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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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第7章 第5話:保護観察対象


 エリアナ・ルクス・ヴェルグラントが正式に教室へ入った翌日、彼女の席には朝から余白があった。


 前方左側。


 出入口が見え、窓からは少し離れている。


 教師の目が届き、周囲から孤立しすぎず、かといって視線に囲まれすぎない場所。


 その席を決めるだけで、昨日の午後、学園長、ロウ教師、ユリウス、ミリア、エレオノーラがかなり時間を使っていた。


 席順は、ただの席順ではない。


 誰の隣に座るか。


 背後に誰がいるか。


 視線がどこから来るか。


 逃げ道があるか。


 孤立に見えないか。


 監視に見えないか。


 配慮と制限の境目は、いつも細い。


 アルト・レインフォードは、自分の席で左手首に触れた。


 痛みはない。


 熱は少し。


 声はない。


 教室の中は、昨日より少しだけ整っていた。


 ロウ教師の授業と、ミリアの廊下での注意が効いたのだろう。


 あからさまな噂話は減っている。


 けれど、視線は残る。


 見ないようにしながら見ている視線。


 警戒を隠した好奇。


 好奇を隠した警戒。


 それらが、エリアナの席へ薄く集まっていた。


 まだ本人はいない。


 それでも、席だけで人は何かを考える。


「見られてるな」


 隣のカイ・ロックハートが小さく言った。


「はい」


「席だけで見られるの、嫌だな」


「はい」


「アルトも、そうだったか」


 アルトは少し考えた。


 自分の席。


 最初は、リゼの護衛位置や出入口との距離、銀環反応時の退避路で決まっていた。


 誰の隣か。


 窓から遠いか。


 廊下へ出やすいか。


 それらが自分の意思より先に決められていた。


「はい。少し似ています」


 言ってから、すぐに付け足す。


「でも、同じではありません」


 カイが頷く。


「言えたな」


「はい」


「じゃあ良好だ」


 アルトは少し笑った。


「カイが言うんですか」


「たまにはな」


 前方では、リゼ・グレイスが自分の席に座っている。


 灰銀の髪は整っている。


 背筋も伸びている。


 だが、視線はエリアナの空席へ向きすぎないようにしているのがわかった。


 見る。


 でも、見続けない。


 警戒する。


 でも、監視しない。


 それは簡単ではない。


 リゼにとって、特に。


 ミリア・ファルネーゼは、教室の中央寄りに座り、周囲の反応を柔らかく観察している。


 ティナやノエル、リリアも、今日は少し緊張しているようだった。


 セレナ・アイゼンベルグは後方で静かに教科書を開いているが、ページはほとんど進んでいない。


 ラウル・ヴァレンシュタインは姿勢よく座り、視線をまっすぐ黒板へ向けている。


 そのまっすぐさも、彼なりの配慮なのだろう。


 扉が開いた。


 ロウ教師が入ってくる。


 その後ろに、エリアナがいた。


 今日は青灰色の礼装ではなく、王立学園の制服を着ている。


 制服はまだ少し新しい。


 体に合ってはいるが、着慣れてはいない。


 淡い亜麻色の髪は昨日と同じく丁寧に結われ、薄紫の瞳は静かに教室を見た。


 視線が集まる。


 エリアナはそれを受けた。


 受け慣れている人の姿勢だった。


 けれど、平気な人の姿勢ではなかった。


 ロウ教師が短く言う。


「昨日伝えた通り、エリアナ・ルクス・ヴェルグラントが本日から授業に参加する。過度な注目をするな。必要な確認は教師を通せ」


 それだけで、余計なざわめきは起きなかった。


 エリアナは席へ向かう。


 歩く速度は一定。


 誰の机にも触れない。


 リゼの席の横を通る時、ほんのわずかに足が緩んだ。


 リゼも動かない。


 だが、顔を上げ、短く言った。


「おはようございます。エリアナさん」


 教室の空気が少しだけ揺れた。


 名前で呼んだ。


 敗戦国の姫ではなく。


 リゼ・グレイスが、エリアナを名前で呼んだ。


 エリアナはリゼを見る。


 昨日の応接室での会話が、その間に沈んでいる。


 許しではない。


 和解でもない。


 でも、始まったもの。


「おはようございます。リゼさん」


 エリアナはそう返した。


 リゼの肩がほんの少し緩む。


 アルトの左手首が淡く温かくなった。


 痛みはない。


 声もない。


 カイが小声で言う。


「おお」


 ミリアが静かに微笑む。


 エリアナは席についた。


 机の上に教科書と筆記具を置く。


 その動きは丁寧だが、どこか慎重すぎる。


 物を置く位置まで決まっているように見える。


 授業が始まった。


 最初は王国史ではなく、一般科目だった。


 教師は昨日までに方針共有を受けているのだろう。


 エリアナを過度に指名することもなく、無視することもなく、淡々と授業を進めた。


 それでも、教室の空気はどこか硬い。


 全員が少しずつ、いつもと違う自分でいる。


 アルトは左手首の状態を何度か確かめた。


 痛みなし。


 熱少し。


 声なし。


 エリアナが近くにいることで、銀環は微かに温かい。


 しかし、強い反応はない。


 それは少し安心だった。


 同時に、少し不思議でもあった。


 王家血統。


 旧ヴェルグラント。


 ルクス。


 白鐘を知っているかもしれない人。


 昨日、エリアナは白鐘という言葉に反応した。


 アルトの左手首も反応した。


 でも、今は静かだ。


 人がそこにいることと、その人が危険であることは同じではない。


 反応は情報であって、判決ではない。


 クラウスの言葉が頭の中に浮かぶ。


 授業が終わると、鐘は鳴らなかった。


 廊下から、生徒会補助の声が聞こえる。


「一時限目、終了です」


 教室の空気が少し緩む。


 生徒たちは席を立つ。


 だが、エリアナの席へすぐに近づく者はいなかった。


 近づきたい者も、どう声をかけていいかわからないのだろう。


 遠巻き。


 その距離が、優しさなのか、警戒なのか、判断しづらい。


 エリアナは席に座ったまま、教科書を閉じている。


 誰かを待っているようにも見える。


 誰にも近づかれたくないようにも見える。


 ミリアが立ち上がった。


 しかし、すぐにはエリアナへ行かない。


 まずリゼを見る。


 次にアルトを見る。


 そして、少し考えてから言った。


「ユリウス先輩から、休み時間に簡単な行動範囲の確認があると言われていたわね」


 エリアナが顔を上げる。


「はい。生徒会室で、と聞いています」


「私たちも同席予定です」


 ミリアの言う「私たち」には、アルト、リゼ、カイも含まれていた。


 エリアナの視線が少し動く。


 アルトの左手首へ一瞬。


 それからリゼへ。


「必要なのですか」


 問いは丁寧だが、警戒がある。


 ミリアは頷いた。


「必要と判断されています。ただし、あなたとアルトさんの反応を見るためだけの場ではありません。学園内で同じ制限語をどう扱うか、確認するための場です」


「制限語」


「保護対象、保護観察対象、行動制限、同席者、報告範囲。そういう言葉です」


 エリアナの指が机の上でわずかに動いた。


「……なるほど」


 カイが小声でアルトに言う。


「うわ、嫌な単語ばっかだな」


「はい」


「でも確認しないと、勝手に使われるんだろ」


「はい」


 エリアナはその会話を聞いていたのか、少しだけカイを見た。


 カイは目が合って、硬直した。


「えっと」


 何か言うべきか迷った末、彼は言った。


「嫌なら、嫌って言った方がいいと思います」


 ミリアが少し目を伏せた。


 あまりにも直接的。


 けれど、間違ってはいない。


 エリアナはカイを見ている。


「言えば、変わるのですか」


 カイは一瞬詰まった。


 そして、正直に答えた。


「全部は変わらないと思います」


 エリアナの瞳が揺れた。


「でも」


 カイは続けた。


「言わないと、全部そのままだと思います」


 教室の空気が少し静かになる。


 エリアナはしばらく黙っていた。


 それから、小さく言った。


「覚えておきます」


 カイは少しだけ頷く。


「はい」


 本人が自分で驚いたような返事だった。


 生徒会室へ向かう途中、廊下の視線は相変わらずあった。


 ただ、昨日よりは少し減っている。


 ロウ教師の授業と、学園長の方針が広がり始めているのかもしれない。


 それでも、完全には消えない。


 エリアナはそれを真正面から受けて歩く。


 リゼは彼女の少し後ろ、斜め右を歩いた。


 護衛ではない。


 監視でもない。


 ただ、何かが起きた時に動ける位置。


 アルトは少し離れて歩く。


 銀環の熱は少し。


 痛みなし。


 声なし。


 ミリアはエリアナの横へ並び、必要以上に話しかけない。


 カイは後ろを歩きながら、時々表情を険しくしては、自分で直そうとしている。


「顔」


 リゼが小声で言う。


 カイが即座に眉間を緩める。


「直した」


「良好です」


「それ今いる?」


「必要です」


 エリアナが少しだけ振り返った。


 今のやり取りをどう受け取ったのか、表情だけではわからない。


 だが、彼女の肩の硬さが、ほんの少しだけ緩んだように見えた。


 生徒会室には、ユリウスとエレオノーラが待っていた。


 机の上には、学園内の簡易地図、行動範囲表、連絡先一覧、記録同意書が並べられている。


 しかし、紙の枚数は必要最低限に抑えられていた。


 エリアナが一瞬、その紙束を見て表情を硬くする。


 ユリウスはすぐに言った。


「今日は説明を短くする。必要な時に見返せるよう、写しは渡す。ただし、今すべてを覚える必要はない」


 エリアナはユリウスを見る。


「覚えなければ、違反になりますか」


 ユリウスは首を横に振った。


「ならない。わからない時は確認できる。確認を求めたこと自体を違反扱いしない」


 エリアナの指先が少し緩む。


「……承知しました」


 エレオノーラが記録する。


「確認を求めたこと自体を違反扱いしない。本人へ説明済み」


 その記録が、少し安心の形に見えた。


 ユリウスは地図を広げた。


「まず、現在の行動範囲。教室、食堂、図書室の指定区画、生徒会室、学園長室、女子寮の指定居室。中庭は当面、学園側同席者ありで利用可能。鐘楼、旧倉庫、訓練場外周、外門付近は制限」


 エリアナは黙って聞いている。


 アルトは左手首に触れた。


 痛みなし。


 熱少し。


 声なし。


 自分にも似た説明があった。


 どこへ行けるか。


 誰となら行けるか。


 何を報告するか。


 自分の場所なのに、自分の歩ける線を紙で決められる感じ。


 エリアナはどんな気持ちで聞いているのだろう。


 ユリウスは続ける。


「同席者について。学園側からは、初期段階ではミリアさん、リゼ、僕、エレオノーラ、教師のいずれかが基本になる。ただし、常に全員が必要という意味ではない」


 エリアナが尋ねる。


「私は、一人で廊下を歩けないのですか」


 声は静かだった。


 しかし、部屋の空気が少し重くなる。


 ユリウスは誤魔化さなかった。


「初日から完全に自由にはできない。だが、段階的に広げる。最初の二日間は、主要移動に同席者を置く。その後、本人状態と周囲状況を見て見直す」


「本人状態」


 エリアナが繰り返す。


「私が落ち着いているかどうか、という意味ですか」


「それも含む。ただし、それだけではない。周囲の視線、噂、王宮側や外部からの接触可能性も見る。君だけを評価するものではない」


 エリアナの瞳が少しだけ動いた。


「私だけの問題ではない」


「そうだ」


 ユリウスは言った。


「君を制限する理由を、君の性質だけに押しつけない」


 その言葉に、アルトの胸が少し温かくなる。


 自分にも欲しかった言葉。


 危険がある。


 だから君を閉じ込める。


 そうではなく、周囲の危険も見る。


 本人を危険そのものにしない。


 エリアナは小さく息を吐いた。


「その説明は、初めて聞きました」


 ユリウスの表情が少しだけ曇る。


「これからは、そう説明する」


 エレオノーラが記録する。


「行動制限理由。本人状態のみならず周囲状況、外部接触可能性を含む。本人を危険そのものとして扱わない」


 カイが小さく言った。


「大事な記録だな」


 エレオノーラは頷く。


「はい」


 次に、王宮側への報告範囲が説明された。


 ここで部屋の空気はさらに硬くなる。


 ユリウスは紙を一枚だけ出した。


「王宮監察側は、君の行動記録、接触者記録、発言要約の共有を求めている。学園としては、出席、移動範囲、重大事案のみ共有する方針だ。私的発言や身体反応、心理状態の詳細は本人同意なしに出さない」


 エリアナの目が細くなる。


「本当に?」


「本当に」


 ユリウスははっきり答えた。


「昨日の学園長方針として記録済みだ」


 エリアナは信じきっていない顔をした。


 当然だろう。


 これまで何度も、保護や観察の名で情報を取られてきたのかもしれない。


 アルトは、思わず口を開いた。


「僕も、身体反応の詳細は本人同意なしに共有しないことになっています」


 エリアナがアルトを見る。


 部屋の全員の視線も少し集まる。


 アルトは左手首を押さえる。


 痛みなし。


 熱少し。


 声なし。


「最初からそうだったわけではありません。でも、今はそう記録されています」


 エリアナは静かに問う。


「それは、あなたが望んだからですか」


「はい。僕だけでは言えなかったこともあります。でも、今は自分でも言います」


 少し息を吸う。


「僕の反応は、僕の許可なく全部渡していいものではありません」


 エリアナの薄紫の瞳が揺れた。


「言えるのですね」


「言えるようになりました」


 アルトは答えた。


 その言葉は、第5章、第6章で少しずつ積み重ねてきたものだった。


 最初から強かったわけではない。


 何度も怖くなった。


 何度も声が出なくなった。


 でも、今は言えることがある。


 エリアナはしばらくアルトを見ていた。


 測る目ではない。


 理解しようとする目。


「私は」


 エリアナは言いかけて、止めた。


 それから、静かに言った。


「私は、保護観察対象という言葉が嫌いです」


 部屋の空気が変わった。


 初めて彼女が、はっきり嫌だと言った。


 ユリウスも、エレオノーラも、ミリアも、リゼも、誰も遮らない。


 エリアナは続けた。


「保護と言われます。でも、私が何を望むかより、私がどこに置かれるか、誰と会ってはいけないか、何を話してはいけないかが先に決まります」


 アルトの左手首が淡く温かくなる。


 痛みはない。


 声もない。


 それは、怖さではなく、共鳴に近いものだった。


 エリアナは自分の手元を見た。


「観察と言われます。私が何を言ったか、どこを見たか、誰に反応したか、記録されます。私が何を感じたかではなく、私から何が読み取れるかが大事にされます」


 その言葉が、アルトの胸に刺さる。


 測定印。


 反応記録。


 小鐘。


 紙片。


 自分が何を感じたかより、銀環がどう反応するかを欲しがる人たち。


「私は」


 エリアナはゆっくり言った。


「保護される人ではあるのでしょう。危険があることも、理解しています。でも、保護観察対象だけではありません」


 アルトは思わず頷いていた。


「はい」


 エリアナがこちらを見る。


「あなたも、そうなのですね」


「はい」


「保護対象」


「はい」


 アルトは左手首に触れた。


「でも、僕は対象だけではありません」


 エリアナの目が少しだけ揺れた。


「昨日も、そう言っていましたね」


「はい」


「それを言えるのは、羨ましいです」


 その言葉に、アルトは少し驚いた。


「羨ましい、ですか」


「はい」


 エリアナは静かに頷く。


「私は、嫌だとは思っていました。でも、言っても変わらないと思っていました。言えば、扱いづらい対象としてさらに記録されるだけだと」


 ユリウスが苦い顔をする。


「その扱いは、ここではさせない」


 エリアナはユリウスを見る。


「信じてよいのか、まだわかりません」


「それでいい」


 ユリウスはすぐに答えた。


「今日信じろとは言わない。記録と実際の扱いで確認してくれ」


 エリアナは少しだけ黙った。


「確認」


 その言葉を、彼女は小さく繰り返した。


 リゼが静かに言う。


「確認は、疑いを失礼にしないための手順にもなります」


 エリアナがリゼを見る。


 昨日の応接室の余韻が、また二人の間に浮かぶ。


「あなたは、本当に確認が好きなのですね」


 リゼは真面目に答えた。


「はい」


 カイが小声で「そこ即答なんだな」と言い、ミリアに軽く視線で止められた。


 エリアナはそれを見て、ほんの少しだけ目元を緩めた。


 笑ったとは言えない。


 けれど、部屋の空気は少しだけ柔らかくなった。


 ユリウスは次の紙を出した。


「次に、接触記録について。王宮側は、アルト君とエリアナさんの接触記録を詳細に求める可能性が高い」


 部屋の空気が再び硬くなる。


 アルトの左手首が少し熱を持つ。


 エリアナの指もわずかに動いた。


 ユリウスは続ける。


「現時点で、二人を同時に観察対象として扱うことは認めない。必要な学園内記録は残す。ただし、それは安全確認のためであり、反応実験ではない」


「反応実験」


 エリアナが言った。


 声が少し冷える。


「そう呼ばれるものを、私は知っています」


 アルトの左手首が熱を帯びる。


 痛みはない。


 だが、胸が重い。


 ミリアが静かに尋ねる。


「今、話せる内容ですか」


 エリアナは少し考えた。


「詳しくは、まだ」


「では、今は止めましょう」


 ミリアはすぐに言った。


「話せる時に、話したい範囲で。ここでは、あなたの過去を引き出すための場ではありません」


 エリアナはミリアを見た。


 その目に、ほんの少しだけ驚きがあった。


「止めてくださるのですね」


「もちろん」


 ミリアは柔らかく答える。


「言葉を出すことも大事だけれど、出さないことを選べるのも大事です」


 アルトは頷いた。


「止めてもらえるのは、怖くないです」


 その言葉に、エリアナがアルトを見る。


「あなたも」


「はい。怖い話でも、中止できると聞けることがあります」


 エリアナは小さく息を吐いた。


「……なるほど」


 エレオノーラが記録した。


「エリアナさん、詳細な過去共有は現時点で保留。本人意思尊重。中止可能性説明済み」


 エリアナはその記録を見た。


「私が話さなかったことも、記録されるのですか」


 エレオノーラは頷いた。


「はい。ただし、話さなかった内容ではなく、“話さない選択が尊重された”という記録です」


 エリアナは静かにその言葉を受け取った。


「それは、少し不思議です」


「不快ですか」


「いえ」


 少し間を置いて、エリアナは答えた。


「少し、安心に近いです」


 アルトの左手首が淡く温かくなった。


 痛みなし。


 熱少し。


 声なし。


 確認が、誰かを縛るものではなく、守るものになる瞬間。


 記録が、奪うものではなく、勝手に書き換えられないためのものになる瞬間。


 自分が少しずつ学んできたことを、今、エリアナも少しだけ見ている。


 それが不思議だった。


 同じではない。


 でも、少し似ている。


 説明は続いた。


 食堂利用。


 図書室利用。


 女子寮の居室。


 外部書簡。


 学園内で困った時の連絡先。


 エリアナは一つずつ確認した。


 時々質問する。


 その質問は鋭い。


 曖昧な表現はすぐに見抜く。


「必要に応じて、とは誰が判断するのですか」


「一時的に、とは何日ですか」


「本人同意は書面ですか、口頭でもよいのですか」


「拒否した場合、その拒否は王宮へ報告されますか」


 ユリウスは一つずつ答えた。


 わからないことは、わからないと言った。


 そのたびにエリアナは少し驚いたように見えた。


 おそらく、これまでの説明では、わからないこともわかっているように押し切られてきたのだろう。


 最後に、ユリウスは紙束を閉じた。


「今日の説明はここまで。情報量が多い。これ以上は負荷が高い」


 エリアナは少しだけ頷いた。


「はい。正直に言えば、疲れました」


 それを聞いて、ミリアが微笑む。


「言えたわね」


 エリアナは少しだけ目を伏せる。


「言うべき場だと判断しました」


 リゼが静かに言う。


「良好です」


 エリアナはリゼを見た。


「それは、あなたの口癖ですか」


「はい」


「不思議な言葉ですね」


「状態確認の肯定として使用しています」


「そうですか」


 エリアナはほんの少し考えた。


「では、私も良好なのでしょうか」


 リゼは一瞬、答えに迷った。


 ミリアが少しだけ微笑む。


 アルトも見ている。


 カイは「良好でいいだろ」と顔に出している。


 リゼは静かに答えた。


「はい。疲れたと言えたことは、良好です」


 エリアナは目を伏せた。


 そして、小さく言った。


「……そうですか」


 その声は、少しだけ柔らかかった。


 生徒会室を出た後、廊下の窓辺で短い休憩が取られた。


 エリアナは窓の外を見ている。


 中庭には、もう学園祭の台も看板もない。


 ただ、芝生の端に少しだけ踏み跡が残っている。


 小さな灯の焼き菓子店があった場所。


 アルトはその跡を見る。


 リゼも見ていた。


 カイがふと思い出したように、布包みを取り出す。


「休憩用」


 ミリアがすぐに確認する。


「照合済み?」


「もちろん。普通の焼き菓子。商品じゃないやつ」


 カイは少し迷ってから、エリアナにも見えるように布包みを開いた。


「食べ物、苦手とか制限ありますか」


 エリアナは少し驚いたようにカイを見た。


「特には」


「小麦、卵、乳、林檎、杏が入ってます」


 アルトは思わず笑った。


 カイが成分表示を言った。


 小さな灯の手順が、ここにも残っている。


 エリアナはその説明を聞き、少しだけ目を伏せた。


「確認しました」


 その言い方は、昨日までの学園祭の余韻と繋がる。


 カイは一つ、小さな欠けを差し出した。


「食べますか。嫌なら断っていいです」


 エリアナは手を伸ばさなかった。


 しばらく布包みを見ている。


 受け取ること。


 食べること。


 それもまた、誰かの厚意を受け入れるという行為だ。


 彼女には、それすら簡単ではないのかもしれない。


「毒見は」


 エリアナが小さく言いかけた。


 室内ではない廊下の空気が、一瞬止まる。


 カイが目を見開く。


 ミリアの表情が静かに変わる。


 リゼの視線が鋭くなるが、敵意ではない。


 エリアナはすぐに言葉を止めた。


「失礼しました」


 カイは少しだけ眉を寄せた。


 怒りではなく、どう返せばいいかわからない顔。


 それから、彼は欠けを一つ自分で口に入れた。


 噛んで、飲み込む。


「今食った」


 エリアナが彼を見る。


「それは、毒見ですか」


「いや」


 カイは少し考える。


「俺も食いたかっただけです。でも、見た方が安心するなら、それでいいです」


 エリアナの目が揺れた。


 ミリアが柔らかく言う。


「今は、受け取らなくてもいいわ」


 アルトも言う。


「止めても大丈夫です」


 エリアナは布包みを見ていた。


 そして、ゆっくり手を伸ばした。


 小さな欠けを一つ取る。


 すぐには食べない。


 まず香りを確かめるように少し近づける。


 それから、ほんの少しだけ口に入れた。


 噛む。


 飲み込む。


 表情は大きく変わらない。


 けれど、指先の力が少し抜けた。


「甘いです」


 カイが少し安心したように言う。


「甘いです」


「なぜ二回」


「いや、感想が合ってたから」


 エリアナは少しだけ瞬きをした。


 それから、ほんのわずかに口元を緩めた。


 笑みと言うには小さい。


 でも、作られた礼ではなかった。


「おいしいです」


 カイの顔がぱっと明るくなる。


「だろ」


 ミリアが小さく笑った。


 アルトの左手首が淡く温かくなる。


 痛みなし。


 熱少し。


 声なし。


 エリアナが焼き菓子を食べて、おいしいと言った。


 それだけのこと。


 でも、その「それだけ」が、今はとても大きかった。


 エリアナは残りの欠けを見つめた。


「食べるものを、自分で選べるのは」


 そこで一度、言葉を止める。


 アルトが静かに聞いた。


「安心しますか」


 エリアナはアルトを見る。


 薄紫の瞳に、少しだけ驚きが浮かぶ。


 それから、ゆっくり頷いた。


「とても」


 その言葉は、今日の彼女の中で一番素直な響きだった。


 アルトは頷いた。


「僕も、そうです」


 エリアナは何も言わなかった。


 でも、聞いていた。


 廊下の窓の外では、中庭の光が少しずつ昼へ向かっている。


 学園祭の跡は薄くなり、昨日よりも日常が戻ってきている。


 それでも、完全に消えたわけではない。


 小さな灯の店があった場所。


 鐘が鳴らなかった閉会。


 手拍子。


 記録。


 そして今、保護対象と保護観察対象と呼ばれた二人が、同じ焼き菓子を食べている。


 同じではない。


 でも、少し似ている。


 アルトは左手首に触れた。


「痛みなし。熱少し。声なし」


 エリアナがその言葉を聞き、静かに尋ねた。


「それは、今の状態ですか」


「はい」


「今は、怖くないのですか」


 アルトは少し考えた。


「緊張はしています。でも、怖くは少しだけです」


「少しだけ」


「はい。エリアナさんが、保護観察対象という言葉が嫌だと言ったから」


 エリアナは目を伏せる。


「それで、怖くなくなるのですか」


「全部ではありません。でも、同じ言葉を嫌だと思う人がいると、少し一人ではない感じがします」


 エリアナは長く黙った。


 そして、小さく言った。


「私は、あなたと同じではありません」


「はい」


 アルトはすぐに頷く。


「同じではありません」


「私は旧ヴェルグラント王家の血を持っています。あなたは王国側の保護対象です」


「はい」


「私の故国は敗れました。あなたは、王国の学園にいます」


「はい」


「私は、王国を信じていません」


「はい」


 エリアナはアルトを見た。


 問いかけるように。


 拒むように。


 確かめるように。


 アルトは左手首に触れたまま言った。


「同じではありません。でも、対象だけではないというところは、少し似ています」


 エリアナの瞳が揺れた。


 しばらくして、彼女は小さく頷いた。


「その言い方なら、受け取れます」


 アルトは息を吐いた。


「よかったです」


 ミリアが静かに微笑む。


 リゼはそのやり取りを見ていた。


 灰銀の戦乙女としてではなく、リゼ・グレイスとして。


 カイは焼き菓子の布包みを持ったまま、少し鼻をこすった。


「じゃあ、あと一個食いますか」


 エリアナは少しだけ驚いたようにカイを見た。


 そして、ほんの少し考えた。


「……半分なら」


「半分ですね」


 カイは即座に割った。


 大きい方と小さい方を見比べ、少し迷った末、できるだけ均等にする。


 その真剣さに、エリアナがほんのわずかに目元を緩めた。


 アルトはそれを見て、左手首の熱がまた少し下がるのを感じた。


 保護対象。


 保護観察対象。


 その言葉はまだ消えない。


 今日の記録にも、王宮の文書にも残るだろう。


 でも、その下に別の記録ができた。


 エリアナさんは、保護観察対象という言葉が嫌だと言えた。


 アルトは、僕は対象だけではありませんと言えた。


 二人は同じではないと確認した。


 それでも、少し似ているところを受け取れた。


 焼き菓子を半分ずつ食べた。


 それは小さな記録だった。


 けれど、小さな灯と同じように、帰る場所を少しだけ照らすものだった。


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