第2章 3
今夜は月が綺麗だ。
窓辺で頬杖をつき、ぼんやりと夜空を眺めながらアメリアは思った。
ここはコルトの店の三階に割り振られた彼女の自室。ベッドとクローゼットとミニテーブルとセットのチェア。最低限の家具が設置された部屋を照らすのは月灯りだけ。自室の電気もつけないまま、薄暗い室内で、アメリアは昼間の出来事を思い返していた。
樽に隠れてやり過ごしたあの時、彼らが交わしていた会話。
『まだ見つからないのか?』
『申し訳ございません』
『あいつに預けていたのが間違いだったな。どこに隠したんだ?』
『探せる場所は全て探しました。他にあるとすれば、誰かに預けていられるのでは?』
『誰かか……そういえば、最近女の自慢をよくしていたな。その女が何か知っているかもしれない。調べておけ』
『はい』
その女とは、恐らくアメリアのことだろう。しかし彼から預かった物に心当たりがない。雑貨や装飾品の贈り物はいくつか受け取ったが、血眼になって探すような物だとも思えない。
「大事な物って何だろう?」
今日何度目かの疑問を呟く。そればかりが気になって、すっかり目が冴えてしまった。今ベッドに潜り込んだ所で、シーツの上を転がる羽目になるのは目に見えている。
(こうしてても仕方ないわね、何か飲もうかな)
温かいものでも口にしたら、睡魔が訪れてくれるかもしれない。
窓を閉めると、アメリアは夜風に当たり冷えてしまった二の腕をさすった。日中はまだ暖かいが、最近は夜になると少し冷える。チェアの背もたれに掛けたストールを羽織り、アメリアは部屋を出た。日付も変わってしまった深夜帯、辺りはしんと静まり返っている。階段を降りる彼女の足音だけが廊下に響く。
「あれ?」
階段を降りると、二階のリビングに灯りがついているのに気づいた。どうやらこの家には、彼女の他にも眠れぬ夜を過ごす人間がいるようだ。リビングに続く扉に手を掛け、アメリアは顔を覗かせながらそっと押し開けた。視線の先ではソファにもたれれかかる赤茶髪の人物が一人。あのツンツンした髪型は間違えようがない。
「アメリア……?」
アメリアが声をかけるより先に、ハイドが顔を上げた。いつも機嫌悪そうに細められている目が、今は驚きで少し丸くなっている。
「こんな時間に何してるの?明日学校でしょ?」
彼の座るソファに歩み寄りながら問いかける。ハイドはソファに深く身を沈め、気だるげに答えた。
「別に、ちょっと眠れなかっただけ。そっちこそ何してんだよ?」
「私も同じ。気休めに何か飲もうかなって思って」
「ふぅん」
それ以上は特に会話も無く、アメリアは冷蔵庫に向かった。中を開けて物色する。牛乳にお茶――眠れぬ夜にコーヒーや紅茶は問題外だろう。
「なぁ」
「んー?」
背後から声をかけられ、アメリアは冷蔵庫に目を向けたまま返事をした。ソファの軋む音が耳に届く。
「母さんから、バーテンの事聞いたんだよな?」
「ん、あぁ、腕上げたって話?そうそう、おばさんにすっごく自慢されちゃった」
「試してみるか?」
「え?」
振り返ると、ソファに座り直したハイドが、無造作に頭を掻きながら足元に視線を落としていた。
「どうせ眠れないんだろ?俺も暇だし、飲みたいなら作ってやるよ。……嫌なら良いけど」
こちらを見ようともせず、ぼそぼそと呟く。
気遣いが嬉しくて、照れ隠しの態度が可愛らしくて、無造作に冷蔵庫のドアを閉めると、アメリアは彼の元へ駆け寄った。
「本当!?ありがとハイド!あんたのカクテル飲むの一年ぶりね。すっごく楽しみ!」
ソファの後ろから、背もたれ越しに彼の肩を抱き寄せる。ハイドは一瞬何が起きたのか付いていけず、間抜け面でされるがままに凍りついていた。しかし間近に感じる体温と、首元にかかる吐息に我に返ると、手足をばたつかせて抵抗を始める。
「ちょっ!馬鹿、やめろ、なにすんだよ!」
「照れなくてもいいじゃない。本当、ハイドは昔から可愛いわね」
小生意気な弟にしてやるように、アメリアは肩を抱き寄せたまま彼の頭を撫でた。
そこでどうやら我慢の限界を迎えたらしい。強引にアメリアの手首を掴んで引き剥がすと、ハイドは振り返りざまに怒鳴った。
「離せよ!俺はお前の弟じゃねぇ!」
あまりの剣幕に、アメリアは双眸を瞬かせる。彼女としては可愛い弟分とじゃれ合っていたつもりなのだが、どうやら彼はお気に召さなかったらしい。肩で息をしながら気まずそうに彼女の手を開放し、ハイドは顔を背けた。
「……そんなに怒らなくてもいいでしょ」
彼が怒った理由が見当たらず、ソファの背もたれに手を掛けながらアメリアは呟いた。ハイドもハイドで大声を出してしまった事を後悔しているようで、アメリアを直視出来ずにいる。
互いの間に、気まずい沈黙が流れる。
「気が変わった。もう寝る」
沈黙に耐えきれず、ハイドはソファから立ち上がると、階段に続く扉へ向かった。その横顔を物悲しそうにアメリアが見つめる。
「え、ちょっと待って、カクテルは?」
「また今度な」
「そんな……」
楽しみを奪われ、呆然と立ち尽くす彼女を尻目に、立ち止まることなくハイドは自室へと戻った。あとに残されたアメリアが、名残惜しげに彼が出ていった扉を見つめている。身から出た錆び、自業自得と言ってしまえばそれまでなのだが。
どうやら今夜は、寝付きの悪い夜になりそうだ。
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