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B面の恋  作者: 藍田陽介
3/4

3.雨のウエンズデイ

 代々木公園のハプニングから四日経った。あの日は土曜日、祐樹の会社は休日だった。キャンディは月曜日が定休日で、それ以外は店長の仁美と相談して、交代で休むルールになっていた。ただし客足の多い週末は、よほどの理由がない限り休むことはできない。週末は、早い日には午前中から服を買いに来る客もいたし、午後ともなればひっきりなしに客が来て、休憩時間さえままならないこともしばしばである。月曜日は定休日だから休みだったが、沙織はこの週、月曜日以外に、水曜日を休みとして申請していた。それで仁美は、定休日以外の休みを水曜日は沙織、木曜日は仁美と振分けた。

 この前の週末に限っては、沙織はまるで使い物にならなかった。何度もレジを打ち間違えていたし、接客もうわの空で、折角バッグから出しかけた財布をしまって店を出て行く客さえいた。だから仁美はそんな様子を見て、何度もため息をつかなくてはならなかった。日曜日の午後、客足が一瞬途絶えた隙にとうとう仁美は訊ねた。

「ねえ沙織、なんかあったの? 昨日のお昼から、ちょっと変じゃない」

「ごめんなさい。ちょっと体調が優れないみたいで。本当にごめん、店長。ちゃんとやるから……」

「別に責めてるわけじゃないよ。なんかあるんなら、相談してよね。頼りにならないかもしれないけどさ」

「うん」

 店長という立場のせいか、仁美の言葉は男を思わせたが、沙織のうつむいた顔を上げさせることはできなかった。結局仁美は、この週末ほとんど一人で店を切盛りしていたみたいなもので、くたくたに疲れていた。しかし彼女の責任感は、それでも沙織を心配することを忘れさせなかった。

 火曜日の夜、仁美は店を出るときにふと考えた。明日は沙織が休みだったな。

 すでに沙織は帰宅していた。あることを思いつき、店を出るときに、仁美は店のドアに「水曜日、臨時休業」の札を貼っておいた。


 翌日、仁美は昼近くまで惰眠を貪ってしまった。相変わらず使い物にならない沙織の分まで働いた疲労がたまっているようだ。帰るなりコンビニのおにぎりを二つ頬張って、その後はよく覚えていない。きっと疲れてすぐに眠ったのだろう。伝票計算を終えて家に着いたときには、もう夜中の十二時を回っていたが、それでも十時間近く眠ってしまったことになる。眠りすぎたせいか、少し頭痛を覚えて重かった。コンビニで買ってテーブルの上に置いたままのペットボトルには、まだウーロン茶が半分以上残っていた。ぬるくなってしまったお茶をぐびっと飲むと、ウーロン茶は一気に三分の一ほどになった。体中に水分が浸透していくような感じがして、仁美の体にようやく生気が戻ってきた。

 生気と共に、心配が蘇った。

――沙織はどうしているかな?

 電話してみようかと思ったが、すぐに思いなおして、昨夜の思いつき通り彼女を訪ねることにした。彼女はこの週末こそやっかいな存在だったけれども、キャンディに来てくれてから何かと助けになってくれていたのだ。体調が悪いのなら、何か美味しいものでも持っていってあげよう。心配事があるなら、電話より直接顔をつき合わせて聞いてあげた方がいい。店では話しにくいことでも、二人きりなら話しやすいだろう。他に誰も聞いているわけではないし。

 シャワーを浴びて、トーストとコーヒーでブランチを済ませると、仁美は自分のマンションを出た。どんよりとした空からは、雨粒が落ちていた。もう一度玄関に入って、傘を取った。

 沙織の住むマンションに行くためには、一度渋谷に出る必要があったから、そのついでに沙織の好きなトップスのチョコレートケーキをお土産にすることにした。もし体調が優れなくて食欲がなかったとしても、このケーキを見せれば食べないことはあり得ないという確信があったから。

 渋谷でJRに乗り換えて、新宿でもう一度乗り換える。湿った重い空気が充満した電車に二十分ほど揺られた後、十分足らず歩いたところに沙織のマンションはあった。これで彼女のマンションに来るのは三回目かな? 過去二回は沙織の誕生日だった。誰も祝ってくれる人なんていない、と嘆く彼女の誕生日に一緒に食事をする役目を務めるために。

 だけど最近は男ができたようだったから、もうここへは来ることもないのかな、なんて思っていたのに。

 五階建てマンションの三階の一番西端が、沙織の部屋である。部屋の前でインターホンのボタンを押す。ドア越しに部屋の中で響くベルの音が洩れ聞こえてくる。しかし部屋から沙織が出てくる気配はなく、インターホンにも応答はなかった。三回鳴らしてみたけれど、かすかなベルの音以外には、沈黙しか聞こえない。

――やっぱり電話してからくればよかったかな。

 仕方なく一度マンションを出た。マンションを出たところで、ふと思い出して携帯電話を取り出した。沙織の携帯電話の番号を呼び出してみたが、留守番電話の応答しか返ってこなかった。諦めて仁美は、駅までの道すがらで見かけたカフェテラスに向かった。


 結局、沙織と連絡が取れたのは、カフェテラスに入ってから二時間以上経ってからだった。仁美はコーヒー一杯で粘っていることが申し訳なくなり、途中でお代わりを注文した。午後になってから家を出て、もうそろそろ夕方という時間だ。沙織は今は家にいるという。

「じゃ近くにいるから、今から沙織んとこ行ってもいい?」

「うん……」

 明確な根拠を持たない胸騒ぎがした。土曜日以来、沙織はしおれた花のように元気がなかったからなのかも。仁美はわずか五分ほどの道のりを早足で歩いた。

 今度のインターホンは留守ではなかった。インターホンを押してから程なく、ドアが開いた。ドアの向こうの沙織は、すっかり憔悴しきっているように見える。顔に血の気がない。病人というより幽霊に近い、と仁美は感じた。

「いらっしゃい。入って」

 力なく単語だけで話すのも、沙織らしくない。仁美は部屋に入った。努めて心配そうな表情は隠したまま。

「お邪魔します。へえ、きれいにしてるじゃない。あ、はい、これ。お土産買ってきたよ。トップスのチョコレートケーキだよ。あんたの大好物でしょ?」

「あ、ありがとう」

 やはり単語しか返ってこない。ケーキを受け取るとそのまま部屋に入って行ったが、その歩き方はまるで滑っているかのごとくで、やはり幽霊を思わせる。きっと沙織は、何か屈託を抱えているのだ。その屈託が何によるものなのか、それを聞き出すまでは帰るまいと仁美は決心した。

 沙織はテーブルにケーキを置くと、そのまま座り込んだ。前に来たときはすぐにキッチンに立ち、コーヒー淹れるわね、なんて明るくいってくれていたのに。沙織の視線は、部屋の何もない空間に漂っている。隣に仁美が座っても彼女は“何もない場所”を見続けたままだ。

「ねえ、沙織。あんたさ、この前から元気ないわよ。本当にどこか体調が悪いの?」

 ゆっくりと沙織の視線が、仁美の方に向けられた。仁美の顔に彼女の視点が定まった途端、彼女の目から涙が流れ落ちた。

「ひどいのよ、祐樹ったら。私のことをほったらかしにして、勝手に他の女を連れ込んでるのよ」

「祐樹? それってもしかして……彼氏?」

 沙織は頷く。

「だからね、今日も見てきたの。部屋の中に二人でいたわ。でもね私のことは入れてくれないのよ」

「ひどい男ね」

「やっぱり店長もそう思う?」

「そりゃそうよ。だってあんたの彼氏なんでしょ」

 沙織は再び曖昧に頷いた。その曖昧な頷き方は不明瞭な肯定であったが、仁美はそのことには気付かなかった。涙を流しながらおのが不幸を語り始めた沙織に、すっかり同情していたがゆえに。

 仁美は昔から姉御肌なところがあったから、このときも沙織の姉になった。姉である以上、可愛い妹の窮地を放ってはおけない。ただの痴話喧嘩かとも思ったが、さっきの沙織の涙としぼり出すように語った言葉には、痴話喧嘩を超越した苦悩や怨恨や悲哀がブレンドされていた。

「よし、今からもう一度その男のところへ行こう」

「えっ?」

「え、じゃないよ。あたしが一緒に行くからさ、その男のところに乗り込んでやろうよ。それではっきりさせよう。あんたもいつまでも悩んでたって仕方ないでしょ」

「でも……」

「だってあんたが行ったときはいたんでしょ、その男。だったら善は急げだよ。あ? “善”じゃないか。まあいいわ。さあ、立って」

 居ても立ってもいられないといった感じで、仁美は沙織を促した。半ば引きずられるように、沙織は仁美に腕をつかまれて立った。沙織の部屋にはチョコレートケーキだけが残されて、沙織は仁美と一緒に部屋を出た。

 雨はまだ降り続けている。

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