第2章 5
カラカラカラ一一。
規則正しい車輪の音が聞こえる。ここは馬車の中。馬の性格か、操縦者の腕の問題か、それとも単に道が悪いのか。時折訪れる石の上に乗り上げたかのような縦揺れに身体が浮き上がり、バランスを崩して壁に身を打ち付けながらも、この中に誰一人文句を言う人はいない。当然だ。だってこの中に“人間”は乗っていない。あるのは全て“商品”であり、この馬車はそれを運ぶ“荷車”なのだから。
ここはどの辺りだろう?
格子のはめられた窓から、私はぼんやりと外を眺めた。あの町からほとんど出たことが無かったから、地理にはあまり詳しくない。見覚えのない、代わり映えのしない景色を、何の感動も無く見続ける。
私を買った人達は“力”の事を彼女から聞かされていたみたいで、『妙な真似をしたら殺す』と脅されていた。それでも逃げようと思えば逃げれたけれど、今の私にその気力は無かった。逃げ出した所で、私の居場所は何処にもない。この先自分の身がどのような脅威に晒されても、野垂れ死ぬよりはマシだと思った。いや、違うな。本当は、逃げ出すことすら面倒だっただけ。
この馬車に乗っているのは、私を含めて四人。姉妹らしい二人組と、妹とそんなに年が変わらない女の子が一人。姉妹は入口近くで身を寄せてお互いを慰め合い、女の子は部屋の片隅で俯いている。
一人ぼっち、私と一緒。
妙な親近感が湧いてきて、私はその子に近付いた。女の子は最初何の反応もしなかったけれど、私が隣に座るとようやく顔を上げてくれた。
白い肌に、長い睫毛。こんな妹が欲しかったと思うくらい、お人形さんのように可愛い子だった。
「大丈夫?」
怯えさせないように、目線の高さを合わせ、優しく聞こえるように言った。女の子は最初不思議そうに私を見ていたけれど、じっと待っているとこくりと頷いてくれた。私は嬉しくて、もっとこの子と話がしたくなった。
「私アメリアっていうの。あなたは?」
「エル」
「エルちゃんね。エルちゃんはいくつ?」
「七歳」
たどたどしい喋り方が凄く可愛い。エルちゃんは質問をすればちゃんと答えてくれた。だから私は少し調子に乗ってしまった。
「エルちゃんはどこから来たの?」
言った後、すぐに後悔した。
私達はお互い売られてここにいる。この質問が禁句なのは、普通に考えればわかることなのに。案の定、エルちゃんは黙ってしまった。
「変な事聞いてごめんね。嫌な事思い出させちゃったよね」
「べつに」
そう言ってエルちゃんは俯いてしまった。私はエルちゃんの背中を優しく撫でた。妹よりもずっと華奢なその背中。こんな小さな女の子が、これから誰にともなく売られてしまう。
「怖がらないで。大丈夫だよ、私が守ってあげるから」
単純かもしれないけれど、この時私はようやくこのままではいけないと思った。私自身はどうなっても良いという気持ちは今でも変わらない。でもこんな小さい子供がこの先耐え難い運命に晒されると考えるだけで胸が締まる思いがした。この子だけは逃がしてあげたい、自由になって欲しかったんだ。
その時、爆音が響いた。
衝撃で身体が床に叩きつけられ、痛みにうめき声が漏れる。私はまだ何もしていない。けれど私を買った人達が外で何かを騒いでいるのが聞こえた。馬車の入口も開いている。正確には爆風で吹き飛ばされたのか、入口自体が無かった。
入口の近くにいた姉妹が大丈夫か気になったけれど、心配はいらなかった。衝撃で二人の身体は転がり、安全な場所で目を丸くしている。
何が起きたのかわからなかったけれど、これはチャンスだった。姉妹達もその事に気がついたみたいで、すぐに馬車の外に飛び出していった。
「エルちゃん、私達も逃げよう!」
私はエルちゃんの腕を掴んだ。でも、エルちゃんは動かなかった。突然の事に身体が動かないみたいで、その場にずっと座っている。時間が無かった。早くしないとあの人達が……。
次の瞬間、私の身体が空を飛んだ。
「このガキ!あれだけ言ったのに余計な事しやがって!」
私の服の襟元を、男の人が掴み上げていた。首が締まって息ができない。苦しい。
「おい、あまり手荒な事はするな!そのガキ一人でいくらしたと思ってんだ!」
「うるせぇ!」
私を掴み上げている男の人を、他の男の人が諫めた。拘束されている事に変わりはないけれど、口論に気を取られ、ほんの一瞬力が緩む。私はそれを見逃さなかった。
「エルちゃっ……逃げてっ!」
それだけ言うのがやっとだった。
私の言葉に、男の人の意識が自分に向いたのがわかった。とても怖い顔をしている。身の危険を感じたけれど、それでいい。その方がエルちゃんは逃げやすくなる。
「うるせぇガキだな!黙ってろ!」
力任せに私の身体は投げ飛ばされた。風を切る感覚に、このままの勢いでぶつかったら痛いんだろうな、なんて他人事のように思う。どちらにしても私にはどうすることも出来ない。目を閉じて、その瞬間を覚悟した。
背中に感じた衝撃は、思っていたものよりも柔らかかった。
「エルちゃん……?」
振り返って見ると、いつの間に移動したのか、エルちゃんが私の身体を受け止めて、代わりに壁に挟まれていた。私よりもずっと華奢な体で、文字通り身を挺して受け止めてくれたらしい。
「何で……」
「いいから、走って!」
さっきまでのたどたどしさが嘘のように、鋭い声が飛んだ。エルちゃんは鋭い目付きで男の人達を睨みつけると、私の手を掴んで走り出した。たった今私を庇って身を打ち付けたとは思えないくらい、その動きは素早いものだった。訳もわからないまま、私はエルちゃんの後を追い掛けた。
闇に包まれ薄暗い森の中を、月の明かりだけを頼りに走った。時間の感覚が麻痺してしまい、どれほど走ったかわからない。すっかり息はあがってしまい、足は鉛のように重かった。ボロボロのワンピースに足を取られながら、それでも私はエルちゃんの手を離さなかった。
でも、逃避行は長くは続かなかった。
先を行くエルちゃんが足を止めた。その意味をすぐに理解した。私達の前には、切り立った崖が広がっていた。これ以上、逃げ道は無かった。
間もなくして、さっきの男の人達が現れた。
「エルちゃん……」
どうしていいかわからず、私を庇うようにして前に立つエルちゃんの手を強く握った。身体が震えている。あの人達はきっと、私達を許さないだろう。
「おい、下手な事するな。そのガキは危険だ」
「さっきからお前はうるせぇんだよ。こんなガキ一人に俺達が遅れをとるわけねぇだろ。それにさっきの爆発だってこいつの力じゃなかっただろ」
男の人達がまた言い争いを始めた。おかげで少し冷静になれた。
そうだ、私にはこの“力”がある。まだ上手く使いこなせないけれど、今この状況を変えられるのは私だけ。それに『私が守ってあげる』なんて大口を叩いておいて、実際は私よりも年下の子に守られているなんて、そんなの格好悪い。
私はエルちゃんの手を離すと、自分自身を落ち着かせるため深呼吸した。前と同じだ。この状況をどうにかする手段を考えて、実行する。そう、例えば彼らの足元を崩して、近づけないようにする。
突然、足元が揺らいだ。激しい揺れに襲われ、立っていられない。みるみる私達と男の人達の間に亀裂ができる。成功した、と思ったその時。
「……え?」
よく考えれば、私達が立っているのは崖の目前。しかも、私はエルちゃんに庇われてかなりギリギリの場所にいた。そんな状況で強い地震に襲われたらどうなるか、簡単に想像がつく。全く、自分自身の馬鹿さ加減に言葉が出ない。
「アメリア!」
初めてエルちゃんが私の名前を呼んだ。私は手を伸ばして、エルちゃんの手を掴もうとした。けれど、その手は虚しく空を切って、私は崖の下に落ちた。
それから、どれくらい経っただろう。
あの後、私は川を流され、奇跡的にも麓の小さな孤児院に拾われ命を取り留めた。全身に多少の打撲等はあったけれど、骨折といった大きな怪我も無く、二週間もしたら自由に動き回れるくらい回復した。孤児院の先生は優しくて見ず知らずの私にとても良くしてくれたし、孤児院の子供達も少し生意気だけど可愛かった。そこでの生活は、ママと暮らしていた時と同じくらい幸せな時間だった。
だから、私は傷が癒えるとすぐ、置き手紙を残して孤児院を去った。
あの人達は、私を高額な代金で買い取ったと言っていた。もしかしたら、彼らは血眼になって私を探しに来るかもしれない。孤児院の人達に迷惑をかけたくなかった。
あの後エルちゃんがどうなったか、気にならないと言えば嘘になる。けれど私には土地勘が無かったから、あの場所がどこかわからない。わかったとしても、今更行ったところですでに全てが終わった後だろう。それに私が思っていたよりもずっとあの子は逞しそうだから、きっと大丈夫だと思うことにした。
それからは大変だった。十歳の子供を雇ってくれるような場所は無いけれど、お金がないと生きていけない。お金や食料を日々盗んでいるようでは、きっといつか野垂れ死ぬ。誰かから身体で稼ぐ方法を教えてもらったけれど、それだけは絶対にしたくなかった。
私には目標があった。私が助けてくれた孤児院に恩返しする事だ。そのためには、私にはお金が必要だった。
そうして、私は詐欺師になった。
詐欺師と言っても、幼い頃は身寄りのない人に近付き、成長してからは恋人の振りをしたりして好意の金品を受け取り、それをお金に変えていたから比較的リスクが低い。自分が騙されていると気付いていない相手も多かった。お金にもそこそこ余裕が出来た。
先生はきっと、そんな手段で手に入れたお金と知ったら受け取ってくれない。私自らお金を渡したら、きっと不審に思われる。だから、知り合いの名前を借りて寄付金として贈り続ける事にした。
堕ちた事に後悔は無いし、この先もきっと詐欺師である事を辞めたりはしないだろう。だってそれでは、今までの自分を否定する事になる。
どんな事情があったとしても犯罪者は犯罪者であり、いつか裁かれる日が来るかもしれない。それでも、私はそうしなければ一人で生きていくことは出来なかった。
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