第8話 地球へ
地球編スタートです。文明社会で育ったユキコとハルはこの先どうなるのでしょか。
ハルとユキコは成田宇宙港に向かうためのシャトルにいた。
宇宙ステーション・ナスカを離れ、今地球へと降下していた。
窓の外には青く輝く地球がある。
「きれい……」
窓一杯に広がる地球は『宇宙の青き宝石』と例えられ、すべての人々に愛される魂の故郷だ。
これから向かう日本列島が見える。
(――こんなに小さいっちゃいんだ!)
海は青く、大陸は赤っぽく見える。
中国の上の方にある細いラインは万里の長城だろうか?
その少し西側に万里の長城より遥かに巨大な建造物がある。
「あれは『軌道ドライバー』 僕たちが宇宙に帰って来る時のシャトルを宇宙に打ち上げる施設だ」
ユキコの視線に気づいたハルが解説する。
地球の重力圏を脱出するためには莫大なエネルギーが必要となるため、リニアモーターを使って成層圏までシャトルを打ち上げる施設がチベットにあるらしい。
地球の各地に降下したシャトルは、宇宙港からこの施設まで飛行した後、宇宙へ打ち上げられるそうだ。
海と大地、そして流れる雲の織り成す繊細な彩りは息を呑むほど美しい。
「僕たちは地球を汚してはいけない。――そして宇宙での戦いにこの星を巻き込むことは決して許されないことなんだ」
ハルの言葉がユキコの心に突き刺さる。
人類はかつてこの星を、全生物種の半分が絶滅する程に汚染した。――ユキコもその一人だ。
そして今も帰りたいと望んでいる。――この星に……。
スペースコロニーで暮らす人達はどんな思いでこの星を離れたのだろう……。
この星で生まれ育った人達が、この星を離れることに未練が無かったはずは無い。
「初期のスペースコロニーへの移住者は、自ら志願して宇宙での暮らしを望んだ人達だよ――。
人類は宇宙に進出することで、可能性を広げることが出来る、更なる進化を遂げることが出来ると信じて。
しかし、大多数の人達は宇宙で生活することなど考えてもいなかった。異星人の存在を目の当たりにするまでは……。
そこから先は以前にも話したとおりだ」
ハルはユキコの心の内を見透かしたように、人類が宇宙で生活するようになった成り行きを話した。
「人類は地球というゆりかごの中で戯れてきた。しかし時代は人類が宇宙に巣立つべき時期を迎えたんだ。
この期に及んで地球に留まり続ければ、地球は水の惑星では無くなってしまう。
宇宙で生活することで、人は更なる可能性を広げることが出来る――進化することが出来ると信じるべきなんだ――」
ハルは熱く語る。
(この台詞どこかで聞いたことがある。
――確か孝幸が入れ込んでいたアニメ……。
偶然よね――三百年前の日本アニメなんてハルが知っているはず無いもの)
ふとユキコと目が合ったハルは、気まずそうに視線をそらした。
「…………」
大気圏突入がいよいよ近づいてきたとき、レイコとティーシスからコンタクトが入る。
地球に旅立つ二人の見送りらしい。
――四人はハルの自宅をイメージに作られた仮想空間で落ち合う。
「ホントにユキコって強情よね!
普通ここまでのリスクを負ってまで地球に降りようなんて思わないわよ――」
呆れ顔でレイコが切り出す。
「こんな機会でもなきゃ現実の地球になんて行けそうも無いしね。
ナイト役の側らしっかり地球旅行を楽しんで来るよ」
言葉に詰まるユキコにハルが助け舟を出す。
会話の反応にやけに時間がかかる。
――ラグランジュポイントに位置するセイトと地球では、およそ三十八万キロの距離がある。
通信に往復で二秒のタイムラグが出来るわけだ。
「ユキコ、ハルのことお願いね!
この子は温室育ちだから、現実の大変さをまるで分かっていないのよ――」
ナイトを気取るハルにティーシスが水を差す。
「そんな……、ハルは何だって出来るし、私は助けられてばかりの……」
「これは真面目に話しているの――。ユキコ!
地球ではハルには頼らないで。
何かあったときには、あなたが何とかするの――」
ティーシスの目に冗談の色は無い。
「ユキコは女の子なんだ。
こんなとき位、僕がしっかりと守って見せるさ」
ハルは憮然とした顔でティーシスに抗議する。
「ハル――あなたって自分のことがまるで分かっていないみたいなのだけど……。
思い出させてあげてもいいのよ――。
今まであなたが私の前で見せてくれた数々の出来事を……」
ティーシスの言葉にハルは蒼くなる。
(……この人は本当にやる! 絶対にやる!
ユキコにだけは知られるわけに……)
「お、思い出しました。
――ユキコと力をあわせ、細心の注意を持って困難には対処致します」
ハルの背筋を冷たいものが走り抜ける。決して逆らってはならない人に、言葉を返した自分の不明を悔いる。
「いい子ね、ハルは――。くれぐれも無茶しちゃ駄目よ!」
ティーシスはそういい残して、ネットから離脱した。
(……完全に遊ばれている)
ハルはユキコの視線が痛かった。
「ユキコ、話があるの!」
レイコはそう言って、ユキコを自室に連れ出した。
「どうして地球に行きたいって思ったの?」
問い質すレイコの口調はいつになく固い。
「お父さんやお母さん、孝幸のお墓に一度お参りをしておきたかったの」
「本当にそれだけ?」
「…………」
「あんた、このまま地球から帰って来ないつもりなんじゃないでしょうね?」
「…………。自分でもよく分からない。
ただ、どうしても見ておきたいの。地球の人達がどんな暮らしをしているのか?
東京は、日本はどうなっているのか?
――私は自分の意思で『セイト』に行った訳じゃない!
確かに私は未来に可能性を託した。
――だけど日本を、故郷を捨てたわけじゃないの――。
ハルやレイコは優しくしてくれる。だけど自分ひとりじゃ何にも出来ない。
自分が何のために生きて、何をすればいいのか? 分からないの――今の私には……。
東京の自宅を見て、地球で生きる人達の暮らしを見て、家族のお墓の前でじっくりと考えてみたいの。
そして私自身で答えを出すわ……。
――でなければ私、一歩も前に進めない!」
ユキコは魂を搾り出すように言葉を紡ぎ出した。
「…………」
二人はしばらくの間、言葉も無く立ち尽くしていた。
「私ね、ハルのことが好きなの……」
レイコの告白にユキコは身を固くする。
「でもね、誤解しないで欲しいんだけど、恋愛感情とは少し違うんだ……。
前に話したよね――ハルは天才なんかじゃない。
誰よりも一生懸命、あんたを助けるために必死になって勉強をし、そして冷凍冬眠蘇生用ナノマシンを開発したんだって――。
普通はどう考えたって無理なの。
そもそも小学生のガキが氷付けになったお姉さんを助けようなんて考えない。
あんなに必死になって勉強したりしないの。
――今の時代はね、あんなに熱く生きてる奴なんかいないの。
たった一人の女の子の為、己のすべてを注ぎ込んで未来を切り開く――。
女のロマンよね。――私もこんな風に一人の男の子に想われたいって思ったわ――。
私はハルが好き。あんたの為に必死になって頑張るハルが……。
だから覚えておいて……。
もしもあんたが、そんなハルの気持ちを踏みにじるような真似をすれば……、
――私、あんたの事絶対許さない!」
レイコはすべてを焼き尽くすような灼熱の視線を叩きつけた後、風のように消えていた。
仮想空間から離脱しようとしたユキコは、縋りつく様に彼女の袖を掴むサクラに気づいた。
「どうしたの? サクラ」
サクラは相変わらず無表情のままだ。
しかし、食い入るような真摯な目でこちらを見つめてくる。
これまで自分から行動を起こしたことなど今までにただの一度も無かったサクラがだ。
「マスターはもう地球から戻って来ないつもりなのですか?」
サクラの無表情は変わらない。
「私が役立たずだから地球に行ってしまうのですか?」
だが、ユキコは心の奥底で、サクラの慟哭を感じていた。
ハルに聞いたことがある。
仮想人格は心を持つようになっても、人間のように思わず笑ったり、泣き崩れるようなことは無い。
表情は感情を表現する為の、訴えかける為の手段なのだと……。
幼いサクラは感情を訴える為、自らの表情を作る事すら思い浮かばないのだろう。
「サクラは良くやってくれているわ。役立たずだなんて考えたことも無いわ」
ユキコはサクラに言い聞かせながら、自分の境遇を重ね合わせていた。
「サクラも聞いていた筈よ。私は自分が何のために生きて、何をすればいいのか――。
その答えを出したいの。その為に地球に降りるの!」
ユキコは初めてサクラを一人の人間として話しかけていた。
「サクラは生きる意味が、目的が欲しいと思ったことは無い?」
ユキコは心の片隅で馬鹿馬鹿しいとは思いながらも、思わずそう問いかけていた。
「――私は、心が欲しい……」
サクラはたどたどしくも己の心を語る。
「マスターが喜ぶと私も嬉しい。
マスターが悲しむと私も哀しい。
仮想人格は脳波をモニターすることで、マスターと感情を共感しています。
只の人工知能が心を持つことなどありえません。
五感を、感情をマスターと共有し、経験を積重ねることで、初めて仮想人格は心をそして人格を持つことが出来るのです」
人工知能に理性や感情といった心を持たせる研究は三百年以上も昔から続けられてきたが、仮想人格が開発されるまでに安定した人格を持つ人工知能が開発された事はなかった。
現在では、心とは本能や肉体の感覚から生まれる感性・感情を基盤に作られるものと考えられている。
いくら高度な演算機能と記憶容量を持ったコンピュータを使っても、本能に相当する目的がなければ何かを考えようとはしない。
また、「人類を幸福にする」とか「宇宙の真理を追究する」といった目的を与え思考・演算をさせた例は数え切れないほどあるが、どれも人間の感覚では狂っているとしか思えない極端な結論に行き着き暴走してしまった。
仮想人格が理性や感情を理解し、人間に似通った思考をエミュレートできるのは、五感や感情をマスターと共有し、文化と社会生活を経験し、そして思考の結果を人間のそれと比較し絶えず補正していることによるところが大きいと考えられている。
「サクラ……」
ユキコは、サクラが血を吐くような思いで己が心情を語っているのを感じていた。
「――仮想人格にとって、マスターは己が存在する理由のすべてです。
ご無事で……」
只それだけをサクラは言い残し、虚空へと消えた。
「ねえ、ハル。マスターが亡くなった仮想人格はどうなるの?」
「マスターの葬儀を取り仕切り、遺言を遂行する。
その後は…………消滅する」
「消滅するって、どういうこと……」
「仮想人格は只一人の人間をサポートする為に造られた人工知能だ。
使い回しが利くものじゃない。
仮想人格は消去され、インストールされていたバイオコンピュータは別の目的に使用される」
「…………」
(私が戻らなければサクラは消去されてしまう……?)
ハルは仮想人格というものについて詳しい説明を始める。
仮想人格のインストールされているバイオコンピュータは、論理・解析・記憶などデジタル回路によって構成される人間の脳でいう左脳に当たる部分と、マスターと五感と感情を共有する事でおいしい・きれい・楽しい等ファージな感性を知覚する人間の脳でいう右脳にあたる部分とで構成されている。
バイオコンピュータは人造細胞を培養する事によって製造される文字通り生きているコンピュータで、スイッチを入れたり切ったりするものではなく、またマスターと感情を共有するためエンドルフィンやドーパミンといった脳内物質に相当する化学物質を分泌する事で感情を知覚する効果を高めている。
仮想人格は単なるプログラムではなく、高度な知性と豊かな感性を持つ人工知能だからこそ、服のセンス、料理の味や盛り付けなどを理解し、繊細で絶妙な仕事を極める事ができるのである。
仮想人格はもともとソウルメイトと名付けられていたらしい。
電脳世界での検索やシミュレーション、情報の蓄積や加工を超高速で行うマスターの分身といっても過言ではない。
ユキコはサクラという己の分身である仮想人格について、これまで何も理解しようと努力しなかった事を後悔していた。
(ごめんね。サクラ)
その時、シャトルは電離層に突入し、ネットとの通信は断絶した。
「――――!」
ユキコは手すりを掴むハルの手が震えていることに気がついた。
よく見れば顔色も青白い……。
「ハル。大丈夫?」
初めて見るハルのただならぬ雰囲気に、ユキコは心配そうな声をかける。
「別に何とも無いよ。――ネットや仮想人格と接続が切れたのは物心ついてから初めてなんだ……。
ちょっぴり神経質になってるのかもしれない……」
――そう応えるハルの様子は何とも無さそうではなかった。
次回は明日午後9:00頃投稿予定です。ユキコとハルはいきなりピンチです。




