プロローグ
新界と呼ばれる世界がある。
かつて存在した三つの世界、すなわち人が科学の力を発展させた人界、弱肉強食の掟が支配した魔界、神々が人らを見守った聖界の三つが、”大崩壊”によって融合し一つになって生まれた世界だ。
新生した世界に混乱する人間を滅ぼさんとした大魔王を勇者が倒した古代、人々が相争う事を思い出した中世、大陸を超え世界を巻き込んだ大戦を七英雄が終結させた近代を経て。
人類が世界平和と呼ばれるものを手に入れることができたのが、現代という時代である。
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人智大陸アルメリア。世界最大にして最強の軍隊を誇る聖アルメリア合衆国が存在している大陸である。
聖アルメリア合衆国では新界歴980年代以降、魔導バブルが起きていた。すなわち魔法技術と機械技術とを掛け合わせて新しいものを作ろうとする魔導技術が、凄まじい勢いで発展している時期なのである。
元々前身であるアルメリア合衆国が機械技術においては世界一であった事、そして約半世紀前の大戦時に確立された情報魔法についても研究が進んできた事もあり、一気に研究開発に火が付いたのだった。
だが華やかな魔導バブルの影で、社会問題として大きくなりつつあるものがあった。貧富の格差である。
富める者には更なる富が。貧する者はますます貧しく。魔導バブルの華やかさの影で、この格差がどんどんと広がっていき、身を持ち崩す者も不満をため込む者も大きく増えていったのもこの時期である。
新界歴990年代初頭。人々が魔導バブルに目をくらまされている間にも、まだこの問題は静かに広がり続けていた。
アルメリア大陸の西海岸に、聖王都セレストという都市がある。これは聖アルメリア合衆国の中にあって特別区に指定され、半ば独立都市として存在する。
世界最大の宗教である聖神教の総本山であり、宗教上のトップである聖王がいる場所がこの聖王都という事になる。
そんな聖王都は、大陸中のスラムや孤児院に対しても一定の援助を行っていた。ただしそれは決して高貴なる者の義務でも、清廉なりし聖職者の施しでもなく、ある一つの大きな目的があったのである。
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サラはある都市のスラムにある孤児院で育って来た。親の顔は覚えていない。それに周りにはそうした子供達が沢山いたので、サラは親の顔を気にすることは無かった。
スラムの孤児院。その暮らしは決して楽なものでは無かった。一応国の支援の元に作られたものではあった筈だが、スラムで行く当ても無い子供達が住み着いた建物を孤児院にしたて上げたというだけで、決してそこからの脱出ができる程の支援を受ける事も無く、そこに暮らす子供達は困窮した日々を送っていた。
そこで物心ついた時から暮らして来たサラは、時折スラムの外にいる人々を見る事があった。自分達とは違い、食べ物に困る事も無く、清潔な服を着て、余暇を趣味に費やすという余裕を持っている。
そんな人々を見てサラの心に去来したのは、嫉妬でも不満でも憎悪でもなく、”ああ、そういうものなんだ”という理解であった。
つまり”世の中には幸福サイドに生きる人間と、不幸サイドにいる人間がいて、私はその内の不幸サイドにいる人間なんだ”という納得である。
これは諦観とも少し違っている思いであった。例えば大人と子供の違い、人種の違い、体質の違い、といったどうあっても超える事のない隔たりがあるのだという理解である。
勿論時の経過で子供である自分も大人になるのである筈であるのだが、サラにはそれを想像することが出来なかった。
(きっとあたしは、こういう風に生きていくんだ)
不幸サイドとは言ったが、しかし決してサラ自身は不幸とは思ってはいなかった。何故ならば、不幸サイドでも感じられる幸せがあるのだと思っていたからだ。
いつもの薄いスープに今日は肉が入っていた。いつものカチカチのパンが、今日は焼きたてで柔らかかった。新しい歌を知ったので皆で歌った。ちょっと早起きして外に出たら朝日が綺麗だった。
そんな小さな日々の幸せを見つけて感じていく事ができるのだから、自分は決して不幸なだけの存在ではないとサラは理解していたのだ。
そんなサラは毎日祈りは欠かさなかった。孤児院がある街も聖アルメリア合衆国に属していたし、その国教が聖神教なのだから、孤児院でも一応聖神教については教えられていたのだ。もっとも教える方も教えられる方も聖神教について詳しい理解をしてもいないしできもしなかったので、更に残ったのは”祈る”という行為だけだったと言っても良い。
しかしサラはこの”祈り”が嫌いでは無かった。誰に祈る、というものでもない。ただ自分が生きて、小さな幸せを見つける事ができたことの感謝を誰かにしたい。そして何より自分に報告したい。そういう思いがサラに毎日のお祈りを続けさせていた。
もっともそんなサラの行為を馬鹿にする者もいた。特に孤児院では仲が良かったエイジという同年代の男の子は、祈りは無駄でもっと違う事をすべきだと言っていた。
「俺はさ、こんな所は抜け出してやる。知ってるか? 結局商売をやる奴がもっとも偉いんだ。そういう世の中なんだよ。だから俺は絶対に商人になるんだ。その為に文字や計算の勉強だって頑張るんだ」
そう目をギラギラさせて語るエイジに、サラは”目的をしっかりもって頑張ってて偉いな”とは思うものの、しかし自分も彼に同調して祈りを止めるという気にもなれず、やはり祈りを続ける毎日であった。
***
その日も、いつもと変わらない日々であった。孤児院の前に捨てられていたらしいサラの正確な年齢は分からないのだが、恐らく十歳くらいなのだろうと思われる頃。
サラは毎日の日課である祈りを捧げていた時に、唐突に胸元に強烈な痛みを感じた。
(な、なに?)
痛みに耐えるのに必死で声を上げる事もできず、ただ胸元からしたたり落ちる血の流れを見ながら、サラは気を失った。
そして翌日目が覚めた時に、鏡を見たサラは血をぬぐった自分の胸元に奇妙な印がある事に気が付いた。
それについて孤児院の院長に、祈っていたら怪我をしたと相談に行ったところ、院長はひどく驚いてサラにはしばし待つように伝えて来た。
それから数日後。いやに真剣な顔をした院長に、サラは一人の初老の男性と引き合わされた。サラに言わせれば、着ている服もシャンと伸ばされた背筋も、サラ曰くの"幸福サイド"にいる人であり、何故こんな人と対面しているのかは全く分からなかった。
その男の人はジロジロとサラを観察するように見ると、いくつかの質問をしてきた。サラも細かい事は覚えていないのだが、サラの胸元に現れた印は"聖痕"と呼ばれるものであり、聖神教においてはとても重要なものである、という事を言われたのだけは覚えている。
そしてサラがポカンとしている間に、院長と男の話が進み気が付いたら孤児院から引き取るという話になっていた。
――そしてサラの生活は一変した。
***
男はある貴族の使いだったらしく、引き取られた先は立派な御屋敷だった。
そこでサラは清潔な服を着て、個人専用のベッドを与えられ、毎日ちゃんとした食事が振る舞われる事になった。
対価としては働く事ではなく子供であれば学ぶ事だと教育係をつけられ、他数人の子供達と一緒に授業を受ける日々。
それはサラがかつて定義した不幸サイドから、いつのまにか自分が幸福サイドに移ったという事だと理解し、サラは更なる混乱をした。
不幸サイドと幸福サイドは全く異なり、変動しない筈だったのに。そんな自分が何故今、幸福サイドにいるのかーー?
あまりの状況の変化に対応するのが必死で、あまり心が追い付いていなかったサラだったが、引き取られた後にも続けていた毎日の祈りの時間で、ある日一つの整理が出来た。
サラが不幸サイドから幸福サイドへ移れた理由。
まず聖痕が理由ではないとサラは考えた。何故ならば確かに聖痕がこの身に浮かびはしたが、それがまだ何かを成したという訳では無いからだ。周りの人間は色々と騒いでいたようだが、それでも聖痕が直接的に何かをしたという訳でもない以上、サラには聖痕を理由として選ぶ気にはなれなかった。
では毎日の祈りが原因か? それも違うとサラは考えた。何故ならばサラの祈りは彼女の内部に働くものであり、決して現実的な働きは無かったからだ。その因果関係を結び付けるという理解がサラにはどうしてもできなかった。
(不幸サイドから幸福サイドへ移れたのは、移してくれたのは――?)
そうして思い浮かぶのは孤児院で迎えに来てくれた人。そしてその人もただの使いだったのだから、決してその人に依存しているものではない。が、この屋敷に主人が考え、命じ、その結果サラが孤児院から抜け出る事ができたのは紛れもない事実だった。
ではこの屋敷の主人がそんなに素晴らしい力を持った存在なのかというと、引き合わされて会話したサラにはただの人間に見えたし、特別な存在には見えなかった。
ただの人だったのだ、結局サラを掬い上げたのは。
(つまり――人は人を不幸サイドから幸福サイドへ移す事が可能なんだ。人は人を救う事が出来るんだ!)
それはサラにとって、あまりにも大きな感動だった。不幸サイドと幸福サイドは、決して越えられない壁に阻まれたものでは無かった。
いや、実際に高い壁ではあるのだろう。だが人間はその境界を越えて、不幸サイドから幸福サイドへ連れて行くことができるだけの奇跡を行使できる存在なのだ。と。
その考えに至ったサラは一つの決意をした。自分も不幸サイドから幸福サイドへ人を移せる人間になろう。人を救う存在となろう――。
それは幼いサラが祈りの中で至った、一つの原体験となった。
***
そして約二年。満足な教育もされてこなかったサラが、読み書きを始めとした教養を身に着け、礼儀作法を叩き込まれて、それなりにこなせるようになった頃。
聖アルメリア合衆国の特別区に存在する聖王都セレストにて、サラが少しずつ聖痕者としての課題をこなし始めた所から、物語は始まる。




