2、恋するカレン
竹下通りを抜けると沙織は原宿の駅から表参道に向かう通りにあるサンドイッチ店に入った。パストラミハムとチーズをサニーレタスで包んでライ麦パンにはさんだものや、エビとアボカドをシーザードレッシングで和えたものをセサミブレッドではさんだものが、沙織のお気に入りだった。今日のように晴れた日は、サンドイッチと牛乳を持って代々木公園に点在する休憩所のベンチで食べるのである。
ブティックで働くのは、一見華やかなファッション業界に生きているように見えて、内情は苦しいのだ。決して高くない給料から自前で仕事用の制服を買わなくてはならない。しかも客の前に出るのに恥ずかしくない程度にファッショナブルでなくてはならず、毎日同じ服を着るわけにもいかない。いきおい食費を切り詰めるしか、生きる術はないのだ。
沙織はこの日、中央広場の池が見える休憩所に陣取り、水辺に佇んだり、明るい陽光の下で語り合う匿名の恋人たちを眺めながら、微笑ましいランチタイムを楽しんでいた。
みんな幸せそうね、私も仕事じゃなければこの幸せそうな人たちの仲間に入れるんだけどな、と考えつつパストラミサンドを頬張った。
口の中に入っていたサンドイッチを三回咀嚼したところで、沙織の口が動きを停めた。いや全身の動きが停止した。呼吸すら忘れていたかもしれない。
目の前に、名前を持った恋人が横切った。動きの停まった沙織は、一瞬後に我に返ると慌てて顔を伏せた。とっさに顔を伏せたのが功を奏したか、高橋祐樹という名前を持つ恋人は、どうやら沙織に気付くことなく、彼女の数メートル手前を談笑しながら通り過ぎていった。談笑の相手も匿名ではない。たしか、麻友美といったのではなかったか。以前、祐樹と食事を共にした席にいた。学生時代の友人だと紹介されたのだ。あのとき彼女はまだ、祐樹から「友人」という称号しか付与されていなかったはずなのに。
沙織の脳はたった今、目の前で起きた出来事を必死に忘却しようとしたが、彼女の目はそれを拒んだ。目に焼きついた光景は、結局彼女の記憶の中に置き去りになった。半分ほど食べたサンドイッチと飲みかけの牛乳は、ベンチの近くにあるダストボックスに投げ込まれた。彼女はそのまま公園の出口に向かい、途中の木陰で三分間泣いた。その三分間で、彼女の悲しみは憎しみへと変わっていった。
駅の近くのコーヒーショップに入って、一番小さいアイスコーヒーをオーダーした。窓からできるだけ離れた席に陣取り、節約のためにやめようと思っていた煙草を取り出した。祐樹も煙草は吸わなかったし、煙草を吸う女性もあまり好きではないようだったから、祐樹のためにも止めようと思っていたのだ。生活費の糧にもなるし、何より祐樹のためだと思えば、煙草なんていつでもやめられると思っていた。実際今持っている煙草だって、やめようと思ってずっと吸わないまま残っていたものだった。捨てるのももったいない気がして、ポーチの中に入れっぱなしになっていただけなのだ。だけどもういい。吸ってしまえ。
すでにポーチの中で二週間近くを過ごした煙草は、メンソールの香りの中にかび臭さを含んでいた。しかしそんなことには構わず、沙織はやたらと煙草をふかした。隣に座っていた女子大生と思われる二人組みが怪訝そうな顔をしたが、そんなことにはまったく気付かなかった。結局沙織が注文したアイスコーヒーに口をつけたのは、二本目の煙草に火をつけた後だった。
隣で沙織が吸う煙草の煙を訝った女子大生二人が、沙織にも聞こえる声で話し始めた。
「ねえ、商学部にいる浩司って知ってる?」
「マーキュリーっていうテニスサークルにいる子でしょ。あの子まだ一年生だけど、もう学校中で評判になってて、今年は外の大学からも入部希望が殺到してるんだって」
「なんだ、お京も知ってたんだ。結構可愛いよね、あの子。狙ってたんだけど、それじゃ学内のほとんどの女子がライバルなんだね」
「でもさ、あんたそんな話、圭一君の前でしちゃだめだよ。圭一君だって結構可愛いって評判なんだから。圭一君と付き合ってるってだけで、私は十分ハルミがうらやましいけどな」
「そうかな。でも最近、圭一ともあまり会ってないしさ。少し焦らせてもいいんじゃない」
「こら、ハルミ!」
お京という女がハルミを叩く真似をして、二人は笑い転げた。どうやら原宿には数多くの恋が、そこかしこに転がっている様子だ。
さっきまでそんな恋人たちの囁きを聞きながらのランチタイムを楽しんでいた沙織は、もはやそのような会話に闊達な気持ちで耳を傾けることができなくなっていた。制御不能な指先で三本目の煙草を取ろうとした途端、聞き分けのない指がまだ三分の一ほど残っていたアイスコーヒーをテーブルにぶちまけてしまった。再び怪訝な顔をして、隣の二人が沙織を見た。テーブルの端から流れ落ちたコーヒーは、蛇のように床を這って、二人の足のほうへ鎌首を伸ばした。慌てて沙織は二人に、ごめんなさいと頭を下げ、テーブルの上にあったペーパーナプキンで床を這っている蛇を捕獲した。すんでのところで蛇に咬まれずに済んだ二人は、もう沙織のことは忘れてまた談笑に戻っている。
沙織はいたたまれなくなり、三本目の煙草を諦めてコーヒーショップを出た。キャンディで働き始めてもう三年目、原宿という街もすっかり体に馴染んだと思っていたが、急速に沙織の居場所は狭められていった。それもこれも、あんなところに祐樹が現れるのが悪いのだ。いや一人なら良かった。でも麻友美なんて「友人」を連れて歩いていてはいけない。ましてや「友人」の腰に手を回して、楽しく語り合いながら歩いているなんて許せない。
やはり恋人たちは、匿名でなくては微笑むことができないのだ。自分とは利害をともにしない人々がどんなに楽しそうであっても、その楽しさは共有可能である。だが恋は、それの当事者と何らかの関係を持つ者が、その当事者と無関係な形で登場してはならないのだ。そんなシナリオは想定していないし、そのような場面をアドリブで乗り切れるほど沙織は芸達者ではない。
まだ昼休みは十五分くらい残っていたが、居場所を失った沙織はキャンディへと戻った。
うつむいたまま店に入ってきた沙織を、仁美はやや驚いた顔で迎えた。
「あら沙織、早かったのね。いつもなら早くてもせいぜい五分前なのに、記録更新じゃない」
「……、まあね」
笑いかけた仁美に笑い返すこともなく、沙織は真っ直ぐにラジカセに向かい、午前中のテーマソングを止めてカセットテープをひっくり返した。ラジカセはB面の曲を奏で始めた。アコースティックギターを中心に据えた楽曲が、午後の時間をやや大人のムードで染めていった。
「店長、食事に行ってきてください。私、替わりますから」
「ああ、そう。それじゃ行ってくるね。あとをお願い」
近寄り難い雰囲気を、体中にまとって戻ってきた沙織にどう話しかけていいか分からず、押し出されるように仁美は店を出て行った。あとには色とりどりの洋服と沙織だけが残された。また泣こうかとも思ったが、その間にもし客が来ると困ったことになると思い直し、やめた。だから一度悲しみから憎しみに変化した心は、憎しみの形をしたまま、沙織の心の中でわだかまっていた。
レジの脇にある椅子に腰掛けて、さっきのコーヒーショップで隣り合った女子大生コンビの話を、いつしかリピートしていた。仁美に祐樹のことをもっと早く打ち明けていれば、せめて仁美とさっきのコンビのように冗談めかした会話もできたかもしれなかった。でももう遅い。
祐樹はどうして私ではなく、麻友美を選んだのだろう、と沙織は考えた。祐樹と店で出会い、家の電話番号がわからないから、会社に電話をかけて食事に誘った。一度目の食事の後、タクシーで帰る道すがら、祐樹の家は沙織の家よりも近かったので、彼は福沢諭吉を一枚沙織の手に握らせた。目の前のマンションは、彼の歳を思えばかなり豪華なマンションに見えた。そうして二度目の食事のときに、彼は麻友美を連れてきたのだった。「友人」として。
それから彼を驚かせようとして、彼は平日会社にいるはずだと思い立ち、沙織が休みの日に彼の家にこっそりと一人で行った。彼の住むマンションの近くで、電信柱の影に隠れて帰りを待った。一時間以上待ったと思うけれど、全く苦にならなかった。いや、むしろ彼の帰りを密かに待っているだけの時間、彼女はおのが心の中で何度も祐樹の驚いた顔を反復し、秘めやかな悪戯に込み上げてくる笑いを必死でこらえていたほどだ。
空は道路を黒く照らしていたが、電信柱と同じ間隔で点灯している街灯の周囲だけが昼間のままだった。昼間の部分に祐樹の姿が見えたとき、沙織も慌てて、一番近い昼間の空間に移動し手を振った。
「お帰りなさァい」
沙織が呼びかけると、三つ向こうの昼間の空間に立ったまま、祐樹はしばらく凝固していた。
――やっぱり驚いているわ。計画通りね。
さっきまで何度も心の中で繰り返したシミュレーションの通り、驚いた顔をした祐樹を見て沙織は満足だった。好意を持っている女性が突然目の前に現れたら、どんな男だって驚くはずだ。さあ、そろそろ路上で固まっている愛すべき男を溶かしてあげなければ。私の魔法で。
沙織は動けずにいる祐樹に、自ら駆け寄った。目の前に立って、今までキャンディで培ったどんな客の顔もほころばせずにはおかないスマイルを作った。これで二人は、ますます気の置けない仲になるはずなのだ。
「驚いた?」
「あ、ああ。僕の家、よく覚えていたね」
「ええ、もちろんよ。あなたの家を忘れるわけないでしょ」
完璧な笑顔を保ち続けたまま、沙織は首を縦に振り応えた。戸惑ったような顔のまま、祐樹は突然の来訪者を追い返すわけにもいかず、彼の部屋へと誘った。その夜、沙織は祐樹との愛をより確かなものにしようと考えた。今までこんなに積極的になったことがあっただろうか? そう思うと少し恥ずかしくなったが、それでも彼女は着ているものを脱ぎ、自ら祐樹におのが体を委ねた。
セックスはもちろん初めてではないが、祐樹が沙織の中に入ってきたとき、沙織は生まれて初めて喜びに達した。やっぱりこの男こそ、自分とぴったりの男なのだ。その夜、沙織は自分から何度も求め、あっという間に三回もエクスタシーを得た。
重ね合った体が汗ばんでいるのを感じてか、祐樹は沙織にシャワーを勧めてくれた。沙織はしばらく自分の体に刻んだ祐樹の余韻を楽しんでいたかったが、素直に従うことにした。積極的な女ばかりを演じていては、かえってうるさがられるかもしれない。男に従うしおらしさも見せておかなければ。
沙織が自分と祐樹の体液を洗い流して出てくると、続いて祐樹が、俺もシャワーを浴びてくるといい、バスルームに向かった。ふとテーブルを見れば、その上にはさっき祐樹が用意してくれたコーヒーカップとこの部屋の鍵がついたキーホルダーが置いてある。やがてバスルームから、シャワーの湯を流す音が聞こえてくると沙織の悪戯ごころが再び首をもたげた。
キーホルダーには全く同じ鍵が二つ、一つのリングに通されていた。そっと沙織はその一つをリングから外して、自分のバッグの中にすべり込ませた。不思議なほど罪悪感は感じなかった。愛し合い、体を重ねあった者同士なのだ。合鍵の一つも、むしろ持っているべきではないか。
祐樹がシャワーを浴びている間に帰り支度を整えた沙織は、彼がバスタオルを頭にかぶってバスルームから出てくると、立ち上がった。今日は遅くなってしまうから、そろそろ失礼するわ、といって彼の頬に唇を触れさせた。一分後には、沙織は祐樹の合鍵の片割れと共に彼のマンションを出ていた。
是非とも感想をお寄せください。




