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8 ギデオンの傷



 最近、なんだかギデオンの顔色が悪い。

 そのことに気がついたのは、十月ももう半ばを過ぎ、だいぶ終わりに近づいてきた頃のことだ。


 体調が悪いのかと思って訊いてみても、問題はないと言う。けれど、顔色の悪さは戻らないし、日に日に悪化していっているようにも見える。

 こういう場合、自分が何処まで踏み込んでいいものなのか、ジェラルディーンにはよくわからない。本当の婚約者だったら、もっと親身になって心配したり、看病したりしてもいいのかも知れないが、自分はそういうことをしてもいい関係なのだろうか。その距離感を量りかねている。


 この関係は、恐らく期間限定だ。来年の今頃には解消しているかも知れない。そのあとは友人として付き合いを続けるかも知れないが、どうなるかはわからない。

 だからこそ、何処までなら許されるのかがわからない。


「本当に大丈夫なの?」


 何度目かわからない溜め息を零したギデオンに、堪らずに尋ねる。

 大丈夫、と彼は笑って首を振った。とても大丈夫には見えない笑顔で。


「ちゃんと食べてるの?」


 一年のほとんどを領地に帰らずにロンドンで仕事をしている為、実家のタウンハウスを使わずに下宿を借りているという話は聞いた。ジェラルディーンがやっているような寝場所だけを提供するような下宿ではなく、ちゃんとした管理人がいて、料理人やメイド達もいて、食事もなにもかも面倒を見てくれるしっかりした物件だということだ。

 そんな場所に住んでいるのだから、食事は大丈夫だろうとはわかるのだが、窶れ具合が気になってしまう。

 ただでさえ細身だったのに、今では痩せぎすというのが似合うような細さだ。


「大丈夫だよ。最近ちょっと仕事が忙しかったから、疲れが出ているのかもね」


 明らかに力ない笑顔に呆れてしまう。


「何事もやる気がなくて、仕事も適当に熟してるって言ってた人が、疲れるくらいに多忙を極めたの? それは結構なことだわね。真面目になったみたいで」

「わあ。痛いところを突いてくれるなぁ」


 わざとらしく明るい声を出して笑うが、不自然だ。

 ジェラルディーンは溜め息をつき、立ち上がる。


「残り物だけど、スープがあるの。飲んで、身体を温めて」


 体調が悪くても、臓腑が温まれば少しは違う筈だ。今日のスープはよく煮込んだオニオンスープだし、飲んでも胃に負担にはならないだろう。


「うん……ありがとう」


 ギデオンは小さな子供のような笑みを浮かべ、頷いた。

 そんな様子を見て、ジェラルディーンは眉間に皺を寄せる。ギデオンは首を傾げた。


「どうかした?」

「あなたを見ていると、時々物凄く、こう……母性本能的ななにかが刺激される」


 それはとても不本意な感じだ。年上の男性に対してこんな気持ちになるなんて、相手に対して失礼だし、なにより自分にそんな感情があったことが違和感で堪らない。

 ギデオンは微かに笑い、クッションを抱き締めた。


「早くスープちょうだいよ、ママ」


 甘えるような口調で言われるので、ぶわっと鳥肌が立った。


「やめてよ、気色悪い!」


 身震いしながら怒ると、ギデオンは可笑しそうに笑う。今度は不自然ではなく、本当に楽しくて笑っているような顔だ。

 その様子にほんの僅かながら安堵を得て、ジェラルディーンは温まったスープをよそった。


 そんなやり取りが何度か続き、十月も明日で終わりという頃になっても、ギデオンの体調は戻らないようだった。

 プディングあたりを作って差し入れたりするのは出過ぎた範囲ではないだろうか、と市場で食材を物色しながら考える。子供の頃から砂糖をたっぷり入れたカスタードプディングが好きだと言っていたので、喜んでくれるかも知れない。

 けれど、卵を使う料理は、胃腸が弱っているときには不向きではなかっただろうか。

 すぐ下の妹が昔から胃腸が弱く、卵料理を食べては具合が悪くなることが多々あったので、ちょっと考えてしまう。


(まあ、いいか。多分平気でしょう)


 よしよしと一人頷き、卵を多めに買い込んだ。

 牛乳は今朝新しいのが届いていたし、砂糖も先週買い込んだところだ。材料は十分にある。


 重たくなった買い物籠を慎重に抱えながら家に戻ると、玄関に誰かが入って行く姿が見えた。


「ジェニーお姉様?」


 ノックをし始めた背中に向かって声をかけると、来客はハッとして振り返る。やはり姉のユージェニーだった。


「あらやだ。外出中だったのね」

「ちょっと食材の買い出しに。なにかご用?」

「そうなのよ!」


 鍵を開ける横で、ユージェニーはキィッと苛立たしげな声を上げた。


「アリスンのことなんだけどね!」


 中へ招き入れる間にも、姉はカッカしながら愚痴を言い始める。

 何事かと思えば、アリスンがもう一ヶ月も姉の家に滞在しているらしい。ここまで長期になるともうお客様ではなく、ちょっと迷惑な居候だ。


「あらぁ……」


 それ以上はなんとも言えず、ジェラルディーンは言葉を途切れさせる。

 社交シーズン以外の時季でロンドンに用があるときは、市内に居を構える長兄イーデンかジェラルディーンの家、若しくは嫁ぎ先のあるユージェニーの家に数日間世話になるのが普通だった。イーデンの妻も、ユージェニーの夫も、そういう家族間のやり取りを納得していたし、快く受け入れてくれていた。

 だがそれも、一週間ほどの間のことだからだ。

 一ヶ月にも及ぶ長期になれば、ひっそりと不快を抱かれ始めて当たり前だろう。

 家のことはすべて妻の権限でどうぞ、と言っているユージェニーの夫は気にしていないようだが、不満を抱き始めているのは使用人達の方だという。


「まあ、別にあの子も物凄い我儘を言ったり、横暴だったりするわけじゃないから、不満っていっても微々たるものなんだけどね。やっぱりずっとお客様が滞在してるっていうのは、精神的に負担が多いのでしょうね」


 私もそうだけど、と苛立たしげに呟き、お茶請けに出したクッキーをぼりんと乱暴に噛み砕く。八つ当たりされて可哀想なクッキーだ。


「それで、最近困ったことに、毎日外出しているのよ」

「毎日? そんなに買い物でも?」


 姉の家に世話になっているので、宿泊費などは考えなくてもいいだろうが、そんなに自由に使えるほどのお金は持っていない筈だ。それに、連日買い物などして豪遊出来るほどに裕福な家でもない。

 いくら溺愛されていていろいろ買ってもらえる立場であろうとも、そんなことくらいわかっているだろうに、いったいなにを考えているのやら。

 驚きと呆れの半分で目を丸くしていると、ユージェニーは鼻の頭に皺を寄せ、腹立たしげに熱々の紅茶を啜った。


「やっぱりここには来てないのね」

「来てないわよ。最後に会ったのは今月の頭の頃だし、もう帰ったのだと思っていたわ」

「そんなことだろうと思った!」


 クッキーがまたぼりんと噛み砕かれる。鼻の頭だけでなく、眉間にも険しい皺が刻まれた。


 ユージェニーの言っていることの意味がわからず、いったいなんなのだろうと首を傾げれば、アリスンは毎日「ジェインお姉様のお家に行って参ります」と出かけていたらしい。

 まったく身に覚えのないジェラルディーンは目を真ん円にした。


「私の誕生日のときに来てくれて以来、一度も来てないわよ!」

「だから、そんなことだろうと思ったって言ったでしょ。一週間も続けばさすがにおかしいと思ったんだから」


 毎日会うほどに仲がいい姉妹ではない。年齢が離れているので可愛いとは思っているが、実家を出ている上に自活している身なので、そこまで構ってやる余裕はない。


「まったく。お母様がなにも言わないのをいいことに、なにかやってるんだわ」

「なにかって?」


 口実に使われていたことを知って不愉快な気持ちのジェラルディーンは、姉と同じように八つ当たり気味にクッキーを齧った。


「あの年頃の子がこそこそするっていったら、男のことでしょ」


 ユージェニーは吐き捨てるように言い、紅茶の残りを一気に飲み干す。まだ十分熱いのによく平気なものだ。


「男ぉ??」


 アリスンには不似合いな気がして、思わず笑ってしまう。


「あの子惚れっぽいところはあるけど、遠巻きに見ているような性格じゃないの。そんなに毎日出かけて会いに行くほど、積極的なことをする?」

「遠巻きに見ているだけかも知れないでしょ」


 勝手に二杯目のお茶を注ぎながら、姉は顔を顰める。


「つまり、何処かに意中の男性がいて、毎日その人のことを遠巻きに眺める為に出かけて行ってるってこと?」

「そう。あの子ならやるわね」


 公園の樹の陰、お店の棚の陰、街中の路地裏から、意中の男性の姿をもじもじチラチラと眺めている――確かにやりそうだ。

 ジェラルディーンは眉間に皺を寄せて考え込み、ユージェニーも苛々した様子でお茶を啜る。


「まあ、いいわ。嘘をついていたのはわかったんだし。締め上げて、素直に謝るならお咎めなしで帰らせるし、強情張るなら洗い浚いお父様とお母様に報告の上で強制送還よ」


 しばらくの沈黙のあとにそう結論を出したユージェニーは、ご馳走様、と言って立ち上がった。アリスンの所在の確認と、愚痴を吐き出して用は済んだらしい。

 途中まで送る、とジェラルディーンも立ち上がった。


「妹っていうより子供を見てるみたいな気分になって、嫌んなっちゃうわ」


 ショールをきつく巻きつけながら唇を尖らせ、そんなことを吐き出す。

 姉の一番上の子はアリスンと二歳しか違わない。確かに妹というよりは子供に近く、母親的な目線で見てしまっても不思議ではない。

 そうね、とジェラルディーンも頷いた。年齢差のある兄弟はこういうときに少し気持ちがすれ違うものだ。

 困ったわね、とお互いに笑い合って別れようとしていた視線の先に、悩みの種であるアリスンの姿が映り込んだ。


「お姉様、アリスンだわ」

「え、何処?」

「ほら。あそこの緑に青のドレス、違う?」


 ジェラルディーンはあまり目がよくない。双眸を眇めて目を凝らしながら、アリスンのように見える若い女を指差した。


「本当だわ。……まっ! やっぱり男よ!」


 緑と青のドレスの女の姿を視界に捉えたユージェニーは、さっと眉を吊り上げる。ジェラルディーンももう一度目を凝らすと、確かにアリスンらしき女は男性に話しかけている。


(あのひょろ長いシルエットは……)


 ハッとして駆け出す。姉が驚いたように呼びかけてくるが、無視する。

 だって、あの簡単に折れそうなくらいに細い体格には、とても見覚えがある。


「ギデオン」


 呼ぶと、男女が同時に振り返った。

 彼等はやはりアリスンとギデオンで、先を行っているギデオンに、アリスンが声をかけているような雰囲気だった。


「ジェインお姉様、……ジェニーお姉様!?」


 ジェラルディーンの姿を見て気不味そうな表情を見せたアリスンは、その後ろからもう一人の姉が走って来ていたことに気づいてギョッとなる。逃げ腰になりかけたところを素早く捕まえられた。


「アリスン! あんたって子は!」

「ごめんなさい、お姉様! 嘘ついてごめんなさい!」


 こういうときのアリスンはとても素直だ。言い逃れの為に更に嘘をついたりはしない。

 ジェラルディーンはギデオンへ向き直った。


「驚いた」


 呟くように言うと、ギデオンは青い顔に笑みを浮かべる。そうして、力ない声音で「やあ」と言ったかと思えば、そのまま力が抜けたようにその場に頽れた。


「ギデオン!?」


 咄嗟に手を差し出して支えると、女の力でも支えられるくらいに軽い。その軽さにギョッとした。


「ギデオン? ねえ、ギデオン。大丈夫!?」


 軽くとも自分より背の高い男性を支えているのはつらく、ジェラルディーンはゆっくりとその場に膝をついた。ギデオンのことも横たわらせる。


「どうしたの、その人?」


 末妹を締め上げていたユージェニーがおろおろと声をかけてくる。


「わからないわ。気を失ってしまったみたいで」


 まわりの通行人達もそわそわと集まって来て、人垣が出来始める。


「最近、ずっと体調が悪そうではあったのだけど……」

「知り合いなのね?」


 確認するように尋ねられ、頷き返す。

 そういえば、兄と姉には仮の婚約者が出来たことは伝えておいたが、まだ直接会わせてはいなかった。

 端的に「婚約者なの」とだけ伝えると、姉はすぐに理解してくれたようだ。頷き返し、手提げの中からハンカチを取り出す。


「すごい汗よ。冷えてしまうし、拭いてあげて」


 礼を言って受け取り、額に玉のようになっている汗の粒を拭き取る。ギデオンは小さく呻いたが、まだ目を覚ましそうにはない。


「どうしよう……取り敢えず、お医者様に連れて行った方がいいかしら」


 不安になって呟けば、人垣の中からいくつも同意の声が上がる。

 男達の何人かが進み出て来てくれ、運ぶのを手伝うと言ってくれた。有難い。


「医者は必要ないよ」


 人垣の向こうからそんな声が聞こえたのは、手伝いの男達が位置取りを決める相談をしているときだった。

 振り返れば、こちらに向かって来るマシューの姿が見える。


「しばらく寝かせておけばいい」

「カートランド侯爵……」


 何故こんなところにいるのだろう、と不思議に思いつつも、知っている顔にホッとして呟けば、彼は鷹揚に頷き返してくれた。


「こいつと待ち合わせをしていたんだけど、少し遅れてしまって」


 そう言うと、ギデオンの傍に膝をつき、その頬を軽く叩く。


「ギデオン、起きろ。生きているな?」


 意識を失って倒れている人にそんな乱暴な、と青くなるが、程なくしてギデオンの瞼が微かに揺れる。


「僕がわかるか?」


 僅かに開いた瞼が、問いかけに頷くように瞬く。

 よし、と頷いたマシューは、まわりの男達に下がるように言い、ギデオンを抱え上げた。


「ミセス・ジェンキンス」


 驚いているところを呼ばれ、ジェラルディーンは背筋をぴっとさせる。


「ここからならあなたの家が近いだろう。運んでも構わないかな?」

「え、ええ、はい。大丈夫ですけど……大丈夫なんですか?」


 軽々抱え上げているようだが、一応は成人男性だ。一人で運ぶのは無理があるのではなかろうか。

 手助けの為に集まってくれていた男達も心配そうに見つめてくるが、マシューは苦笑した。


「問題ないよ。なに食ってるんだか知らないけど、随分と軽いからね」


 そう言ってちょっと抱え直す。ギデオンはまた意識を手放してしまったのか、ぐったりとしていた。

 ジェラルディーンは落ちていたギデオンの帽子とステッキを拾うと、心配そうにしているユージェニーへと振り返った。


「お姉様、私はもう行くけど。アリスンのことお願いね」

「ええ……。お大事にね」


 なんと言えばいいのかわからないけど、と困惑気な表情で言われ、それに頷き返す。

 まわりの野次馬達に「お騒がせしまして」と頭を下げてから、マシューを先導して家路を急ぐ。

 アリスンに直接なにも言わなかったのは、ギデオンが倒れた原因は彼女のような気がしたからだ。何故一緒にいたのかも、なにを話していたのかもよくわからないが、声をかける前の様子は少し揉めているようにも見えたのだ。


 家に帰り着き、取り敢えず居間のソファに寝かせてもらう。

 運び込んだマシューは息をつき、軽く腰を叩いていた。やはり少し重かったのだろう。


「今、お茶を……」


 リネン室から毛布を取って来たジェラルディーンは、マシューに傍の椅子を勧めて言うが、彼は首を振った。そんなことに気を遣わなくていい、ということだ。


「さっき一緒にいたご婦人は、姉上と姪御さん?」


 熱はなさそうだが、一応用意した濡れタオルを運んでいると、そんなことを尋ねられる。


「姉と、一番下の妹です」


 答えると、そう、と短い頷きが返る。


「もしかして、妹さんとこいつは、以前から知己を得ている?」

「ええ。母と会ってもらうときについて来ていたので」


 それがどうしたのだろうか、と思いながら答えると、納得したように「それだな」と呟かれた。

 マシューはその回答でなにかを理解出来たようだが、ジェラルディーンにはさっぱりだ。疑問符を大量に並べながら説明を求めるように見つめる。

 その視線を受け止めたマシューは、僅かに言いにくそうな表情になり、言葉を選ぶように視線を伏せる。

 ややして、整理がついたように顔を上げた。


「ミセス・ジェンキンス。あなたは、こいつの不眠症についてはご存知か?」


 ジェラルディーンはすぐに首を振った。


「知りません。私はこの人のこと、まだなにも知りません」


 自分で答えた言葉に、胸の奥がぎゅっと縮み上がるように痛む。

 そうだ、なにも知らないのだ。自分達の関係上、プライベートな部分には何処まで踏み込んでいいものか、と模索していたところなのだ。

 こんなことになって不安を覚えるくらいだったら、もっとお互いのことを話し合っておけばよかった。別にすべてを語る必要はなかったのだが、それでももう少し、支え合えるような事情は話し合っておくべきではなかったのだろうか。

 もう知り合ってから一ヶ月も経っていたのだから、友人としてでも、もう少しお互いのことを話してもよかったのだろう。それでもそうしなかったのは、お互いにまだ信用しきれないでいる部分があったからだろうか。

 ジェラルディーンは静かに唇を噛む。なんだか無性に悔しかった。


 そうか、とマシューは呟き、また考え込むような表情になる。

 そんな様子にも気を揉んでいると、ギデオンが微かに呻いた。

 ハッとして振り返ると、眉間に皺を寄せ、苦しげに魘されている。首筋には汗が流れ落ちていたので、襟を寛げてタオルで拭ってやった。

 よく見てみると、以前よりも(やつ)れただけではなく、目の下が窪んで黒い。不眠症だとマシューが言っていたので、睡眠不足に因る隈だろうか。


「――…、ィ……ーナ……」


 何度も汗を拭ってやっていると、苦しげな息の下からなにか呟いているのが聞こえた。人の名前のようだが、よくは聞き取れない。


「ウィレミーナ」


 マシューが横から答える。女性の名前だ。


「そいつの亡くなった奥方の名前で、不眠症の原因だよ」


 いったい誰なのだろう、と思っていると、そう告げられた。

 ジェラルディーンは言葉もなく双眸を瞠る。


「それは……私が伺ってもよい話なのでしょうか?」


 困惑しながら尋ねると、マシューは首を振った。


「とてもプライベートなことだ、本当はよくないんだろうけどね。でも、あなたは知るべきだと思う」


 難しい顔で言われるので、ジェラルディーンも神妙に頷いた。


「これは、僕もこいつから直接聞いた話じゃない。こいつは自分の弱みを握らせまいと、僕を物凄く警戒しているからね」


 少しおどけた調子で言って肩を竦めると、小さく溜め息をつく。

 なんだか話しにくそうだ、と感じた。恐らく本来は、ギデオンが触れられたくないと感じている部分についての話なのだろう。

 ジェラルディーンは決して急かさず、マシューの言葉を待った。


「人の口に戸は立てられない。十五年前のことも、そうして僕の耳に入ってきていた」


 マシューはようやく語り出す。静かな口調で、判断を間違えれば壊れてしまうような深い傷を抱える硝子細工に触れるように、慎重な様子で。


 寄宿学校(パブリックスクール)を卒業してすぐ、ギデオンは親の決めた令嬢と結婚した。目を合わせるだけでも頬を薔薇色に染める、恥ずかしがり屋な十五歳のウィレミーナ。

 家同士の取り決めの結婚だったが、二人は微笑ましいくらいに仲睦まじかった。

 結婚してから一年ほど経ち、まだ幼さの残る愛らしいウィレミーナは、愛するギデオンとの子供を身籠った。家族は大喜びし、もちろんギデオンもとても喜んだ。

 それから半年程も経てば、若い夫婦は『若い親』となる筈だった。


 お腹もすっかりと大きくなり、呼びかければ答えるように叩き返してくる胎動を感じ、二人は幸せいっぱいに産み月が来るのを待っていた頃のことだ。

 ウィレミーナは突然亡くなってしまった。夜中に大量の血を流して。

 苦しんだのかはわからない。明け方頃に目覚めたギデオンが見た死に顔は、とても穏やかだった。


 ギデオンは悲しんだ。

 悲しむという言葉では足りないくらいに嘆き、慟哭し、憔悴した。

 ウィレミーナが息を引き取るとき、自分はすぐ隣に眠っていたというのに、彼女の異変にはまったく気づかず、ただただ惰眠を貪っていた。

 あんなに傍にいたのに、たった一人で逝かせてしまった――そのことが悔しく申し訳なくて、深い後悔と共に泣き崩れた。


 それ以来、ギデオンは悪夢に魘されるようになる。

 愛する妻を一人で逝かせてしまったことを後悔し、夢の中で己を責め、魘されて目覚めた冷たい一人寝のベッドの中で、ひんやりとした血の感触を思い出す。

 眠れずに魘され、起きては絶望し、どんどん憔悴していった。

 医者に薬を処方してもらっても眠れず、気が狂いそうになっていたとき、心配した母が抱き締めてくれた。

 母の腕に小さな子供のときのように抱き締められると、不思議と安心し、悪夢も見ずにようやく眠ることが出来た。

 温かい腕に抱かれ、目覚めたときもその温もりに包まれていると、ギデオンの強張っていた心はようやく解かれたようになった。


「眠れないからと言って、いつまでも母親のベッドに潜り込むわけにもいかないから、奴は他の手段を求めるしかなかった。夜を共にしてくれる女性なんてどういう人か、あなたでもわかるだろうか?」


 尋ねられ、ジェラルディーンは頷く。

 その答えに対し、不思議と不快感は沸かなかった。


「ギデオンは娼婦達の間で有名だったよ。安眠枕くんって呼ばれていた」


 苦笑しながらマシューは言う。


「どういう意味ですか?」


 変な呼び名に思わず首を傾げた。


「最愛の妻を失って不眠になった所為か、他の女性を抱けないようなんだ。行為に及ぼうとすると吐いて気を失うらしい」


 ジェラルディーンは静かに瞠目し、震えた。

 胃の奥が竦み上がり、息を詰めた瞬間、脳裏にウィリアムの顔が浮かぶ。


「だから、眠れるように人肌を求めて娼館に行くが、なにもせず、ただ抱き締めてもらって眠るだけ――それで安眠枕くん。一緒に寝るだけで一晩分の金を貰えるから、娼婦達には人気なんだ」


 このあたりはマシューが娼婦達から聞いた話だ。変わったお客さんがいるのよ、と。

 はあっとジェラルディーンは小さく息を吐き出す。緊張から、気づかないうちに呼吸を浅くし過ぎていたようだ。


「……そのお話と、うちの妹が、どう関わってくるのでしょうか?」


 ゆっくりと気分を落ち着けながら、一番初めにマシューが言った言葉を振り返る。

 彼はギデオンが倒れた原因をアリスンだと断定しているような口調だった。


「安眠枕くんの噂は、娼婦達の間でもうひとつ有名なことがあるんだ」


 少しおどけて勿体ぶったような口調で言うが、表情は気遣わしげにギデオンの方へ向けられる。


「安眠枕くんは何故か年増の娼婦しか指名しない」

「年増?」

「そう。ウィレミーナが亡くなったとき、彼女はまだ十七歳だった」


 その年齢を言われ、ジェラルディーンはハッとする。


「彼女の面影を重ねてしまう所為なのか、その年頃の女性とお近づきになれないんだよ。最近ようやく少しくらいなら話したりすることも出来るようになったみたいだけど、隣に座ったりとか、ダンスを踊るのもまだ無理じゃないかな」


 アリスンはもうすぐ十八歳。ウィレミーナと同じ年だ。


(ああ、そうだったんだ……)


 僅かに震える手を握り締めながら、ジェラルディーンは眠るギデオンの顔を見つめる。

 ギデオンと知り合って付き合っていくうちに、なにかとても近いものを感じるときがあった。だから少しずつ気を許せるようになってきていたのだが、腑に落ちた。

 彼もまた、心に消えない傷を負っていたのだ。




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