9、崖っぷち
後ろからの気配に気が付かなかったのは、完全にミスだった。ボリスの心臓は驚きでドン、と跳ね上がった。動きをぴたりと止める。
「何やってんだ?」
心臓がばくばく、と早鐘を打った。いつか聞いたときと随分違う声色だったが、すぐにあの酒飲み男だと分かった。なるべく顔を見ないように、平静を装ってボリスは答えた。
「何でもねえよ」
ふーん、と男は相槌を打った。その真意は分からなかったが、男の追求はなお止まなかった。
「何でもない、ね。ならその手に持ってるのは何だ?」
辺りは暗いはずだったが、男はボリスの右手に持つナイフに目ざとく気づいた。ボリスは男に背を向けていたが、話している声だけで、圧倒されそうなほどの威圧感があった。
「てめーには関係ねーだろ」
精一杯の虚勢を張って答えた。男がゆっくりとボリスに近づいてきているのが、足音で分かった。恐怖を感じたボリスは、咄嗟に振り返った。大柄な身体は、黒い外套に覆われている。男が歩いている場所を丁度街灯の光が照らしだした。黒い外套の中に、黒い制服が見えた。町でよく見るその色は、ボリスもよく知る服だった。
――警察!?
「それはお前がやろうとしていること次第だ。質問に答えろ。その手のものを、お前は一体何に使うんだ?」
警察。そう聞くと、条件反射で逃げる。それがこの町に住む不良少年たちの暗黙のルールだった。警察の奴らはもっと大きな犯罪、例えばテロにかかりきりだ。町の少年たちなど範疇にない。だが一度捕まったら最後、北の果ての施設へ送られる。そうまことしやかに囁かれる噂を、ボリスが知らないはずは無かった。
終わりだ。どこかでそんな声が聞こえた気がした。男の足音は、ゆっくりと近づいてくる。
「答える義理はねえ」
ボリスは右手のナイフを強く握りしめた。男はフン、と鼻を鳴らした。
「なら、力ずくで奪う」
「やってみろ!」
振り返り、ボリスは叫んだ。こうなりゃ破れかぶれだ。やけくそで突きつけた刃を見て、男は動じた様子も見せなかった。
「やんのか?お前みたいなガキ、素手で十分だ」
あのパン屋の男とやり合ったときに、逃げ方は分かった。重心はできるだけ低くして……
男の手が伸びてくるのをしゃがみこんでかわすと、ボリスは男の足の間に転がり込んだ。背中側に回り、男と距離をとった。後ろには壁。ナイフを両手に構える。右に通路への行き場がある。男は振り向き、「この野郎」と悪態をついた。
「観念しろ。もう逃げられん」
男はボリスが左手側に逃げようとするのを防ぐように立ちふさがった。できるだけ落ち着いた声で、刃のような少年に尋ねた。
「どうしてそう抵抗する?」
ボリスはぎっ、と男を睨んだ。
「目障りなんだよ。どいつもこいつも、俺の邪魔をしやがって」
そうだ。こいつじゃないか。俺みたいな奴に、いちいち突っかかって、説教して、パンなんか分けてきやがって。何考えてんだ?なんでこんなとこにいるんだ?
「何が真っ当に生きろだ!分かったような口を聞くな!」
「んだとぉ?」
男はそれを聞いて、肩眉を上げた。拳を握ると、バキバキと鳴らした。
「それを聞きゃ、なおさら逃がすわけにはいかねえ」
男が大きな一歩で、距離を詰めてきた。ボリスに向かってまっすぐ振り下ろされる手。あのパン屋の男が棍棒を振り下ろす姿と、それは重なって見えた。さらにそれは鞭を振り下ろす孤児院の大人の姿とも混じり合い、ボリスの身体は一瞬硬直した。瞬間的な恐怖を覚え、息が止まりそうだった。
「やめろ!」
思わず目をつぶって、思い切りナイフを振り回した。無我夢中で振った。ナイフは虚しく空中を舞ったと思ったが、不意に動きは止められた。ボリスは思わず目を開けた。
ボリスの手に、ぽたりと血が滴った。男は大きな手で、刃ごとナイフを鷲掴みにしていた。ボリスはぎょっとして、ナイフを抜こうとした。だが、ナイフはびくともしない。
「おら」
男が左手でボリスを思い切り押した。思わずナイフを手放したボリスは、後ろに吹っ飛び、尻餅をついた。落ちた衝撃で、鞄の口が開いた。男が何かを言おうとしていたが、無我夢中で鞄の中を引っ掴み、中のものを男に向けた。
男はボリスが出したものに、さすがに目を見開いた。拳銃はまっすぐ、男の頭に向かってその銃口を向けていた。
「近寄んじゃねえ」
小さな手で引き金に指をかける。お守りみたいに持っていたあの銃。この銃で撃ったら、どうなる?わずかに恐怖を感じるが、もう後には引けない、そんな思いだけが彼を突き動かしていた。男は唖然とした様子でボリスを見ていた。複雑そうな、一瞬だけ悲しく歪んだ顔が、街灯に照らされてボリスの目に写った。
「お前。そんなもん、どこで手に入れた?」
男の声には、確かに怒りが滲んでいた。ボリスは答えなかった。銃口をまっすぐ男に向け、決して目を逸らさなかった。男は立ち上がると、右手に持ったナイフを後ろに投げ捨てた。銃口に向かってずんずんと歩み寄ってくる。ボリスが後ずさるが、男はそれよりも早かった。血のついた手で銃身を掴むと、それを自身の胸に押し当てた。
「やってみろ。その引き金を引いて、俺を殺してみろ!」
男はまっすぐボリスの目を見て、そう言い放った。ボリスは呆気にとられた。その声に圧倒され、悪態も出てこなかった。「いやだ」完全に怖気づいて、銃口を引き下げようと引っ張ったが、男は手を放さなかった。
「目を逸らすな、自分のしてることから。お前は一生そうやって生きんのか」
「なんだよ、何がわかる!てめーに」
「お前の事情なんざ知るか。俺は怒ってんだ」
男は怒りを落ち着けるように、ゆっくりと息を吐いた。
「俺は知ってるぞ。お前は、もう悪いことはしたくねえ。そう言ったろ。それは嘘じゃねえんだよな?」
その言葉に、ボリスは目を見開いた。
「なんで」
「こんなもん人に向ける度胸があんならよ、なんでそれを、誰かを守るために使わねえんだ!おい!」
誰かを守るため?
ボリスは見開いた目を、男にずっと向けていた。まっすぐと放たれる言葉は、彼の胸の中のどこかに刺さった。今まで体験した色んな事が頭の中を駆け巡り、かき混ぜられるようだった。こんな大人に、ボリスは今まで会ったことが無かった。なんでこんな事言うんだ?見ず知らずの俺なんかに?
ふと灯りが灯るように、ウラジの顔が浮かんできた。あの悲しそうな顔。そうだ、俺、なんでこんなことしてるんだ?
リーダーに言われた時、なんでウラジを守ろうとしなかったんだろう。あいつ、あんなに良くしてくれたのに……
身体から少しずつ力が抜けていくのを、ボリスは感じた。張っていた肩ひじは抜け、ボリスは小さい身体を丸めるようにへたりこんだ。男はその様子をじっと見ていた。もうその顔に、怒りは滲んでいなかった。代わりに少しだけ安堵したような息を漏らすと、血の出ていない方の手で、ボリスの肩をちょん、と小突いた。