第一章:残照の戦場
天を衝くほどの巨躯を誇る上位魔獣「ベヒモス」が、怒号と共に大地を揺らした。
かつては肥沃な穀倉地帯だったこの平原も、今は焦土と化し、鉄と血の臭いが混じり合う地獄絵図と化している。
「聖女様、右翼の騎士団が限界です! これ以上の維持は——」
「分かっています。下がっていなさい」
若き騎士の悲鳴を遮り、私は一歩前へ出た。
風に踊る銀の髪は、返り血を浴びてもなお、神々しいまでの輝きを失っていない。手に携えたプラチナの杖を軽く一突きすれば、私の足元から純白の魔法陣が同心円状に広がり、力尽きかけていた兵士たちの傷を瞬時に塞いでいく。
大陸最強の聖女。人々は私を畏敬の念を込めてそう呼ぶ。
治癒の奇跡を振るいながら、同時に私は左手を天に掲げた。
「——神の鉄槌よ、塵へと還れ。極大聖雷」
直後、雲を割り、黄金の雷光がベヒモスの脳端へと突き刺さった。断末魔の叫びすら許さぬ圧倒的な破壊の奔流。数千の軍勢をなぎ倒す魔獣が、わずか一撃で炭化し、崩れ落ちていく。
戦場に静寂が訪れる。兵士たちが歓喜の声を上げ、私の名を叫び、祈りを捧げる。
だが、その熱狂の中にありながら、私の心はどこまでも冷めていた。
(……ああ、また救ってしまった。そしてまた、私は死に損ねた)
私は既に、百歳を超えている。
あまりに強大すぎる魔力は、肉体の老化を極限まで遅らせる。友も、かつての教え子も、愛した人々も、皆とうの昔に土へと還った。私だけが、この美しくも呪わしい「聖女」という偶像の中に閉じ込められたまま、終わりのない争いの道具として磨り潰され続けている。
戦場から帰還する馬車の中で、私は自分の手を見つめた。
白く、細く、傷一つない手。この手で何万人を救い、何十万人を殺しただろうか。
「聖女様、王都へ戻れば祝宴が待っております。国王陛下もさぞお喜びでしょう」
護衛の騎士が誇らしげに語る。私は微笑みで応えたが、内心では吐き気を催していた。祝宴、勲章、そして次の戦場への要請。私の人生は、その繰り返しだ。
数日後。王城の奥深く、歴代の王族すら立ち入りを禁じられた禁忌の書庫に、私は一人立っていた。
聖女としての特権を行使し、結界を解除して足を踏み入れる。埃っぽい空気の中に、古びた紙の臭いと魔力の残滓が漂っている。
目的のものは、最奥の棚にあった。
どす黒い革表紙で綴じられた、名もなき禁書。そこには、魂を器から切り離し、因果の彼方へと飛ばす「転生術」の儀式が記されている。
「普通の、生活を」
独り言が、暗い空間に虚しく響く。
誰かに守られ、誰かを愛し、汗を流して働き、老いて死ぬ。そんな当たり前の「人間」としての生を、私は渇望していた。
もし神がいるのなら、これほど世界に尽くした私に、一度くらいは自由を許してくれるはずだ。
私は禁書を懐に忍ばせた。
寿命が尽きようとしているこの身体が完全に朽ちる前に、私は自分自身に最後の魔法をかけるつもりだった。
転生後の世界が、今より少しでもマシであることを。
そして次の私が、銀の髪を持たない、どこにでもいるただの少女であることを願いながら。




