ハンナと呪い
今からほんの数年前、ハンナはとある小さな村で産まれた。三人兄弟の末っ子で、上にレオンとニナという年の離れた兄と姉がいた。母親は彼女を産んで間もなくこの世を去ったため、主に姉のニナがハンナの面倒を見ていた。ニナはまだ赤ん坊の彼女をしょっちゅう背中におんぶし、片時も離れずに生活していた。
一家はようやく安定を取り戻したかのように思われたが、そんな生活もある時を境に再び崩れ始めた。
村から少し離れた所にキノコのよく取れる森があった。姉のニナはハンナをおぶってよく森へ行った。この森で取れるキノコは主にトナカイの餌として使われ、人間が食べることはほとんどなかったが、トナカイが好きなハンナはしょっちゅうキノコを与えたがり、その度に森へ行って採ってこなければならなかった。
彼女の運命を変えることになったその日も、同じ理由で二人は森へ入ったのだ。
まだ日の高い、夏の午後のことだった。ニナが森でキノコを採っていると、茂みの奥から奇妙な話声が聞こえてきた。気になってそちらの方へ歩みを進めると、今までに見たことのないような、黒ずくめの女が大きな木の根元に立っているのを見つけた。女は一人でうわごとのように何か呪文のような言葉を繰り返し、やがて地面に座り込むと、手に持っていた袋から何かを取り出し始めた。
よく見てみると、それは原型を留めていない動物の死骸のようだった。嫌な空気を感じ取ったニナは、すぐにその場から離れようと後ずさりした。しかしその瞬間、最悪なことが起こってしまった。
ハンナが、ニナの背中で泣き出したのだ。それまで静かに眠っていたはずなのに、まるで命の危機を感じ取ったかのように、これから起こることを予期したかのように、大声で泣き喚いたのだ。
しゃがんでいた女は勢い良く振り返り、ニナとハンナの方を見た。そしてゆっくりと立ち上がり、真っ暗な影のようにゆらゆらと漂いながら、二人の方へ近づいてきた。その間、ハンナは終始火のついたように泣いていた。
「こっちに来ないで。私たちに何する気なの?」
ニナは右手を真っ直ぐに女の方へ伸ばし、それ以上近寄らないように言った。しかし女は口から涎を垂らし、どんどんこちらへ近づいてくる。濁った眼が、一度も瞬きせずにじっと見つめてくる。それだけで頭がどうにかなりそうになる。
ニナはたまらず逃げ出した。背中を狙われないように、ハンナを前に抱きかかえるようにして、ただひたすらに走った。しかしどんなに全力で走っても森から抜けられない。慣れている場所が、まるで別世界のようなのだ。時期に彼女は、自分が同じ場所を何度もぐるぐる回っていることに気が付いた。
――魔女だ……!
頭の中でそう叫んだ時、目の前に女が現れた。さっきまで自分の後ろにいたはずの女が、いつの間にか目の前に回り込んでいた。女は低い声で「よこせ」とだけ口にした。
「やめて!」
ニナはそう叫んで地面にうずくまった。女は右手をニナの上にかざすと、何やらぶつぶつ言い始めた。その瞬間、彼女の心臓にこの世のものとは思えないほどの激しい痛みが走った。堪らずその場に崩れ落ちると、真っ黒い文字のような形をした痣が蟲のようにうねうねと蠢きながら、全身を這い回り始めた。それでも彼女はハンナの上に覆いかぶさり、その場から逃げようとはしなかった。
「ニナ! ハンナ!」
突然二人を呼ぶ声が聞こえ、女は呪文を唱えるのをやめた。兄のレオンが帰りの遅い二人を探しに来たのだった。ニナは最後の力を振りしぼり、ただ一言「助けて」と叫んだ。
レオンが彼女の叫びを聞いて駆け付けた時、もう女は姿を消していた。全身を呪いによって蝕まれたニナは最早虫の息だった。
「どうした! 何があった」
レオンは尋ねたが、当然ながら彼女にはすべてを伝えられるほどの力など残ってはいなかった。
レオンは何とか二人を家まで連れ戻し、村の医者を呼んでそれぞれの様態を診てもらった。しかし医者は首をひねる一方で、その間にもニナはどんどん弱っていった。彼女はハンナよりもずっと症状が重かったのだ。
やがて、医者は諦めたように、淡々とした口調で「これはきっと呪いだ。私の手には負えない」と溢した。ニナが死んだのは、その言葉の直後だった。
3話ほどで終了する短い章です。




