臓損傷、神経麻痺が起こる。


 真壁の異常に鍛え上げられた巨大な肉体は、《返震》を運用するための頑丈な器でもあるのだ。


 先ほどの衝撃音は、廊下奥の衝撃吸収板を殴り、自分で事前に弾薬となる衝撃を溜めていた音だった。


 真壁は戦闘開始の時点で、すでに数発分の強力な衝撃を蓄えている。


       *


 真壁は、狂気に取りつかれた薬物研究者ではない。


 第七リング地下の警備主任として、金で雇われた能力者だ。


 だが、少なくとも自分が何を守っているのかを知らずに立っているわけではなかった。


「奥で何をしているか、知っているんですね」


「薬を欲しがる奴に薬を与えてる。試合に出たい奴を試合に出してる。それだけだ」


「危険をちゃんと説明していないじゃないですか!」


 澪が叫ぶ。


「強くなるために、何かを捨てるのは当たり前だろ。リスクも背負えねえ奴が、強さを欲しがるな」


「暴走した方を、失敗品と呼んで処分することもですか?」


 千鶴の冷たい問いに、真壁は答えなかった。


 完全な狂信者ではない。


 しかし、弱い能力者を守られるだけの存在として見下している。


「弱いままコソコソ生きるより、壊れてでも一度は強くなれる方がましだと思う奴は、この島にはごまんといる」


「本人がすべてを知った上で選んでいるならともかく、事実を隠して使わせているでしょう」


「立派な説教は、俺に勝ってからにしろよ」


 攻撃できない三人は、最悪の相性に直面していた。


《返震》の条件が分かった以上、迂闊には手を出せない。


 真壁へ強い打撃を与えれば、その衝撃が彼の次の攻撃力として蓄えられる。


 澪の高速打撃は、真壁にとって最高の燃料だ。


 久我の《血装》による硬い打撃も同様。


 千鶴の身体能力強化による拳や投げ技も、床への落下衝撃まで含めて蓄えられる可能性がある。


 さらに厄介なことに、千鶴の《神鏡返し》で真壁の攻撃を本人へ反射した場合、返された自分の衝撃を真壁が再び蓄えてしまう危険があった。


 千鶴は、分鏡へ触れていた手を静かに下ろした。


「この方へ直接攻撃を返すのは、極めて危険です」


「はい。こちらの攻撃が、そのまま相手の弾薬になります」


「じゃあ、どうやって倒すんですか?」


 澪が困惑する。


 久我は、真壁の巨体を見据えた。


 倒す方法はある。


 ただしそれは、決して攻撃であってはならない。


       *


 真壁が右足を高く上げ、床を強く踏み鳴らした。


 ドォンッ!


 蓄えていた衝撃の一部が、床を通じて全方位へ放出される。


 白い廊下全体が激しく揺れ、壁に亀裂が走り、天井の照明器具が次々と落下してくる。


 千鶴が一般の医療職員の前へ滑り込み、落下物を身体能力強化と合気だけで受け止め、横へ逸らす。


《神鏡返し》は使わない。


 真壁へ力を補給させないための、徹底した使わない判断だ。


 久我と澪は左右へ分かれる。


 真壁は、右腕を負傷している久我を明確な標的と定めた。


 巨大な拳が、久我の頭上から振り下ろされる。


 久我は受け止めない。


 左腕の《血装》で拳の側面へ触れ、軌道だけを外側へ滑らせる。


 拳が床へ落ちる。


 真壁はそのまま床へ向けて衝撃を放出した。


 ドガァッ!


 床材が爆発したように砕け散る。


 久我はぎりぎりで範囲外へ飛び退いた。


 魔眼による分析が続く。


 久我は真壁の能力の隙を見つけ出そうとしていた。


 衝撃反応は、身体全体へ均等に蓄積されているわけではない。


 受けた場所に近い筋肉や骨格へ一度滞留し、その後、真壁が呼吸と筋肉の動きによって、放出する部位へと移動させている。


 さらに、強い衝撃を放出する直前には、必ず足裏を床へ固定し、腰を落とし、背骨を伸ばし、呼吸を止める。


 強い放出には、安定した土台となる姿勢が不可欠なのだ。


 逆に言えば、空中、片足立ち、重心を崩された状態、関節の向きがずれた状態では、衝撃を狙った方向へ強く放てない。


 また、ゆっくりと加えられる圧力や、持続的な引っ張り、合気による重心移動は、真壁の身体へ弾薬として蓄えられるほどの衝撃にはなりにくい。


 千鶴が背後から短く助言を飛ばす。


「久我さん。あの方は、強い力を放つ直前に、必ず右の踵を床へ沈めています」


「俺にも見えました」


「腰を落とし、背骨と腕を一つの線にしてから力を出しています。そこを崩せば、強い衝撃は放てません」


「ただ、近づいた瞬間に小さい衝撃を出される可能性があります」


「接触してから崩すのでは間に合いません。相手が自分から踏み込んでくる方向を、利用してください」


 千鶴は、以前の鳥カゴでの訓練で久我へ教えた極意を伝えた。


 相手を力で動かそうとするのではない。


 相手が動こうとする先へ、さらに道を作ってやる。


 力が完成する直前に、支えとなる土台だけを外す。


 久我は頷いた。


       *


 澪は高速で殴ることを封じられている。


 そこで久我は、彼女に別の役割を頼んだ。


「七瀬さん。絶対に攻撃しないでください」


「何をすればいいんですか?」


「真壁さんの視線を忙しく動かしてください。背後へ回るだけでいいです」


「回るだけ?」


「はい。いつでも殴ると思わせてください。でも、絶対に殴らないで」


 澪は意図を理解した。


 真壁は先ほど澪の掌底を受け、その威力を知っている。


 吸血鬼の速度で背後へ回られれば、再び打撃が来ると警戒する。


 実際には攻撃しない。


 しかし真壁は、澪の位置へ身体を向け直さなければならない。


 そのたびに、足を置き直し、腰の向きを変え、衝撃を集め直し、放出の姿勢を崩す。


 澪の速さを、攻撃としてではなく、敵の姿勢を乱すために使うのだ。


 澪が走る。


 真壁の右側。


 左側。


 背後。


 正面。


 一瞬ずつ姿を見せ、次の瞬間には消えている。


 真壁は澪の掌底を警戒し、何度も腕を上げる。


 しかし攻撃は来ない。


 真壁が久我へ向き直った瞬間、澪が再び背後へ回る。


「ちょこまかと!」


 苛立った真壁が、周囲へ向けて広範囲の衝撃波を放った。


 澪は、攻撃を見てから逃げるのではない。


 真壁が右の踵を沈めた時点で、久我が叫ぶ。


「離れて!」


 澪が範囲外へ逃れた後に、衝撃波が虚しく空を叩く。


 真壁の体内に蓄えられていた衝撃が減る。


 攻撃を受けなくても、真壁へ衝撃を無駄撃ちさせれば、蓄えた力を削ることができる。


 真壁も、久我たちの戦術を理解した。


 澪を狙って力を浪費するのをやめる。


 そして、おもむろに廊下の頑丈な壁へ、自分の拳を全力で叩き込んだ。


 ドンッ!


 壁から受ける反作用の衝撃を、自分の身体へ再び蓄える。


「自分で壁を殴って溜め直せるのか……」


「お前らが殴らねえなら、俺が殴るだけだ」


 ただし、壁を殴って衝撃を蓄えるには、大きく振りかぶる時間が必要だ。


 拳を壁へ当てる瞬間、攻撃対象から視線が外れる。


 久我たちは、その僅かな隙を利用できる。


 真壁が壁を殴るたび、医療区画全体が大きく揺れる。


 奥の診察室から、複数の生命維持装置が発する警告音が響き始めた。


「これ以上揺らしたら、生命維持装置が止まります!」


 避難していた医療職員が悲鳴を上げる。


 真壁は一瞬だけ、拳を振り上げたまま動きを止めた。


 彼も、患者を直接殺したいわけではない。


 久我はその僅かな迷いを見逃さなかった。


「患者を守りたいなら、ここで戦うべきじゃないでしょう」


「お前らが帰れば終わる話だ」


「奥で行われていることを見逃せば、またこういう患者が増える」


 交渉は平行線を辿る。


 千鶴が患者側へ回った。


「ここはお二人に任せます。私は医療機器と職員を守ります」


「お願いします」


 千鶴は医療職員を診察室の奥へ避難させ、落下物や壁の破片を身体能力強化で防ぎ続けた。


 真壁の広範囲衝撃が生命維持装置へ向かった場合のみ、《神鏡返し》で攻撃を真壁へ返さず、無人の天井方向へ軌道だけを逸らす。


 反射ではなく軌道変更。


 真壁へ力を補給しないための繊細な運用だ。


       *


 真壁が久我へ接近する。


 広範囲ではなく、接触した掌から短い衝撃を放つ。


 久我は完全には避けきれない。


 左前腕の《血装》へ衝撃が直撃する。


 身体が後ろへ数メートル飛ばされる。


 庇っていた右腕の傷が開きかけ、血が包帯へ赤く滲んだ。


「久我さん!」


「大丈夫です。右腕は使ってません」


 実際には、大丈夫ではない。


 真壁は明確に久我の負傷部位を狙っている。


 次に同じ衝撃を受ければ、右腕の治癒が大きく後退する。


 早く決着させる必要がある。


「七瀬さん。三回、真壁さんの背後へ回ってください」


 久我は簡潔に指示を出す。


「三回?」


「三回目だけ、右足首の後ろを掴んでください。引っ張らなくていいです。足を後ろへ戻させないだけで十分です」


「分かりました」


 久我は千鶴へ視線を送る。


「鏡宮さん。あの搬送用ベッドを、廊下の中央へ動かせますか?」


 近くに、衝撃吸収用の厚いマットを備えた医療用ストレッチャーが置かれている。


「可能です」


「真壁さんを、あの上へ倒します」


 真壁へ強い落下衝撃を与えれば、再び力を蓄えられてしまう。


 だから床へは叩きつけない。


 衝撃吸収マットの上へ、三人で落下速度を殺しながら下ろす。


 一回目。


 澪が真壁の背後へ回る。


 真壁が振り向くが、攻撃は来ない。


 その隙に久我が正面へ一歩近づく。


 真壁が久我へ掌を向けるが、久我はすっと距離を取る。


 二回目。


 澪が左から背後へ回る。


 真壁は今度は振り向かず、肘を背後へ乱暴に振る。


 澪はすでに離脱しており、衝撃は空を切る。


 蓄積がさらに減る。


 久我は真壁の踵と腰の動きを記憶する。


 三回目。


 澪が、正面から突進するように見せかけた。


 真壁が久我から視線を外し、澪へ身体を向ける。


 澪は真壁の脇をすり抜け、背後へ回り、真壁の右足首の後ろへ両手を添えた。


 強くは引かない。


 ただ、真壁が右足を後ろへ戻せない位置を確保する。


 真壁は澪を振り払おうと、左足へ体重を移した。


 ここで巨体の重心が一方向へ偏る。


 真壁は、久我が接近してきたことに気づいた。


 蓄えていた残りの衝撃を右拳へ集める。


 右の踵を床へ深く沈めようとする。


 しかし、その足は澪に背後から進路を塞がれ、正しい位置へ置けない。


 真壁は無理に左足だけで踏ん張ろうとした。


 背骨と腰の線が、ほんの僅かにずれる。


「久我さん、今です! 右の肘を下へ、肩を前へ!」


 千鶴の叫びが響いた。


 久我は真壁の拳を止めない。


 受け止めない。


 左手を真壁の右肘へそっと添える。


 力を込めて押すのではなく、その巨大な拳が進もうとしている斜め下方向へ、僅かに道を作る。


 真壁の最大衝撃は、久我ではなく真下の床へ向かった。


 拳が床へ触れる直前、蓄積された衝撃が放出される。


 ドンッ!


 床が大きく陥没し、衝撃が廊下全体へ広がる。


 千鶴が《神鏡返し》で、医療機器へ向かう衝撃だけを無人の天井へ逸らした。


 真壁は最大出力を床へ無駄撃ちした。


 体内に蓄えていた衝撃の大半が消える。


 さらに片足立ちに近い不安定な姿勢で、右拳を床へ突き下ろしたため、上半身も前へ大きく倒れている。


 久我はその流れを止めない。


 左手で真壁の肘を。


 左肩で胸元を。


 自分の腰を、真壁の進行方向から僅かに外す。


 真壁の身体は、自分自身の力で前へ流れていく。


 久我が足を払うのではない。


 澪が右足を戻せない位置にいるため、真壁は踏み直せない。


 巨体の重心が、完全に浮いた。


 久我は右腕を使わない。


 左腕と身体全体だけで、真壁の重心を円を描くように導く。


 力任せの背負い投げではない。


 真壁が放った衝撃。


 前へ倒れる自重。


 踏み直せない右足。


 すべてを利用して、百九十センチを超える巨大な身体を空中で反転させる。


「なっ――!」


 真壁の両足が床から離れ、その巨体が宙を舞った。


 久我は真壁を床へ叩きつけない。


 あらかじめ千鶴が移動させていた、衝撃吸収用ストレッチャーへ向けて投げる。


 千鶴がストレッチャーの反対側で、真壁の肩と背中を受け止める。


 澪も足元を支える。


 三人は巨体の落下速度を段階的に殺し、《返震》が有効な弾薬として蓄えられないほど静かに、厚いマットの上へ下ろした。


 久我が真壁の右肘と肩を上から押さえる。


 澪が高速で医療用拘束ベルトを回収し、両手首、肘、胴体、両足をベッドへ固定していく。


 拘束も急激に締めず、ゆっくりと行う。


《返震》へ反撃に使えるほどの衝撃を与えないためだ。


「……終わりです」


 久我が息を吐きながら言った。


「俺を……一度も殴りもせずに……」


 拘束された真壁が、信じられないというように呟く。


「殴ったら強くなる相手を、わざわざ殴る必要はないでしょう」


 真壁は拘束された状態でも、わずかに残った衝撃を放とうとした。


 久我の魔眼が、その反応の移動を捉える。


「七瀬さん、右肩!」


 澪が真壁の右肩を押すのではなく、拘束ベルトの位置をずらす。


 真壁の肩が十分に引けなくなる。


 千鶴が首と背骨の位置を調整し、放出姿勢を作らせない。


 衝撃反応は右腕へ集まるが、狙った方向へ放出できず、徐々に薄れていった。


 真壁は、ついに抵抗を諦め、深く息を吐いて力を抜いた。


 完全制圧だった。


       *


 真壁が三人へ明確に攻撃し、記録装置を不当に奪おうとした。


 さらに第三医療区画には、現実に生命の危険がある患者がいる。


 久我はリストバンドから、最終手段である黒色信号を送った。


 緊急突入要請。


『黒信号を確認しました。八咫烏の別班と、特区保安局が連動して動きます』


 かれんの声。


『地下入口の確保を開始するわ。ただし、そちらへ到達するまでには時間がかかる。まずは患者の救命を優先して!』


 黒瀬の指示。


 久我たちは、真壁の職員証を使って無制限に施設を探索するような真似はしない。


 まず、第三医療区画で生命の危機にある患者を救う。


 緊急避難と救命の範囲として行動するのだ。


 真壁の職員証を、千鶴が関係者扉へかざす。


 重い扉が開いた。


 内部の光景は、通常の病院とは明らかに違っていた。


 六台の無機質な医療ベッド。


 意識を失った能力者四名。


 空のベッド二台。


 物々しい能力抑制拘束具。


 大量の血液採取装置。


 脳波計。


 能力反応測定器。


 手首に残る、赤いパッチを剥がした痕。


 点滴で投与されている薬剤。


 薬剤ごとの能力反応値を表示する巨大なモニター。


 先ほど倒れた衝撃波能力者は、一番奥のベッドにいた。


 心拍が危険な状態だ。


 医療職員は治療を続けているが、能力出力の測定も止めようとはしない。


「測定を止めて、救命処置へ集中してください!」


 千鶴が厳しく言うと、医療責任者が怯えながら答えた。


「データが途切れます!」


「この人の心臓も止まりますよ」


 久我の静かな凄みに、医療責任者は震えた。


「私たちは、指示どおりにデータを――」


 久我は魔眼で、患者の生命反応と異能反応の変化を追う。


 右腕の点滴から薬剤が入るたび、下がりかけていた異能反応が再び不規則に跳ね上がっている。


「右腕の点滴を確認してください。これが入るたびに、能力反応がまた強くなっています」


 医療職員が点滴袋の管理番号と、端末上の投与記録を確認する。


 その顔色が変わった。


「安定剤じゃない……増幅剤が混ざっている」


 能力反応を長く記録するため、暴走が完全には止まらない量の増幅剤を継続投与していたのだ。


 千鶴が医療職員の確認を受け、点滴のバルブを閉じる。


 澪が高速で必要な薬品と除細動器を運ぶ。


 久我は患者の生命反応を観察し、心拍が落ちるタイミング、呼吸が止まりかける瞬間、異能反応が急上昇する場所を医療職員へ伝える。


 三人は戦闘後、即座に患者の救命を支援する役割へ切り替わった。


 久我は医師ではない。


 直接的な医療処置を自分で決めることはせず、魔眼で確認できた異常を現場の医療職員へ伝えることに徹した。


 医療職員は久我の情報を参考に処置を行う。


 やがて、患者の心拍が安定したリズムを取り戻す。


 澪が安堵の息を吐いた。


 千鶴は残る三人の拘束具を確認する。


 ただし暴走の危険があるため、完全に自由にはせず、医療職員と相談しながら身体を傷つけない安全な固定へ変更した。


 能力実験のための拘束と、患者を守るための医療的な固定を明確に区別したのだ。


       *


 患者の状態が安定した後。


 久我たちは室内の端末を確認した。


 黒瀬からは、生命の危険に関係する記録は保存してよい、データを消去せず複製だけを行うこと、と指示が出ている。


 千鶴の記録端末と、久我の新しい通信端末で証拠を保存していく。


 見つかった記録。


 投薬履歴。


 通常版、高出力版、持続型パッチ、錠剤、注射型、未承認の上位試作品。


 副作用のデータ。


 能力暴走。


 神経損傷。


 心筋異常。


 血管破裂。


 記憶障害。


 能力反応の不可逆的変質。


 そして、複数の死亡記録。


 参加者へ薬を使わせ、出力上昇率、持続時間、身体負荷、他能力との相性を測定している。


 文書上は参加選手、協力者、能力強化希望者と書かれている。


 しかし内部管理番号では、サンプル、低適性、廃棄予定、長期観察という非人間的な分類が使われていた。


 死亡記録は、地下試合中の事故、能力暴走による自傷、既往症、島外での失踪として処理されている。


 医療用安定剤の横流し記録も出てきた。


《オーバークロック》の基礎材料は、境界島で正式に使用されている医療用安定剤だ。


 廃棄予定品。


 期限切れ直前の備蓄。


 研究用サンプル。


 製造過程で余った原料。


 帳簿上は廃棄済みとなった薬剤。


 それらを複数の関係者が少量ずつ横流ししている。


 境界島の医療組織全体が関与しているわけではない。


 一部の研究者、職員、第七リングの関係者が繋がって作った流通網だった。


 そして久我は、研究記録の管理者欄に、ある名前を見つけた。


『能力出力増幅剤・臨床外試験』


『開発責任者・榊原宗一』


 元・境界島能力者医療研究所。


 専門分野は、能力使用時の神経負荷、特殊体質者の身体安定化、能力反応の人工増幅、医療用安定剤の開発。


 榊原は、元々《オーバークロック》という違法薬物を作るために研究していたのではない。


 能力暴走を抑え、能力者が安全に力を使えるようにする医療研究を行っていた。


 しかし途中から、抑えるだけではなく人工的に出力を高められるのではないか、という方向へ進み、研究倫理違反によって施設を追われた。


 その後、第七リングの地下へ移り、非公式な実験を続けていた。


 さらに、暗号化されて開けない記録の中に、気になる単語が並んでいた。


『獅堂将馬の異能《能力共鳴》を介した複数能力同時接続試験』


『オーバークロック使用者間の発動同期』


『反動および神経負荷の集団分散』


『共鳴適性』


『実施責任者・獅堂将馬』


 詳しい内容は暗号化され、確認できない。


 ただ、獅堂将馬という能力者を中心に、複数の薬物使用者を同時に運用する実験が進められていることだけは分かった。


       *


 証拠を複製している途中。


 医療区画の壁面にある大型モニターが、突然点灯した。


 白衣を着た、四十代後半の男性が映る。


 落ち着いた表情。


 眼鏡。


 ひどく疲労しているが、映画に出てくるような狂人には見えない。


 榊原宗一。


『……そこまで辿り着いたのは、あなたたちが初めてです』


 澪が身構える。


 千鶴は分鏡へ手を置く。


「榊原宗一さんですか」


『ええ』


「この薬を作った人ですね」


『正確には、能力を安定させるために開発した私の技術を、私自身が能力出力増幅剤へ転用しました。第七リングの運営者たちは、それを商品として流通させた』


 榊原は目を逸らさずに続ける。


『責任を他人へ押しつけるつもりはありません』


「では、人が死んでいることも知っていますね」


『知っています』


 榊原は一切の動揺を見せず、静かに認めた。


 そのあまりにも冷静な態度が、逆に不気味だった。


『ですが、あなたが見た記録だけで、私の研究のすべてを判断してほしくはない』


「死亡記録や廃棄予定という分類以上に、何を見れば判断が変わるんですか?」


『あなたは、薬を使わずに二度も強化能力者を破った。そして先ほどは、《返震》を持つ真壁を、一度も殴らずに制圧してみせた』


 榊原は、久我を真っ直ぐに見つめた。


『私は、あなたのような能力者と話がしたい』


「俺の能力データが欲しいんですか?」


『それも興味深い。しかし、それ以上に聞きたいことがあります』


 榊原の目が、薄暗い光を帯びる。


『弱い能力者は、永遠に弱いまま、保護されるべき存在だと思いますか?』


 久我は答えない。


『B3の研究室へ来てください。逃げも隠れもしません』


『行かないで。こちらの部隊が地下へ入るまで待って!』


 黒瀬からの通信が飛ぶ。


『榊原が証拠を消去する可能性があります。現在地を維持してください』


 かれんも同調する。


 しかし、その直後。


 施設内のシステムが遠隔で作動した。


 B2と地上を繋ぐエレベーターが停止し、防火扉が閉鎖される。


 ただし、榊原は久我たちを閉じ込めて殺そうとしているわけではない。


 さらに深いB3へ続く扉だけが、音もなく開いた。


 話をするなら進め。


 待つなら、証拠を消す時間が進む。


 そう告げる無言の圧力だった。


 久我は、B3へ続く薄暗い通路を見た。


 背後には、救助した患者たち。


 拘束した真壁。


 外から近づいている黒瀬と八咫烏の部隊。


 そして前方には、能力出力増幅剤を作った研究者。


「久我さん。行くべきではありません」


 千鶴が忠告する。


「でも、証拠を消されるかもしれません」


 澪が言う。


「分かっています」


 久我は、榊原が映るモニターを見た。


「話をするだけです」


 通信越しに、黒瀬が即答した。


『その言い方で今夜何度目だと思ってるの!』


『久我さん。単独では進まないでください』


「もちろんです。三人で行きます」


「……そういう意味ではありません」


 千鶴がため息をつく。


「でも、三人なら大丈夫ですよね」


「七瀬さんまで……」


 張り詰めた空気の中で軽いやり取りを残しつつ、三人はB3への通路へ向き直った。


 殴るほど強くなる男を、久我たちは一度も殴らずに投げた。


 その先で見つけたのは、弱い能力者を救うために始まり、人間を数字とサンプルとして扱うところまで逸脱した研究の記録だった。


 そして今、その研究を始めた男が地下の底で三人を待っている。


 白く無機質に照らされたB3への通路が、静かに口を開けていた。


最後までお付き合いいただき感謝します。


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― 新着の感想 ―
まーたこのパターンで深入りしてる・・・。
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