9 悔恨と告白
時折魘されながらも、ギデオンはなんとか眠っていた。
最近は随分と症状が改善していたらしい不眠が再発したのは、マシューの言葉から推測するに、アリスンと引き合わせてしまった頃からだと思われる。
つまり、この一ヶ月近く、きちんと眠れていなかったことになるのだろう。どうりで日を追うごとに顔色が悪くなっていく筈だ。
知らなかったこととはいえ、とても可哀想なことをしてしまった。申し訳なくて堪らない。
「迷惑でなければ、自分で起きるまで寝かせておいてやってくれないか。あんな場所で引っ繰り返ったってことは限界だったんだろうし、あなたの顔を見て気が抜けたこともあるのだろうから、安心するんだろう」
しばらく様子を見ていたマシューは、そう頼んで帰って行った。
迷惑だなんてある筈がない。どうやら妹が原因の一端であるのだし、ジェラルディーンが責任を持って看病するべきだ。傍にいることで安心してくれるというのなら、いくらでもそうしていよう。
仕事から帰って来たベティとロバートは、そんなギデオンの様子に驚いたようだったが、事情を説明したらすぐに納得してくれた。
とても心配してくれたらしいロバートなど、寝苦しそうだから、と自分の寝間着を貸してくれたくらいだ。
確かに着替えさせた方がよさそうだ、と三人がかりで着替えさせ、夕食を終えたあと、ジェラルディーンの寝室の方へ運ぶのを手伝ってもらった。さすがに一晩ソファで寝かせておくのは可哀想だ。
冷えたベッドの所為で魘されるというようなことを言っていたな、と思い出したジェラルディーンは、取り敢えず湯たんぽを用意して入れておいてやることにした。
本当なら一緒に寝てあげるのがいいのだろうが、さすがにそれはどうだろう、と躊躇した結果の妥協案だ。これで少しはマシになるといいのだが。
もうすぐ原稿の締め切りだ。毎回三件の回答を載せるうちの一件がまだ出来上がっていない。今日中に仕上げてしまおう、と相談の手紙を読みながら、ギデオンの看病を続ける。
時折魘されるので、そのときは少し強めに手を握ってやる。傍にいるから大丈夫だよ、という意味を込めて。
するとギデオンは苦しげな表情を解き、静かに落ち着いた寝息を取り戻す。その様子を見て安心し、ジェラルディーンも仕事に戻る。
そうしているうちに夜はすっかりと更け、日付が変わってしばらくした頃、ギデオンが目を覚ました。
初めは、そこが何処なのかわからなかった。
明らかに自分の部屋ではなく、知人の誰の部屋でもない。
まったく見たことがない部屋のベッドで寝ていることに混乱しながら、明かりが点いている方へ顔を向けた。
灯りの許は書き物机で、そこには一人の女が座ってなにかを書いている。
忙しなく動く彼女の手に握られているのはあの黒い万年筆で、逆光に照らされて深い陰影を刻む横顔は、ギデオンの見知った人のものだった。
「……ジェイン」
ホッとして名前を呼ぶと、ハッとしたように振り返られる。
「目が覚めたの?」
尋ねられる声は心配そうだ、とギデオンは思った。静かに頷き返す。
「なにがあったか、覚えている?」
ジェラルディーンはベッドの傍に腰を下ろし、額にかかる前髪を払い除けるように撫でつけながら、不安そうにしている顔を覗き込む。
「カートランド先輩と会う約束をしていたんだ。きみの顔を見たらなんだか力が抜けて、目の前が真っ暗になったのは覚えている。……ここは?」
「私の家よ」
「そう。知らない部屋だから、何処かと思った」
小さく笑みを浮かべているので、ああ、とジェラルディーンは頷く。
「必要がなかったから、寝室には入れたことがなかったものね」
ここはジェラルディーンの寝室兼書斎で、とても私的な空間だ。この十年の間でも、人を入れたことなど数えるほどだ。
そうか、とギデオンは頷く。
「きみのベッドを取ってしまって……」
「ああ、いいのよ。まだもう少し起きているし」
起き上がろうとされるので、やんわりと押し戻す。ギデオンは困ったように眉尻を下げたが、されるがままに従うことにしたようだ。
「お腹は空いていない? スープとパンか、カスタードプディングがあるわ。食べれそうなら用意して来るけど」
「あまり空いてないけど、プディングはちょっと食べたいな。久し振りだ」
「わかったわ。ちょっと待ってて」
やはりプディングを作っておいてよかった。好物だと言っていたものなら食欲も湧くだろうと思ったのだ。
小さめの器に取り分けて戻ると、ギデオンは先程寝かしつけた姿勢のままで待っていた。
「自分で食べる? それとも、食べさせてもらいたい?」
ほんのりと意地悪心を浮かべて尋ねると、顔を顰めて起き上がる。
「寝てろってしたのはきみじゃないか」
「だって、目が覚めてすぐに起き上がったりしたら、危ないかと思って。倒れたんだし」
差し出された手に器を持たせると、本人も少し不安があったのか、指先を伝わせるように動かし、しっかりと持てる位置を探す。
スプーンを持つ手は少し震えていた。僅かに緊張した様子でそれを口に運び、ゆっくりと咀嚼する。
ジェラルディーンはその動作を静かに見つめていた。
「お口に合ったかしら?」
尋ねると、こっくりと頷き返される。
「きみは本当に料理上手だね。この前のシェパーズパイも、スープも美味しかったし」
「ありがとう。でもレパートリーは少ないのよね。失敗もよくするし」
苦笑して椅子に座り直す。
ふうん、と頷きながらぺろりと平らげたギデオンは、空になった器を傍の小箪笥の上に置いた。
「……これはもしかして、亡くなった旦那さん?」
そこに置かれていた写真立てに気づき、若い男性の姿があることを見止めて尋ねる。
ええ、とジェラルディーンは頷いた。
「ウィリアムというの。陸軍の准士官だった」
同じように写真立てを見つめ、変わらない微笑みを浮かべているウィリアムの姿に、いつものようにちょっと胸の奥が痛むのを感じた。
ギデオンは手を伸ばしかけ、一瞬引っ込めてから、躊躇いを含みながら「見てもいい?」と尋ねてきた。
どうぞ、と言うと、そっと丁寧に、両手で持ち上げる。
「……優しそうな人だね」
「ええ、とても優しかったわ。虫も殺せないくらいに」
「軍人だったのに?」
「ウィリアムは次男だったから」
その言葉で理解したギデオンは、ああ、と小さく頷いて黙った。
貴族の家督――爵位は、基本的に長男がすべてを相続する。それ以外の兄弟達は、父親の死後は貴族としての籍を離れ、一般人として生きていくことになる。
家によってはいくつかの爵位を同時に保有していることもあるが、それでも、受け継ぐのは長男一人だ。決して兄弟で分け合ったりなどはしない。
一般人となる次男以下の大抵の場合は、法曹家や医者など、一定の地位と尊敬が得られる職業に就くことが多い。軍人もそのひとつだ。
「とても優しい人だったのよ」
優しく微笑む茶色の瞳を思い出しながら呟く。
「どうせだったら医者とか獣医とか、学者とか、なんでもいいから人を助ける仕事を選べばよかったのにね。選りに選って人の命を奪うような職業だなんて……」
一番似合わないものを選んだものだ、と未だに思う。もっと彼らしい職業が他にいくらでもあった筈だ。
そうかな、とギデオンは首を傾げる。
「奪うばかりでもなかったんじゃないかな」
写真立てをジェラルディーンの手に載せて、そっと握らせる。
「軍は敵を攻めるばかりじゃない。国防を担うんだよ。人の命を奪うのは、この大英帝国を――そこに暮らす人々を守る為なんだ。奪うだけじゃない」
「国防……」
「そう。ウィリアムさんは、きみを、愛する人達を守る為に軍人になったんじゃないかな」
そんな理由は考えたこともなかった。けれど、それならとてもウィリアムらしく思えて、すべてがすとんと胸の奥に落ちてきて納得出来る。
写真立てを見つめ、軍装のウィリアムの姿を覗き込む。不似合いだと思っていたその服装が、しっくりしたように不思議と感じられた。
「……本当にそんな理由だったのかも知れないわね」
呟くと、ギデオンは肩を竦める。
「俺の勝手な考えだけどね。でも、彼の顔は、そういうことを考えそうな男の顔をしてる」
それでもいい。そう思えた。
今でも思い出せる。ウィリアムが「ディーン」と呼ぶ柔らかい声を。
「ギデオン」
浮かんできた涙を手の甲で拭い、ギデオンに向き直る。
「私、あなたに謝らなければならないことがある」
まっすぐに見つめながら言うと、驚いたように見つめ返された。
「謝るなら俺の方だ。こんな迷惑をかけて、ベッドまで取ってしまってるし。それに」
「カートランド侯爵から、あなたのこと聞いてしまったの」
言葉を遮り、強い口調で言う。
え、とギデオンは目を丸くした。
「倒れたあなたをここに運んでくれたのは侯爵で……。それで、あなたが眠っている間に、あなたの昔のことを聞いたの」
「昔のこと、って?」
尋ねてくる声音に警戒と緊張が滲んでいるのを感じる。
ジェラルディーンは静かに息を吸い込み、真摯に見つめ返した。
「あなたと、ウィレミーナさんのことを」
そう告げたときのギデオンの表情を、どう言い表せばいいのかわからない。
驚いているような、怒っているような、苛む苦痛を堪えているような、悲しくて堪らなくて、今にも大声を上げて泣き出しそうな――それらが混じり合ったような表情だった。
ややして、はっ、とギデオンは詰まらせた息を吐き出す。震える手が苦しげに胸許を握り締めた。
「ごめんなさい。面白半分で聞き出したわけでもないし、侯爵も、真剣にお話しくださったわ」
「……せん、ぱい、が……なんで……」
喘ぐように零された疑問に、ギデオンから直接聞いた話ではない、とマシューが言っていたことを思い出す。
「あなたが眠れなくて娼館に通っていることを聞いたのよ。その原因が、奥様を亡くされたことらしいって」
説明すると、ギデオンは納得したように「そう」と頷き、力を抜いた。
「ごめんなさい」
「謝らなくていいよ。面白半分で聞いたわけじゃないんだろ?」
「でも、あなたが話したがらなかったことを勝手に聞いたのは、卑怯だったわ。フェアじゃない」
ごめんなさい、ともう一度謝ると、溜め息と共に力なく乾いた笑いが返される。
「きみに話す必要はないと思ったんだ。聞いて楽しい話でもないし、最近はもう、そんなに眠れないってことはなくなってたから」
必要はない、という言葉に、ジェラルディーンの胸が僅かに痛む。
自分はやはり偽りの婚約者だ。そこまで踏み込んで欲しくはなかったのだろう。ギデオンが倒れて不安を感じたからといって、聞かなければよかった。
「じゃあ、俺が二十歳前後の女性が苦手だっていう話も聞いた?」
申し訳なくなって俯いていると、そんなことを尋ねられる。それには頷いた。
「ごめんなさい。アリスンと会わせたりして、すごく無理をしてくれていたんじゃない?」
「謝らなくていいってば。言ってなかったんだから」
膝の上で握り締めていた手に、やんわりと手を載せられる。ぽんぽんと軽く叩かれ、慰められているような気分になった。
「きみがもう三十になるっていうから、ちょっと油断してたんだ。そんなに年が離れた妹がいるとは思わなくて。何人兄弟なの?」
「六人。亡くなった子も合わせると、七人」
「それはすごいね! 俺は一人っ子だから、そんなに兄弟がいるのは想像がつかないや」
笑って明るく言うギデオンの様子に、紙のように白かった顔色に赤味が戻って来たことを感じる。ホッとした。
安堵から微笑んで見つめ返すと、視線がかち合った。
お互いになにも言えず、しばらく黙って見つめ合ってしまう。
先に視線を逸らしたのは、ギデオンだった。
肩を竦めて苦笑し、ジェラルディーンの手許へ視線を落とす。その手の中には、まだ亡夫の写真が握られていた。
「……軽蔑しただろ」
その呟きに、ジェラルディーンは怪訝に眉を寄せる。
「娼館通いだなんて。女の人はそういうの、嫌だろう?」
窺うような目つきに、慌てて首を振る。
「そんなことしない。事情があったんだもの」
これは同情などからそう思っているのではない。そうしなければならない事情があったのだから仕方がないことだ。
「娼館に通っていたからといって、あなたのこの手は、誰も傷つけていない筈でしょう? 軽蔑するようなことはないわよ」
ギデオンの手を掴んで力強く答える。
冷たい手だった。血の気が戻っていないのかひんやりとしていて、痩せ細っている。
「ねえ、ギデオン」
この手に温もりが戻らないものだろうか、と握り締めながら、ぽつりと名前を呼ぶ。
ギデオンは小首を傾げ、見つめ返して瞬いた。
「このまま、今の関係を続ける?」
躊躇いがちに尋ねると、ギデオンの瞳が困惑気に揺れる。
ジェラルディーンは苦笑し、握っていた手をゆっくりと離した。
「アリスンと会うことになった所為であなたが倒れたのなら、この関係はお互いの為にならないと思うの。利害が一致したから協力することにしたけれど、今のままではあなたに対しての負担が大きすぎるわ」
紹介を受けて少し話をしたときには、まったく知らない者同士で知り合ったのに、このままとても上手くいけるような気がした。それはなにか不思議な確信めいたもので、ジェラルディーンだけでなく、ギデオンも感じていたようだと思った。
何度か話をして、少しずつお互いの好みなどもわかるようになっていけば、意外にも気が合うような気がして、これもまた上手くいく予兆のような気がしていた。
けれど、ギデオンはこんな重大なことを少しも教えようとはしていなかったし、ジェラルディーンもまたどうしようもない秘密を抱えている。
青い顔で魘されるギデオンの寝顔を見つめながら、やはりこんな急拵えの関係では上手くいく筈がなかったのだ、とずっと考えていた。
「中途半端になってしまってごめんなさい。約束通り、ご両親のところには一緒に行くわ。でも、これ以上親密になることは、やめておいた方がいいと思うの。あなたの負担になりたくない」
この一ヶ月の間、ギデオンはよく訪ねて来てくれていた。その度に他愛のない話をして、なんとなくお互いのことを知っていくようになっていたのだが、それももうやめた方がいいだろう。
母に会うというジェラルディーンの願いは叶えてくれているので、同じように、ギデオンの両親へ挨拶することだけは果たすつもりだ。
それ以降はもう、頻繁に会うのはやめた方がいいと思う。
ジェラルディーンのその言葉に、ギデオンは悲しげに表情を歪めた。
「俺は気にしないのに」
「それでも、あなたによくない。これ以上つらい気持ちにはさせられないもの」
「きみが相手だと思ったから、我慢出来たんだよ」
今にも泣き出しそうな顔で呟く。
ジェラルディーンは首を傾げて瞬いた。
「本当は、今でも若い女の子は苦手なんだ。話をするのもやっとだし、すごくドキドキして――あ、ドキドキって、嫌な感じのドキドキって意味なんだけど」
「わかるわよ。冷や汗が出てくるような感じでしょ」
「うん。だから、アリスンに会ったときも、実は結構ドキドキしてた」
その告白には驚いた。普通に話しているように見えたし、午後のお茶の時間になる頃にはすっかりと打ち解けて、楽しそうにしているように見えたのに。
「きみの為だと思ったら、我慢出来たんだ。だからといって、すごく無理をしていたわけじゃないけど」
そう、とジェラルディーンは頷いた。
とても嬉しい言葉だった。けれど、我慢を強いていたのには変わりないので、喜んでしまってもよいものなのかどうか考えてしまう。
ギデオンはしばらく言葉を探すように口を閉ざし、そわそわと視線を彷徨わせている。
ジェラルディーンは静かにその先を待ち、その間に自分の気持ちの整理もつけておこうと、今までのことを考え始める。
ややして、意を決したようにギデオンが布団を撥ね退け、立ち上がった。
「ジェイン」
そんなに急に立ち上がったりして大丈夫なのだろうか、と不安になるところを呼びかけられ、反射的に背筋を伸ばした。
「俺は、きみのことが、結構好きだと思う」
ジェラルディーンはきょとんと見つめ返し、何度か忙しなく瞬いた。
突然なにを言うのだろう、というのが素直な感想だ。だが、何処か決然としたギデオンの顔に覚悟のようなものを感じ取り、茶化したりせずに「はい」と頷いた。
「この一ヶ月、アリスンからいろいろ言われて考えてたんだ」
ベッドの上に座り直しながら話を続けられるが、なにか引っかかることを言ったような気がする。
「……ちょっと待って。アリスンにいろいろ言われた?」
先月の末に会ったときは、そんな考え込むような話はしていなかった筈だ。何処のお菓子が美味しいとか、最近読んだ本の話題や、知り合いから聞いた噂話など、当たり障りなく盛り上がれるような話ばかりしていたと思う。
うん、と頷くギデオンは、少し気不味そうだ。
「あのあと、何度か会って……」
「何度か会って??」
そんな機会なかっただろう、と思いつつ、姉の言葉を思い出す。
この一ヶ月の間、アリスンはほぼ毎日出かけていたようだ。しかも、ジェラルディーンのところに遊びに行く、と言って。
その瞬間、すべてが繋がった。そういうことだったのか。
つまりアリスンは、紹介されたギデオンのことが気になりだし、彼の姿を捜して街中を出歩いていたのだろう。そして、会えたときには声をかけ、ちょっとでも印象づけたいと考えていたに違いない。
家族の誰かがいない場所では物凄く消極的で、舞踏会でも大抵が母の背中に隠れてもじもじしているというのに、妙なところで積極的になるものだ。
妹の行動力の突飛さに呆れてしまうと同時に、そうして付き纏われていたとしたら、ギデオンが倒れてしまっても仕方がないということに気づいた。サッと血の気が引く。
「ああ、どうしよう。ごめんなさい、ギデオン。そんな迷惑をかけていたなんて、ずっと知らなくて……」
謝って済むような話ではないのはわかっているが、そう言うしかなかった。
「だから、謝らなくていいってば。黙ってたのは俺なんだし、ジェインは悪くないよ」
卒倒しそうな表情になっているジェラルディーンの肩を掴み、落ち着かせるように笑いかける。
「それで……いろいろ言われて考えたんだけど」
話が戻された。ジェラルディーンはなんとか落ち着きを取り戻し、頷き返す。
「俺は、きみのことが好きだと思うんだ。たぶん、結構恋愛感情寄りの好意だと思う」
「…………」
「突然こんなことを言って、ごめん」
真面目な顔で言われるので本心からのことなのだろうが、ジェラルディーンは不思議で堪らなかった。
「私、あなたに恋愛感情での好意を抱かれるようなこと、してあげたかしら?」
まったく以て身に覚えがない。
一番印象に残っていることといえば、出会って早々に腹に拳を一発お見舞いしてやったことぐらいではなかろうか。
うーん、と言いながら、ギデオンは鼻の頭を掻く。
「俺もこういうことにはあんまり自信ない。ほとんど抱かなかった感情だし。でも、きみのことにとても好感を持ってるのは本当だよ」
「それだったら私も同じよ。あなたのことはいい人だと思ってるもの」
意外と気が合うし、話も弾むし、友人としては最高だと思う。
それは嬉しい、とギデオンは笑った。いつものふにゃっとした可愛らしい笑顔だ。
「恋をしているように見えないから、偽の恋人なんだろうってアリスンに指摘されて」
「……我が妹ながら、鋭いわね」
「うん。ドキッとしたよ。それで、その指摘にはまあ納得したんだよね。本当のことだったし」
アリスンから衝撃の告白を受けたのはその直後で、先の指摘の回答は有耶無耶にはしたのだが、それどころではなくなってしまった。
「今日会ってしまったときにも同じことを指摘されて。どうしてか、って訊いたんだ。なにを根拠にそう言いきっているのか不思議だったし」
どうせ「女の勘」とかなんとか答えると思っていたのだ。大抵の女性はそう答えるものだと認識している。
しかし、アリスンの答えは違った。
「俺が『ジェイン』と呼んでいるからだ、って言われたんだ」
悲しげな表情で答えられた内容に、ジェラルディーンは首を傾げる。
「だって、私がそう呼べって言ったじゃない」
なにも不思議なことはないし、家族だってみんなそう呼んでいる。変なところは一切ないし、それを根拠に恋をしていないとかなんとか、意味がわからない。
ギデオンはしょんぼりとした様子で、うん、と頷いた。
「でも、きみが心を許した特に親しい人は、みんな『ディーン』って呼ぶって。そう呼ばせてもらえていないのは、きみが俺を愛していないからだって言われて」
「……はあ?」
「それを聞いたとき、結構ショックで……。それで、あー俺って結構きみのこと好きだったんだなーって気づいてしまったっていうか」
「ちょっと待って、ギデオン。誤解よ」
落ち込んだトーンで続けられる言葉を遮り、ジェラルディーンはもう一度強く「誤解よ」と念を押した。
「私をディーンと呼ぶのは、ウィリアムと親しかった人達よ」
「でも、ブレットはディーンって呼んでるじゃないか。彼は昔からの友人で……」
「だから、ブレットも、メグ――カートランド侯爵の妹のメグも、小さい頃からの知り合いなの。その頃からの友達はみんなディーンって呼ぶのよ」
アリスンはいったいなにを勘違いしているのかしら、とジェラルディーンは腹を立てる。全然まったくそんな意味はないのに。
ジェラルディーンを『ディーン』と呼び始めたのは、ウィリアムだ。
幼い頃のジェラルディーンはとてもお転婆で、活発というよりは男勝りのような、とにかく行動的な子供だった。読書や編み物も好きだったが、木登りや駆けっこも大好きで、男の子達に混じって泥だらけになって遊び転げていた。
そんな様子を見ていたウィリアムが、ジェインというよりディーンって感じだよね、と言ってそう呼ぶようになって、その頃の知り合いはみんなそれに倣っているというだけだ。
メグと知り合ったのはもう少し違う場所でだったが、一緒にいたウィリアムがディーンと呼ぶので、同じように呼ぶようになった。ただそれだけのことだ。
「だから、気を許している人だからとか、そういうのは関係ないのよ。結婚相手のウィリアムがそう呼んでたから勘違いしたのかしらね」
そんな特別な理由など一切ない。子供の頃の習慣が抜けていないだけだ。
呆れたように溜め息をつくと、ギデオンが大きく肩を落とした。
「なんだ……。そう、なんだ……」
「そうよ。なにも深い理由はないの。呼びたければあなたもそう呼んでいいわよ、別に」
ホッとしたような様子のギデオンに苦笑を向け、ハッとする。
時刻はもう深夜の二時を過ぎているではないか。
「もうこんな時間だわ。明日起きられない」
言われ、時計を見たギデオンも頷いた。しかし、今まで寝ていたので、そんなに眠いとは感じなかった。
「俺、ソファに行くよ。ベッドは使って」
「いいわよ。病人がベッドを使うべきだわ」
立ち上がろうとするギデオンをベッドに押し戻し、畳んでおいた毛布を抱える。
「今夜はこのまま寝て。それで――」
布団の中に戻るギデオンを見守りながら言いかけ、言葉を途切れさせる。
ギデオンは首を傾げてその横顔を見上げ、続きを待った。
逡巡したあと、小さく息を吸い、ジェラルディーンはもう一度口を開く。
「明日もしも時間が許すなら、私の話を聞いて欲しい」




