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30:幸運の娘


 自分はなんと幸運なのだろうか。

 ランジュ・ド・フィリーは常々、そう考えていた。


 王国の貴族、フィリー男爵家の長女に生まれ、幼少から信心深い母親の教育を受けて、心底、女神の教えを信じてきた。

 女神の教えに触れるたび、ランジュはその厳しさのうちに内包される主の愛を感じた。


 人はみな、美しく気高い女神様によって、この世に生み出された。主は、愛し子たる人間を祝福し、あまねく地に満ちよと仰せになった。時が満ち、やがてその祝福も薄らいで、主の愛を見失い、道に迷う人間たちが地に増えてきた。主は、そうした哀れな子羊らを導くべく、自ら受肉され、聖女として地に降臨なされた……。

 ランジュは思った。かくまで女神様は慈悲深く、人間を愛されておられる。女神様に愛され、これを主に戴く自分たちは、なんと幸運な身の上なのだろうかと。


 ……しかしランジュの父、フィリー男爵は、娘の信仰姿勢を喜ばなかった。

 女神教は王国の国教である。ゆえに、父も信徒として、日々のお祈りや教会への喜捨など、ひと通りの義務は果たしているが、それは表面上のものにすぎない。内心では女神を敬っておらず、女神の愛や正義を信じてもいないことが、普段の態度や言動に滲み出ていた。


 父が娘に望んだのは、王都の社交界へ出て、良家の子息と縁を結ぶこと。それが貴族の娘たるものの務めであり、幸福への道であり、ひいては男爵家の将来にも繋がっていくのだと――ランジュは、父から、幾度もそう聞かされてきた。

 娘にとって、父親は反面教師だった。父にそのようなお説教をされるたび、かえって女神への信仰心は深まり、どうにか今の境遇を脱して、真の信仰に帰依して生きる道はないものかと模索するようになっていった。


 また、父は教育面でも、淑女としての教養をランジュへ押し付けた。この点では母親さえも父に賛同していた。それらへの反発から、ランジュはあえて剣を学び、両親の渋面をよそに、日々鍛錬にいそしんだ。

 長じて、ランジュのもとに複数の見合い話が持ち上がるようになると、そうした貴族的慣習への嫌悪感とともに、いよいよ女神教への信仰心は募るばかりだった。いっそ出家して僧籍に入るべき、と、いつしかランジュは本気で検討しはじめた。


 王国内には大小様々な修道会があり、それぞれに異なる会則や慣習があり、教義の内容や具体的な活動にも違いがあった。変わったところでは、巡礼者向けの宿泊施設や病院を経営している修道会や、自家用船で東方や北方と交易し、もっぱら海運業で利益を上げている修道会などもあるという。

 ただ出家するといっても、信仰を捧げるにふさわしい環境でなければ意味がない。まずは自分に合った団体を探すべきだろう……ランジュがそう考えはじめた頃、ちょうど出入りの商人から、興味深い話を聞いた。

 騎士修道会という組織についてである。


 修道士にして騎士。すなわち修道騎士という存在のあることは、ランジュも既に聞き知っていた。わけても聖エリゴス騎士修道会の噂は、地方の田舎貴族の領内にまで届いてきていた。

 王都に本店を構えているというその商人は、商談がてら、あれこれと都会の噂話をランジュに聞かせるついでに――かの聖エリゴス騎士修道会が、ランジュの住む地元に支部を設置すべく、各階層から会員、準会員を募る予定であると語った。


 それから日を経て、ランジュはあえて両親には一切語らず、直接、新設間もないエリゴスの支部を訪れ、そのまま俗世を捨てて出家を果たした。

 エリゴスに限らず、どこの騎士修道会においてもそうだが、入団希望者のうち、世俗の騎士爵以上の貴族身分であれば、すぐにも正式な入団を認められ、厳粛な宗教儀式の後に、修道騎士としての叙任を受けることができる。


 ランジュの場合、男爵家の長女ではあっても、当人に爵位はなく、この条件には該当しない。

 しかし武芸に秀で、世俗での一般教養もある貴族家の子弟ならば、まず準会員として入団し、准騎士として一定期間の下積みを経験した後に、あらためて正式叙任を受けるという道があった。


 ランジュは迷わずこの道を選び取った。幼少より学んだ剣術の実力をもって、ランジュは準会員資格を認められたのである。

 昼は盾持ちとして先輩騎士らに仕え、厳しい武術訓練を積み、朝夜は一修道女として聖堂に奉仕し、女神像に祈りを捧げ、精神を浄化する――こうした生活を送る中で、ランジュは日々、信仰に生きる喜びに打ち震えていた。


 エリゴスの支部設置という機会に遭遇したればこそ、高名な騎士修道会への入会が叶い、このような清らかな環境に身を置くことができた。

 これもきっと女神のお導き。自分はなんと幸運なのだろうか……。


 やがて歳月は過ぎ、ランジュは准騎士の身から正式な修道騎士へと叙任された。

 エリゴスにおいては、たとえ新任の平騎士といえども世俗における騎士爵と同格の身分であり、聖堂においては司祭相当の位階を占める高位聖職者でもある。


 騎士団総本部は一時、ランジュを地元支部の幹部級に推薦していたが、ランジュ自身は、王都の総本部――天下に名高い城砦エリゴス塔での勤務を希望した。

 やがてランジュは晴れて王都に入り、エリゴス塔正門の門衛組を預かる隊長として、相変わらず厳格な規則と風紀の下、日々の業務にいそしんだ。


 王都の宗教施設は、地元とは比較にならない。本部の聖堂はこのうえなく規模壮大できらびやかで、荘厳でありかつ美しい。これほどの環境で、祈りを捧げることができるなど……ランジュはあらためて、己が身の幸運なることを常々噛みしめていた。

 また、エリゴスは魔女狩り、異端審問の本場であり、異端者の処刑も日常的に行われていたが、ランジュはそれに心を痛めるようなことは一切なかった。


 女神の慈悲を知らぬ哀れな者たち。女神に弓引く、恐れを知らぬ魔女たち――罪業には当然の報いがある。またそれが魂の救済でもあろう。そうランジュは固く信じていた。






 ランジュが王都の総本部に入って半年。破局は、唐突に訪れてきた――闇夜に幽艶と浮かび上がる、蒼い月のごとき美青年の姿を取って。

 後世にまで語り継がれる「エリゴス塔事件」における、最初の逮捕者。


 よりによって、ランジュを待ち受けていたのは、そのような運命だった。


「私は、人々の無知を咎めはしません。ですが、知りうる機会を得ながら、それでも無知でいようとする者がいるならば、それは咎人といえましょう。あなたは……知るべきです。真なる女神、真実の主について」


 王国宰相ギョーム・ド・ノガレは、ぞっと底冷えのしそうな微笑みとともに、ランジュへ告げた。


「私は、生命の正道から外れた存在……外道であり、あなたがたから見れば、悪魔そのものといってよいでしょう。そんな私でも、ひと目で理解したのです。いまこの世に、この国に。真に主と仰ぐべき御方が降臨なされているという、その畏き事実を。あなたも、すぐにわかりますよ」


 ランジュには、ノガレの言葉の半分も理解できなかった。もとより異常な事態に動揺しきっているところへ、これまでの自分の信条、生活――女神教と聖女への信仰一筋に捧げてきた人生そのものを、真っ向から否定するがごときノガレの言動。

 嫌悪、怒り、当惑、さまざまな感情が渦巻くなかで、ランジュは見た。


 ノガレの蒼い双瞳の奥に、冷たい炎が燃えている有様を。


 ――これは、人間じゃない。


 本当に、本物の、悪魔だ。自身言い放つごとく、得体の知れぬ悪魔そのものだ。

 そう直感的に理解すると同時に、ランジュは本能的な恐怖に襲われた。眼前の存在の不気味さに、ランジュはひどく怯えはじめた。全身が震え、口をきくことも、指一本動かすことすらできなくなった。


 ランジュは、エリゴス塔の騒動を尻目に、王宮の宰相府に連行され、その客室に隔離されたが、とくに厳しい拘束などは受けず、尋問などもされなかった。

 床に跪き、ひたすらに、ランジュは祈っていた。


 あれが本物の悪魔だとして、自分は、いったいこれからどうなるのか。どうすればいいのか。どう生きていけばよいのか。女神は、聖女は、救いの手をさしのべてくれるだろうか。どうか、どうか。


 ――お救いください。お導きください……。


 その祈りが、どこかに届いたものかどうか。

 やがて――。


 早暁突然、王都全域に発布された退避令。

 ランジュもまた、わけもわからぬまま、役人らに伴われて慌ただしく王宮を離れ、北の外城門へと避難させられた。


 そこで、見た。

 抜けるような青空のなか、黒い四枚羽の怪鳥の背に立って飛び回る、黒い三角帽に真っ赤なドレスの女の子を。


 その女の子が、天地に振るった、おそるべき力を。

 雷挺のごとき一撃で、エリゴス塔を粉砕した――その神威を。


 女の子の姿から、目が離せなかった。

 いつしか、とめどない涙が、ランジュの頬を濡らしていた。


 ランジュは、ノガレの告げた言葉の意味を、ようやく理解した。


 ――我らの本当の主は、あの御方だ!


 理屈ではなく、本能が、そう叫んでいた。

 こうも思った。自分は、ずっと誤った信仰を続けていた。間違った人生を歩んできた、と。


 けれど、過ちに気付いたならば、やり直すことができるはず。

 気付かせてくださったのだ。あの御方が。我らの、いと尊き真なる女神様が。いま、そのお姿を直接拝することができるなど、まさに望外の巡り合わせ。


 自分は、なんと幸運なのだろうか。

 ランジュ・ド・フィリーは、これまで常々そう思ってきた。


 いまも、そう思っている。



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