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 その夜、慧花は侍女に手を引かれて歩いていた。

 後宮内は、静寂に包まれていた。

 ふしぎなほど物音が感じられず、慧花は周囲を見まわす。

 いつもならばいるはずの、見張りの女兵士もいない。

 ふたりは明かりも持たず進んでいく。

 慧花は心細さをおぼえ始めていた。

 けれど侍女の背中は、声をかけられる雰囲気ではない。

 ふたりが向かっているのは、後宮の出口に続く回廊だった。周囲を池に囲まれたそこには、以前、慧花が落ちてしまった亭がある。

 月明かりの中で、亭の中に影が見えた。


「万象、そこにいるの……?」


 慧花は亭に向かって声をかけた。

 急に、背後から抱きしめられる。

 喉に押しつけられているのは、冷たい刃物の感触だった。


「慧花さま、静かにしてくださいね」


 そう声を押し殺して言ったのは、一緒にいた侍女だった。


「きゃあっ」


 慧花は悲鳴をあげた。

 手足を暴れさせたら、容赦なく頬を叩かれる。痛みで視界が明滅した。ぶたれた頬が熱を持つ。呆然として、慧花は侍女を見返した。


「……ああ、やっぱり公主さまですね。この程度のことで、静かになるなんて」


 身体が震えた。優しかった侍女の手が、おぞましく感じた。その人肌が、吐き気をもよおすほど気持ち悪い。

 侍女に背中を押されて足を進めると、亭では飼育人の男が待ち構えていた。慧花たちを見つめて、にやにやと笑っている。


「遅かったじゃないか、相棒」


「――うるさいわね。貴方こそ、その頬の傷は何なの?」


 侍女だった女が、飼育人の男に向かって冷たく言う。

 月明かりに照らされた男の右頬には、赤い筋ができていた。男は顔をゆがめて、己の頬を指でこすりつける。


「あの黒い小竜に引っかかれてなぁ……まったく邪魔してくれたよ」


 その言葉に、慧花は反応する。


「万象!? 万象をどうしたのよ……っ」


 そう叫んだ途端、背後から喉を絞められた。侍女の腕で圧迫されたのだ。体を半ば持ち上げられて、視界が真っ赤に染まる。つま先が地面から浮いている。

 声が出せないでいる慧花の両手を、手際よく男が縛り上げていった。


「ああ、公主さま。小竜なら、ここにいるじゃないか」


 男は笑いながら、己の足元を指さした。慧花は彼が示した先を見つめる。

 確かに、そこには黒い塊のようなものが転がっていた。だが、まさかそれが万象のはずがない、と思った。認めたくなかった。

 万象が死んでいる。

 頭を金槌(かなづち)で打ち付けられているようだった。思考が真っ白に染まっていく。


「公主さまの餌として、念のために連れてきたんだが……予想外に暴れるもんだから殺してしまったよ」


 男は悪びれるふうでもなく、肩をすくめる。そして右足を振りかぶり、小竜の身体を蹴りつけた。慧花は息ができなくなる。


「うわっ、何だよ……こいつ、生きていやがったのか?」


 身じろぎした小竜を見下ろして、飼育人は戸惑うような声をあげた。

 万象の前足は折れているのか、変な方向に曲がっている。

 急に、小竜が飼育人の太ももに噛みついた。顎の力だけで咥えているようだった。


「万象……」


 慧花は、呆然と呟いた。

 怒り狂った男が、拳をふるう。その衝撃で、小竜は床に叩きつけられた。

 慧花は必死に、小竜の元まで駆けよる。

 血に濡れた小竜を抱き上げた。

 万象は小刻みに震えながら、きゅう、と慧花に向かって鳴いた。――逃げろ、と警告するかのように。

 飼育人が近づいてきていた。

 怒りで朱に染められたその表情は、ひどく醜い。


「こいつめ……息の根を止めてやる!」


 男は小竜を害そうと、鞘から外した横刀を振りかぶる。

 慧花をかばうように、万象が男にむかって飛びかかった。


「いやぁぁぁ……!」


 慧花は悲鳴をあげた。

 ――この光景を知っている。この直後、万象は無残に殺されてしまうのだ。


(わたしのせいで……)


『――違う。お前のせいじゃない。慧花、正気に戻れ』


 ふいに、誰かの声が脳裏にひびいた。

 慧花は首をふる。そんな声は知らない。ここが現実だ。


『……おい。なんて、手のかかる女だ。よく見ろ。それは、ただの幻影だ。お前は過去に囚われているだけだ。誰も死んでいない。そこは宝貝の中だ』


 そう言われて、おそるおそる周囲を見まわした。

 飼育人と侍女の双眸(そうぼう)は、人形のように温度を感じさせない。そのことに気付いて、慧花はハッとした。


「幻……?」


 しかも、今は時を止められたかのように、彼らは身動きをしていなかった。飼育人も横刀を振りかざしたままの状態で、静止している。


『だから、そう言っているだろう。馬鹿者が。――いいか、よく聞け。外から干渉して時を止めた。俺がこうして話せるのも、わずかな間だけだ』


 ひどく現実感のあったこの光景が偽物とは思えず、慧花は複雑な心境に陥る。


「……わたしは、どうすればいいの?」


 この場にいない九元に問うように、慧花は宙に向かって聞いた。


『俺からはそちらへ行けない。そこはお前の心の中だ。内側から壊してもらわないと、侵入できない。外側から無理にこじ開けようとすれば、お前の精神の均衡が崩れてしまう』


「内側から壊すって……?」


 そんなことを言われても、どうすればいいのかわからない。

 途方にくれて周囲を見まわす。男と侍女が動きだそうとしていた。


『――お前がどうしたいのか、選べばいい。どんな結果であれ、間違っていない。それがお前の選択だ』


 九元の声が、ひどく優しく聞こえる。その直後に、彼の声が消えた。


「九元?」


 九元は、慧花の声に答えない。時間切れなのだろう。

 飼育人が動きだしていた。男は濡れた横刀を握りしめて、慧花の方に忍びよってくる。


「人が治めるべき地で、神が干渉するのは正しいことなのか? いっそ、七王国から天龍なんていなくなれば良い。そう思わないか? そうすれば、格差はない平等な世界を作れる。お前が、龍を得ようとすることは間違っているんだ」


「わたしは……」


 喉が張りついて、乾いた声が漏れた。

 地面に横たわる小竜を見下ろして、慧花は拳を握りしめる。


(こんなことをする人間を……彼らを護るために、王になるなんて)


 畳みかけるように、飼育人は言う。


「七王国の王族でも、不満に思っているやつはいる。お前の父や兄のようにな。――龍がいない小国では、王の嫡子がそのまま後継者になれるのだから」


 慧花は身を震わせた。


(――父さまとお兄さまは、龍のいない世界を作ろうとした)


 それは権力欲かもしれない。あるいは、己の嫡子を王にしたいという親心だったのかもしれない。


「人間なんて嫌いだろう? それでも王冠を望むか」


 飼育人は、なおも問う。


(――ああ……彼は、わたしだ)


 そのことに、ようやく気付いた。

 飼育人の言葉は、慧花が押し殺していた深層の声。

 己の迷いが、男の言葉となっているのだ。

 ――何故なら、かつては、こんな問いなどされなかったのだから。

 慧花を攫おうとした飼育人と侍女は、異変に気付いた兵士たちの手で取り押さえられた。けれど、小竜が犠牲になってしまった。慧花はそれから人を信じられなくなった。


(きっと、龍を見つけられなくたって、誰もわたしを責めはしない……)


 白蓮は微笑みながら「私のために、頑張ってくれてありがとう」と言うのだろう。結果じゃなくて過程が大事なのだから、という優しい言葉もある。


「――でも……」


 万象は身をていして、助けようとしてくれた。

 白蓮の悲しげな表情を思い出す。きっと、本当は白龍国に戻りたいのに言えなかっただけに違いない。長い付き合いから、慧花はそう確信していた。


(まだ、この世界に意味があると思いたい……)


 見捨てるのはまだ早い。そんなことは、いつでもできる。

 人間を信じられない慧花でも、まだ誰かを信じたい気持ちがあった。


「……だから、わたしは王になりたい」


 そう宣言して一同を見まわせば、飼育人はひるんだように身を引いた。彼は激昂したような表情で、慧花に向かって持っていた横刀を振りかざす。


「こいつ……っ」


 刃が襲いかかる寸前、誰かに背中から抱きしめられた。

 背後から伸びてきた手が、慧花の眼前で男の刃を受け止めている。


「え……?」


 振りかえると、そこにいたのは九元だった。


「慧花、よく言った」


「九元、どうやってここに……?」


「お前が半ば自力で壁を壊してくれたから、どうにか入ることができた」


 素手で刃をつかんでいるのに、九元の手から血が流れる様子はない。飼育人はそれに気付いて、横刀から手を離した。(おのの)いたかのように後ずさりしている。

 横刀が落ちる硬質な音がひびく。硝子(がらす)がひび割れるような音を立てて、急に視界が揺れた。

 飼育人や、侍女、すべての見えていた光景が遠ざかっていく。

 色硝子のような破片が風で舞い上がる。

 心細さをおぼえて、慧花は九元の胸にすがりついた。


「九元……?」


 初めて名を呼ぶような気持ちで、彼の名を口にする。


「今度は、ちゃんと助けたかった」


 九元は、そう苦笑した。



 * * *



 目を瞬かせると、九元に抱きしめられていた。

 状況が理解できずに、慧花は困惑する。


「ここは……?」


 そこは小さな室のような場所だった。家具などはなく、こざっぱりしている。

 開け放たれた窓から夕焼け色の光が差し込んでいる。人どころか、生き物が棲んでいる気配もない。


「ここは最上階だ」


「最上階? そんな……。わたしは、失敗したということ……?」


 呆然と呟いてしまう。


(白蓮も、民も救えなかった……)


 絶望に打ちひしがれる。

 ふいに両頬を手で挟み込まれて、持ち上げられた。九元と視線が交わる。


「違う。――お前は、もう龍を見つけたんだ」


 九元の瞳は、砂時計と同じ金色だ。

 それは、万象と同じ色。


「ああ……まさか、九元……」


 これまで複雑に絡みあっていた糸が、急に解けていくように感じられた。

 九は数の最上位を表す。九元は『多くの元となるもの』――それは、すなわち『万象』という意味に通じる。


「あなたが万象なの……?」


 喉から、かすれた声が漏れる。

 九元は大きくため息を吐く。


「……俺も、宝貝の中で夢を見ていた。かつては人の手に捕らわれ、人を憎んだこともあった。――俺がお前に気に入られるような態度をしなければ、あの飼育人はお前に近づくきっかけを得ることができなかっただろう。……俺が、あの事件の片棒を担いだようなものだ。それで、お前を傷つけてしまった」


「そんな……っ」


 慧花は首を振る。その拍子に涙がこぼれ落ちた。頬をつたった雫を、九元はそっと親指でぬぐってくれる。


「そう後悔しながら死んだせいだろうか。俺は死後、昇仙して龍になっていた。崑崙では、時が地上よりも遅く流れる。――俺は、お前のことを天から見守っていたよ。だからこそ、二度と近づくべきじゃないと思っていた。俺がそばにいたら不幸になる、と」


「そんなことない……っ」


 とっさに、彼の衣装の胸元を掴んだ。

 九元は微苦笑する。


「――けれど、感情とはままならないものだ。そばに居れば欲が生まれる。望みを叶えてやりたくなる。……天尊にも、お前の元にいくようにと、長いあいだ言われ続けていた。お前が熱でうなされていた間には、『お前が天龍になれば良いじゃないか』とも言われたな。ずっと、分不相応だと断り続けていたが……」


「天帝が……?」


 あの童子のすがたが目に浮かぶ。


(もしかして……天帝は万象を憐れんで、仙にしてくださった……?)


 それは直感だったが、正しいように感じられた。

 ふいに、端整な顔が近づいてくる。

 口づけされるのかと身を強張らせたが、互いの額がぶつかっただけだった。


「九元……?」


 慧花は、困惑混じりに問いかける。

 吐息さえ触れてしまいそうな距離だ。息をするのも躊躇(ためら)う。



「――国主になるということは、もう一生、俺から離れられないということだ。死がふたりを分かつまで、俺をそばに置くということ。……その覚悟はあるのか?」


 慧花は目を見開いた。

 九元の金色の瞳が、答えを待っている。

 唇が震えた。


「……望むところよ」


 慧花の答えに、九元は口の端をあげる。

 龍紋が、互いの額に刻まれていくのを感じた。

 ――それは王と天龍をつなぐ、魂の鎖。



 * * *



 白龍国の歴史上には、唯一、女王が治めた時代がある。

 彼女の傍らには、生涯、寄り添うように黒い龍がいたという。

 これは、彼らの出会いの物語。



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