6.旅へ②
「逃げよう」
にげよう、にげよう?…に、げ、よ、う?ああ、“逃げよう”か。
その言葉はぐちゃぐちゃになっていた私の心にも、すうっと染み込んできた。
まるで朝陽のように真っ直ぐで、私の心を優しく溶かしてくれる。ぐちゃぐちゃとした泥の中に埋もれていた私の腕を掴んで引っ張り出してくれるもののように見えた。
彼の両手に包まれた頬から彼の手のひらの温度が伝わってくる。
そこに確かにあるものが、私を今この瞬間に引き留めようとする。ぐちゃぐちゃとした赤黒い靄に囚われていた私の視界にやっと、彼のまっすぐな瞳のハイライトが写り込んだ。
それは、光を反射したものなのか、はたまた彼自身の内側から光り輝いているものなのか…
どっちにしろ、カメラのレンズみたいに伽藍堂な私の視界に差し込んだ星明かりのようなそれに、知らず知らずのうちに心を動かされたことは間違いなかった。
もし、この手を取ったら…どうなるのだろう?
ほんの少しだけ胸の鼓動が高鳴った。手を取りたいと、逃げ出したいと、そんな思いがふっと心に現れた。
…逃げる?私が?
ひやっと、急に心臓に冷たいものを押し当てられたかのように錯覚する。左耳が、鋭くずきん、と傷んだ。
喉元を絞められたように、くぇと喉元で小さく音にならない息が漏れた。私の中にいる私が私自身に問いかける。あの頃から少しも変われていない私に。
それは質問であるはずなのにどこか糾弾めいていて、私の足をすくませた。
「で、できないよ…」
…そんなこと、できないよ。私はもうずっとずっと昔に、全てを捨ててしまったの。これ以上この手から、大切な何かが、大切だった何かがこぼれ落ちてしまうのは、もう…耐えられない。
人間から見た永遠を、もう充分すぎるぐはいに生きた。それも、きらきらと眩く光るものを敷き詰めた砂浜を歩くように。歩く度に確かにこの足を削っては掴むものを、振り払ってはまた、一人歩くように。
私はもう、この森と共に終わっても…
「僕は本気だよ」
アルトのどこまでもまっすぐな瞳が、私の顔をしっかりと捉えている。目に涙を溜めているというのに、彼は本当にどこまでもまっすぐに、私を見つめていた。
彼の瞳に映る私の顔は酷く狼狽しきっていて、大人らしい頼れる雰囲気なんてものは無かった。
そこにいたのは未知の状況に慌てふためいていることしかできない、見た目相応な、ただの女の子だった。
「…わかった」
自分で思っていたよりも、幼い声色だったと思う。だけどこれが、今の私の心の底から出た、本当の声だった。
この森から逃げる。そう決まった私たちの行動は迅速だった。私は耳と髪を隠す用の黒いローブを着る。アルトは大慌てで保存食やら毛布やらを荷物に詰めていた。
まだ、左耳の痛みは消えないままだった。
「早く行かないと!!」
アルトがそのまま玄関から飛び出そうとした時は本当に驚いた。外はもうすっかり炎に包まれていて、森は断末魔をあげるように左右に揺れてのたうち回っていた。
私はその森からそっと目を逸らす。もう、迷っている時間も理由もここには無かった。
私は暴れるアルトを連れて一番安全そうな部屋に入る。アルトはすっかり不満そうな顔をしていた。
「ここからじゃ外に出られないよ?」
…全く、アルトはお忘れなのだろうか。
「私は、魔法使いだよ?」
私はほんの少しだけ唇を歪めて、にやっと笑う。それと同時に、体の前に右腕を真っ直ぐ伸ばすと、手のひらを広げた。
ぶわっと魔力が急激に流れる。それによりできた風が床から天井へと吹き上げて、私たちの髪や衣服をはためかせた。
ああ、フードの中まで入り込んでは抜けていく風が、なぜだか心地いい。
じくじくと陰鬱に傷んでいた左耳の痛みは、いつの間にか消えていた。
床に展開されていた魔法陣が、一際大きく輝いた。キュィィインと、転移魔法特有の耳鳴りのような音が頭に響く。
私はぎゅっと集中する。
転移魔法は、転移位置の精密性を求めれば求める程に、発動までかかる時間と必要な魔力量が膨れ上がる。つまり、使う側は精密さとタイムラグなどを考慮してバランスを取らねばならないのだ。
アルトが不安がるように、私の左腕に絡むようにしてしがみついた。
私はそんなアルトを安心させるように、せめてもの威厳を総動員して、できるだけ悠然と微笑んで見せる。私は、先程見せてしまったあの醜態を、引き摺っているのだ。
だけど安心してほしい。人生経験だけは、私が他の者に対しても誇れるぐらいには豊富だ。そこら辺の調整調律はお手のものである。
ふっと一瞬だけ、手のひらに込める力が弱くなる。
…本当はずっと怖かった。また外に出ることで、また誰かに触れることで、また私を壊されてしまうんじゃないかと思っていた。アルトにも心を開いた気になっていた。
私はきゅっと口を引き結んで気合いを入れ直す。
今は彼に、私が今できる限りのことをしたいと、本気でそう思っているから。
「…ありがとう」




