第4章 第13話:リゼ対セレナ
朝の中庭は、昨日より静かだった。
けれど、それは落ち着いているという意味ではなかった。
嵐の前に空気が薄くなるような、音が吸い込まれていくような静けさだった。
王立アークレイン学園の掲示板前には、すでに多くの生徒が集まっている。剣術大会本戦の組み合わせ表は、昨日の夕方に更新されていた。だが、朝になると改めて人が集まる。
昨日、リゼ・グレイスはラウル・ヴァレンシュタインに勝った。
その事実は、学園中へ一晩で広まった。
ラウルは首席候補筆頭だった。
名門騎士家の子息で、正統派の騎士剣術を扱い、予選でも本戦でも圧倒的な強さを見せていた。
そのラウルを、リゼが破った。
途中、一瞬だけ試合場の空気が変わった。
教師が止めるかと思うほどの鋭さが出た。
けれど、リゼは戻った。
アルトの声で戻り、最後は基礎剣術の範囲で一本を取った。
その試合は、ただの勝利では終わらなかった。
リゼ・グレイスという名前を、学園の中に強く刻みつけた。
そして今日、そのリゼの次の相手が掲示されている。
リゼ・グレイス 対 セレナ・アイゼンベルグ
アルト・レインフォードは、その文字を見て、左手首を布の上から押さえた。
痛みなし。
熱、少し。
声なし。
現在地は、学園中庭。
朝。
掲示板前。
リゼさん、ミリアさん、カイといる。
今日、リゼさんはセレナさんと戦う。
怖い。
でも、見届ける。
隣に立つリゼは、静かに掲示板を見上げていた。
灰銀の髪は朝風に揺れている。
制服のリボンはきちんと整えられている。
昨日、王宮監察官オルド・ハイマンとの面談で、彼女は言った。
私は王宮の剣ではありません。
現在、王宮で剣を振るうことを望んでいません。
その言葉は、アルトの胸にまだ残っている。
誇らしくて、少し痛い。
王宮がリゼを欲しがる理由は、アルトにもわかってしまったからだ。
強い。
制御できる。
戻れる。
護衛者として優秀で、戦場の反射を持ちながら学園の試合の中に収められる。
王宮が欲しがりそうな剣。
でも、リゼは王宮の剣ではない。
リゼはリゼだ。
そう思うたび、左手首の熱が少しだけ揺れる。
ミリア・ファルネーゼが、掲示板を見上げながら静かに言った。
「セレナさんね」
「はい」
リゼが答える。
「彼女は、ラウルさんとは違います」
カイ・ロックハートが腕を組もうとして、途中で止めた。
最近は腕を組む前にリゼの視線を思い出すようになっている。
「ラウルより強いのか?」
リゼは少し考えた。
「単純比較は困難です。ラウルさんは正統派騎士剣術。セレナさんは魔力制御を併用した精密剣術です」
「精密ってことは、嫌なところを突いてくる感じか」
「はい」
「俺、苦手そうだな」
「現時点では苦手だと思われます」
「はっきり言うな」
「必要な情報です」
カイは少し悔しそうにしたが、怒らなかった。
昨日、ラウルに負けた悔しさはまだ残っている。
けれど、それは彼を沈ませるものではなく、見る目を少し変えるものになっていた。
アルトはリゼへ尋ねた。
「セレナさんは、剣だけを見ない人ですよね」
「はい」
リゼは掲示板から視線を外さない。
「彼女は、相手の動作だけではなく、関係性、視線、反応、周辺要素を見ます」
「僕の左手首も」
「はい」
アルトの手が、自然と左手首を押さえる。
ミリアが穏やかに言った。
「彼女は、リゼさんにとってかなり厄介な相手ね」
「はい」
リゼは頷いた。
「剣術上も、心理上も」
カイが眉を寄せる。
「心理上って何だよ」
「アルトさんへの視線、銀環反応、私の位置取りを利用してくる可能性があります」
「試合でそんなことするのか」
「セレナさんなら、する可能性があります」
アルトの胸が冷えた。
自分が、リゼの弱点になる。
そう思いかけた瞬間、リゼがこちらを見た。
「アルトさん」
「はい」
「今の思考は、責任過剰取得に移行する可能性があります」
先に言われた。
アルトは少しだけ苦笑した。
「はい。思いかけました」
「あなたが存在することは、誰かがあなたを利用してよい理由にはなりません」
「はい」
「そして、私があなたを気にすることは、弱点であると同時に支えでもあります」
アルトは顔を上げた。
「支え」
「はい」
リゼは静かに言う。
「昨日、私はあなたの声で戻りました。危険でもあります。しかし、有効な戻り先でもあります」
アルトの胸が温かくなる。
怖さと一緒に。
自分がリゼの弱点になる可能性はある。
でも、支えにもなる。
それは、セレナが昨日言った言葉にも近かった。
互いに危険で、互いに制御装置。
冷たい言い方だった。
けれど、そこには真実がある。
ミリアが微笑む。
「今日は、その両方を試されるかもしれないわね」
リゼは頷いた。
「予想しています」
カイが拳を握った。
「嫌な試合だな」
「はい」
「でも、勝て」
リゼは一拍置いて答える。
「基礎剣術の範囲内で、全力を尽くします」
「最近それでわかるようになってきた」
「良好です」
朝鐘が鳴った。
アルトの左手首が淡く光る。
熱が少し上がる。
痛みはない。
声もない。
リゼが尋ねる。
「痛みは」
「なし」
「熱は」
「少し」
「声は」
「なし」
「現在地は」
「学園中庭。朝。掲示板前。リゼさん、ミリアさん、カイといる。今日、リゼさんはセレナさんと戦う」
ミリアが聞く。
「感情は」
「怖い。心配。でも、支えにもなりたい」
リゼは静かに頷いた。
「確認しました」
午前の授業中も、教室の空気は落ち着かなかった。
剣術大会の本戦が進むにつれ、勝ち残った者の名前は日常の中へ入り込んでくる。
ノエル・バートンは、机の上に広げた試合表を見ながら小声で言った。
「今日はグレイスさんとセレナさんなんだね」
「はい」
リゼが短く答える。
「セレナさん、予選で見たけど、何をしたのかわからないくらい静かだった」
「魔力制御による位置調整が主です」
「えっと、それができる時点ですごいんだけど」
ノエルは少し苦笑した。
ティナ・ベルが横から顔を出す。
「リゼさん、昨日ラウル君に勝ったんだよね。本当にすごかった! でも、途中でちょっと怖かった」
言ってから、ティナは口を押さえた。
「あ、ごめん」
リゼは首を横に振る。
「事実です。怖い場面がありました」
ティナは目を瞬いた。
リゼが自分でそう認めるとは思っていなかったのだろう。
リリア・ノースが静かに言う。
「でも戻った」
リゼは彼女を見る。
「はい」
「それが大事だったと思う」
短い言葉。
だが、アルトの胸に残った。
戻った。
昨日の試合で、リゼは勝った。
でも、それより大事だったのは戻ったこと。
同級生がそれを見てくれていた。
戦場の恐怖ではなく、学園の試合の中で戻る姿を。
リゼは少しだけ目を伏せた。
「ありがとうございます」
ティナが明るく言う。
「今日も応援してるね。でも無理はしないで」
「はい」
ノエルも頷く。
「僕も応援してる。セレナさん、強いと思うけど」
リゼは静かに答えた。
「強い相手です」
カイが横から言う。
「だから面白い」
リゼが即座に見る。
「あなたは今日、試合に出ません。休養日です」
「見るのはいいだろ」
「はい」
「なら面白い」
「観戦中の感情高揚による過剰な自主練は禁止です」
「先に言うな」
「必要です」
教室の何人かが笑った。
その笑いは、リゼを遠巻きにするものではなかった。
少しずつ、リゼの硬い言い方やカイとのやり取りが、教室の空気に馴染んでいく。
アルトはそれが嬉しかった。
同時に、その普通さが王宮に奪われないことを願った。
王国史の授業で、ロウ教師は「弱点と支点」という言葉を黒板に書いた。
アルトは思わず顔を上げる。
リゼも、わずかに視線を動かした。
「戦術において、弱点とは単に脆い場所ではない」
ロウ教師は黒板を背にして言った。
「守るべきもの。戻るべき場所。失えば崩れるもの。そういう場所は、敵から見れば弱点であり、本人から見れば支点でもある」
カイが真剣に聞いている。
ミリアもペンを走らせている。
「重要なのは、弱点を持たないことではない。そんな人間はいない。重要なのは、自分の支点を理解し、敵に利用される前に、自分で扱えるようにすることだ」
アルトはノートに書いた。
弱点と支点。
リゼさんにとって、僕は危険でもあり、戻る場所でもある。
書いた瞬間、左手首が温かくなった。
痛みなし。
熱、少し。
声なし。
リゼが横目で確認する。
アルトは小さく頷いた。
ロウ教師は続ける。
「剣を持つ者は、相手の支点を見ようとする。そこを崩せば勝てるからだ。しかし、ただ崩す剣と、支点を理解してなお正面から向き合う剣では、質が違う。今日の試合を見る者は、その違いも見ておくといい」
明らかに、リゼとセレナの試合を指していた。
授業後、ロウ教師はリゼを呼び止めた。
「グレイス」
「はい」
「今日の相手は、君の剣だけを見ない」
「認識しています」
「アルト君を見る。君がどこを見るかを見る。君が何に反応するかを見る」
「はい」
「それを止めることはできない。だが、利用されているとわかった時、反射で潰しにいくな」
リゼの表情が少し硬くなる。
「はい」
「君の今日の課題は、勝つことではなく、支点を弱点として揺さぶられても、戻り先として扱うことだ」
リゼは沈黙した。
それから、静かに頷く。
「戻り先として扱う」
「そうだ」
ロウ教師は言った。
「相手に見られたからといって、恥じる必要はない。大事なものがあることを隠しきるのではなく、失わない形で剣を振れ」
リゼは小さく息を吸った。
「はい」
アルトはその言葉を聞いていた。
大事なものがあることを隠しきるのではなく、失わない形で剣を振る。
それはリゼだけではない。
自分もだ。
銀環が反応することを、完全には隠しきれない。
でも、反応があるから全部奪われるわけではない。
見られても戻る。
見られても自分で言う。
昼休み、四人は第一訓練場近くの芝生で昼食を取った。
今日は試合前なので、カイの焼き菓子はミリアが管理している。
カイは不満そうだったが、自分でも試合前に食べすぎる危険を理解し始めているため、強くは言わなかった。
「今日は俺の試合じゃないけどな」
「観戦で興奮し、試合後に自主練をしようとする可能性があります」
リゼが言う。
「読まれてる」
「はい」
「否定できねえ」
「良好です」
ミリアが小さく笑い、リゼへ茶を渡した。
「リゼさん、今の状態は?」
リゼは茶を受け取り、少し考えた。
「警戒、中から強。恐怖の可能性、中。緊張、中。出場理由、維持。支点を利用される懸念、強」
カイが難しい顔をする。
「支点って、アルトのことか」
「はい」
リゼは隠さなかった。
アルトの胸が少し揺れる。
「私にとって、アルトさんは護衛対象であり、友人であり、戻り先の一つです」
そうはっきり言われて、アルトは息を止めた。
嬉しさと怖さが同時に来る。
「そのため、セレナさんがそこを観察し、利用する可能性があります」
「ごめんなさい」
言ってしまってから、アルトはすぐに自分で気づいた。
リゼがこちらを見る。
「今の謝罪は不要です」
「はい」
「あなたが私の支点であることは、あなたの過失ではありません」
「はい」
ミリアが優しく言う。
「支点になれることは、悪いことではないわ」
「でも、弱点にもなる」
「ええ。だから、弱点ではなく支点として扱う練習をするの」
カイが頷く。
「俺の戻る足みたいなやつだな」
リゼが少し考える。
「近いです」
「お、合ってた」
「支点を失うと崩れます。支点を理解して使えば、戻れます」
「俺もまだ使い切れてねえけどな」
「訓練中です」
「リゼも訓練中か」
「はい」
カイはにやりと笑った。
「じゃあ一緒だな」
リゼはその言葉を受け止めるように、少しだけ目を伏せた。
「はい。一緒です」
アルトはそのやり取りを見ながら、左手首の熱が少し柔らかくなるのを感じた。
怖い。
でも、自分だけがリゼの重荷ではない。
リゼも訓練中。
カイも訓練中。
アルトも訓練中。
全員、途中だ。
午後、第一訓練場には昨日と同じくらいの観客が入っていた。
いや、昨日より多いかもしれない。
ラウルに勝ったリゼ。
静かな魔剣術のセレナ。
この二人の試合を見ようとする生徒が多いのは当然だった。
上級生の姿も増えている。
教師たちも注意深い。
医務班の配置も昨日より少し近く感じた。
そして、観覧席上段には、やはりオルド・ハイマンがいた。
濃紺の外套。
銀縁の眼鏡。
穏やかな微笑み。
アルトの左手首が熱を帯びる。
ミリアが隣で尋ねる。
「痛みは?」
「なし」
「熱は?」
「中」
「声は?」
「なし」
「現在地は?」
「第一訓練場。観覧席。ミリアさん、カイといる。リゼさんは待機位置。オルド監察官がいる」
「感情は?」
「嫌です。怖い。でも、今日はリゼさんとセレナさんの試合を見ます」
カイが隣で低く言う。
「王宮じゃなくて試合を見る」
「うん」
アルトは頷いた。
出場者待機位置では、リゼが静かに立っている。
セレナ・アイゼンベルグは反対側にいた。
淡い銀灰色の髪。
落ち着いた表情。
模擬剣を手にしていても、彼女には剣士特有の熱があまりない。
その代わり、観察者の冷たさがある。
彼女は試合場ではなく、まず観覧席を見た。
アルト。
ミリア。
カイ。
リゼ。
そして、オルド。
順番に視線が動く。
アルトの左手首が少し熱くなる。
セレナはそれも見ていた。
見た上で、何も言わず、試合場へ歩き出す。
教師が中央へ立つ。
「第四試合。リゼ・グレイス。セレナ・アイゼンベルグ。試合場へ」
訓練場が静まった。
二人が白線の内側へ入る。
リゼとセレナ。
対照的な二人だった。
リゼは静かだが、その静けさの奥に戦場の緊張がある。
セレナは静かで、その静けさの奥に冷たい観察がある。
どちらも叫ばない。
どちらも力を誇示しない。
だからこそ、試合場の空気は張りつめていた。
教師が言う。
「双方、準備は」
「はい」
リゼが答える。
「はい」
セレナも答える。
礼。
二人が礼をする。
リゼの礼は正確。
セレナの礼は無駄がない。
教師が一歩下がる。
「始め」
最初に動いたのは、セレナだった。
いや、正確には、動いたように見えなかった。
彼女の足元に、薄い魔力の線が走る。
体の位置が、ほんの半歩ずれる。
模擬剣が低く構えられる。
リゼは動かない。
相手の魔力流動を見ている。
セレナが踏み込む。
速度は速くない。
だが、角度が嫌だった。
真正面ではなく、リゼの視線のわずかに外側。
剣だけを見れば受けられる。
しかし、同時にセレナの視線が観覧席へ一瞬だけ流れた。
アルトの方へ。
リゼの目がわずかに動く。
その瞬間、セレナの剣が入った。
リゼは受ける。
模擬剣が鳴る。
リゼの受けは正確だった。
だが、セレナはすぐに下がった。
当てる気がない。
試している。
アルトは胸が冷えるのを感じた。
今のは、リゼの視線を見た。
リゼがアルトを気にするかを。
セレナは静かに言った。
「やはり、見るのね」
リゼは答えない。
剣を構えたまま、間合いを維持する。
セレナは続ける。
「あなたの剣は、相手だけを見ていない。試合場の外も見ている」
「護衛習慣です」
リゼが短く答える。
「習慣だけ?」
セレナの足元に魔力が流れる。
彼女は左へ行くように見せて、右へずれる。
リゼは半歩下がる。
剣を合わせる。
セレナの剣先がリゼの手首を狙う。
リゼはそれを落とす。
だが、セレナは力を入れず、すぐに引く。
当てるための剣ではない。
崩すための剣。
しかも、体ではなく、意識を。
「あなたにとって、彼は支点?」
セレナの声が、試合場に落ちた。
観覧席にははっきり聞こえないかもしれない。
だが、アルトには聞こえた気がした。
左手首が熱を持つ。
リゼの剣がほんのわずかに硬くなる。
セレナが踏み込む。
リゼは受ける。
今度は少し強い音。
セレナの目が細くなる。
「それとも、弱点?」
リゼの足がわずかに止まった。
その一瞬に、セレナの剣先がリゼの肩へ伸びる。
リゼはぎりぎりで避ける。
安全術式がかすかに光った。
「継続」
教師の声。
観覧席がざわめく。
カイが拳を握る。
「嫌な攻め方だな」
ミリアの表情も硬い。
「ええ。剣よりも、視線を揺さぶっている」
アルトは左手首を押さえた。
痛みなし。
熱、中。
声なし。
感情は、怖い。申し訳ないと思いかけた。でも、支点としていたい。
試合場で、リゼは呼吸を整えた。
セレナは待っている。
攻め急がない。
リゼが戻るか、乱れるかを見ている。
リゼは心の中で現在地を確認した。
第一訓練場。
試合場。
相手はセレナ・アイゼンベルグ。
観覧席にアルトさん、ミリアさん、カイさん。
オルド監察官もいる。
私はリゼ・グレイス。
王宮の剣ではない。
ここで剣を制御する。
アルトさんは、弱点であり支点。
支点として扱う。
リゼは半歩前へ出た。
自分から動く。
セレナの目が少し変わる。
リゼが剣を振る。
基礎型の打ち込み。
速すぎない。
だが、正確。
セレナは足元の魔力で位置をずらす。
リゼの剣は空を切らない。
途中で角度を変え、セレナの剣の根元へ置かれる。
セレナが小さく息を吐く。
受ける。
リゼは押さない。
相手の魔力の流れを読む。
セレナは魔剣術を派手に使わない。
足元、体幹、剣先。
わずかな補助だけで、相手の間合いを外す。
しかし、リゼはそれに合わせてきた。
戦場の速度ではない。
基礎剣術の範囲。
だが、その基礎の中で、セレナの選択肢を一つずつ消している。
セレナの口元がわずかに動いた。
「なるほど。ラウルに勝ったのは偶然じゃない」
リゼは答えない。
セレナが横へずれる。
リゼが半歩追う。
セレナが剣を引く。
リゼは追いすぎない。
カイに教えた戻る足。
自分自身にも使う。
セレナの視線がまた観覧席へ流れる。
今度はアルトではなく、オルドへ。
リゼは反応しそうになった。
王宮。
評価。
欲しがる剣。
その言葉が胸をかすめる。
セレナの剣が入る。
リゼは受けた。
少し遅れた。
安全術式が青く光る。
肩にかすった。
完全な一本ではない。
「継続」
教師が言う。
観覧席がざわめく。
アルトの左手首が熱を帯びる。
「痛みなし。熱、中。声なし」
自分から言う。
ミリアが頷く。
「現在地は」
「第一訓練場。観覧席。ミリアさん、カイといる。リゼさんが少しかすられた」
「感情は」
「心配。でも、リゼさんは戻れる」
カイが低く言う。
「戻れ、リゼ」
声は小さい。
でも、アルトには聞こえた。
試合場のリゼに届いたかはわからない。
しかし、リゼの足が次の瞬間、整った。
セレナはそれを見逃さなかった。
「声が届いた?」
リゼは静かに答える。
「可能性があります」
「あなたたちは、本当に互いに影響し合っているのね」
「はい」
リゼは初めて、はっきり認めた。
「影響しています」
セレナの目が少し開く。
リゼは続けた。
「それは危険であり、支援でもあります」
「開き直った?」
「整理しました」
リゼは剣を構え直す。
「私は、彼らを見ないようにするのではなく、見た上で戻ります」
セレナは一瞬、黙った。
それから、ほんの少し笑った。
「いい答えね」
次の瞬間、セレナの魔力が変わった。
足元の線が細くなる。
剣先へ流れる魔力もほとんど見えない。
だが、彼女の動きがさらに読みづらくなった。
前へ来る。
と思った瞬間、止まる。
右へ逃げる。
と思った瞬間、内側へ入る。
相手の視線、呼吸、足の圧を見て、最小限でずらす。
リゼは追わない。
待つ。
待って、置く。
剣を振るのではなく、必要な場所へ置く。
セレナの剣が入る。
リゼの剣が受ける。
乾いた音。
セレナの足元がずれる。
リゼの剣が追う。
セレナはまた視線をアルトへ流した。
今度は露骨ではない。
ほんの一瞬。
けれど、リゼは見た。
そして、リゼはその視線を追わなかった。
追わずに、呼吸だけで確認した。
アルトさんは観覧席。
ミリアさんとカイさんがいる。
声が必要なら届く。
現在地はここ。
試合場。
相手はセレナ。
リゼは剣を前へ出した。
セレナの予測より、ほんの半拍遅い。
速くない。
だから、セレナの読みがずれた。
速さではなく、間。
戦場の反射ではなく、学園の基礎で作った間。
セレナの剣が空へ流れる。
リゼの模擬剣がセレナの剣の根元に触れる。
力を落とす。
セレナが体を引こうとする。
リゼは追いすぎない。
半歩だけ。
そして、胸元へ剣先を置いた。
安全術式が青く光る。
訓練場が静まり返る。
教師が確認する。
「一本。勝者、リゼ・グレイス」
拍手が遅れて起こった。
昨日のラウル戦ほど爆発的ではない。
だが、ざわめきの質が違った。
「セレナにも勝った」
「今の、何?」
「セレナが読めなかったのか?」
「グレイスさん、やっぱり強い」
「でも途中、すごく揺さぶられてたよな」
「それでも戻った」
リゼは礼をする。
セレナも礼を返す。
その表情は悔しそうというより、興味深そうだった。
「負けたわ」
セレナが静かに言う。
「はい」
リゼが答える。
「あなた、弱点を消したわけじゃないのね」
「はい」
「弱点のまま置いた」
「支点として扱いました」
セレナは少しだけ口元を緩めた。
「やっぱり、あなたたちは面白い」
リゼは答えない。
セレナは続ける。
「あなたたちは互いが弱点であり、支えなのね」
その言葉は、昨日よりも柔らかかった。
リゼは静かに言った。
「はい」
肯定した。
逃げずに。
隠さずに。
「その認識で、現在は対応しています」
「現在は、ね」
セレナは礼をし、試合場を出た。
リゼも反対側へ歩き出す。
その途中、彼女は観覧席を見た。
アルトと目が合う。
アルトは左手首を押さえたまま、小さく頷いた。
痛みなし。
熱、中から少し下がっている。
声なし。
リゼさんは勝った。
リゼさんは戻った。
リゼさんは、僕たちを見た上で戦った。
リゼはほんのわずかに頷き返した。
休憩場所へ戻ると、カイが真っ先に来た。
「勝ったな」
「はい」
「セレナ、嫌な攻め方だった」
「はい」
「でも勝った」
「はい」
「すげえ」
リゼは少し戸惑ったように瞬きをした。
「ありがとうございます」
カイは真剣な顔で言う。
「今日のは、昨日と違うすげえだった」
「違う、ですか」
「昨日は、戻った。今日は、見られても崩れなかった」
リゼは黙った。
カイは言葉を探すように眉を寄せる。
「俺、うまく言えねえけど。セレナはアルトとか王宮とか、そういうの見て揺さぶってきたんだろ。でも、お前は見ないようにしたんじゃなくて、見た上で戻った感じがした」
ミリアが静かに微笑んだ。
「カイさん、とてもよく見ていたわ」
「本当か」
「ええ」
リゼも頷いた。
「正確です」
カイは少し嬉しそうにしたが、すぐに顔を引き締める。
「俺もそれ覚える」
「何をですか」
「弱点を消すんじゃなくて、支点にするやつ」
「高度です」
「知ってる」
「段階的訓練が必要です」
「やる」
「検討します」
アルトが近づくと、リゼがこちらを見た。
「アルトさん」
「はい」
「熱は」
「中から少し下がっています。痛みなし。声なし」
「現在地は」
「第一訓練場の休憩場所。リゼさん、ミリアさん、カイといる。リゼさんがセレナさんに勝った」
「感情は」
アルトは少し考えた。
「怖かった。セレナさんが僕の方を見た時、僕がリゼさんを揺らすんだと思って怖かった。でも、リゼさんは僕を見ないようにしたんじゃなくて、見た上で戻ってくれた気がしました」
「はい」
リゼは静かに頷く。
「その認識で合っています」
アルトの胸が温かくなる。
「僕は、支点でいられましたか」
リゼは少しだけ目を見開いた。
それから、いつもより柔らかい声で言った。
「はい。支点でした」
その言葉だけで、左手首の光がふっと柔らかくなる。
ミリアが小さく笑った。
「とても良好ね」
その時、セレナが休憩場所へ戻ってきた。
負けた直後にもかかわらず、彼女の表情は大きく乱れていない。
少しだけ悔しさはある。
だが、それ以上に興味が残っている。
「リゼ・グレイス」
「はい」
「次、あなたは決勝に進む可能性が高いわね」
「組み合わせと結果次第です」
「そういう答え、あなたらしいわ」
セレナはアルトへ視線を向けた。
アルトは少し緊張したが、逃げなかった。
「あなたも、面白い反応をしていた」
「面白い、ですか」
「ええ。自分が弱点になることを恐れていた。でも、最後には支点になろうとしていた」
アルトは左手首に触れる。
熱、少し。
「怖かったです」
「でしょうね」
「でも、逃げたくなかった」
「それも見えた」
セレナは少しだけ目を伏せた。
「私は、弱点を見つけたら崩す剣を学んできた。でも、あなたたちは弱点を支点にしようとしていた。読みにくかったわ」
リゼが静かに言う。
「私も訓練中です」
「でしょうね」
セレナは小さく笑った。
「負けた側としては悔しいけれど、いいものを見たわ」
カイが言う。
「お前、変なやつだけど悪いやつじゃないのか?」
ミリアがすぐに目を細める。
「カイさん」
「いや、聞いただけだ」
セレナは少しだけ考えた。
「悪いやつかどうかは知らないわ。でも、今のところ敵になる理由はない」
「曖昧だな」
「正確でしょう」
カイは少し唸った。
「リゼみたいなこと言うな」
リゼが静かに言う。
「私はその表現に対する評価を保留します」
ミリアが笑った。
セレナも、ほんのわずかに笑った。
その小さな笑いは、彼女が初めて見せた年相応の表情のように見えた。
だが、その穏やかさは長く続かなかった。
観覧席上段から、オルド・ハイマンがこちらを見ていた。
今日も拍手をしている。
大きくはない。
丁寧に、周囲に合わせる程度。
けれど、その目はリゼだけでなく、アルト、ミリア、カイ、そしてセレナまで見ていた。
関係を見ている。
支点を見ている。
王宮が書類にできる形を探している。
アルトの左手首が再び熱を持つ。
「痛みなし。熱、中。声なし」
自分から言う。
リゼが尋ねる。
「現在地は」
「第一訓練場。休憩場所。リゼさん、ミリアさん、カイ、セレナさんといる。オルド監察官が見ている」
ミリアが聞く。
「感情は」
「嫌です。でも、今は一人じゃない」
セレナがオルドの方を見た。
「王宮監察官も、支点を見つけるのが好きそうね」
その声は冷たかった。
ミリアが静かに言う。
「ええ。だから、私たちは扱い方を間違えないようにしないと」
リゼは頷く。
「はい」
夕方、試合が終わる頃には、リゼが決勝進出候補として大きく注目されていた。
正式な決勝進出者は翌朝掲示されるが、リゼが残ることはほぼ確実だった。
訓練場から中庭へ戻る道で、生徒たちの声が追いかけてくる。
「グレイスさん、セレナにも勝った」
「次、決勝じゃない?」
「首席候補、完全に変わったな」
「でもセレナもすごかったよな。あの揺さぶり」
「グレイスさん、よく崩れなかったな」
視線が増える。
名前が増える。
王宮の目も増す。
でも今日のリゼの足取りは、昨日より少しだけ安定していた。
弱点を消せたわけではない。
怖さが消えたわけでもない。
けれど、支点として扱う感覚を一度得た。
その一歩が、彼女の歩幅を少し変えていた。
中庭のベンチで、ミリアが焼き菓子の袋を取り出した。
カイがすぐに聞く。
「今日の用途は?」
ミリアは微笑んだ。
「支点になれた用」
アルトの顔が熱くなる。
「僕もですか」
「もちろん。リゼさんにも、アルトさんにも」
カイが袋を覗き込む。
「俺は?」
「見守って言葉にできた用」
「お、あるのか」
「あります」
リゼには、支点を扱えた用。
ミリア自身には、観察者を観察した用。
用途は増え続ける。
でも、今日も必要なものだった。
リゼは焼き菓子を受け取り、しばらく見つめてから一口食べた。
「甘いです」
「好き?」
ミリアが聞く。
リゼは少し考えた。
「好きだと思います」
その答えに、四人が少し笑った。
夕鐘が鳴る。
アルトの左手首が淡く光る。
痛みなし。
熱、少し。
声なし。
「現在地は、学園中庭。夕方。リゼさん、ミリアさん、カイといる。今日はリゼさんがセレナさんに勝った。僕は支点でいられた」
リゼが静かに頷いた。
「はい。支点でした」
夜。
男子寮の自室で、アルトは紙片を書いた。
今日はリゼさんとセレナさんの試合だった。
朝、掲示板で組み合わせを見た時から怖かった。
セレナさんは剣だけを見る人じゃない。
僕の左手首や、リゼさんの視線や、僕たちの関係を見る人。
ロウ先生は、弱点と支点の話をした。
守るべきもの。
戻るべき場所。
失えば崩れるもの。
敵から見れば弱点で、本人から見れば支点。
重要なのは弱点を持たないことではなく、自分の支点を理解して扱うことだと言った。
僕は、リゼさんにとって弱点にも支点にもなるのだと思った。
試合で、セレナさんはそれを見てきた。
リゼさんが僕を見るかどうかを試した。
王宮監察官の方も見て、リゼさんを揺さぶった。
あなたにとって彼は支点? それとも弱点? と聞いた。
リゼさんは一度、揺れた。
でも戻った。
見ないようにするのではなく、見た上で戻った。
私は、彼らを見ないようにするのではなく、見た上で戻りますと言った。
その言葉が、とても大事だった。
最後、リゼさんはセレナさんの読みを半拍ずらして勝った。
速さじゃなくて、間で勝った。
セレナさんは、あなたたちは互いが弱点であり、支えなのねと言った。
リゼさんは、はいと言った。
僕は試合後、支点でいられましたかと聞いた。
リゼさんは、はい、支点でしたと言った。
左手首は何度も熱くなった。
でも、痛みはなかった。
声もなかった。
僕は、自分が弱点になることを怖がった。
でも、今日は支点になりたいと思えた。
オルド監察官は今日も見ていた。
王宮は、きっと僕たちの関係も見ている。
それは怖い。
でも、僕たちの関係は、王宮の書類の中だけで決まるものじゃない。
アルトはペンを止めた。
今日の試合を思い返す。
セレナの静かな視線。
リゼの揺れた剣先。
観覧席の熱。
オルドの拍手。
そして、リゼの「見た上で戻ります」という言葉。
アルトは最後に、一行を書いた。
弱点であることが、全部悪いわけじゃない。
誰かが戻る場所になれるなら、それはきっと支点にもなる。
紙片を折り、引き出しへしまう。
窓の外には夜の鐘楼が立っている。
剣術大会は、いよいよ終わりに近づいている。
王宮の目は消えない。
セレナは敵ではないかもしれない。
カイは次へ近づこうとしている。
リゼは決勝へ進む。
怖いことはまだ多い。
でも、今日のアルトの胸には、一つの言葉が残っていた。
支点。
アルトは左手首を胸の上に置いた。
「現在地は、男子寮の自室。夜。僕はアルト。今日はリゼさんがセレナさんに勝った。僕は、支点でいられた」
銀環は淡く光った。
痛みはなかった。
その光は、弱さを消すものではなく、弱さの下に確かに置かれた小さな足場のように、静かに手首の奥で揺れていた。




