まっすぐな求婚
「今日は、シンクレア様にお伝えしたいことがあって参りました」
声にした瞬間、オーレリアンは自分の喉がひどく乾いていることに気づいた。
馬車に揺られていた半日のあいだ、何度も頭の中で繰り返した言葉だった。窓の外を流れていく森や街道を眺めながら、もっと礼を尽くした言い方があるのではないか、年若い男の一時の熱情だと受け取られないためにはどうすればよいのかと考え続けた。だが、実際にシンクレアを目の前にすると、用意してきた言葉のほとんどが余計な飾りに思えてくる。
磨き上げられた床には、午後の陽光が窓枠の形を映していた。薄い雲が空を横切るたび、その輪郭は緩やかに明暗を変える。開かれた窓から流れ込む風が白いカーテンを持ち上げ、庭木の青い匂いを室内へ運んでいた。卓上の茶からは、ほのかな花と柑橘の香りが立ち昇っている。
先ほどまで交わされていた領地警備の話も、魔物の動向を記した書類をめくる音も、今は途絶えていた。
部屋にいる者の視線が、すべてオーレリアンへ集まっている。
軍へ入ってから、敵を前に剣を抜いたことは数え切れない。木々の陰から魔物が飛び出してきたときも、味方の隊列が乱れたときも、身体は思考より先に動いた。危険のただ中では、恐怖を感じるより早く、何を斬り、どこへ踏み込み、誰を守るべきかが見える。
今は違った。
立っているだけで、背中に薄い汗が滲む。心臓は肋骨の内側を強く叩き、息を吸うたび胸の奥が狭くなった。何も握っていない指先には、剣を持つときには生じない頼りない震えが潜んでいる。
それでも、その手を背後へ隠そうとは思わなかった。
格好をつけるな。いつものお前で行け。
出発前に兄たちから掛けられた言葉が、胸の奥へ静かに戻ってくる。頼もしく見せるために取り繕ったところで、生涯を共にしたいと願う相手には、いつか必ず見抜かれる。ならば初めから、未熟さも緊張も抱えたまま立つしかない。
オーレリアンは深く息を吸い、シンクレアを見つめた。
彼女は長椅子に腰掛けたまま、金色の瞳を正面から受け止めていた。
長い銀髪は肩から胸元へ流れ、黒を基調とした礼装の上で淡い光を帯びている。夜会の燭台の下で見た姿よりも装いは控えめだったが、そのぶん凛と伸びた背筋や、膝の上へ整然と重ねられた手の美しさが際立って見えた。細い指はわずかな隙間もなく重なり、爪の先まで静かな緊張が宿っている。
表情には、まだ大きな変化はない。
ただ、次の言葉を待っていた。
急かすでもなく、警戒を露わにするでもない。相手が口にしようとしているものを、最後まで受け止めようとする眼差しだった。
その静けさに触れ、オーレリアンの肩から少しだけ力が抜ける。
「俺は、シンクレア様に結婚を申し込みたいと思っています」
言葉が落ちた後、応接室から音が消えた。
実際には、風がカーテンを撫でる音も、庭から届く鳥の声も途切れてはいない。それでも、誰かが息をする音さえ聞こえそうな静寂が、部屋全体を包み込んでいた。
ローゼンタール公爵の手が、茶器へ伸びかけた位置で止まる。夫人は目を見開き、次いで娘の横顔へ視線を移した。長男は背凭れから身体を起こしたものの、すぐには何も言わない。驚きは隠せていなかったが、父母と同じく、まずシンクレアの反応を待とうとしていた。
アルベルトも黙っていた。
普段であれば、豪快な笑い声とともに場を和ませるような男である。息子の言葉が足りなければ補い、相手が戸惑えば冗談の一つでも挟んだかもしれない。だが今は、太い指を膝の上で組み、わずかに顎を引いている。
ここから先は、オーレリアン自身の言葉でなければ意味がない。
父の沈黙には、その理解と信頼があった。
足元では、キララがふさふさとした尾を床へ打ちつけている。声こそ上げないものの、全身から溢れる喜びを隠せていない。オーレリアンが立ち上がる前まで寄り添っていた場所から離れず、彼とシンクレアを何度も見比べていた。
まるで、こうなることを知っていたかのようだった。
シンクレアの視線が、一度だけキララへ落ちる。
長い睫毛がわずかに伏せられ、眉間へ細い皺が寄った。初対面の青年へここまで懐くことも、その求婚を喜ぶように尾を振ることも、彼女には理解できないのだろう。
オーレリアンにも理由は分からなかった。
ただ、初めて会ったはずの聖獣が自分を拒まず、それどころか親愛を惜しみなく向けてくれることが、不思議と心強かった。
返事はない。
だが、沈黙を拒絶と受け取ることはできなかった。
シンクレアにとって、自分は今日初めて言葉を交わした相手にすぎない。彼が一年のあいだ思い続けていたことも、彼女について知ろうとした時間も、今この場へ来るまでに抱えた覚悟も、彼女は知らない。
唐突すぎる。
その事実を、オーレリアンは誰より理解していた。
だからこそ、伝えなければならない。
「一年前、王城の夜会で、あなたをお見かけしました」
シンクレアの瞳がかすかに揺れた。
言葉を聞いただけで、どの夜会を指しているのか察したのだろう。肩は動かず、背筋も崩れない。けれど膝の上で重ねられていた指が、片方の手を包み込むように僅かに深く絡んだ。
その変化を見て、オーレリアンの胸の奥へ鈍い痛みが走る。
あの日の話をすることで、彼女が触れられたくない傷を開いてしまうかもしれない。
婚約破棄を毅然と受け入れたからといって、何も感じていなかったはずはない。大勢の前で婚約者から否定され、令嬢としても女性としても価値がないと断じられたに等しいのだ。涙を流さなかったことと、傷つかなかったことは違う。
それでも、あの夜を抜きに自分の想いを語ることはできなかった。
オーレリアンは急がず、一度息を整えた。
「婚約を破棄された、その場にいました」
静かな声で告げると、シンクレアの唇が僅かに引き結ばれた。
彼女は目を逸らさなかった。
あの日と同じだった。
王城の大広間には、数え切れないほどの貴族が集まっていた。絹の衣擦れ、酒杯の触れ合う音、楽団の奏でる華やかな旋律。誰もが笑顔を浮かべ、自らの家の繁栄と縁を求める場所で、第二王子は突然、シンクレアとの婚約を破棄すると宣言した。
その隣には、別の令嬢が立っていた。
女らしくない。剣ばかり振るっている。愛想がなく、王子の隣に立つにはふさわしくない。
投げつけられた言葉は、どれも彼女の生き方を否定するものだった。
音楽は止まり、広間中の視線が一人へ集中した。面白がる者がいた。哀れむ者もいた。自分が標的でなくてよかったと、密かに安堵した者もいただろう。
その中心で、シンクレアは独りだった。
けれど、縋らなかった。
王子の心変わりを責めることも、隣の令嬢へ怒りを向けることもない。涙を見せず、声を荒らげず、最後まで礼を失わなかった。婚約破棄を受け入れ、必要な言葉だけを返し、深く一礼して大広間を去っていった。
銀色の髪が、振り返ることなく遠ざかっていく。
黒い衣装の裾が、光沢のある床を滑る。
無数の視線を背負いながらも、背筋は最後まで曲がらなかった。
あの背中から目を離せなくなった瞬間を、オーレリアンは今も鮮明に覚えている。
「俺は、あの場で何もできませんでした」
口にすると、自分の未熟さが改めて胸へ刺さった。
割って入ればよかったとは思わない。事情を知らない若者が感情のまま王子へ反論すれば、シンクレアの立場をさらに悪くした可能性もある。彼女が望んでもいないのに庇い立てをすれば、毅然とその場を収めた彼女の覚悟を踏みにじったかもしれない。
それでも、何もできず見送るしかなかった感覚は、今も消えていなかった。
シンクレアはゆっくりと息を吸った。
胸元が僅かに持ち上がり、吐息は長く、音もなく流れていく。窓から入り込んだ風が頬に掛かった銀の髪を揺らしたが、彼女はそれを払わなかった。
オーレリアンは、その一筋が白い頬を横切るのを見つめながら、続ける言葉を探した。
美しいと言うのは簡単だった。
実際、彼女は美しい。
けれど、それだけを伝えれば、これまで彼女へ向けられてきた賛辞と何も変わらない。公爵令嬢だからでもなければ、銀髪が珍しいからでもない。剣を扱える強い女性だからというだけでもなかった。
自分が惹かれたものは、目に見える部分よりもさらに奥にある。
「けれど、あなたがあの場を立ち去る姿を見て、目を逸らせなくなりました」
声はもう震えていなかった。
胸の奥にあるものを、正しい形のまま差し出す。それだけに意識を向けると、不思議なほど恐怖が薄れていく。
「誰も責めず、誰にも縋らず、それでも自分を恥じることなく歩いていく姿が、俺には誰よりも誇り高く見えました」
一歩も近づかなかった。
距離を詰めれば、彼女を圧迫してしまうかもしれない。今はこの場に立ち、自分の言葉が届くことを信じるしかない。
シンクレアの指が止まっている。
薄い色の瞳はオーレリアンを映したまま、先ほどよりも深く揺れていた。
オーレリアンは、最後に残していた言葉を口にした。
「俺が惹かれたのは、あなたの家柄でも容姿でもありません。もちろん、美しい方だとは思っています。でも、それより先に──あなたの生き方を好きになりました」
言葉が部屋の空気へ溶けていく。
その直後、胸に溜め込んでいたものがようやく形を得たように感じられた。
好きになった。
一年前から、その事実だけは一度も変わっていない。
遠くから一度見ただけの相手へ抱いた感情を恋と呼んでよいのか、何度も迷った。憧れにすぎないのではないか。婚約破棄の場に居合わせたことで、傷ついた女性へ同情しているだけではないか。
自分へ問い続けた。
それでも、彼女のことを知るほど想いは薄れなかった。
幼い頃から剣を学び、領地を訪れる魔物へ備え、領民の声へ耳を傾けてきたこと。屋敷の使用人や騎士たちから深く慕われていること。社交界で囁かれる冷淡な評判とは異なり、家族や親しい者へ向ける気遣いは細やかで、困っている者を放っておけない性格であること。
調べるほど、一年前に見た背中の輪郭が鮮明になっていった。
だから、ここへ来た。
家同士が決めた縁談としてではない。
誰かの口を借りた申し込みでもなく、自ら選んだ相手へ、自分の声で結婚を願いたかった。
シンクレアは黙っている。
頬に分かりやすい赤みはなく、喜びを露わにする様子もない。けれど、普段であれば微動だにしないはずの瞳には、隠しきれない戸惑いがあった。
生き方を好きになった。
その言葉は、彼女にとってあまりにも聞き慣れないものだった。
幼い頃から、公爵令嬢として多くの評価を受けてきた。銀髪が美しい。背筋が伸びている。教養がある。王子の婚約者にふさわしい家柄を持っている。
その一方で、剣を好むことは欠点として扱われた。口数が少ないことは愛想がないと言われ、取り繕った笑顔を浮かべられないことは女性らしさに欠けると評された。
第二王子も同じだった。
もっと微笑め。
剣を置け。
自分を立てろ。
婚約者として愛されたければ、今の自分を変えるしかない。
そう求められ続けた。
応えようと努力しなかったわけではない。公務の場では笑みを浮かべ、王子の言葉を立て、剣を握る時間を減らした時期もある。それでも、何かを切り落とすたび、息が苦しくなった。
婚約を破棄された夜、悲しくなかったわけではない。
涙が出なかったのは、傷つかなかったからではなかった。泣けば、彼らが望んだ弱い女に見られる気がした。自分の生き方が間違いだったと認めてしまうようで、どうしても俯けなかった。
あのときの背中を、誇り高いと呼ぶ者がいた。
それも、慰めでも憐れみでもなく、好意を込めて見ていた男がいた。
シンクレアの胸の奥へ、馴染みのない熱がゆっくりと広がっていく。
喜びと呼ぶには、まだ警戒が強すぎた。
けれど、嫌悪ではない。
少なくとも、目の前の青年の言葉を退けたいとは思わなかった。
彼女は視線を上げた。
オーレリアンの瞳には期待がある。
同時に、不安も隠されていなかった。
何も恐れず求婚しているのではない。断られるかもしれないと知りながら立っている。口元には強張りが残り、浅くなりかける呼吸を懸命に整えていた。
それでも、視線だけは一度も逸らさない。
シンクレアは、その不器用な真剣さを長く見つめた。
「なぜ、結婚なのですか」
ようやく発せられた声は、いつもと変わらぬ落ち着きを保っていた。
問い詰める響きはない。
ただ、確かめようとしていた。
一年前に一度姿を見ただけで、なぜ結婚を望むのか。年若い憧れが生み出した衝動ではないのか。婚約を破棄された女を救いたいという、一時の正義感ではないのか。
短い問いの中へ、それらすべてが沈められている。
オーレリアンはすぐに答えなかった。
考えていないからではない。
軽い言葉で返したくなかった。
恋人として付き合いたいと申し込むこともできたはずだった。だが彼が思い描いた未来の中で、シンクレアはいつも隣にいた。
朝に顔を合わせ、同じ食卓を囲む。
帰る場所を共有し、嬉しいことがあれば真っ先に伝える。危険が迫れば共に立ち向かい、どちらかが疲れれば支える。年を重ねても、互いの生き方を尊重しながら歩き続ける。
一時の恋だけを求めているのではなかった。
彼女と生きたい。
その願いが、初めから胸の中心にあった。
「あなたの一時をいただきたいのではなく、その先の人生を共に歩きたいと思ったからです」
声を張ったわけではない。
美しい誓いを並べたわけでもない。
それでも、その言葉には、これ以上付け足せばかえって濁ってしまうほどの真っ直ぐさがあった。
オーレリアンは続けて何かを言い掛け、唇を閉じた。
沈黙を恐れて言葉を重ねるのはやめた。
自分が伝えるべきことは、もう伝えた。
後は、シンクレアがどう受け止めるかを待つしかない。
キララが小さく鼻を鳴らした。
白い身体を起こし、まずオーレリアンの脚へ頬を擦りつける。それからゆっくりとシンクレアのもとへ歩み寄り、膝の上へ顎を載せた。
シンクレアの手が、無意識にその頭を撫でる。
柔らかな毛並みの下には、確かな温もりがあった。
キララは目を細め、もっと撫でろとせがむこともなく、ただ寄り添っている。急いで答えを出す必要はないと、言葉の代わりに告げているようだった。
シンクレアは一度、父と母へ視線を向けた。
ローゼンタール公爵は黙っている。
娘の代わりに判断するつもりはないのだろう。夫人も笑顔で背中を押すことはせず、ただ静かに見守っている。兄も口を挟まない。
誰も、彼女へ答えを強いていなかった。
これは王家から命じられた婚約ではない。
家同士の都合だけで決められる縁談でもない。
目の前の青年が自ら望み、言葉を聞いた自分が選ぶ話だった。
その事実が、シンクレアの胸へ僅かな安堵をもたらす。
しかし、一度の言葉だけで人生を決められるほど、彼女は幼くない。
目の前の青年は誠実に見える。
その眼差しに嘘がないことも、少なくとも今この瞬間は真剣であることも分かった。
それでも、何も知らない。
どのような日々を送り、何に怒り、何を恐れ、弱い者へどう接するのか。家族の前ではどのような顔を見せ、思い通りにならないときに何を選ぶ人間なのか。
結婚とは、言葉だけでは測れない時間を共にすることだ。
シンクレアはゆっくりとキララの頭から手を離した。
「私は、あなたのことを何も知りません」
拒絶ではなかった。
だが、受諾でもない。
その声に宿る慎重さを聞き取り、オーレリアンは僅かに顎を引いた。表情を曇らせることも、急いで自分を売り込むこともせず、彼女の言葉を真正面から受け止める。
「今ここで、お受けすると申し上げることはできません」
オーレリアンの胸が僅かに沈んだ。
予想していた言葉だった。
それでも、実際に耳へ届けば痛みがないわけではない。握り締めそうになった指をゆっくりと開き、呼吸を整える。
断られたのではない。
少なくとも、まだ。
自分へ言い聞かせるためではなく、彼女の言葉を正しく受け取るために、そう胸の中で確かめた。
シンクレアは、その小さな変化を見ていた。
落胆を隠し切れず、それでも自分へ笑顔を押しつけない。感情に任せて理由を求めることも、好意を盾に縋ることもなかった。
若い。
けれど、幼くはない。
その違いが、彼の沈黙の中に表れている。
「少し、考える時間をいただけますか」
オーレリアンの瞳へ、わずかな光が戻った。
門前払いされる可能性も覚悟していた。考えてもらえるということは、自分が彼女の未来の選択肢として、僅かでも残されたということだった。
喜びを表情へ出しすぎないよう気をつけながら、深く頭を下げる。
「はい。もちろんです」
声には安堵が滲んでいた。
隠そうとしても隠し切れない、素直な響きだった。
その直後まで口を閉ざしていたローゼンタール公爵が、卓上からゆっくりと手を引いた。
突然の求婚を受け、娘の答えを待つあいだ、当主として何を言うべきか考えていたのだろう。眉間には薄い皺が刻まれていたが、オーレリアンへ向ける眼差しに険しさはない。
「エルフレイム辺境伯閣下」
低く落ち着いた声が、静まり返った応接室へ広がった。
アルベルトが顔を上げる。
「本日は領地の情報交換のため、遠路お越しいただいた。その上で、このような大切なお話まで頂戴したこと、まずは当家の主として感謝申し上げます」
公爵はそこで一度言葉を切り、隣に座る娘へ視線を向けた。
シンクレアは姿勢を崩していない。
けれど、膝の上へ戻された指先には、先ほどまでにはなかった迷いが滲んでいる。答えを先延ばしにしたいのではない。軽率に決めたくないからこそ、考える時間を求めている。
父には、それがよく分かっていた。
「娘にとっても、エルフレイム卿にとっても、生涯に関わる話です。一刻や二刻で結論を出させるべきものではないでしょう」
アルベルトは小さく頷いた。
求婚の返事を急がせるつもりはなかった。だが、ここから自領へ戻るには馬車で半日を要する。改めて訪問するにしても、辺境伯と公爵家の往来は、思い立った日に気軽に行えるものではない。
その事情を、公爵も当然理解していた。
「すでに客室は整えてあります。もとより遠路を日帰りでお戻りいただくつもりはありませんでしたが、よろしければ予定を延ばし、数日ほど当家へご滞在ください」
提案が口にされた瞬間、オーレリアンは僅かに目を見開いた。
すぐ近くで返事を待てる。
その喜びが胸へ浮かびかけ、同時に、シンクレアへ圧力を与えるのではないかという不安が追いかけてくる。
滞在しているあいだ、彼女は求婚者が同じ屋敷にいることを意識せずにはいられない。顔を合わせるたび返事を求められているように感じさせてしまうかもしれなかった。
オーレリアンが口を開くより先に、アルベルトが息子へ一度視線を寄越した。
浮つくな。
急かすな。
そう告げるような眼差しだった。
オーレリアンは小さく顎を引き、胸へ生じた喜びを静かに収める。
アルベルトはローゼンタール公爵へ向き直った。
「ありがたいお申し出です。こちらも元より、一晩はお世話になるつもりでおりました。ご迷惑でなければ、数日ほど滞在させていただきましょう」
その返答を聞き、シンクレアの瞳が僅かに揺れる。
……数日。
その時間があれば、目の前の青年を少しは知ることができる。
求婚の場で見せた姿だけではない。父親や使用人へどのように接するのか、思い通りにならないときにどのような表情をするのか。言葉と普段の行いが一致しているのか。
確認できる機会が、向こうから与えられた。
だが同時に、胸の奥へ落ち着かない感覚が広がっていく。
数日間、オーレリアンがこの屋敷にいる。
朝も、食事の席も、庭も、訓練場も。
意識しない方が難しい。
シンクレアが黙っていると、オーレリアンは彼女へ向き直った。
「滞在しているあいだも、お返事を急かすつもりはありません」
求婚のときより、少しだけ柔らかな声だった。
彼女の不安を先回りして解こうとしたのではない。ただ、自分が最も伝えておくべきことを考えた結果なのだろう。
「シンクレア様のお考えがまとまるまで、この話はこちらから持ち出しません」
言葉を終えると、オーレリアンはそれ以上何も付け加えなかった。
自分を知ってほしいとも、機会を与えてほしいとも言わない。
待つと決めたなら、待つ。
その姿勢を言葉ではなく行動で示そうとしている。
シンクレアは、しばらく彼の瞳を見つめた。
胸にあった警戒が消えたわけではない。
一度傷ついた経験は、たった一度の誠実な求婚だけで拭い去れるものではなかった。人の言葉が変わることも、好意がいつか煩わしさへ変わることも、彼女は知っている。
それでも、オーレリアンの眼差しから逃れたいとは思わなかった。
「分かりました」
返した声は短い。
けれど、先ほどまでより僅かに柔らかかった。
その違いにオーレリアンが気づいたかどうかは分からない。彼はただ安堵したように息を吐き、深く一礼した。
足元でキララが嬉しそうに尾を振る。
応接室へ流れ込んだ風が、その白い毛並みを柔らかく撫でていった。
シンクレアは、オーレリアンの隣へ寄り添うキララを見つめる。
初対面のはずの青年。
それなのに、キララは再会を喜んでいるように見える。
胸の奥に引っ掛かっていた違和感が、先ほどよりも少しだけ大きくなった。
森の匂い。
湿った土。
木漏れ日の中で聞いた、幼い泣き声。
形にならない記憶が、遠い場所から水面を叩いた。
けれど、そこから先はまだ見えない。
シンクレアが記憶の糸を掴もうとする前に、キララはオーレリアンの手へ鼻先を押しつけた。彼は驚いたように目を丸くし、それから困ったような、けれど心から嬉しそうな笑みを浮かべる。
その顔を見た瞬間、シンクレアの胸が僅かに揺れた。
数日。
その短い時間の中で、自分はこの青年の何を知ることになるのだろう。
答えはまだ出ない。
ただ、求婚を受けた直後よりも、拒むという選択が少しだけ遠ざかっていることを、シンクレア自身はまだ認められずにいた。




