第4章 第16話:首席候補と監察報告
翌朝、学園の掲示板には、剣術大会の正式結果が貼り出されていた。
第一学年基礎剣術大会 最終結果
優勝 リゼ・グレイス
準優勝 ラウル・ヴァレンシュタイン
第三位 セレナ・アイゼンベルグ
技能評価優秀者 カイ・ロックハート
堅実評価 ダリオ・エルム
その他、各試合における礼節、制御、安全意識に関する評価が細かく記されている。
朝の中庭は、昨日の決勝の熱をまだ残していた。
掲示板の前には生徒たちが集まり、名前を指差しながら話している。昨日の歓声がそのまま朝の声へ変わったようだった。
「やっぱりグレイスさん優勝だ」
「ラウル、準優勝か。でも決勝すごかったよな」
「セレナも三位。あの人も強かった」
「ロックハート、技能評価優秀者って書いてある」
「あ、ほんとだ。負けたけど評価されたんだ」
「昨日の決勝、最後の一歩すごかったよね」
「戻る一歩って言ってたやつ?」
「何それ、かっこいい」
「でもグレイスさん、全然浮かれてないね」
リゼ・グレイスは、その掲示板の前に静かに立っていた。
優勝者として、そこに名前がある。
灰銀の髪が朝日に淡く光り、制服のリボンはミリアに直されたばかりで、きちんと整っている。
昨日の白銀の記章は、今日は胸元には付けていない。学園から正式に渡されたものだが、普段の授業中に付ける必要はないという判断らしい。
ただ、リゼの鞄の中には確かに入っている。
第一学年基礎剣術大会、優勝。
リゼ・グレイス。
戦場の命令書ではなく、王宮の評価書でもなく、学園の掲示板に載った名前。
アルト・レインフォードはその隣で、左手首に触れていた。
痛みなし。
熱、少し。
声なし。
現在地は、学園中庭。
朝。
掲示板前。
リゼさん、ミリアさん、カイといる。
リゼさんの名前が、優勝のところにある。
カイは技能評価優秀者。
嬉しい。
でも、少し怖い。
リゼの名前が大きくなるほど、王宮の目も大きくなる気がする。
隣のミリア・ファルネーゼが、静かに尋ねた。
「熱は?」
「少し。痛みなし。声なし」
「現在地は?」
「学園中庭。掲示板前。リゼさん、ミリアさん、カイといる。剣術大会の正式結果が貼られています」
「感情は?」
「嬉しい。誇らしい。少し怖い」
「良好ね」
ミリアはそう言って、掲示板を見た。
彼女の目は柔らかい。
だが、その奥には昨日から続く警戒がある。
王宮監察官オルド・ハイマンが、王宮へ追加報告を上げると言った。
アルト・レインフォードの移送判断について。
リゼ・グレイスの護衛能力評価について。
決勝の歓声が冷めきらないうちに、その言葉は学園へ落とされた。
だから今日の朝は、祝福と不穏が同じ掲示板の前に並んでいる。
カイ・ロックハートは掲示板の自分の名前を見上げていた。
技能評価優秀者。
何度も読んでいる。
さっきから、同じ行を見ている。
「カイ」
アルトが声をかけると、カイは顔を向けずに言った。
「俺、評価されてる」
「うん」
「負けたのに」
「うん」
「技能評価優秀者って、何だ」
リゼが答える。
「勝敗以外の技量、成長、制御、試合内容を評価されたものです」
「俺、ラウルに負けたぞ」
「はい」
「でも評価されたのか」
「はい」
カイは少し黙った。
その横顔には、嬉しさと悔しさが混じっている。
優勝ではない。
準優勝でもない。
それでも、自分の戦いが見られていた。
負けた後にも、残るものがあった。
カイは小さく息を吐いた。
「負けても、見てるやつは見てるんだな」
「はい」
リゼが静かに頷く。
「昨日、あなたは最後に戻りました。初合で崩れず、ラウルさんの袖に届きました。それは評価対象です」
「袖だけどな」
「袖でも届きました」
カイは唇を噛み、それから少し笑った。
「次は袖じゃなくて、ちゃんと取る」
「目標更新を確認しました」
「記録するな」
「記録します」
ミリアが微笑む。
「おめでとう、カイさん」
カイは少し顔を赤くした。
「優勝じゃねえけど」
「それでも、おめでとう」
アルトも言った。
「おめでとう」
カイは二人から目を逸らし、掲示板を見上げた。
「……おう」
声は小さかった。
でも、嬉しそうだった。
その時、少し離れた場所から声がした。
「ロックハート君」
ラウル・ヴァレンシュタインだった。
今日も背筋が伸び、制服姿で、昨日の決勝の疲れをほとんど見せていない。だが、よく見れば、右手首の辺りに薄い包帯が巻かれていた。昨日の決勝で、リゼの剣を受け続けた負荷が残っているのだろう。
カイが少し身構える。
「何だ」
「技能評価優秀者、おめでとう」
ラウルは礼儀正しく言った。
カイは一瞬、どう反応していいかわからない顔をした。
「お前に言われると、何か複雑だな」
「僕も準優勝だから複雑だ」
ラウルは少しだけ笑った。
「だが、君の試合は評価されるべきだった。僕はそう思う」
カイは黙った。
それから、ぼそっと言う。
「次はもっと近づく」
「期待している」
「次は袖じゃねえ」
「そうだね」
ラウルは頷いた。
そして、リゼへ向き直る。
「グレイスさん。優勝おめでとう」
「ありがとうございます」
「昨日の最後の一歩、まだ考えている」
「戻るための一歩です」
「ああ。聞いた時より、今朝の方が少しわかった気がする」
ラウルは掲示板を見る。
優勝。
準優勝。
その文字を見つめながら言った。
「僕は、勝つために前へ出ることを考えていた。君は、戻るために残した足で勝った。悔しいが、あれは今の僕にはなかった」
リゼは静かに聞いている。
「次は、その戻る一歩も含めて挑む」
「はい」
「ただし、君が隠している剣を無理に引き出すつもりはない」
ラウルの声は昨日より落ち着いていた。
「昨日、僕は学んだ。相手の全てを見ようとすることと、相手の選んだ剣を尊重することは違う」
リゼの目が少しだけ動いた。
「その認識は、適切だと思います」
「君に適切と言われると、少し安心するね」
ラウルは微笑んだ。
その時、セレナ・アイゼンベルグも掲示板の前へ現れた。
淡い銀灰色の髪。
冷静な目。
今日も静かに歩いてくる。
彼女は掲示板を見上げ、自分の名前を確認した。
第三位 セレナ・アイゼンベルグ
表情は大きく変わらない。
けれど、ほんの少しだけ眉が動いた。
「三位ね」
セレナは淡々と言った。
カイが思わず言う。
「悔しくないのか?」
「悔しいわ」
「その顔で?」
「悔しさを顔に出す訓練はしていないから」
「何だそれ」
セレナはリゼを見る。
「リゼ・グレイス。優勝おめでとう」
「ありがとうございます」
「昨日の決勝も見たわ。戻る一歩、だったかしら」
「はい」
「あなた、決勝でまた一つ変わったわね」
リゼは少し考える。
「変化中です」
「便利な言葉ね」
セレナは少しだけ口元を動かした。
それからアルトへ視線を向ける。
「アルト・レインフォード」
「はい」
「昨日の銀環反応、自分でかなり管理していたわね」
アルトの左手首が少し熱くなる。
リゼの視線が一瞬鋭くなる。
ミリアも静かに姿勢を整える。
セレナはそれを見て、両手を少しだけ上げた。
「責めていないわ。観察結果を言っただけ」
カイが低く言う。
「お前の観察結果、たまに怖い」
「そうでしょうね」
セレナは否定しなかった。
アルトは左手首を押さえた。
「痛みなし。熱、少し。声なし。現在地は学園中庭。掲示板前。リゼさん、ミリアさん、カイ、ラウルさん、セレナさんがいます」
セレナは静かに見ている。
アルトは続けた。
「感情は、少し怖い。でも、セレナさんが見ていたこともわかっています」
「いい反応ね」
「評価ですか?」
「ええ」
セレナは少しだけ目を細めた。
「あなたは、見られることを完全には拒めない。でも、見られたまま戻る訓練をしている。それは、リゼ・グレイスの剣と似ている」
アルトはリゼを見る。
リゼもこちらを見ていた。
見られたまま戻る。
昨日の決勝で、リゼもアルトもそれをした。
オルド監察官に見られながら。
学園中に見られながら。
怖くても、戻った。
セレナは掲示板へ視線を戻す。
「王宮監察官も見ていたわ」
その言葉で、空気が少し冷えた。
ラウルの表情も硬くなる。
カイが拳を握る。
リゼは静かに言った。
「はい」
「彼は、あなたの剣だけでなく、あなたたちの関係も見ている」
「認識しています」
「それをどう扱うか、今後の方が難しそうね」
セレナの声には、いつもの観察の冷たさがあった。
けれど、少しだけ警告の響きもある。
ミリアが静かに言った。
「忠告として受け取ります」
「そうして」
セレナは軽く頷いた。
ラウルも言う。
「僕の家にも、王宮から問い合わせが来るかもしれない」
カイが顔をしかめる。
「お前の家にも?」
「僕はヴァレンシュタイン家の人間だ。決勝でグレイスさんと戦った以上、何を見たか問われる可能性はある」
リゼの目が細くなる。
「その場合、あなたの負担になります」
「大丈夫だ。答えられないことは答えない。見たことは、学園の試合として話す」
ラウルはまっすぐ言った。
「僕が見たのは、戦場の何かではなく、学園の試合場で戻る一歩を使ったリゼ・グレイスだ」
その言葉に、アルトの胸が少し温かくなった。
リゼも静かに頭を下げる。
「ありがとうございます」
セレナも言った。
「私も、問われれば答えるわ。リゼ・グレイスは危険を持つ。でも、それを自覚し制御する訓練中。周囲との関係は弱点であり支点。銀環反応への影響はあるが、安定要素にもなっている」
「報告書みたいだな」
カイが言う。
「そういう言い方をする方が伝わる相手もいるでしょう」
セレナは淡々と答えた。
「でも、私は最後に付け加える」
「何を?」
「面白いから、まだ王宮に持っていかないでほしい、と」
ミリアが少しだけ笑った。
「それは報告書に書きにくそうね」
「だから口頭で言うわ」
カイが腕を組もうとして、やめた。
「やっぱり変なやつだな」
「よく言われる」
セレナはそう答え、掲示板から離れた。
ラウルも一礼して去っていく。
カイは二人の背中を見送りながら、ぽつりと言った。
「敵じゃないのか?」
ミリアが答える。
「完全な味方とも、まだ言えないわ」
「でも、昨日よりは近い?」
「ええ。昨日よりは、きっと」
リゼが静かに言った。
「関係変化を確認しました」
「そういう言い方だと硬いけどな」
カイが言う。
「でも、悪くないと思います」
アルトは頷いた。
午前の授業では、ロウ教師が剣術大会の総評を行った。
教室には少し浮ついた空気があった。
大会が終わった翌日。
結果が出て、名前が貼られ、誰もがその余韻を抱えている。
ロウ教師は黒板にこう書いた。
勝敗のあと。
「剣術大会は終わった」
ロウ教師は教室を見渡した。
「だが、勝敗のあとに何を残すかは、今日から始まる」
カイが真剣に顔を上げる。
リゼもペンを構えている。
アルトはノートを開いた。
「勝った者は、勝利をどう扱うかを学ぶ。負けた者は、敗北をどう扱うかを学ぶ。見ていた者は、自分が何を見たのかを言葉にする必要がある」
ロウ教師の目が、少しだけリゼへ向いた。
「勝利は、人を押し上げる。同時に、他者の視線を集める。視線は祝福にもなるが、利用にもなる。勝った者は、自分の剣が誰のものかを忘れてはならない」
次に、カイを見る。
「敗北は、人を沈める。同時に、見えなかった距離を見せる。負けた者は、その距離を恥じるのではなく、次の一歩の材料にしなさい」
カイは唇を引き結び、頷いた。
ロウ教師は最後に、教室全体へ言った。
「見ていた者も同じだ。試合を娯楽だけで消費するな。友人が勝った時、負けた時、戻った時、自分が何を感じたか。そこに学びがある」
アルトはノートに書いた。
勝利をどう扱うか。
敗北をどう扱うか。
見たことをどう言葉にするか。
授業の終わりに、ロウ教師は剣術大会の評価紙を配った。
リゼの紙には、優勝という結果のほか、こう記されていた。
基礎剣術範囲内における高度な制御。
危険反射の抑制。
対人状況下での帰還能力。
礼節良好。
ただし、今後も継続的な制御訓練が必要。
リゼはその紙を静かに読んでいた。
隣でアルトは、言葉を目で追った。
帰還能力。
それが評価として書かれている。
リゼが戻ったことが、学園の記録に残っている。
ただ強いだけではなく。
危険なだけでもなく。
戻れることが。
アルトの胸が少し温かくなる。
カイの紙には、こう書かれていた。
前進力良好。
試合中の修正能力に成長あり。
敗北時の姿勢良好。
戻る足の初期習得を確認。
今後、重心制御と感情制御の継続訓練を推奨。
カイは何度も読み返した。
「感情制御って書かれてる」
「重要です」
リゼが言う。
「俺、剣術評価なのに感情も見られてるのか」
ミリアが微笑む。
「剣に出るからでしょうね」
「嫌だな」
「でも、成長ありって書いてあるわ」
カイは少しだけ照れたように紙を折った。
「まあ、それはいい」
アルトには評価紙はない。
出場者ではないからだ。
けれど、エレオノーラが休み時間にやってきて、一枚の写しを見せてくれた。
「学園側記録の一部です。本人確認をお願いします」
そこには、昨日の決勝観覧中の記録が書かれていた。
アルト・レインフォード、決勝戦観覧中に複数回の銀環反応あり。
痛み、熱、声、現在地、感情を自己申告。
支援者ミリア・ファルネーゼ、カイ・ロックハートによる確認補助あり。
観覧継続可能。
試合後、本人は中庭へ帰還し、安定確認。
アルトはその文字を読んだ。
自分が見届けたことも、記録されている。
ただ反応しただけではなく。
管理したこと。
戻ったこと。
それが書かれている。
「この記録、残していいですか」
エレオノーラが尋ねる。
アルトは少し考えてから頷いた。
「はい。ただし、左手首の詳細や白鐘のことには触れないでください」
「承知しています」
エレオノーラは頷いた。
「記録は、王宮側記録への対抗にもなります。本人が混乱していた、観覧不能だった、危険だった、という一方的な解釈を防ぐためです」
「僕が戻ったことも、記録になるんですね」
「はい」
エレオノーラはまっすぐ言った。
「戻った事実は、重要です」
アルトは紙を見つめた。
戻った事実。
それは、リゼだけでなく、自分にもある。
昼休み、四人は中庭のいつものベンチへ向かった。
そこへ、ユリウスが来た。
表情は硬いが、昨日ほど切迫してはいない。
隣にはクラウスもいた。
クラウス・ヴァイゼル。
王宮側の大人。
アルトの出生名や白鐘礼拝堂について話した人物。
完全に信用しているわけではない。
けれど、最近は学園側と共に王宮の即時移送に反対する立場を取っている。
クラウスはアルトを見ると、静かに一礼した。
「少し、共有したいことがある」
アルトの左手首が熱を持つ。
リゼがすぐに確認する。
「痛みは」
「なし」
「熱は」
「少し」
「声は」
「なし」
「現在地は」
「学園中庭。昼。リゼさん、ミリアさん、カイ、ユリウス先輩、クラウス卿がいる」
ミリアが尋ねる。
「感情は」
「緊張。王宮の話だと思うから」
ユリウスが頷いた。
「王宮の話だ。ただ、今すぐ移送という内容ではない」
アルトは少し息を吐く。
クラウスが言った。
「オルド監察官は昨夜、王宮へ追加報告の第一報を送った。正式報告は数日以内にまとめられる予定だ」
カイが顔をしかめる。
「何て送ったんだ」
クラウスは少しだけ目を伏せた。
「全ては把握していない。ただ、学園側が確認できた範囲では、即時移送を強く求める内容ではない」
アルトは顔を上げる。
「即時移送は、ない?」
ユリウスが答える。
「現時点では、回避できたと見ていい」
胸の奥の重石が、少しだけ軽くなった。
左手首の熱も和らぐ。
けれど、完全には消えない。
クラウスは続ける。
「ただし、王宮は関心を強めている。アルト君の銀環反応は学園で一定の安定を見せているが、未解明要素は多い。リゼ・グレイス君の護衛能力も、王宮にとって重要な評価対象になった」
リゼは静かに頷いた。
「予想範囲内です」
「加えて、学園内の友人関係が安定要素として機能していることも報告に含まれる可能性が高い」
ミリアの表情が少し硬くなる。
「友人関係を“機能”として扱うのですね」
「王宮の文書ではそうなる」
クラウスは否定しなかった。
「だが、学園側記録では、本人意思と関係性という言葉を残す。エレオノーラ嬢の記録も、その補強になる」
カイが不満そうに言った。
「友達は機能じゃねえだろ」
「その通りだ」
クラウスは静かに言った。
「だからこそ、その言葉を学園側が使い続ける必要がある」
アルトは胸の奥でその言葉を受け止めた。
友達は機能ではない。
でも、王宮は機能として見る。
なら、自分たちは関係という言葉を使い続ける。
それは戦いの一つなのかもしれない。
剣ではなく、言葉で境界線を守る戦い。
ユリウスがリゼへ向き直る。
「グレイスさん。王宮は君を、危険要因かつ有用資源として見るだろう」
空気が冷えた。
危険要因。
有用資源。
あまりにも王宮らしい言葉。
カイが低く唸る。
「資源って何だよ」
リゼは表情を変えない。
だが、アルトにはわかった。
その言葉は、彼女に刺さっている。
リゼは静かに言った。
「私は資源ではありません」
「もちろんだ」
ユリウスは即座に頷いた。
「だが、王宮はそう見る可能性がある。だから、学園側は本人意思と生徒としての立場を強調する」
クラウスも言った。
「オルド監察官の報告がすべてではない。学園長、ロウ教師、私、ユリウス君、エレオノーラ嬢、それぞれの記録と意見を添える」
ミリアが静かに問う。
「それで、王宮は納得しますか」
クラウスはすぐには答えなかった。
「完全にはしないだろう」
正直な答えだった。
「だが、即時移送の理由は弱まる。少なくとも、現時点で学園環境を破壊して王宮へ移すことは、銀環安定に悪影響を及ぼすという論は通る」
アルトは左手首を押さえた。
自分が昨日、観覧席で戻ったこと。
リゼが試合場で戻ったこと。
カイが負けても折れなかったこと。
ミリアが支えたこと。
それらが、王宮移送に反対する材料にもなる。
日常が、関係が、記録が、守る力になる。
リゼが言った。
「情報共有ありがとうございます」
ユリウスは頷く。
「もう一つ。学園長から午後に短い全体告知がある。剣術大会終了と、次の学園行事についてだ」
カイが顔を上げる。
「次?」
「学園祭準備だ」
その言葉で、空気が少し変わった。
学園祭。
剣術大会の次の行事。
戦いの熱とは違う、学園らしい行事。
カイの目が少し輝く。
「食べ物あるか?」
ユリウスが少し笑った。
「あるだろうね」
「出店か」
ミリアが微笑む。
「気が早いわ」
「でも学園祭だろ? 焼き菓子売れるんじゃねえか?」
「もうそこまで考えているのですね」
リゼが真面目に言う。
「合理性はあります」
「あるよな!」
「ただし、衛生管理、許可申請、材料費、役割分担が必要です」
「急に難しくなった」
アルトは思わず笑った。
左手首の熱が、少し柔らかくなる。
王宮の話は重い。
まだ終わっていない。
でも、その直後に学園祭の話がある。
焼き菓子の出店を考えるカイがいる。
許可申請を考えるリゼがいる。
それが、学園に残るということなのだと思った。
午後、学園長から全体告知があった。
第一校舎前の広場に、一年生を中心に生徒たちが集められる。
学園長は静かに剣術大会の終了を告げた。
「第一学年基礎剣術大会は、昨日をもって終了しました。出場者諸君、観戦した生徒諸君、それぞれが多くを学んだことと思います。勝敗は結果です。しかし、結果の後に何を残すかが、学園で学ぶ意味でもあります」
その言葉に、リゼがわずかに目を伏せた。
カイも真剣に聞いている。
「優勝者リゼ・グレイス、準優勝者ラウル・ヴァレンシュタイン、第三位セレナ・アイゼンベルグ、技能評価優秀者カイ・ロックハート、その他出場者全員に、学園として努力を認めます」
拍手が起こった。
リゼは静かに頭を下げる。
カイは少し照れくさそうにしている。
ラウルとセレナも、それぞれ離れた場所で礼をした。
学園長は続けた。
「さて、剣術大会が終われば、次は学園祭準備に入ります」
広場の空気が一気に変わった。
生徒たちの間にざわめきが走る。
「学園祭!」
「準備委員、そろそろ募集だよね」
「出店どうする?」
「劇やるクラスあるかな」
「魔術展示もあるって聞いた」
「飲食系、人気出るよね」
戦いの熱とは違う、明るい興奮が広がっていく。
学園長は微笑み、掲示板の方を示した。
「本日夕方、学園祭準備委員の募集要項を掲示します。各クラス、各寮、各活動単位での企画申請も順次受け付けます。剣を置いた者は、次に何を作るかを考えなさい」
剣を置いた者は、次に何を作るか。
アルトはその言葉を胸に留めた。
リゼも聞いていた。
剣術大会で優勝した少女が、次に作るもの。
それは何だろう。
焼き菓子の出店かもしれない。
学園祭の警備計画かもしれない。
アルトの銀環反応が起きても戻れる休憩場所の設計かもしれない。
あるいは、友達と一緒に何かを準備する時間そのものかもしれない。
告知が終わると、カイはすぐに言った。
「焼き菓子出店、やろうぜ」
ミリアが笑う。
「まず募集要項を見てからね」
「でもやるだろ?」
「まだ決めていません」
リゼが即答する。
「企画申請条件、衛生規定、予算、担当人数、警備配置、アルトさんの体調管理、王宮監察官の滞在有無を確認する必要があります」
「多い」
「学園祭は大規模行事です」
「でも、やりたいだろ?」
カイがリゼを見る。
リゼは少しだけ戸惑った。
「やりたい、ですか」
「そうだ」
リゼはすぐに答えられなかった。
剣術大会に出るかどうかを考えた時と似ている。
やるべきか。
危険か。
任務上どうか。
そういう判断はできる。
だが、やりたいか、と聞かれると少し難しい。
アルトはリゼを見て、そっと言った。
「すぐ答えなくていいと思います」
ミリアも頷く。
「ええ。学園祭は、考える時間があるわ」
カイが言う。
「じゃあ検討だな」
リゼは少しだけ瞬きをした。
「はい。検討します」
カイは満足そうに頷いた。
「それ、ほぼやるやつだ」
「早計です」
「でも検討するんだろ」
「はい」
四人で掲示板へ向かうと、そこにはすでに新しい紙を貼る準備がされていた。
剣術大会の結果の隣に、夕方貼られる予定の空白。
学園祭準備委員募集。
その見出しだけが、別紙として仮貼りされている。
アルトはその文字を見た。
学園祭。
王宮の追加報告。
銀環の不安。
リゼの護衛能力評価。
それらは消えていない。
でも、学園祭の文字は、確かにそこにある。
これから作るもの。
これから準備する時間。
剣術大会で得たものを持って、次へ進む場所。
夕方、四人は中庭のいつものベンチに戻った。
今日もカイは焼き菓子の袋を持っていた。
「今日の用途は?」
ミリアが尋ねる。
カイは少し考える。
「第4章お疲れ用」
アルトは首を傾げた。
「第4章?」
カイは慌てて言い直した。
「いや、剣術大会お疲れ用」
「びっくりしました」
リゼが真面目に言う。
「章という単位は学園生活上、不明です」
「忘れろ」
カイが少し赤くなる。
ミリアが笑いをこらえている。
「剣術大会お疲れ用ね」
「そう、それだ」
カイは袋を開け、焼き菓子を配った。
「リゼ優勝用は昨日やったから、今日は大会終わった用。アルト見届け継続用。ミリア支え継続用。俺、評価された用」
「最後だけ自分中心ですね」
リゼが言う。
「今日はいいだろ」
「はい。良いと思います」
カイが少し驚く。
「いいのか」
「技能評価優秀者です。祝福対象です」
カイは少し黙った。
それから、照れくさそうに笑った。
「そうか」
ミリアが茶を淹れた。
リゼは白銀の記章を机代わりの布の上に置いた。
カイは自分の評価紙を広げた。
アルトはエレオノーラから見せてもらった記録の内容を思い返していた。
四人とも、剣術大会で何かを持ち帰った。
リゼは、学園の中で剣を制御する一歩。
カイは、負けても残る成果と、次に近づく悔しさ。
ミリアは、関係を支える言葉と境界線。
アルトは、銀環反応を自分で管理しながら見届けた事実。
そして四人は、戻る場所を持っている。
中庭のベンチ。
お茶。
焼き菓子。
少しずつ増えていく用途。
リゼが静かに言った。
「剣術大会は終了しました」
「うん」
アルトが頷く。
「しかし、王宮の追加報告は継続しています」
ミリアが頷く。
「ええ」
「アルトさんの移送判断も、完全に消えたわけではありません」
「はい」
「私の護衛能力評価も継続します」
カイが顔をしかめる。
「嫌な話だな」
「はい。不快です」
リゼははっきり言った。
その言葉に、三人が少しだけ笑った。
リゼが自分で不快と言えるようになったことが、少し嬉しかったからだ。
リゼは続ける。
「それでも、即時移送は現時点で回避されました」
アルトは左手首に触れた。
痛みなし。
熱、少し。
声なし。
「学園に残れます」
「はい」
リゼが頷く。
「現時点では」
「現時点でも、大事です」
ミリアが言う。
「ええ。今日、ここにいられることは大事よ」
カイが焼き菓子を食べながら言う。
「明日は学園祭の紙見るんだろ」
「はい」
リゼが答える。
「確認します」
「検討もする」
「はい」
「出店も考える」
「条件次第です」
「ほぼやるな」
「早計です」
いつものやり取り。
アルトはそれを聞きながら、胸の中の怖さが少しずつ形を変えるのを感じた。
消えたわけではない。
王宮は怖い。
移送判断も怖い。
リゼが利用されることも怖い。
でも、怖いまま次の話ができる。
学園祭の話ができる。
焼き菓子の出店を考えられる。
それは、剣術大会で得た「戻る力」の続きなのかもしれない。
夕鐘が鳴った。
アルトの左手首が淡く光る。
痛みなし。
熱、少し。
声なし。
リゼが尋ねる。
「現在地は」
「学園中庭。夕方。リゼさん、ミリアさん、カイといる。剣術大会が終わりました。リゼさんは優勝。カイは技能評価優秀者。即時移送は現時点で回避。学園祭準備委員の募集が始まります」
ミリアが聞く。
「感情は」
アルトは少し考えた。
「嬉しい。怖い。少し疲れた。でも、次のことを考えられるのが嬉しいです」
リゼは静かに頷いた。
「良好です」
夜。
男子寮の自室で、アルトは紙片を書いた。
今日は剣術大会の正式結果が掲示された。
リゼさんは優勝。
ラウルさんは準優勝。
セレナさんは第三位。
カイは技能評価優秀者。
カイは、負けたのに評価されたと言っていた。
リゼさんは、勝敗以外の技量、成長、制御、試合内容を評価されたものですと言った。
カイは、負けても見てるやつは見てるんだなと言った。
ラウルさんは、カイに技能評価優秀者おめでとうと言った。
リゼさんには、昨日の最後の一歩をまだ考えていると言った。
セレナさんも来た。
彼女は、僕が銀環反応を自分で管理していたことを見ていた。
見られることは怖かったけど、僕は現在地を言えた。
セレナさんは、王宮監察官はリゼさんの剣だけでなく、僕たちの関係も見ていると言った。
ラウルさんは、もし王宮から聞かれても、学園の試合場で戻る一歩を使ったリゼ・グレイスを見たと話すと言った。
セレナさんも、リゼさんは危険を持つけど、制御する訓練中で、関係は弱点であり支点で、銀環反応への影響はあるけど安定要素にもなっていると言った。
午前の授業で、ロウ先生は勝敗のあとについて話した。
勝った者は勝利をどう扱うかを学ぶ。
負けた者は敗北をどう扱うかを学ぶ。
見ていた者は、自分が何を見たのかを言葉にする必要があると言った。
リゼさんの評価紙には、危険反射の抑制、対人状況下での帰還能力と書かれていた。
カイの評価紙には、戻る足の初期習得を確認、感情制御の継続訓練を推奨と書かれていた。
僕の観覧中の記録もあった。
銀環反応を自己申告して、観覧を継続して、試合後に中庭へ帰還したと書かれていた。
戻った事実は重要です、とエレオノーラ先輩が言った。
昼、ユリウス先輩とクラウス卿が来た。
オルド監察官は王宮へ追加報告を送った。
でも、即時移送を強く求める内容ではないらしい。
現時点では、即時移送は回避できた。
ただ、王宮は僕の銀環反応と、リゼさんの護衛能力と、僕たちの友人関係に関心を強めている。
リゼさんは、私は資源ではありませんと言った。
カイは、友達は機能じゃねえだろと言った。
クラウス卿は、その通りだ、だから学園側が関係という言葉を使い続ける必要があると言った。
午後、学園長先生が、剣術大会の終了と学園祭準備の始まりを告知した。
学園祭準備委員の募集が始まる。
カイはすぐに焼き菓子出店を考えた。
リゼさんは、許可申請、衛生管理、予算、担当人数、警備配置、僕の体調管理、王宮監察官の滞在有無を確認する必要があると言った。
カイは、でもやりたいだろと聞いた。
リゼさんは、すぐには答えられなかった。
でも、検討しますと言った。
夕方、四人で剣術大会お疲れ用の焼き菓子を食べた。
リゼさんは、剣術大会は終了しました、しかし王宮の追加報告は継続していますと言った。
それでも、即時移送は現時点で回避されましたと言った。
僕は、学園に残れますと言った。
現時点でも、大事ですとミリアさんが言った。
学園祭の話をした。
怖いことはまだある。
でも、次のことを考えられるのが嬉しい。
アルトはペンを止めた。
机の上には、剣術大会の結果を書き写した紙と、学園祭準備委員募集の見出しを写した紙が並んでいる。
終わったもの。
始まるもの。
その間に、自分たちは立っている。
剣術大会は終わった。
でも、王宮の目は消えていない。
リゼの名前は大きくなった。
アルトの銀環反応も記録された。
友人関係も見られている。
それでも、即時移送は回避された。
学園祭の準備が始まる。
それは、学園に残れたからこそ考えられる未来だった。
アルトは最後に、一行を書いた。
剣術大会で、僕たちは戻ることを覚えた。
だから次は、戻った場所で何を作るのかを考えたい。
紙片を折り、引き出しへしまう。
左手首を胸の上に置いた。
熱は少し。
痛みはない。
声もない。
「現在地は、男子寮の自室。夜。僕はアルト。剣術大会は終わった。今はまだ学園にいる。明日から、学園祭の準備が始まる」
銀環は淡く光った。
その光は、剣の火花ではなかった。
勝利の記章でもなかった。
それは、戦いのあとに戻ってきた場所で、次に灯す小さな祭りの明かりを待つように、手首の奥で静かに揺れていた。




