第九章 最後の退出者1
榊原の退出を見届けてから約三分後。
僕は、立ち上がって大きく息を吸い込み、最後の一人として部屋を後にした。
きっと「退出確認」の文字が点灯したのだろうが、それを確認する人は、もういない。
ドアを出ると、部屋の外には黒いスーツ姿の男が立っていた。
施設から逃げようとする僕の首を締め上げた男と同じ服装ではあったが、雰囲気がどこか異なっていた。
意志の疎通を拒否する、機械のような冷たさが感じられない。代わりに、とても柔らかな、人間らしい雰囲気を纏っていた。年齢は、あの男よりも、恐らく十歳ぐらい歳上だろうか。
僕は、男に尋ねた。
「僕は、“処分”されない側、なんですよね?」
「はい」
男は表情を変えることなく、まるでその質問を予想していたかのように、前を向いたまま短く答えた。
「あなたは八番目ではなく、九番目。奇数番目なので、“処分”の対象外です」
舞香がこの部屋を飛び出したときには気づきもしながったが、榊原と屋舗兄弟がおこなっているゲームの最中に、僕は気づいていた。
舞香は、妊娠していた。
部屋を出る前、明らかに気分が悪そうだったが、今考えると、あの症状はつわりだったのだ。多分、ジムで体を鍛えていて、腹部周辺の筋肉が発達していたために、お腹の出っ張りが目立たなかったのだろう。
お腹の子の父親は、もちろん、この僕だ。
教団側が、舞香の妊娠を事前に把握していたのか、それとも舞香が部屋の外に出た時点で妊娠している事実を自己申告したのか、それはわからない。
だが、いずれにしても、この脱出ゲームでは驚くべきことに、彼女のお腹の中の赤ちゃんも一人の人間としてカウントされていた。それは、紛れもない事実だった。
教団が、舞香のお腹の中の赤ちゃんをカウントしている事実に気づかせてくれたのは、三つのヒントだった。
一つ目は、ルール説明の中にあった「奇数は、より多くの人を救います」という表現だった。
最初に部屋の中にいる人数が偶数だったなら、助かる人数はちょうど半分だ。一方、最初に部屋の中にいる人数が奇数なら、助かるのは奇数番目の人だから、偶数のときより一人多い人数が助かる計算になる。
「奇数は、より多くの人を救います」という言葉は「部屋の中の人数は、死ぬ人よりも助かる人のほうが多い奇数である」という事実を示唆していたのだ。
二つ目は、部屋の壁に貼られていた「お腹の赤ちゃんにも人権を ―中絶反対―」という主張が書かれたポスターだ。赤ちゃんに人権があると考えている教団にとって、舞香のお腹の中にいる赤ちゃんも、最初からカウントされるべき対象だった。
三つ目は、電光掲示板。舞香が出て行ったとき、電光掲示板は二回、点滅した。それに対して、舞香以外の人物が出て行ったときは、いずれも一回、点灯しただけだった。
なぜ、舞香のときだけ二回、点滅したのか。それは、舞香が出て行ったとき、一緒に部屋を出て行った人物がいたからだ。その人物こそ、舞香のお腹の中にいる赤ちゃんだった。
このとき、部屋を出た人数が二人とカウントされたことで、部屋に残された人たちが偶数番目と思っていた順番は実は奇数番目となり、奇数番目と思っていた順番は偶数番目となった。殺される人間と、助かる人間が入れ替わる結果となった。
つまり、僕たちが信じ込んでいた
一番目(奇数番目→生)……網島舞香
二番目(偶数番目→死)……高柳瑠理
三番目(奇数番目→生)……清水康介
四番目(偶数番目→死)……屋舗翔太
五番目(奇数番目→生)……坂沼亜紀
六番目(偶数番目→死)……屋舗翔次
七番目(奇数番目→生)……榊原洋平
八番目(偶数番目→死)……僕(浜城彰)
という順番ではなく、実は
一番目(奇数番目→生)……網島舞香
二番目(偶数番目→死)……赤ちゃん
三番目(奇数番目→生)……高柳瑠理
四番目(偶数番目→死)……清水康介
五番目(奇数番目→生)……屋舗翔太
六番目(偶数番目→死)……坂沼亜紀
七番目(奇数番目→生)……屋舗翔次
八番目(偶数番目→死)……榊原洋平
九番目(奇数番目→生)……僕(浜城彰)
という順番になっていたのだ。
舞香が、赤ちゃんがカウントされることにいつ気づいたのか、なぜ妊娠の事実や今回の計画を僕に告げなかったのかは、わからない。
しかし、舞香が僕をわざと四面楚歌の状況にして、助かる順番になるように仕向けることで、僕を救ってくれた事実に間違いはなかった。
あの場でとっさに考えついたとは思えないほどに奥の深い彼女の計画に、僕は驚愕するしかなかった。
だが、ここで一つの疑問が残る。
僕の命を守るだけならば、必ずしも彼女だけが最初に出る必要はなかったはずだ。最後に僕と彼女が二人だけで残った状況でも、
七番目(奇数番目→生)……僕(または舞香)
八番目(偶数番目→死)……赤ちゃん
九番目(奇数番目→生)……舞香(または僕)
と、同じように赤ちゃんを犠牲、つまり偶数番目にすることで、僕と彼女の二人が助かる結果をもたらすことができたのだから。
にもかかわらず、舞香は最初に出ることを選んだ。何か、そうしなければならない理由があったはずだ。
僕は考えを巡らせながら、男に続いて薄暗い廊下をゆっくりと進む。
男の後ろ姿は、前から見たとき以上に屈強に感じられた。鍛え上げられた筋骨隆々の上半身が、タイトなシルエットのスーツを、ことさら窮屈そうに見せている。肩から首、背中にかけての筋肉の隆起が、歩くたびに上下に移動する。男の存在感は、明らかに強者のそれだった。
それに比べると、僕はさしずめ弱者だ。
――強者と、弱者……。
このとき僕は、さらに深い彼女の計画に気づいた。




