43話 知らないはずの痛み
何かが違う。
でも、その何かがわからない。
アルトは剣を鞘にしまいながら、先ほどの戦闘を思い起こしていた。
鋭い爪が振り下ろされた。魔獣の咆哮が森を震わせ、土が跳ねる。その軌道は、速く、重い。
――当たる。
そう確信したほんの刹那。アルトの足が、わずかにずれた。
ほんの少し踏み込みの角度が変わる。
その誤差で、魔物の爪は肩をかすめることなく、空を裂いた。
やはり、違う。
あそこで自分は怪我を負っていたはずだ。今も、左肩に傷跡があるかのような錯覚さえ覚える。
本来なら、そうなるはずだった。
――本来なら? 本来って……なんだ。
ちり、とアルトの頭の中で違和感がざわめく。
この戦闘の結果を自分は知っていたような気がする。魔物の爪で怪我を負うという事実を。
既視感。――違う。もっと別の何か。
その思考を振り払うように、アルトは視線を巡らせた。
歓声を上げる兵士たちのそばで、怪我人の手当てに勤しむ補給班。
その中に、小柄な影を見つける。
救護袋を抱え、真剣な顔で包帯を取り出す少女。
――リナ。
戦場の中心にはいない。
剣も持たない。
それなのに、彼女がそこにいるだけで、何かが変わる予感がする。
彼女の視線がこちらに向き、ぱちりと目が合う。
一瞬、驚いたように瞬きをしてから、ほっとしたように微笑む。
その笑みに、胸の奥がわずかに揺れた。
――安心?
いや、それだけではない。
もっと、静かな何か。
守らなければ、ではない。
失いたくない、とも少し違う。
ただ――そばにいたい、と思った。
その感情に、自分で戸惑う。
勇者としての責務に、そんな私情は必要ない。
だが、否定できない。
アルトは胸の奥にその感情をそっとしまい込んだ。
名前は、まだ、付けられない。
風が止む。
ほんの一瞬、森が静まり返った。
不自然なほどに、鳥の声も、葉擦れも、消える。
ぞわり、と背筋を何かが撫でた。
空気が重くなる。
視界の端で、リナがわずかに眉をひそめた。
次の瞬間、風が戻る。
何事もなかったかのように。
兵士が笑い、誰かが肩を叩く。
だがアルトは、確かに感じていた。
今、何かが――測るように、こちらを見ていた。
そして、ほんのわずか――空気が歪んだ。
リナの立つ場所の空間が、陽炎のように揺らいだ気がした。
瞬きをする。
もう、何もない。
彼女は変わらずそこにいる。
だが、胸の奥に薄い影が落ちる。
何かが変わっていく感覚。
それが、歪みとなるのか、救いとなるのかは、わからない。
アルトは、無意識のうちに一歩、彼女に近づいていた。




