29:旧神、死す
旧神セシャトは、ノガレの内なる不死人の憑依により、精神を抉られ、深い傷を刻み込まれた。
常人であれば不死人の憑依を受けた時点で、二度と立ち直れぬほどの精神裂傷を負い、不死人がその肉体を去った後は、完全に正気を失う。
ゆえにノガレも、すべての記憶と情報を読み取り、用済みとなったセシャトから不死人を引き上げると、もはや残った肉体は廃物同然と見做していた。
――もと神であるセシャトの精神耐性は、そのノガレの見立てを、わずかに上回っていた。
セシャトの精神は、まだかろうじて生きていた。
憑依による精神破壊のダメージは深刻で、正常な思考力はほぼ失われている。それでも意識の奥底に、ほんの小匙ひとつ分くらいな理性と意思は、なおも保たれていた。
肉体は思うように制御できない。記憶と記録の権能も、いまはまったく使えない。それでも、致命的なものではなく、十分な時間さえあれば、いずれ自力で立ち直ることは可能であろう。それまでは、薄まった意識をぎりぎりで保ちながら、ひたすら機会を待つしかない――。
そう判断して、セシャトはあえて心神喪失を装うことにした。
やがて美丈夫ノガレは、何思ったか、動かなくなったセシャトをつまみあげて食堂へ運び、剥製の置物のように、そっと窓際へ立たせた。
セシャトにとって、これは好都合な状況に思えた。動けるようにさえなれば、いつでも逃げられる場所であったから。
――夜が明けた。
話し声がする。
例の不死人を宿す、おそるべき美丈夫ノガレと――子供たち、だろうか。
テーブルを囲んで、なにやら談笑している。
やけに元気のよい小さな女の子に、あの恐ろしい不死人が腰をかがめて、何事か説得を……いや、懇願している。
詳しい内容まではわからない。
視界ははっきりしているし、会話も明瞭に聞き取れるが、その内容を把握し理解するための意識と集中力が、いまのセシャトには欠けていた。
ただ、外見や声音以上に、セシャトの肌に伝わってくるものがあった。
神気。
それも、きわめて清浄無垢なる、真っ白い、峻厳な波動。
卓を囲む少女たちから、そうした共通の神気が、ぼんやりと洩れ出ている。
――あれこそ、この世界の神々であろう。
なぜ、わざわざ人の皮をまとい、あのような姿をしているのか、それはセシャトにはわからないが、おそろしく強大な力を持つ神々であろうとは、鈍った意識のなかでも直感できた。
ほどなくノガレはその場を去った。
少女たちは、なおも卓を離れず、声をひそめて語り合っている。
相変わらず、何を話しているのか、内容を理解することはできないが――セシャトは、じっと観察を続けていた。
いずれここを脱出し、教皇国へ戻った際に、少しでも上位者たち……神都の九柱神に、この世界の神々の情報をもたらすべく、ともすれば途切れそうになる意識を必死に繋ぎとめ、眼前の状況に集中していた。
ふと。
会話の中心的存在と思しき、小さな女の子……輝く金髪、真っ赤なドレスの、見ためは四、五歳くらいな、一堂の中でもとくに幼い娘が、窓際に立つセシャトへ、その視線を向けてきた。
目が、合った。
たちまち、セシャトの全身――ほぼ感覚を失っているはずの、小鴉の肉体――に、痺れるような震えが走った。
セシャトは見た。
いかにも小さく頼りなげな童女の瞳、その奥底にのぞくもの。
無限の広がりをもつ、真っ黒い虚無のごとき、果て無き深淵――。
そこに点在し、ささやかに渦巻き輝く無数の星雲の群れ――。
それら虚無の闇も、星雲の煌めきも、その一切合財を包み込み抱擁する、大いなる意思の腕を。
セシャトは見ていた。見せられていた。
(ああ)
セシャトは、急速に薄れゆく理性の片隅に、深く嘆息する自分自身を感じた。
それは納得とも後悔ともつかぬ、セシャト自身、経験したこともなく、理解もしえぬ、感情。
(この世界の、神……? 違う。違った。あれは、そんなものじゃない。そんな、生易しいものであるはずがない。あれは……もっと、もっと大きな、違う何かだ)
セシャトは、ようやく悟った。セシャト自身が神であるがゆえに、理解できた。
あれは、神などという、既存の事象の枠に収まるものではない――。
(伝えなければ)
上位者たる九柱の神々に。
どうあっても、この事実を伝えねばならない。
決して、決して、あの小さな娘に、矛を向けてはならぬと。
さもなければ、彼らは。
(伝え――)
首筋に激痛が走った。
セシャトの意識の糸が、ぶつりと断ち切られた。
食堂の窓際に佇んでいた黒い小鴉が、レダのひと睨みでたちまち泡を吹き、窓外へ転げ落ちた――。
「……死んだふり?」
と、ポーラが怪訝そうな顔をレダに向けた。
「ああ。ノガレは、正気を失ってると言ってたがな。ありゃ、そんなフリをしてただけだ。アタシらの話に、必死に聞き耳立ててたぞ」
レダは苦笑して応えた。
「もとは神だってんなら、不死人の憑依にも耐えられる程度の精神力はあるってことだろう。ノガレは気付いてなかったみたいだが、アタシの目は誤魔化せん」
「ふうん。わたしも、ぜんぜん気付かなかったけどな……んで、レダ様、いま、あれに何かしたのか?」
「いんや、なにも。ちょっと声をかけてやっただけだぞ」
窓外から卓へと視線を戻すレダ。ちょうどスージーがハーブティーのおかわりをカップに注いでいた。
「どうせ、急に話しかけられて、驚いたんだろ。ここは一階だし、よほど運が悪くない限り、窓から落ちたぐらいで怪我もしないさ」
レダは悠然とハーブティーを啜り、満足げに息をついた。
……後刻。
昼下がり、レダたち一行が打ち揃って、午後の庭園をのんびり散策していると。
途中、小さな鴉の死骸が、窓のそばに落ち転がっていた。
遺骸は頚骨が折れており、それが死因であろう。
窓からの落下時に、たまたま後頭部を地面に打ち付け、あえなく絶命したものらしい。
それを眺めて、レダは。
――運がないにもほどがある。
と、なんとも微妙な顔つきで呟いていた。
かくて異界の旧神、「記憶と記録を司る者」セシャトは、この地にて、完全に滅び去ったのである。
王国の東方、都市国家群の北辺に位置する小都市。
レミド共和国という、名称だけは立派ながら、実際には都市国家群の最外縁に、ぽつねんと貧相な土垣を連ねる小さな田舎町にすぎない。
人口わずか千人余り――その土埃にまみれた古い街路を、完全武装の騎士の一群が、ゆっくり馬を進めて横切ってゆく。
数は十二騎。いずれも銀鎧をまとい鉄槍をかいこみ、黒地に金の刺繍をあしらったマントをはためかせている。
旗幟こそ掲げていないが、そのマントの意匠と、頭部をすっぽり覆う独特の鉄兜の形状は、都市国家群の住人ならば知らぬ者はない。すなわち聖カダマスク騎士修道会の正規装備である。
騎士たちの鎧甲は、血と泥にまみれている。まさに今しがた、ひと戦終えてきたとでもいうように。
彼らのほか、周囲に人の気配はまったくない。
ただ、どこからか、おびただしい血臭だけが、街路にまで漂い流れてきていた。
……すでに、レミド共和国は滅亡している。
住民らに異端の疑いありとて、つい先ほどまでに、聖カダマスクの十二騎士によって、都市国家の全住民、一人余さず、女神の名のもと、ことごとく殺し尽くされていた。
「最後の慈悲」と称される、女神教の粛清。
その執行を主任務とする、教皇国直属の武力集団。それが聖カダマスク騎士修道会という組織である。
――十二騎の先頭をゆく騎士は、街路の辻にさしかかると、ふと馬の足を止めた。後続の騎士たちも一斉に止まる。
騎士たちの頭上に、一旋、ぐるりと黒い影がめぐったかと思うと、一羽の隼が、長大な翼を広げ、先頭の騎士めがけてゆっくり降下してきた。
やがて隼は、ばさりと翼をたたみながら、騎士の右肩に、ひたと降り立つ。
「これは、ホルス様。どうなさいました?」
騎士が、右肩に留まった猛禽へ声をかけた。鉄兜ごしのくぐもった声だが、どうやら女性騎士であるらしい。
「おまえの力を借りたい。すぐに王国へ向かってくれ」
隼は嘴を開き、明瞭な人語で答えた。声質はいかにも精悍な、年若い男性のように聞こえる。
女騎士は、軽く首をかしげた。
「随分と急な話ですね。なにかあったのですか」
「……どうやら、セシャトが死んだようだ」
「なんですって?」
「詳しい事情はまだわからんが、セシャトの命脈が切れたことだけは、こちらでも感知できた。おそらく、この世界の神々に捕まり、殺害されたのだろう」
「そんな……昨日、王国のほうから感じた、あの異常な力の波動は、そういうことだったのですか」
「セルケトよ。いま、われらのうちで、門を離れて長期間活動できる神は、おまえしかいない。こちらからも最大限の戦力を出す。それを率いて、王国に攻め込んではくれまいか」
女騎士は、少し考えるような素振りを見せたが、やがて小さくうなずいた。
「……承知しました。わが名にかけて、セシャトの仇を討ちに行きましょう」
「頼む」
黒い隼――神域の主神たる「太陽神ホルス」は、短く告げるや、おもむろに女騎士の肩から飛び立ち、碧空の彼方へ消え去っていった。




