10、俺にできること
あれからボリスは男に連れられ、警察署へと向かった。今までのことを全部白状したのだったが、彼の年齢は警察法で裁く基準には達していなかったため、北の施設行きにはならなかった。とはいえ、近頃青少年による犯罪が町でも大きな問題になっており、近々警察による取り締まり捜査が入ることになっているようだった。そういう理由でボリスもその処遇をめぐって数日は拘束を受けた。だが幸いにも牛乳屋がちょうどいいところに、配達小僧を探しているという話があった。ボリスはしばらくは警察の保護監視付きで、そこに厄介になることになったのだった。
その日もやはり、ボリスは走っていた。目的地は決まっていた。路地を右へ左へ抜け、塀をよじのぼり、ごみ山へと向かった。見慣れた住居人の姿を後ろに見かけ、ボリスは歩を緩めた。
ウラジはやはり1人で、その日釣って来たらしい魚を焼いているところだった。
「よお」
後ろから声をかけると、ウラジは勢いよく振り向いた。あんぐりと口を開け、「ボリス」と驚いた声を出した。
「よく来たな」
困ったように笑う声に、ボリスは答えなかった。代わりにズボンのポケットを探り、中に入っていたものを見せた。
「それ!」
ウラジが目を見開いた。それは小さな女性ものの櫛だった。陽の光に浴びて、金色の折り目が光って見える。高級な品であることは、間違いようが無かった。
「失くしたと思ってた。なんでお前が持ってんだ?」
「……スッたから」
スッた?いつ?とウラジはまだ驚きを隠せていなかった。
「最初に会った時」
ボリスは櫛を投げた。櫛は宙を舞い、ゆるやかに弧を描く。そしてはそれはするりとウラジの手に収まった。ウラジは櫛を隅々まで眺めて、どこも欠けてないことに安堵の表情を見せた。
「これ、母さんの形見なんだ」
その言葉に、ボリスは複雑そうな表情を浮かべた。俯いて、小さな声で告げた。
「俺はこういう奴だ。スリも強盗も、リンチもやった」
ボリスは今までの経緯と、警察に捕まったことを話した。ウラジはボリスの言葉を黙って聞いていた。こいつはどんな顔をしてるのだろうか?軽蔑されたのだろうか。地面を見ているから、それは分からなかった。しばらく何と言うべきか、ウラジは考えているようだった。快活な声はうーん、と悩まし気な様子を見せると、ぽつりと呟いた。
「それは、怖いなあ」
あまりに呑気な調子に、は?とボリスは顔を上げた。
「本当に思ってんのか?」
思わず返すと、ウラジは「はは」と笑った。
「本当だよ、怖かった。ナイフ突きつけられたのは。でも」
焦げそうな魚の焼ける匂いは、ずっと辺りに漂っていた。ウラジは串に刺さったそれを一つ一つ丁寧にひっくり返した。
「なんかお前、泣きそうな顔してたからさ。きっと誰かに脅されてんだろうなって」
なんだそれ。どんだけお人好しなんだ?こんな時どういう顔をすればいいのか、ボリスにはよく分からなかった。こいつは誤解してる。俺は、お前が思うほどいい奴でも何でもない。スッたのは売って金にしてやろうと思ったからだ。そんな風に考えるボリスをよそに、ウラジは鋼でできた右膝から下を、ぽんと叩いた。
「だからまあ、俺の義足くらいで済むならそれはそれでいいかなって。まあ、無いとちょっと困るけどさ」
「良くねえよ。全然良くねえ」
ボリスはウラジの言葉を遮った。何も悪事をさらけ出すためだけにここへ来たわけではなかった。ボリスは地面に座ると、ウラジと同じ目線になった。意を決してウラジの目を見る。空の色と同じ淡い色が、目に写った。
「俺は今日は言いに来たことがある。もう盗みはやめる」
今日はナイフは持っていなかった。あの銃も、もう取り上げられた。ねぐらの奴はどうなったのか?それはボリスにも分からなかった。彼は手ぶらの両手を広げてみせた。
「悪いことしたと思ってるよ。あれから色々考えた」
ウラジのあの泣きそうな顔。俺はきっと傷つけたんだろう、こいつを。もうあんなの、御免だ。
「俺は二度とお前を傷つけない。お前の足でも何でも、狙う奴がいたら俺がぶっ飛ばしてやる」
「ぶっ飛ばすって……」
その言葉が可笑しかったのか、あまりに真剣な様子にか、ウラジが苦笑した。ボリスは、今度は少しだけ躊躇った。でも目は逸らさなかった。
「だから俺、お前と友達になりたい」
魚が焼ける音は、まだぱちぱちと鳴っていた。ごみ山からはオイルの匂いが漂っていたし、ウラジからも同じ匂いがした。いつも笑顔の絶えないウラジだったが、この日は少しだけ様子が違っていた。少しだけ困ったように下げられた眉がボリスの目に入り、それは彼を僅かに不安にさせた。
「そう言われてもなあ」
ウラジはちょっと拗ねたような、不満気な顔になった。焼きあがった魚の串をボリスの前に突きつけ、ウラジにしてはややぶっきらぼうに返した。
「俺、とっくに友達だと思ってたんだけどなあ」
「悪かったよ」
ボリスがしゅん、と肩を落とすと、「冗談だよ」とウラジは笑った。最初に会った時と同じように隣に並ぶと、ボリスはやはり、あまり綺麗ではない食べ方で魚にかぶりついたのだった。
***
それから2人はひとしきり話し込んだ。今まで正直に言わなかったこともたくさんあったが、今度は全部話した。ウラジは実にあっけらかんとしたもので、ボリスの話を笑って聞いてくれた。そうして話はボリスがねぐらを飛び出したあの日のことになった。
「ああ、あの時?そう、実はな」
ウラジがごみ山にいなかった理由を聞くと、彼は「言ってなかったっけ?」と首を傾げた。
「これこれ」
そう言うと、ウラジは右足の義足を指さした。ズボンの裾をめくって見せると、黒い鋼の義足が右膝の下から地面に向かって伸びていた。いつか見たものと同じ。ボリスは目を凝らしてみるが、特に変わったところは見受けられなかった。
「金ちょっとずつ貯めててさ。たまに義足屋に行ってんだけど、今回はちょっといい奴に改良してもらった。慣れたら、走れるようになるかもしれない」
ウラジは嬉しそうに、右足を動かしてみせた。その割にはぎこちない動きなのが気になるが、こいつがそう言うならそうなんだろう、とボリスは納得した。
「俺、お前が走ってるとこ見るの好きなんだよ」
いつもの快活な笑顔で、ウラジはへへ、と笑ってみせた。ボリスはいぶかしげな顔になった。俺?
「お前、すっげえ運動神経いいだろ。ジャンプとかもすげーし、あんなすばしっこいの俺見たことねーもん」
そうか?とボリスは首を傾げた。足は速い方だと自負してはいたが、そう面と向かって褒められるのに慣れてないボリスは、なんとなくこそばゆいような感覚を覚え、返答に困った。
「別に大したことねーよ」
「あるよ。お前はまあちょっと、いやけっこう不器用だけどさ」
ウラジは悪戯っぽく笑った。
「お前にはできるんだ、俺にはできないことが」
そう言うと、ウラジは鋼の足をこん、と叩いた。
俺にできること?
ウラジからこんな言葉を聞くなんて、思ってもいなかった。なんでもできる奴だと思っていたから。足が無いことなんて平気だ、みたいな顔をいつもしてたじゃないか。
ボリスは地面に視線を落とすと、己の足に目をとめた。この足は、盗みくらいにしか役に立たないと思ってた。この手も、そうだ。
――なんでそれを、誰かを守るために使わねえんだ。
あの男は、強い。ボリスの力なんてびくともしなかった。どうすればあんな風に強くなれるんだ?心も、身体も。ごみ山を後にしたボリスは、ウラジの言葉を噛み締めるように何度も反芻し、何度も繰り返し呟いた。俺にできること。俺にできること。




