表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
B面の恋  作者: 藍田陽介
1/4

1.A面で恋をして

 沙織は浮かれ気分で、カセットテープをラジカセにセットした。マキハラの曲はいつも朝の気分を高揚させる。さて働こうという気分になるから、沙織はいつも朝一番はこのサウンドと決めていた。けれどもこの朝、ラジカセはいつもの軽快なポップサウンドではなく、アコースティックギターが奏でる音で歌いだした。

「どうなってんの?」

「あれ、いつもの曲じゃないね。沙織、どうしたの?」

 店長の仁美(ひとみ)が沙織に声をかけてきた。ブティック「キャンディ」は原宿の竹下通りの一角にあったが、平日の午前中はろくに客も来店しない。ときおりふらっと立ち寄る客もいるにはいるが、キャンディご自慢のカットソーもTシャツも、平日に限っては、出番は高校生たちが下校する午後の時間帯以降と決まっていた。

 だから平日の午前中は、仁美と沙織のおしゃべりタイムだ。客が来れば二人とも「いらっしゃいませ」と声はかけたが、平日午前中の挨拶はいつもスマイル抜きである。

 沙織はラジカセのストップボタンを押し、テープを停めた。テープをイジェクトして、取り出してみた。何のことはない、A面とB面を逆にしていた。今までこんなことはなかったのに。テープを裏返して再びラジカセに戻す。やっとこの時間の耳が覚えているテノール調のボーカルが始まった。

「沙織がB面からかけるなんてねェ。今までこんな間違い、なかったよね。誰か好きな人でもできたの?」

「店長するどいなァ。ばれたか」

 照れくさそうに沙織はやや頬を赤らめて、笑った。今はもう担当が替わってしまったが、赤坂のアパレルメーカー「ノルディック商会」のセールスをやっていた高橋祐樹(ゆうき)は、背も高く、アパレル業界人らしいファッションセンスも兼ね備えていた。その上ギリシャ彫刻を思わせるほどの、日本人離れした彫りの深いルックスは見事に沙織のストライクゾーンを突いてきた。それ以来、沙織にとって祐樹はステディな人となり、その気持ちは日を追うごとに強くなっている。絶対間違えることのないテープのA面とB面を取り違えてしまうほどに。

 でも照れくささもあって、仁美にはまだ祐樹への思いは話していなかった。仁美も特に好奇心を発揮することはなく、ただ沙織の態度の変化から、誰か好きな男ができたのだろうと思っていただけである。

 午前中はずっとA面の曲が流れ続けた。沙織は自分以外誰も触れていないはずの服を、何度も畳み直して並べるという動作を繰り返し、その日の午前中を過ごした。仁美はカウンターの奥で、商品名と数字の書かれた伝票の束を置いて、電卓と格闘している。


 一瞬店内にノイズが響いて、ラジカセの音が止んだ。あれっ、と思った沙織がラジカセのところへ行く。仁美は相変わらず伝票の束を抱えたまま、ちらりとラジカセに向かう沙織に視線を流しただけである。たしかにカセットテープは停止していた。イジェクトボタンを押し、沙織はテープを取り出してみる。テープはヘッドに当たる部分から飛び出して、少したるんでいた。その上、たるんだ部分にくっきりと紙に折り目をつけたときのような後が残っていた。テープが切れてはいなかったのは幸いだったが、果たしてこの折り目がついてしまった箇所は正しく聴こえるんだろうか、と沙織は考えた。

 カウンターのところにテープを持って行き、ハサミやボールペンが突き刺さったペン立てから、細めのボールペンを一本取り出した。そうして沙織はテープの左右に開いている穴の一方にボールペンを差し込んで、ゆっくりと回し始めた。回転につれテープのたるみは取れてゆき、ぴんと張ったテープはさっきよりも折り目も気にならなくなった。

「大丈夫だった、テープ」

 目は伝票に固定したまま、仁美が訊ねる。うん、大丈夫、と沙織は応えて、テープを抱えたままラジカセのところに戻った。


 ふと沙織は考える。テープにはどうしてA、B両面あるんだろう。あのたるんだところから引き出せば、中に入っているのは一本の長いテープなのに。表裏を間違えると、全然別の曲を奏でるが、実際にはA面を聴いていようと、B面を聴いていようと常に一本のテープの上でA面もB面も回っているんだ。でもA面を表にしてラジカセに挿入すれば、A面に録音された曲だけが奏でられる。そのときB面に録音された曲たちは、どうしているんだろう。どこか別の世界に曲を流しているんだろうか? もし間違ってB面の曲が、今聴こえている曲に混じったら? AかBかなんて、たまたまそう印刷してあって、どっちを表にするかの違いしかない。そんな曖昧な境界をもった細いテープに録音されているA面とB面の曲たちが、間違うことなく聴こえてくる不思議さに、沙織の感覚は囚われてしまった。

 だから午前中には珍しく、三人連れの客が店内に入ってきたときも、沙織は仁美の声でやっと気がついた。

「いらっしゃいませ」

 はっと我に返り、慌てて沙織もいらっしゃいませと、スマイル抜きの接客用挨拶を口にした。何してんの、という揶揄を含んだ仁美の視線が沙織に向けられていた。沙織はその視線を避けるように、客に歩み寄った。 

「どんな服をお探しですか。今月からキャミソールが入ってるんですけど、こちらなんていかがですか」

 沙織は薄桃色をした無難と思われるキャミソールを手にしたが、客はろくに沙織の話を聞いていなかった。午前中の客なんていつもそうなのだ。客に置いてけぼりにされた沙織は、同じように置いていかれた薄桃色の薄い生地をそっと折り畳んで、もとの位置に戻した。

 結局その三人の客は、十五分ほどかけて狭い店内をゆっくり周っていたが、午前の客の流儀に則って、何も手にすることなく再び店を出て行った。沙織は何も買わない客の背中に「ありがとうございました」と声をかけ、心の中で舌打ちした。

「ああ、やっぱり午前中に来るお客さんは、買ってくれないな」

 そういって沙織は大きく伸びをした。ようやく電卓との対決を終えた仁美が顔を上げた。

「そうはいってもさ、沙織。店に入ってきた人はお客さんなんだから、応対はしっかり頼むわよ。まさかラジカセの修理しに来たわけじゃないでしょ」

「すいません」

 仁美の皮肉交じりの警告に、沙織は素直に謝った。仁美の顔は笑っていたから、本気で怒ってはいないだろう。だが店長が一心に伝票計算をしているときに、店員である沙織が客への挨拶もせず、カセットテープのことを考えていたのはまずかった。

「もうあたしの手も空いたからさ、少し早いけどお昼行ってきていいよ。どうせしばらくは、あまりお客さんも来ないし。一時までに戻ってきてね。そうしないとあたしが餓死しちゃうかもしれないからさァ」

 店長といっても沙織より二つだけ年上の仁美は、いつも気さくな調子で話しかけてきてくれる。沙織は素直に仁美の行為に甘えることにして、ありがとうといいながら、晴れ渡った竹下通りに飛び出す。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ