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第36話 吸血鬼、高速少女を壁と天井に走らせる

 第七リングの地下闘技場。


 澪は、大柄な女性能力者グルーが作り出した《粘着空間》に捕らえられ、見えない泥の壁から半身だけを抜いた状態でもがいていた。


 足元の床は、もう一人の敵であるスリップの《摩擦消去》によって完全に摩擦を奪われており、まともに踏ん張ることすらできない。


 リング中央では、久我も右腕を庇いながら、左前腕に極薄の《血装》を展開し、スリップの鋭い蹴りを必死に受け流していた。


 観客席からは、容赦のない嘲笑が飛ぶ。


「高速型は床を消せば終わりだ!」


「床で転んでる奴が何を言ってる!」


「さっさと薬を使えよ、ランナー!」


 リング脇では、係員が赤いパッチを掲げたまま立っている。


 苦戦する参加者へ薬を使わせ、地下試合の熱狂をさらに盛り上げようという魂胆だ。


 澪は一瞬だけ、その赤いパッチを見た。


 だが、すぐに冷たい視線を外す。


「必要ありません」


 久我も、スリップの蹴りをいなしながら答えた。


「俺も結構です。まともな会社員は、契約内容が怪しい薬なんて絶対に使いませんので」


 スリップが鼻で笑う。


「負け惜しみは、負けてから言えよ、おっさん」


       *


 まず澪は、現在捕まっている《粘着空間》から完全に抜け出さなければならない。


 しかし、力任せに身体を引けば引くほど空間の抵抗が増し、さらに深く固定されてしまう。


 高速で動く物体ほど強く拘束する能力なのだ。


 久我は魔眼の焦点を絞り、粘着空間の境界線と、澪の身体の姿勢を正確に把握した。


「七瀬さん。右肩を少し下げてください」


「はい」


「足から強引に抜こうとしないで。左肩、腰、右脚の順番です。極端にゆっくり動いてください」


 澪は短く深呼吸をし、全身の力を抜いた。


 吸血鬼の高速移動とは真逆の、極端に遅い、滑らかな動き。


 左肩を引く。


 腰をゆっくりと捻る。


 最後に、捕まっていた右脚を静かに引き抜く。


 グルーが眉をひそめた。


「……能力の性質に気づいたか」


 十分に速度を落とせば、《粘着空間》から受ける抵抗は大きく弱まる。


 澪は時間をかけ、完全に拘束から抜け出すことに成功した。


 しかし、床へ着地すれば、再び摩擦のない地面で滑って転倒するだけだ。


 久我がすかさず声をかける。


「床には降りないでください。右側の柱へ!」


 澪は空中で身体を捻り、近くにある高さ三メートルの柱へ手を伸ばし、その縁をがっしりと掴んだ。


 完全に足場を失ったまま、吸血鬼の腕力だけで身体を支える。


       *


 澪が体勢を整えている間、スリップが久我へ攻撃を集中してきた。


 スリップは、自分自身の足裏だけは摩擦を維持できる。


 周囲の床を滑りやすく変えながら、自分だけは自由に踏み込み、停止し、方向を変えられるのだ。


 久我は踏ん張れない。


 右腕も使えない。


 真正面から力で殴り合えば、圧倒的に不利だ。


 スリップが久我の右側へ素早く回り込み、負傷した右腕を狙って重い蹴りを放つ。


 久我は右腕を守るため、あえて自ら身体を滑らせて回避した。


 左前腕の《血装》を床へ軽く擦りつけ、装甲をブレーキのように使う。


 完全には止まれない。


 しかし、滑る方向だけは制御できる。


「防ぐだけじゃ勝てねえぞ、おっさん!」


「今日は、防ぐなと厳しく言われているんですけどね!」


 久我はスリップの攻撃を受け止めず、滑る床の上で横へ流し続けた。


 蹴りを左腕で逸らし、自分の身体も同じ方向へ滑らせることで、衝撃を逃がす。


 昨日のように盾になるのではない。


 攻撃を受ける場所から、自分の身体そのものを退かす。


 それが、右腕を使えない久我の選んだ戦い方だった。


       *


 澪は柱の縁へ両足をつけた。


 壁や柱には、まだ《摩擦消去》の効果が及んでいない。


 短く息を吸う。


 久我が魔眼で、リング内の壁、四本の柱、上部の梁の位置を確認する。


「最初は全速力にしないでください。壁を三歩、柱を一度蹴って、反対側の壁へ!」


「分かりました!」


 澪が柱を蹴った。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 吸血鬼の脚力と速度が、重力を置き去りにする。


 澪は地面と平行に壁面を走り抜け、次の柱へ飛び移った。


 さらに柱を蹴り、リング上部を横断する金属製の梁へ到達する。


 観客席の嘲笑が、ぴたりと止まった。


 澪は梁の上を走り、グルーの頭上を通過する。


 グルーが驚愕して上を見上げた。


「壁走りまでできるのか!」


 澪は梁の端を蹴り、さらに上へ跳躍した。


 リング上部を覆う強化天井へ、両足が触れる。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 上下を逆さにしたまま、澪はほんの一瞬だけ天井を駆け抜けた。


 重力に引かれて落下するより早く、反対側の柱へ向かって身体を投げ出す。


「天井まで走るのかよ!」


 スリップが思わず叫ぶ。


 澪は柱を蹴り、グルーの背後へ向かって着地しようとした。


 しかし、久我が鋭く叫ぶ。


「着地しないで! 左の柱へ!」


 澪は空中で身体を捻り、床へは降りず、左の柱へ両足をついて張り付いた。


 直後、澪が着地しようとしていた空間へ、グルーの《粘着空間》が展開された。


 久我の指示が一瞬でも遅ければ、再び空中で捕まっていたはずだ。


       *


 最初の立体機動は見事に通じた。


 しかし、スリップも馬鹿ではない。


 彼が、澪が次に蹴ろうとしている壁へ視線を向けた。


《摩擦消去》の対象を、床から壁へと瞬時に変更する。


 澪が壁を蹴った瞬間、足がつるりと滑った。


「っ!」


 身体が支えを失い、落下する。


 だが同時に、リング中央部の床へと摩擦が戻った。


 久我の魔眼が、その変化をはっきりと捉えていた。


 スリップは、床、壁、柱、すべての摩擦を同時には消せない。


 新しい場所へ能力を移す瞬間、以前の場所へ必ず摩擦が戻る。


 久我は床へ左足をついた。


 先ほどまで氷のように滑っていた靴底が、しっかりと硬い床を捉える。


 一瞬だけ、久我に踏ん張る力が戻った。


 スリップは澪を落とすことへ意識を向けており、隙が生まれた。


 久我はその瞬間、この試合で初めて前へ踏み込んだ。


 左肩をスリップの胸元へ当てる。


 右腕は使わない。


 左手で相手の肘を軽く押し、腰の向きだけを僅かにずらす。


 千鶴から教わった、力で投げるのではなく、相手の重心を崩す合気の動き。


 スリップがバランスを崩し、一歩よろめく。


 久我は深追いしない。


 床の摩擦が再び消される前に、左手を近くの柱へかけて離脱した。


「七瀬さん! あの人は同時に全部の壁を滑らせることはできません!」


 落下中の澪が、別の梁へ手を伸ばす。


 身体を振り子のように揺らし、別の柱へ飛び移った。


       *


 敵が壁の摩擦を消せば、床へ摩擦が戻る。


 敵が床を滑らせれば、壁を走れる。


 久我は、この能力の切り替えの隙を利用し始めた。


「右の壁!」


 スリップが右壁の摩擦を消す。


「床!」


 床へ摩擦が戻った瞬間、澪が柱から飛び降り、二歩だけ床を全速力で走る。


 スリップが慌てて床を滑らせる。


「左の柱!」


 澪は滑り始める直前に跳躍し、柱へ移る。


 スリップが柱の摩擦を消す。


「床、三歩!」


 再び床へ摩擦が戻る。


 澪は地面、壁、柱、梁、そして天井を順番に使いこなす。


 敵の能力によって道が奪われるたびに、必ず別の場所へ新しい道が生まれる。


 久我は、どこが滑るかを見るのではない。


 能力を移した結果、どこが使えるようになったかを読み続け、的確に指示を出していく。


       *


 グルーも、澪の立体機動へ対応し始めた。


 最初は床付近に配置していた《粘着空間》を、壁と柱の間、梁から降りる位置、そして柱の裏側へと置き直す。


 一つ目。


 澪が壁から柱へ移る最短経路。


 二つ目。


 梁から床へ降りる着地点。


 三つ目。


 久我の周囲。


 これで澪の立体移動と、久我の回避を同時に封じ込める構えだ。


 久我の魔眼には、見えない空間の境界が薄い膜のように見えている。


 しかし、複数の敵を相手にしながら、これだけ複雑な空間情報をすべて声で伝えるのは難しい。


「七瀬さん、梁の手前で――」


 久我が指示を出し切る前に、澪が自分から進路を大きく変更した。


 正面の梁へは行かず、壁を蹴って横へ飛ぶ。


 久我が驚く。


 澪は、久我の視線が一瞬だけ梁の手前で止まったのを見ていた。


 そこに何か罠があると判断したのだ。


「久我さんが見ていた場所は避けました!」


「正解です!」


 昨日の戦闘までは、久我の声を聞いてから動いていた。


 しかし今は、久我が何を見ているかから、次の指示を先読みして動き始めている。


       *


 澪を支援している間にも、スリップは執拗に久我を狙う。


 スリップは、久我が右腕を露骨に庇っていることに気づいていた。


「そっちの腕、昨日の傷が治ってないんだろ」


 久我は無言のまま、スリップの連続攻撃を左腕だけで受け流す。


 床の摩擦が消えているため、通常の投げ技へ移行するのは難しい。


 しかし久我は、滑ることを完全な不利とは考えていなかった。


 スリップの飛び蹴りを左腕の《血装》で受け流し、その勢いを使って自分の身体を回転させる。


 柱の近くまで滑り、左手で柱を掴んで急停止する。


 スリップは久我の横を、飛び蹴りの勢いのまま通過する。


 久我はその肩へ左手を軽く添えた。


 押し倒すのではない。


 空中にある身体の向きを、リングの外側へ僅かにずらすだけだ。


 スリップは着地には成功した。


 しかし想定していた位置から大きく逸れ、リングの境界ぎりぎりへ片足をつく。


「自分だけ自由に動けても、着地する場所をずらされれば危険ですね」


「調子に乗るな!」


 まだリングアウトには届かない。


 だが久我は、右腕を一切使わずにスリップの動きを誘導することに成功していた。


 一方の澪は、グルーが作った《粘着空間》の一つへ、あえて片足だけを触れさせた。


 完全に高速で突っ込めば拘束される。


 しかし、境界線へ浅い角度で、速度を落として足先だけを入れる。


 足へ強い抵抗がかかる。


 澪はその抵抗を、空中で身体の向きを変えるためのブレーキとして利用した。


 片足だけが急減速し、身体が大きく回転する。


 そのまま別方向へ飛び出す。


「私の空間を使って曲がった?」


 グルーが驚愕する。


 澪は、《粘着空間》を完全な罠ではなく、空中で速度と向きを調節するための足場として使い始めていた。


「入りすぎないでください! 境界の端だけです!」


「はい!」


 一度目は久我の指示だった。


 二度目からは、澪が自分で角度と速度を調節した。


 高速移動の出力だけではない。


 加速。


 減速。


 方向転換。


 そして敵能力による抵抗。


 利用できるすべてを取り込み、澪の走りは一段階上の制御へ進んでいた。


       *


 スリップとグルーは、久我たちが単純な初参加者ではないと完全に認めた。


「グルー! あの中年を先に落とすぞ!」


「分かった!」


 グルーが三つの《粘着空間》を、久我の周囲へ集中させた。


 前方。


 左右。


 久我の退路を完全に塞ぐ。


 スリップが床の摩擦を消したまま、正面から突進してくる。


 久我は後ろへ下がれない。


 速く動けば粘着空間へ捕まり、その場に残ればスリップの攻撃をまともに受ける。


 観客席は、久我がついに追い詰められたと判断し、歓声を上げた。


 リング脇の係員が、再び赤いパッチを掲げる。


「使えば簡単に勝てるぞ!」


 久我は見向きもしなかった。


 久我は、頭上を走る澪を見た。


 声を出せば、敵にも作戦が伝わってしまう。


 久我は一度だけ、スリップ、グルー、リング端、床の順番に視線を動かした。


 澪は走りながら、その視線を追う。


 スリップは久我へ攻撃を集中している。


 グルーは久我の周囲に、三つすべての《粘着空間》を使っている。


 つまり、澪の進路を妨害する空間は残っていない。


 さらに、スリップが床の摩擦を消しているため、壁と柱は完全に使える。


 久我が示した勝ち筋。


 澪がグルーをリング端へ追い込む。


 久我がスリップの能力切り替えを誘う。


 二人を、ほぼ同時にリングアウトさせる。


 澪が小さく頷いた。


 久我は声を出していない。


 それでも澪は、視線と現在の状況から、久我が何を求めているかを読み取った。


       *


 最終攻略が始まった。


 澪が壁を全速力で走る。


 グルーは久我の拘束へ能力を使い切っている。


 澪を止めるためには、久我の周囲の《粘着空間》を一つ解除しなければならない。


 澪はあえて、グルーの真正面から近づく。


 グルーは焦り、久我の左側にあった《粘着空間》を解除し、澪の前方へと再展開した。


 その瞬間、久我の退路が一方向だけ開いた。


 久我は開いた場所へ、ゆっくりと身体を滑らせ、スリップの飛び蹴りを間一髪で回避する。


 グルーが、澪を《粘着空間》で捕まえたと確信し、笑みを作った。


 しかし澪は、展開された《粘着空間》の境界へ足先だけを触れ、身体を急回転させた。


 グルーの正面から一瞬で側面へ移る。


「昨日より、ちゃんと曲がれます!」


 グルーが振り向く前に、澪は背後へと回り込んだ。


 ただし、高速で殴りはしない。


 グルーの腰へ腕を回し、接触した瞬間に速度を極端に落とす。


 身体を密着させた状態で、短い加速だけを使ってリング端へと押す。


 グルーが声を上げ、必死に踏ん張ろうとする。


 澪を止めるため、スリップが床から壁へと能力を移そうとした。


 久我は、まさにそれを待っていた。


 スリップが能力を切り替えた瞬間。


 リング中央の床へと、完全に摩擦が戻る。


 久我の左足が、床をしっかりと捉えた。


 ここで初めて、久我は全力で踏み込む。


 スリップは澪へと注意を向けており、久我から視線を外している。


 久我は右腕を使わない。


 左手でスリップの手首へ触れる。


 肘を押す。


 腰を相手の進行方向から僅かに外す。


 スリップの身体が、自分自身の踏み込みの勢いによって前へ大きく流れる。


 久我は投げ飛ばすのではない。


 リング外へと向かう道だけを作ったのだ。


「なっ――!」


 スリップが、そのままの勢いでリング端を越える。


 同時に反対側では、澪がグルーを押し切ろうとしていた。


 ただしグルーは大柄で、澪一人では最後の一歩を動かしきれない。


 久我が叫ぶ。


「七瀬さん、止まらないで!」


 澪は力任せに押すのをやめた。


 一度だけ身体を離し、近くの柱を蹴る。


 短く再加速。


 グルーの背中へ両手を当てる直前に、急減速する。


 衝撃ではなく、体重移動だけを加える。


 グルーの片足がリング外へ出る。


 次の瞬間、もう片方の足も境界線を越えた。


 二人が、ほぼ同時にリングアウトした。


       *


 場内が、一瞬だけ水を打ったように静まり返った。


 薬を使わなかった初参加者の二人。


 高速移動を封じるために組まれた相手を、能力出力のごり押しではなく、地形と連携で攻略してみせた。


 審判も予想していなかったのか、数秒遅れて勝利判定を下した。


「勝者! 《ブラッド》&《ランナー》!」


 観客席から、歓声と野次が入り交じった大声援が飛ぶ。


「薬なしで勝ったぞ!」


「壁走りは反則じゃないのか!」


「リング内なら全部足場だろ!」


「あの中年、ほとんど殴ってないぞ!」


「次はブースターを使わせろ!」


 久我は右腕を使っていない。


 澪も高速打撃を使わず、二人とも相手に大きな怪我をさせずに勝利していた。


 スリップとグルーは、地下試合の運営者ではない。


 賞金や実戦経験を求め、試合へ参加している能力者だ。


 澪が、リング下へ落ちたグルーへ手を差し出す。


「大丈夫ですか?」


 グルーは驚きながらも、その手を取った。


「……負けた相手に、普通そういうことを聞くか?」


「試合なので」


 スリップは悔しそうに久我を睨みつけた。


「俺の能力の切り替えの隙まで、見えてたのか」


「少し観察していただけですよ」


「少しで、あそこまで分かるかよ……」


 スリップは舌打ちしたものの、それ以上、久我たちへ敵意を向けることはなかった。


 そして観客たちは、目の前で見せつけられていた。


 能力の出力を薬で引き上げなくても、技術と連携によって、相性の悪い相手を攻略できることを。


       *


 控室へ戻る。


 澪は興奮冷めやらぬ様子だが、脚には確実に疲労が溜まっていた。


 壁、柱、梁、天井を連続して蹴ったため、足首と膝へ大きな負担がかかっている。


 専用靴と補助装具がなければ、負傷していた可能性がある。


 久我が確認する。


「足は痛くないですか?」


「少しだけ。でも、まだ走れます!」


「まだ走れるかではなく、走っていいかを考えてください」


「久我さんにだけは言われたくありません」


 久我は、自分の右腕の包帯を見て反論できなかった。


 澪は戦闘を振り返る。


「最後、久我さんは声を出しませんでしたよね」


「敵に聞かれたくなかったので」


「でも、何をしてほしいか分かりました」


 澪は、久我がどこを見るか。


 どの敵を先に確認するか。


 どこへ視線を止めるか。


 それらを見て、作戦を判断した。


「俺も、七瀬さんなら分かると思ってました」


 前話で生まれた二人の連携は、声による指示だけではなく、視線と状況から次の意図を読む段階へ、初めて足を踏み入れていた。


 受付担当者が控室へ来る。


 その表情は、前よりも明らかに興味深そうだった。


「薬を使わずに勝つとは思いませんでした」


「使わなくても勝てる相手を選んでくれたんでしょう?」


「どうでしょうね」


 二人へ、黒いリストバンドが渡された。


 上位参加者証。


 地下リングで一定以上の実力を示した選手だけが持てる。


 これにより、上位試合の観戦、選手専用ラウンジの利用、地下医療区画の簡易診断、高額賞金試合への参加、そして能力補助剤の上位版提供を受けられるという。


 千鶴には、上位参加者の同行者であることを示す灰色のリストバンドが発行された。


「お二人には適性があります。特に《ランナー》の速度制御と、《ブラッド》の観察力は高く評価されています」


 運営側は、久我たちを八咫烏の内偵とはまだ断定していない。


 薬なしで戦える有望な能力者として、地下側へ取り込めるかを見極めようとしている。


「次は、もっと良い補助剤も試せますよ」


「薬以外の特典だけお願いします」


 受付担当者は微笑む。


「いずれ、自分から欲しくなりますよ」


       *


 久我と澪が試合を終えた頃。


 千鶴は観客席側で、別の動きを確認していた。


 先ほど《オーバークロック》を使って試合をしていた衝撃波能力者の男性が、通路脇で激しく咳き込んで倒れたのだ。


 通常なら、表側にもある認可医務室へ搬送されるはずだ。


 しかし地下の係員は、選手の仮面を外さず、警備員を観客から遠ざけ、赤い三角形が描かれた担架へ乗せ、観客席奥の関係者専用扉へ運び込んでいくという、極めて不自然な対応をした。


 千鶴はイヤリング型端末で、その様子を記録する。


 隣の若者たちが囁く。


「下の医療区画へ呼ばれたな」


「データが良かったんだろ」


「戻ってくるかな」


 千鶴は立ち上がった。


 露骨に追跡はせず、飲み物を買いに行く観客を装って後を追う。


 関係者扉の先までは入れない。


 だが、扉が開いた一瞬、千鶴は内部を見た。


 表側の医療施設とは異なる、無機質な白い壁。


 金属製の搬送路。


 採血用の器具。


 能力抑制拘束具。


 赤いパッチが捨てられた廃棄容器。


 そして、さらに地下へ降りる業務用エレベーター。


 係員の会話も拾う。


「心拍が落ちてるぞ」


「反応値は取れた。死なせる前に、第三医療区画へ運べ」


「先生へデータを送れ」


 千鶴は、リストバンドから黄色の緊急合図を送った。


 調査継続可能。


 重要な搬送経路を発見。


       *


 久我と澪が控室を出る。


 黒いリストバンドによって、一般観客が入れない選手専用通路を通れるようになっている。


 通路の途中で千鶴と合流した。


 千鶴は笑顔を作り、


「お二人とも、お見事でした」


 と普通に迎える。


 そして、監視カメラの死角へ入った瞬間、声を落とした。


「試合後に倒れた能力者が、表の医務室ではなく、さらに地下へ運ばれました」


「医療区画へ?」


「医療だけが目的とは思えません。採血器具と拘束具がありました。搬送された方は意識がありません」


「追いかけますか?」


 澪が身を乗り出す。


 久我はすぐには答えない。


 作戦上、地下への無制限な侵入は禁止されている。


 だが、上位参加者証を得たことで、地下医療区画の簡易診断を受ける権利がある。


 完全な不法侵入をせず、正規の参加者として奥へ近づける。


「まずは、俺の右腕の診断を受けたいと言いましょう」


「本当に診てもらうのですか?」


「診断を受けるだけなら、嘘ではありませんから」


 会社員らしい、見事な建前を使う。


 久我がリストバンドから黄色信号を送る。


 通信のノイズ越しに、かれんの声が響いた。


『重要な手がかりを確認しました。ただし、無理に地下へ侵入しないでください』


 黒瀬も続く。


『黒いリストバンドで入れる範囲だけ確認して。施錠された扉を破った時点で、こちらも擁護できなくなるわよ』


「分かっています。診察を受けに行くだけです」


『あなた、その言い方をする時が一番信用できないのだけど』


 千鶴と澪が無言で深く頷く。


「……どうして全員、同じ反応なんですか?」


       *


 三人は、選手専用のエレベーターへ向かう。


 案内表示には、上位参加者ラウンジ、能力測定室、選手用医療区画とある。


 久我と澪が黒いリストバンドを読取機へかざし、千鶴は灰色の同行者証を続けて認証させる。


 扉が開く。


 しかし内部の操作盤には、通常の表示の下に、番号だけの階層が並んでいた。


 B1。


 B2。


 B3。


 B4。


 表の第七リングの案内図には存在しない、深い地下階層。


 千鶴が見た担架は、B3へ下りている。


 久我は、選手用医療区画と表示されたB2を押した。


 まずは正規の権限で入れる階層から確認する。


 エレベーターが下降する。


「さっきの二人、強かったですね」


「能力の出力より、組み合わせが厄介でした」


「それでも、二人は薬を使わずに勝ちました」


「薬を使わなかったから、あの人たちが奥へ入れてくれることになったんですけどね」


 皮肉な状況だ。


 力を示したことで、薬物を配る者たちのさらに深い場所へ招かれている。


 エレベーターがB2へ到着する。


 扉が開いた。


 そこは、白い医療区画だった。


 壁も床も清潔に保たれ、薬品と消毒液の匂いが漂っている。


 受付には灰色の医療服を着た職員が一人。


 久我が黒いリストバンドを提示する。


「試合で右腕を傷めました。簡易診断を受けられると聞いたのですが」


「こちらへどうぞ」


 久我は診察室へ通される。


 医療職員は包帯を外し、再生途中の右腕を確認した。


「再生能力があるようですが、筋肉内部の損傷が残っています。今日は右腕を使った試合へ出ない方がいいでしょう」


「その意見は、すでに何人からも言われています」


「なら、聞いてください」


 澪と千鶴が無言で頷いた。


「またその反応……」


 診断自体は、表面上まともだった。


 その時。


 診察室の半開きになった扉の向こうを、赤い三角形の担架が横切った。


 担架に乗せられているのは、先ほど倒れた衝撃波能力者。


 両腕と胴体を能力抑制拘束具で固定され、意識はない。


 担架は一般診療区画とは逆方向の廊下へ運ばれていく。


 澪が思わず視線を向ける。


 久我の魔眼には、男の心拍と呼吸が危険なほど弱っていることが見えた。


「今の人、かなり危険な状態ですよね」


 久我が医療職員へ尋ねる。


「別の担当が処置します。あなたには関係ありません」


 千鶴が廊下の案内表示を見る。


 担架が消えた先には、


『第三医療区画』


『関係者以外立入禁止』


 と表示されている。


 診察を終えた久我たちは、正規の出口へ戻るよう促された。


 しかし廊下の奥から、重い音が響いた。


 ドンッ。


 続いて壁全体が僅かに揺れる。


 もう一度。


 ドンッ!


「何の音でしょう」


 澪が身構える。


 久我が魔眼を使う。


 廊下の奥に、大柄な男性の反応があった。


 男の筋肉と骨格の奥には、通常ならすぐに消えるはずの衝撃反応が、異常なほど大量に残留している。


 まるで、それまで身体へ加えられた打撃のすべてを、内部へ抱え込み続けているかのようだった。


 そして男は、久我たちが廊下の奥へ関心を向けていることに、すでに気づいている。


 関係者通路の影から、巨大な男が姿を現した。


「診察室は反対側だ」


 大男は三人と、第三医療区画へ続く廊下の間へ立った。


「そっちは上位参加者でも立入禁止だ。診察を受けに来たなら、余計なものを見るな」


 久我は男の背後へ運ばれていった担架を見る。


「今運ばれていった人、かなり危険な状態ですよね」


「お前には関係ねえ」


「関係ないから、見なかったことにしろと?」


 大男が一歩前へ出た。


 巨体が動いただけで、廊下の床が低く鳴る。


「診察を受けに来たなら、黙って帰れ」


 その視線が、久我、澪、千鶴を順番に射抜く。


「そういう顔をしていないなら――ここから先へは進ませねえ」


 久我は右腕を庇いながら、その男を見た。


 薬を使わずに地下試合を勝ち抜き、上位参加者の資格を得た。


 その先で待っていたのは、治療を行う医師ではない。


 身体の奥へ、不自然なほど大量の衝撃を抱え込んだ男。


 地下医療区画の番人が、三人の進路を塞いだ。


最後までお付き合いいただき感謝します。


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全員に同じ反応をされる久我さん・・・w
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