第9話 狼の襲撃
「いやー、あんた達の入国申請書類を見たときは、びっくりしたよ!
片や、三百年の眠りから目覚めた日本フィギュアスケート界のアイドル。
そして星人ティーシスからの特別依頼ときた。
こんな片田舎の入国審査官なんて、ろくに仕事もありゃしねーからなー!」
ハルとユキコの入国審査担当者は、審査の後二人を是非にと食事に誘った。
うだつの上らない四十男だ。
明朝の出発を予定していた二人は、情報収集も兼ね、この男の申し出を受け入れた。
「俺は、ギュスター・クリュンギス。
日本の入国審査と社会調査・統計資料作成を担当している」
ギュンターはユキコと握手を交わし、馴れ馴れしくも彼女の肩に手を置いた。
ハルのこめかみに青筋が浮かび、この男に対する友好度は氷点下に下がった。
「入国審査官の仕事なんて、顔なじみの学者さんか、環境保護団体の調査官位しか見たこと無かったから、地球統合政府から直々の特別認可証を承った日にゃー何事かと思ったぜ!」
男は品の無い口調でまくし立てる。
一行はレストルームのテーブルに着き、それぞれ食事を注文する。
「今の日本の社会って、三百年前と比べてどんな風に変わっていますか?」
ユキコが一番感心を持っているのは、そのあたりに違いない。
「まー何もかも変わっちまってると思ったほうがいいだろうなー。
地球じゃー政府関連施設と特別に許可を得た環境調査研究所以外、一切の工業製品持込が禁止されている。
生活は豊かとはいえねーな。
しかしまー、住んでる人間は素朴で気のいい奴等が多い。頑固で迷信深い所はあるがな。
よそ者のあんた達は少し気をつけた方がいいかもしれん。連中は閉鎖的な所があるからな」
「よそ者って……」
ギュスターの言葉にユキコは言葉を詰まらせる。
「奴等が地球に残ってる理由は、宗教的な理由だったり先祖代々生まれ育った土地への愛着だったり様々だが、自然主義者的な考えを持っている奴が多い。
宇宙で生活する人達に好感は持っちゃいない。
中には『神の教えに背く輩』と嫌悪する者もいる。
お譲ちゃんは日本人だというが、三百年間冷凍冬眠処置で眠り続けた女の子を連中がどのような目で見るかは、正直俺にも予想がつかない」
「僕たちは日本の村で生まれ育った様に振舞った方がいいってことですか?」
ハルは見知らぬ社会に踏み込む不安から、そう尋ねた。
「そりゃー無理だろ。日焼けしていない白い肌、繊細できれいな手、スマートな体格――。
一目で分かるよ、文明社会の中で育った人間だって。
ここの連中は、厳しい自然の中を耐え忍んできた奴等だ。
太陽の下で働けば日に焼ける。土にまみれて働き続ければ手は荒れる、骨は太くなる。体つきだって頑丈で太短い」
「…………」
ユキコは無言で唇を噛み締めていた。
「あんた達は何をする為にわざわざこんな所までやってきたんだ?」
ギュスターは些か呆れた様子でそう訊ねた。
「……自分の生き方を決める為です。
ここで暮らす人達の生活を見て、自分が生まれ育った場所がどうなっているのかを確かめて、家族のお墓にお参りをして、今までの自分の気持ちにけじめをつけます」
ユキコはきっぱりとそう告げた。
その目は戦場へ赴く侍を連想させた。
「このあたりにゃー狂犬病にかかった狼がたくさんいる。
地元の人間ですら陸路を徒歩の旅なんか絶対にしねえ。
それを承知で行くのか?」
ギュスターの言葉にユキコはこくりと頷いた。
「勇ましいお姫様だねー! こりゃーナイトも大変だ。
せめてもの餞別にこれをやるよ。――関東地方の動植物分布図だ。
自生している山菜や薬草の品種と魚や動物の生息地が載っている」
山菜の自生している場所や動物の生息地は、衛星写真では分からない。
この申し出はありがたかった。
ギュスターは無骨ではあるが、気のいい男だった。
ハルはギュスターへの友好度をほんの少し修正した。
その日二人は夜遅くまで現在の地球について、ギュスターからいろいろと教わった。
夜明けと共に成田宇宙港を出発したハルとユキコは、最初の目標地点である河川沿いの地――佐倉の印旛沼を目指して歩いていた。
服装は厚手のレザーを上下に着込み、皮手袋も装着している。
ユキコは護身用に木刀を携帯している。
バックパックにまとめた荷物はハルの物が五十キロ、ユキコの物が三十キロある。
二人の息は荒く、既に汗だくになっていた。
時間は午後三時前後、そろそろ夜営場所を探し始める時間だ。
現在位置は宗吾参道の手前。ハルの瞳に焦燥の色が浮かぶ。
――日没までに佐倉にたどり着くことは出来そうに無い。重装備での山道は予想以上に疲労し、時間もかかった。
しかし、山中での夜営は何とか避けたかった。夜行性の肉食獣、狼を惹き付けてしまうから……。
「ユキコ、大丈夫?」
夜明けからの強行軍だ。お互い疲労はピークに達している。
「私は平気……。ハルの方こそ重たい荷物背負わせちゃってごめんね」
ユキコは流れ落ちる汗を拭いながらも、けなげに応える。
「もうそろそろ夜営の準備に入らないといけない。
なんとか佐倉までたどり着きたかったけど、このペースじゃ諦めた方が良さそうだ。
使えそうな廃屋か山小屋が無いか注意しておいてくれ。テントでの夜営は出来れば避けたい」
ハルの呼びかけにユキコが頷く。
しかし、あたりには夜営に使えそうな場所はまるで無い。
――厳しい夜になりそうだった。
結局、夜営に適した廃屋は見つからなかった。
夕食を済ませた後、交代で焚き火の見張りをすることとなり、今はユキコがテントで眠っている。
ハルは焚き火の見張りをしている。
狼の遠吠えが聞こえ、あたりからはこちらの気配を伺う動物たちの足音が聞こえる。
この火が消えてしまえば、狼たちは襲ってくるだろう。
――ハルは夜の闇にこれ程までの恐怖を感じたことは、今まで一度も無かった。
ユキコが見張りをしていた時間、ハルは一睡も出来なかった。
肉体は疲れきっている筈だが、胸を締め付けるような恐怖が彼の精神に休息を与えてくれなかった。
ユキコは疲れきって眠っているようだ。
交代の時間はとうに過ぎていたが、狼達が近くを徘徊している今、交代することは躊躇われた。
交代したとて、ハルは眠ることなど出来ないし、疲れ果てたユキコを怯えさせる事はできない。
(薪は明日の朝まで持つだろうか?
初日からこんな有様で無事に旅を終える事が出来るのだろうか?)
辺りを覆う森の木々が薄気味悪い。風が鳴らす木の葉の音さえハルの心をかき乱す。
(一体どうしてこんな事になってしまったのだろう)
予測されるあらゆる危険に対し策を講じ、必要なシミュレーションは仮想空間で体験した。
今日の野営とて予測の範囲内に過ぎない。
しかし、これほどの恐怖と疲労感は全く想定していなかった。
無理やりにでも休んでおかなければ明日からの活動に支障をきたす事は目に見えている。
(ユキコはどうしてこんな状況で眠れるのだろう?
疲労が激しすぎて意識を保っていられないのだろうか。
――いや、そんな様子じゃなかった。
僕よりは精神的にゆとりがありそうに見える。
ティーシスの指摘はやはり正しかったのだろうか。)
安全で快適なスペースコロニーで生まれ育ったハルは、これまでに現実の恐怖というものを一度たりとも経験した事がなかったのだ。
『ひゅ――――!』
突然勢いを増した突風が焚き火を吹き消した。
心臓を鷲掴みにされたような恐怖がハルの全身を締め付ける。
ハルは何とか火を熾そうと、消えかかる熾火に息の続く限り酸素を送り込む。
全身からいやな汗がしみ出し、酸欠で目がかすむ。
しかし、一度消えた炎は直ぐには勢いを取り戻さず、周囲を徘徊していた獣達は包囲の輪を縮めひたひたと忍び寄る。
「ユキコ! 起きて――! 狼が襲ってくる」
ハルは声の限りにユキコを呼び起こし、迫り来る狼を撃退すべく、薪を持って立ち上がった。
「ひ――――!」
先ほどまで焚き火を見つめていた目は、暗闇に順応することが出来ず、あたりの景色は輪郭しか掴めない。
心臓は嵐のように鳴り響き、湧き上がる焦燥感に冷や汗が滝のように流れる。
背中越しにユキコがテントから飛び出してくる音が聞こえた。
「ユキコ、焚き火を頼む。早く火を熾して!」
ハルは恐怖に震える声で、なんとかユキコに指示を出す。
狼が近づいてくる気配を感じながらも、暗闇に順応しきれていない目はその姿を捉えられない。
ハルは近づいてくる狼達に向かって、無茶苦茶に薪を振り回した。
「グッー!」
手に狼を打つ感触が伝わる。
しかし、低いうめき声を上げた狼は次の瞬間、飛びかかってきた。
ハルは何とか振り払うものの、次の一匹に足を噛まれ地面に引き倒された。
倒れたハルに狼達が襲い掛かる。
一匹を殴り倒すも、次の狼がそしてまた次が……。
(――もうダメだ!)
目の前に迫る獣の吐く熱い息が顔にかかる――。
獣の顎は差し迫り、白い牙は間近に迫った死を予感させた。
「ユキコ!逃げて!」
ハルは声の限りに絶叫した。
「ギャンー」
一匹の狼が倒れ伏す。
「どきなさい!」
狼達の動きが凍りついた。すべての視線がユキコに集まる。
月光の下で八相に木刀を構えるユキコは、炎のような気迫に包まれていた。
ユキコは隙の無い構えのまま、ハルに近づいてゆく。
狼達はユキコの迫力に気圧され、じりじりと後ずさりしていた。
「ハル、大丈夫? 怪我はしていない?」
幸いにも、厚手のレザージャケットは狼の牙からハルの肉体を守り通した。
ハルはユキコを支援するべく立ち上がろうとする。
(何だー!体が鉛のように重い。)
たった三分にも満たない戦いで、ハルの体は立ち上がることすら困難なほど疲れ切っていた。
彼はそれが典型的なパニック症状で、アドレナリンが過剰分泌された反動だとは気づいていない。
のろのろと立ち上がるハルと狼の間に、ユキコが割って入る。
その時、じりじりと後退を続ける狼の群れを割って、リーダー格らしい狼が悠然とユキコに歩み寄ってきた。
他の狼たちに比べ二回りは体が大きい。
リーダー狼はユキコの攻撃が届かないぎりぎりの場所でこちらの隙をうかがい身構えた。
「ウォーーン」
戦意を失いかけていた狼たちは、リーダー狼の遠吠えで再び統率を取り戻す。
ぎらつく殺気をユキコとハルに向け、二人の周囲を遠巻きに廻り始めた。
狼の群れに周囲を取り囲まれたユキコとハルは背中合わせに身構えるものの、ハルの呼吸は荒く背中越しにも感じ取れるほど狼狽していた。
(まずい――)
忍び寄る狼の群れにユキコの焦燥は募る。
リーダー格の狼はユキコの正面に立ち、隙を見せれば即座に飛びかかろうと刃物のような目で殺気を漲らせている。
(このリーダー狼を倒す事が出来なければ私たちはここで殺される)
何の根拠もないが、ユキコは本能的にそう確信した。
狼たちの囲いに隙は見当たらないし、隙なく身構えるリーダー狼にこのまま打ちかかって行ってもこちらの攻撃はかわされ、周囲から一斉に襲い掛かられるに違いない。
またこのままじっと身構えていても狼狽しているハルは長くは持ち堪えられないであろう。
数秒間に及ぶ逡巡の末、ユキコは覚悟を決めた。
木刀を下ろしリーダー狼に向かって静かに歩き出す。
思いがけないユキコの行動にリーダー狼は一瞬の狼狽を見せるものの、ユキコの背後から隙をうかがっていた一頭の狼は、ここぞとばかりに襲い掛かった。
この時ユキコは周囲の気配にすべての意識を集中する最中、奇妙な感覚を体験していた。
リーダー狼の呼吸から一瞬の狼狽を感じ取り、またその視線とかすかな物音より背後から襲い掛かる狼の姿を鮮明に感じ取ることができた。
周囲動きがスローモーションのようにゆったりと感じられ、体を動かすより前に行動の結果が予測できた。
(――!)
ユキコは咄嗟に左に身をかわし、背後から襲い掛かった狼の延髄に木刀を叩きおろす。
「ギャウンー!」
そしてその隙に飛び掛ってきたリーダー狼の喉に渾身の突きを放つ。
「――!」
時間が凍りついたような静寂が訪れた。
一瞬で叩きのめされた二匹の狼はピクリとも動かない。
ユキコが緩やかに身を起こしたとき、リーダーを倒された狼たちははそろそろと、そして一気に逃げ去った。
ハルはユキコに背を向け、膝を抱えて座り込んでいた。
顔は涙でぐちゃぐちゃになっていた。
全身の震えが止まらない。
間近に感じた死の恐怖に、歯の根が噛み合わないほど震えていた。
ユキコは焚き火を熾し終えるとゆっくりハルに近づいていき、ハルと背中合わせに膝を抱えて座り込む。
ユキコは何も喋らなかった。ハルは彼女の体温を背中越しに感じていた。
(ティーシスの言った通りだった。僕は温室育ちで世間知らずの臆病者で……)
ハルは泣いていた。怖くて、情けなくて、悔しくて……。
どれくらい時間が過ぎたのだろうか?
いつしかハルの震えは止まり、涙も乾いていた。
「覚えている? ハル。私達が初めて出会ったときの事――。
あの時は私が泣き出したんだよね」
「うん。ユキコは辛い事、悲しい事をいっぱい乗り越えてきたんだね」
「うん。骨肉腫だって知らされたとき。
オリンピックを諦めたとき。
余命半年だと知らされたとき。
お父さん達と別れたとき。
そして三百年の間眠り続けて、もう家族に会えないって知ったとき。
――ハルはあの時何にも言わずに私の話聞いてくれたよね。ただただ優しかった」
「そんな事しか出来なかったってだけさ――」
「嬉しかったよ――私」
ハルは自分が情けなかった。
ユキコを守るどころか無様な醜態を晒し、そして今もユキコに慰められている己が……。
震えが収まった今ですら怖くて堪らない。本当に怖くて堪らなかった。
「帰ろうユキコ、セイトに――。
こんな危険な所を旅するなんて、自殺行為だ」
「ダメだよ。私はまだやらなきゃいけない事残ってるから……。
それにね、ダメだよハル。――今逃げしたら、きっと一生後悔する」
「見ただろユキコも。僕は無様で世間知らずの臆病者だ……。
僕は……、僕は……、自分がここまで情けない人間だなんて、今まで考えたことも無かったよ」
ハルは絶望にうちひしがれ、悲痛な声を洩らす。
「最初は誰だってそうだと思う。
ハルも見たでしょ。私が泣きじゃくっていたとこ。
――これで、おあいこだね」
「僕はまだ全然立ち向かう勇気なんて持てないよ」
「私もね、ハルが居たから、頑張れたんだと思う。
さすがに一人でこんな危険な場所に居たら、睡眠時間なんて取れないし、疲労と緊張で倒れていた……。
それにね、感謝してるよ。
食事や見張りの際、さり気なく大変な作業を引き受けてくれたこと」
「……」
「勇気の出るおまじないをかけてあげる。
――立ってハル」
ユキコはそう言ってハルを立ち上がらせた。
ユキコはハルを両手で抱き寄せると、額をこつんとぶつけ悪戯っぽく微笑んだ。
そして未だ涙の後の残るのハル首に手をまわし――頬に唇を寄せた。
月明かりの森で二人の影が一つに重なった。




