エルフレイム辺境領へ
王都での慌ただしい日々が過ぎ、森で互いの想いを確かめ合ってから二日後。
朝靄の残る王都を、一台の馬車がゆっくりと北西へ向けて進んでいた。
街門の上には王国旗が静かにはためき、見送りに立った兵士たちが一斉に敬礼を送る。石畳を叩く馬蹄の音は朝の澄んだ空気へ心地よく響き、やがて城壁が遠ざかるにつれて、人の営みの音は少しずつ鳥のさえずりへと変わっていった。
車内は穏やかな静けさに包まれている。
向かい合う長椅子の片側にはシンクレアが腰掛け、その足元ではキララが丸くなっていた。
白く柔らかな毛並みは朝日を浴びて淡く輝き、水色の紋様は呼吸に合わせるようにゆっくりと明滅している。時折、馬車の揺れに合わせて大きな尻尾がふわりと動き、そのたびにシンクレアの長靴へ優しく触れた。
その感触へ応えるように、シンクレアは無意識のうちに指先を伸ばす。
耳の付け根をそっと撫でると、キララは目を閉じ、小さく喉を鳴らした。
その安心しきった様子に、自然と頬が緩む。
王都を発つことへ不安がなかったわけではない。
婚約者として初めて訪れる相手の故郷である。
どのような人々が待っているのか想像もつかなかった。
それでも、不思議と胸を締め付けるような緊張はない。
隣にはオーレリアンがいる。
足元にはキララがいる。
それだけで十分だった。
馬車の窓から吹き込む風は、王都にいた頃より幾分冷たく、草木の青い香りを濃く含んでいる。
景色も少しずつ変わり始めていた。
整然と並んでいた畑は次第に姿を消し、代わりに広大な草原がどこまでも続く。さらに進めば、遠くには連なる山脈が霞み、その裾野を覆う深い森が陽光を受けて鈍く輝いていた。
オーレリアンは窓の外へ目を向けたまま、小さく息をつく。
その横顔には王都で見せる緊張感がない。
肩の力は自然と抜け、どこか懐かしい景色を慈しむような穏やかな眼差しになっていた。
故郷へ帰る。
その事実だけで、これほど表情が変わるものなのかとシンクレアは静かに見つめる。
やがて視線へ気付いたオーレリアンが振り返り、少し照れたように笑った。
「そんなに珍しいか」
「少しな」
短く答えると、オーレリアンは苦笑する。
「王都にいる時と顔が違う」
その一言に、自分でも意識していなかったことへ気付かされたらしい。
オーレリアンは窓の外へもう一度目を向け、苦笑交じりに肩を竦めた。
「そうかもしれないな」
それ以上、多くは語らない。
だが、その声だけで十分伝わってきた。
この土地が、彼にとってどれほど大切な場所なのか。
守るべき領民が暮らし、家族が待ち、自分という人間を育ててくれた故郷。
王都とは違う意味で、心の拠り所になっている土地なのだろう。
シンクレアは静かに窓の外へ視線を戻した。
(この景色の中で、リアンは育ったのか)
そう思うだけで、不思議と胸が温かくなる。
幼い頃から木々の間を駆け回り、領民と言葉を交わし、剣を学び、人を守ることを覚えてきた。
だからこそ、あの真っ直ぐな人柄になったのだ。
その隣で、キララがゆっくりと身体を起こした。
鼻先をひくつかせ、窓から吹き込む風の匂いを確かめる。
初めて訪れる土地。
知らない匂いばかりのはずなのに、不安そうな様子はまるでない。
シンクレアの膝へ鼻先を押し付けると、小さく尻尾を振った。
「大丈夫だ」
シンクレアが優しく頭を撫でる。
その一言だけで安心したように、キララは再び足元へ伏せた。
その様子を見たオーレリアンは、思わず笑みを零す。
「キララは本当にシンクレアの言葉をよく聞くな」
シンクレアは答える代わりに、もう一度キララの背を撫でた。
長い時間を共に過ごしてきた。
言葉がなくとも、互いに考えていることは分かる。
それは命令でも主従でもない。
家族だからこそ築かれた信頼だった。
馬車はなおも街道を進み続ける。
王都を離れるほど道は険しさを増し、山肌へ沿うように敷かれた街道の先には、巨大な城壁がゆっくりとその姿を現し始めていた。
灰白色の石を幾重にも積み上げた堅牢な城壁。
その背後には、山を背負うように建つ壮麗な城。
王国北西を守る最前線──エルフレイム辺境領。
オーレリアンは懐かしそうに目を細め、小さく息をついた。
「帰ってきた」
その呟きは誰へ向けたものでもなかった。
けれど、その一言には十二年を過ごした故郷への想いが静かに滲んでいた。




