第4章 第11話:リゼ対ラウル
朝の鐘が鳴る前から、第一訓練場には人が集まり始めていた。
昨日、カイ・ロックハートとラウル・ヴァレンシュタインが戦った。
カイは負けた。
だが、ただ負けたわけではなかった。
ラウルの袖へ一度届いた。
最後に前へ突っ込みすぎず、戻る足を使った。
倒れきらず、肩で一本を受けた。
その試合は、朝にはもう学園中の話題になっていた。
「ロックハート、負けたけどよかったよな」
「袖に触ったところ、見た?」
「ラウルが少し驚いてた」
「グレイスさんの稽古の成果らしいよ」
「死なない一歩ってやつ?」
「何それ、怖い」
「でも受け身教えてもらったやつ、ダリオもやってたって」
そんな声が、訓練場へ向かう生徒たちの間から聞こえてくる。
そして、今日の話題はもう一つあった。
リゼ・グレイスの次戦。
本戦第二日目。
リゼ・グレイス 対 ラウル・ヴァレンシュタイン
掲示板にその組み合わせが貼り出された時、訓練場前の空気は一瞬止まり、それから大きく揺れた。
ラウルは昨日、カイを破った。
リゼは予選で、ほとんど動かずに相手を制した。
その二人が当たる。
首席候補筆頭と、教師推薦枠の謎の少女。
学園行事の熱は、確実に一段上がっていた。
アルト・レインフォードは掲示板の前で、その文字を見つめていた。
リゼ・グレイス。
ラウル・ヴァレンシュタイン。
胸の奥が、静かに締まる。
昨日、カイの試合を見た。
負けても折れない友達を見た。
今日は、リゼが戦う。
しかも、相手はラウル。
リゼの剣が「学園の剣ではない」と見抜きかけている相手。
彼女の隠しているものに、最も近づいている生徒。
アルトは布の上から左手首を押さえた。
痛みなし。
熱、少し。
声なし。
現在地は、第一訓練場前。
朝。
掲示板前。
ミリアさん、カイといる。
リゼさんは出場者受付へ行っている。
今日、リゼさんがラウルさんと戦う。
怖い。
でも、見届ける。
隣にいたミリア・ファルネーゼが、静かに尋ねた。
「熱は?」
「少し。痛みなし。声なし」
「感情は?」
「怖い。心配。見ていたい」
「良好ね」
ミリアはそう言って、掲示板を見上げた。
彼女の顔にも緊張がある。
柔らかい笑みは消えていない。
けれど、その目はいつもより真剣だった。
カイは掲示板の前で腕を組もうとして、途中で止めた。
昨日から、リゼに注意され続けた癖が少しずつ残っている。
彼は腕を下ろし、掲示を睨むように見た。
「ラウルとリゼか」
「うん」
アルトが頷く。
カイは昨日ラウルに負けた。
だからこそ、今日のこの試合を見る目は違うはずだ。
自分を破った相手。
自分に届かせたいと思わせた相手。
そのラウルに、リゼがどう戦うのか。
「リゼ、勝つかな」
アルトが思わず尋ねると、カイは少し黙った。
以前なら即答したかもしれない。
リゼなら勝つ。
ラウルは強いけど、リゼも強い。
そんなふうに。
けれど、今日のカイは少し考えてから答えた。
「わかんねえ」
正直な答えだった。
「ラウルは強い。昨日やって、わかった。俺の届かせたいところより先にいる」
「うん」
「でも、リゼも強い。たぶん、俺が見えてるよりずっと強い」
カイは掲示板を見つめたまま言った。
「だから、わかんねえ。でも、すげえ試合になると思う」
ミリアが小さく頷く。
「そうね」
アルトの胸がまた熱を帯びる。
怖い。
でも、確かに見たい。
リゼが自分で決めた出場。
学園の中で制御するための剣。
それが、ラウルの前でどこまで保たれるのか。
アルトは怖かった。
リゼが遠い場所へ行ってしまうのが。
戦場の反射が出てしまうのが。
ラウルに見抜かれてしまうのが。
オルド監察官に利用価値として見られるのが。
その時、背後から静かな声がした。
「お待たせしました」
リゼだった。
灰銀の髪を結び、大会用の軽装を身にまとっている。昨日と同じ支給上着と黒の下衣。腰には模擬剣。表情は平静。
だが、アルトにはわかった。
今日のリゼは、昨日より少し硬い。
肩ではない。
手でもない。
視線の奥が硬い。
ラウルとの試合を、彼女も重く見ている。
カイがすぐに言った。
「ラウルとだな」
「はい」
「勝てよ」
あまりに真っ直ぐな言葉。
リゼは一拍置いた。
「勝利を最優先目標とはしません」
「それでも勝てよ」
「カイさん」
「俺を負かした相手だ」
カイの声は静かだった。
「だから、勝てって言いたい」
リゼはカイを見た。
カイの顔には悔しさが残っている。
でも、それだけではない。
ラウルを認めている。
その上で、リゼに挑んでほしいと思っている。
リゼは静かに答えた。
「基礎剣術の範囲内で、全力を尽くします」
「それでいい」
カイは頷いた。
アルトはリゼを見る。
「リゼさん」
「はい」
「今日、僕は見ています」
「はい」
「怖くなったら、現在地を言います。リゼさんが戻れなくなりそうだったら、名前を呼びます」
リゼの目が少し揺れた。
「確認しました」
「あと」
アルトは少し迷った。
言葉を出すと、それが重くなる気がした。
でも、言うべきだと思った。
「勝つためだけじゃなくて、戻るために戦ってください」
ミリアがそっと目を細める。
カイも何も言わない。
リゼは長く黙った。
やがて、静かに頷く。
「はい。戻るために、剣を握ります」
その言葉を聞いた瞬間、アルトの左手首が淡く光った。
痛みはない。
熱は少し。
声もない。
怖さの中に、小さな安心が混ざった。
第一訓練場へ入ると、観覧席はすでにかなり埋まっていた。
昨日よりも明らかに人が多い。
上級生の姿。
教師たち。
生徒会の白い制服。
医務班。
そして、観覧席上段には、今日も濃紺の外套があった。
オルド・ハイマン監察官。
彼は穏やかな表情で座り、手元の記録板を閉じていた。まだ何も書いていないように見える。
だが、その目は試合場ではなく、出場者待機位置へ向いていた。
リゼを見ている。
アルトの左手首が熱を持つ。
ミリアがすぐに確認する。
「痛みは?」
「なし」
「熱は?」
「中」
「声は?」
「なし」
「現在地は?」
「第一訓練場。観覧席。ミリアさん、カイといる。リゼさんは待機位置。オルド監察官がいる」
「感情は?」
「怖い。嫌です。でも、今日はリゼさんを見る」
ミリアが頷く。
「ええ。今日はリゼさんを見る日ね」
カイは隣で低く言った。
「王宮のやつじゃなくて、リゼを見ろ」
「うん」
アルトは頷いた。
試合は朝から順に進んだ。
第一試合、第二試合。
本戦に残った生徒たちの剣は、予選よりずっと粘りがある。安全術式の青い光が何度も走り、歓声と拍手が訓練場に響いた。
セレナ・アイゼンベルグは今日は試合がなかったが、観覧席ではなく出場者側の壁際に立ち、試合を見ていた。
その姿勢は相変わらず静かだった。
彼女の視線は、時折アルトへ向く。
だが、今日は左手首だけを見ているのではなかった。
アルトの顔。
カイの反応。
ミリアの立ち位置。
リゼの呼吸。
全部を拾っている。
怖い。
でも、昨日の会話の後、少しだけその怖さの形が変わっていた。
セレナは敵か味方かはわからない。
ただ、見る人だ。
見た上で言葉を投げる人だ。
そして、今日もきっと見る。
リゼが怖いものを怖いまま制御できるかどうかを。
第三試合が終わった時、教師が試合表を確認した。
訓練場のざわめきが少しずつ大きくなる。
次だと、皆がわかっている。
教師の声が響いた。
「第四試合。リゼ・グレイス。ラウル・ヴァレンシュタイン。試合場へ」
空気が止まった。
次の瞬間、ざわめきが広がる。
「来た」
「グレイスさんとラウル」
「昨日ロックハートと戦ったラウルだろ」
「グレイスさん、どうなるんだ」
「ラウルが引き出すかな」
アルトは息を吸った。
リゼが待機位置から歩き出す。
静かな足取り。
昨日と同じ。
いや、昨日よりもさらに静かだ。
彼女は目立たないようにしているのではない。
今は、自分を試合場へ正しく運んでいる。
ラウルも反対側から歩いてくる。
昨日カイと戦った時と同じ、落ち着いた足取り。
だが、彼の目は昨日より鋭かった。
カイを相手にした時の、受け止めるような静けさとは違う。
今日は、探る目だ。
リゼの奥にあるものを見ようとしている。
二人が白線の内側で向かい合った。
体格差はある。
ラウルは背が高く、正統派の構えがよく似合う。
リゼは小柄で、模擬剣を持っても力強さを誇示しない。
だが、試合場の空気は拮抗していた。
教師が確認する。
「双方、準備は」
「はい」
ラウルが答える。
「はい」
リゼも答える。
声は平静。
教師が言う。
「礼」
二人が礼をした。
ラウルの礼は騎士家らしく正確で美しい。
リゼの礼は、それより少し簡素だった。
だが、余計な揺れがない。
試合場が静まり返る。
アルトは左手首を押さえた。
痛みなし。
熱、中。
声なし。
現在地は、第一訓練場。
観覧席。
リゼさんを見る。
戻るために。
「始め」
合図が落ちた。
最初に動いたのは、ラウルだった。
予想外ではない。
しかし、昨日カイに対して見せた動きより鋭い。
正統派の踏み込み。
無駄のない剣筋。
上段から斜めへ入る一撃。
リゼは受けた。
基礎剣術の受け。
剣を合わせ、角度をずらし、力を落とす。
安全術式が淡く光る。
観客席から小さく声が漏れた。
ラウルは止まらない。
二撃目。
三撃目。
騎士剣術の教科書のように正確で、しかし授業の速度ではない。
リゼは下がる。
半歩。
さらに半歩。
押されているようにも見える。
だが、アルトにはわかった。
リゼは場所を選んでいる。
ラウルの剣を受ける位置、下がる距離、試合場の白線、安全術式の範囲。
全てを計算している。
ラウルが踏み込む。
リゼが剣を合わせる。
ラウルの剣が少し外へ流れる。
その瞬間、ラウルの目が鋭くなる。
彼はわざと隙を作ったのだ。
リゼの反応を見るために。
リゼの剣先が一瞬だけ内側へ入ろうとした。
喉ではない。
大会用なら肩か胸を狙う角度に見える。
だが、アルトにはわかった。
その線の奥に、もっと危険な角度がある。
戦場なら、相手の呼吸を止める角度。
リゼは寸前で止めた。
基礎型へ戻す。
ラウルの剣と模擬剣同士が鳴る。
乾いた音。
教師の目が細くなる。
ラウルが言った。
「やはり、止めたね」
試合中にもかかわらず、低い声が届いた。
リゼは答えない。
ラウルはさらに踏み込む。
「なぜ本気を出さない」
観覧席がざわつく。
本気。
その言葉がリゼの周囲に刺さる。
アルトの左手首が熱くなる。
リゼは静かに言った。
「ここは戦場ではありません」
その声は試合場に落ちた。
ラウルの目がさらに鋭くなる。
「では、君の本当の剣は戦場にしかないのか」
リゼはまた答えない。
剣で答えるように、半歩下がり、受ける。
ラウルの剣が追う。
正統派の連撃。
だが、徐々にラウルはリゼを引き出そうとしていた。
ただ勝つためではない。
リゼが隠しているものを見るために。
剣の角度を変える。
間合いを詰める。
あえて隙を置く。
リゼの反射がどこへ向かうのかを測っている。
アルトは拳を握った。
怖い。
リゼが遠くへ行きそうだ。
だが、まだ戻っている。
まだ基礎の中にいる。
リゼはラウルの剣を受け続ける。
観客には押されているように見えるかもしれない。
だが、ラウルは苛立ち始めているようだった。
彼が求めるものが出ないから。
リゼが本当の剣を見せないから。
ラウルの踏み込みが一段深くなった。
その一撃は、今までより速かった。
基礎の範囲ではある。
だが、首席候補筆頭の出力。
リゼは受ける。
受けた瞬間、模擬剣に重さが乗る。
リゼの足元がわずかに沈む。
ラウルがさらに押し込む。
リゼが半歩下がる。
白線が近い。
観覧席がざわめく。
カイが隣で息を呑んだ。
「押してるのか、あいつ」
「違う」
アルトは小さく言った。
「リゼさんは、場所を見てる」
自分で言って、そうだと思った。
リゼは追い詰められている。
でも、ただ追い詰められているわけではない。
どこまで下がれるか。
どこで戻るか。
どこなら戦場の反射を出さずに返せるか。
それを探している。
ラウルが低く言った。
「君は強い。なら、隠すな」
リゼの目がわずかに細くなる。
「強さを全て出すことが、試合の目的ではありません」
「勝つ気はないのか」
「勝敗は結果です」
「それでは届かない」
ラウルの剣が横へ入る。
リゼが受ける。
次の瞬間、ラウルは剣を引くふりをして、踏み込みを変えた。
カイを崩した時とは違う。
もっと深い。
リゼの内側へ入るための踏み込み。
観客席から声が上がった。
リゼの剣が反射で動いた。
速い。
今までとは明らかに違う速度。
アルトの左手首が強く光った。
その剣筋は、基礎の型ではなかった。
ラウルの剣を外し、相手の手首を取り、次に肩ではなく、喉へ続く線。
戦場の線。
それが一瞬、現れた。
ラウルの目が見開かれる。
彼はそれを引き出したかったのかもしれない。
だが、実際に見た瞬間、その危険さを理解したのだろう。
教師が動きかける。
カイが立ち上がりかける。
ミリアが息を呑む。
アルトの胸が、強く鳴った。
遠くへ行く。
リゼが、戦場へ。
アルトは手首を押さえた。
痛みなし。
熱、強。
声なし。
怖い。
でも、言う。
「リゼさん」
声は大きくなかった。
だが、試合場へ届いた。
リゼの剣先が、寸前で止まる。
ラウルの喉元ではなく、肩の手前。
模擬剣の先が、空気を震わせたまま止まっている。
リゼの目が、一瞬だけアルトの方へ向いた。
アルトは立ち上がっていた。
自分でも気づかないうちに。
左手首が淡く光っている。
熱い。
でも痛みはない。
「戻ってください」
アルトは言った。
訓練場が静まり返る。
その言葉は、試合の声ではない。
応援でも、歓声でもない。
現在地を示す声だった。
リゼの瞳が揺れる。
剣先が下がる。
一呼吸。
そして、リゼは半歩下がった。
ラウルから距離を取る。
基礎姿勢へ戻る。
教師が鋭く見ている。
止めるか、続けるか。
ラウルも動かない。
リゼは静かに言った。
「継続可能です」
教師が確認する。
「グレイス、制御可能か」
「可能です」
「ヴァレンシュタイン」
ラウルは喉元の近くで止まった剣の残像を感じているようだった。
だが、すぐに頷く。
「継続可能です」
教師は一拍置いて言った。
「継続。ただし、危険動作が再発した場合、即時中止」
「はい」
二人が答える。
アルトはゆっくり座った。
ミリアがすぐに肩へ手を添える。
「痛みは」
「なし」
「熱は」
「強から中。下がってきています」
「声は」
「なし」
「現在地は」
「第一訓練場。観覧席。ミリアさん、カイといる。リゼさんは戻った」
カイが低く言う。
「戻ったな」
「うん」
「お前、届いたな」
カイの声は少し震えていた。
アルトは頷いた。
「うん」
試合場では、二人が再び向かい合っていた。
ラウルの表情は変わっていた。
さっきまでの「引き出そう」とする目ではない。
警戒。
尊重。
そして、少しの恐怖。
彼はリゼの本当の剣の端に触れた。
それが何を意味するかを理解したのだろう。
リゼは静かだった。
だが、先ほどよりも空気が軽くなっている。
戦場へ引かれた後、戻ってきた。
戻る場所を確認した。
アルトの声。
学園の訓練場。
基礎剣術。
自分の出場理由。
その全部へ。
ラウルが剣を構え直す。
「今のが、君の剣か」
リゼは答えた。
「一部です」
「それを隠して勝つつもりか」
「隠すのではありません。ここに適した形を選びます」
「それで僕に勝てると?」
「試します」
その声は静かだった。
だが、先ほどまでより確かだった。
ラウルが動く。
今度は深く踏み込まない。
正統派の構えを維持し、リゼの反射を無理に引き出そうとしない。
互いに、場を見ている。
リゼが受ける。
半歩下がる。
ラウルが追う。
リゼが横へ移る。
カイに教えた動き。
死なない一歩を、学園の基礎に変えた足。
ラウルが剣を返す。
リゼは押し返さない。
力を落とす。
相手の剣を殺すのではなく、流れを消す。
観客席から息を呑む音が広がる。
今度のリゼの動きは、戦場の線ではなかった。
基礎剣術。
だが、その基礎が異様なほど研ぎ澄まされている。
速すぎない。
危険すぎない。
けれど、無駄がない。
ラウルが攻める。
リゼが受ける。
ラウルが角度を変える。
リゼが半歩ずれる。
ラウルがさらに踏み込む。
リゼは下がらない。
その場で剣を置く。
置いた場所が、ラウルの剣の根元だった。
ラウルの剣が止まる。
ほんの一瞬。
その一瞬で、リゼの模擬剣がラウルの胸元へ触れた。
安全術式が青く光る。
静かな光。
誰もすぐに声を出さなかった。
教師が確認し、宣言する。
「一本。勝者、リゼ・グレイス」
訓練場が、遅れて沸いた。
大きな拍手。
驚きの声。
どよめき。
ラウルが負けた。
首席候補筆頭が、リゼに敗れた。
だが、リゼは喜ばなかった。
荒い息もない。
勝ち誇りもしない。
ただ、ラウルへ礼をした。
ラウルも礼を返す。
その表情には悔しさがあった。
しかし、それ以上に、何かを見た者の深い緊張が残っていた。
「君は」
ラウルが静かに言った。
「まだ何かを隠している」
リゼは答えた。
「はい」
否定しなかった。
ラウルの目が少し見開かれる。
リゼは続けた。
「しかし、ここで見せるべきものは、今の剣です」
ラウルはしばらく黙った。
やがて、静かに笑う。
「そうか」
そして、もう一度礼をした。
「負けた。見事だった」
「ありがとうございました」
リゼは礼を返した。
試合場を出る彼女へ、観客の視線が集中する。
歓声。
ざわめき。
畏怖。
疑念。
憧れ。
全部が混ざっている。
リゼ・グレイスという名前が、昨日よりもさらに大きくなっていく。
アルトは左手首を押さえた。
痛みなし。
熱、中。
声なし。
感情は、怖い。嬉しい。心配。誇らしい。リゼさんが戻った。
ミリアが静かに言う。
「勝ったわね」
「はい」
「戻ったわね」
「はい」
カイは黙っていた。
ラウルを負かしたリゼ。
昨日自分を破ったラウル。
その両方を見たカイの中に、いろいろな感情が渦巻いているのだろう。
やがて、彼は小さく言った。
「やっぱ、リゼは強いな」
「うん」
「でも、俺ももっと近づく」
アルトはカイを見た。
カイの目は折れていなかった。
むしろ、燃えていた。
「うん」
試合後の休憩場所で、リゼは水を飲んでいた。
カイが真っ先に近づいた。
「勝ったな」
「はい」
「ラウルに勝ったな」
「はい」
「すげえ」
リゼは少しだけ困ったように瞬きをした。
「ありがとうございます」
「でも、一回危なかった」
「はい」
カイは真剣な顔になる。
「戻ったな」
「はい」
「アルトの声、届いたな」
「届きました」
その言葉に、アルトの胸が熱くなる。
リゼがこちらを見る。
「アルトさん」
「はい」
「呼びかけ、ありがとうございました」
アルトは首を横に振った。
「戻ってくれて、ありがとうございます」
リゼは一瞬、言葉を失ったように見えた。
ミリアが静かに微笑む。
「二人とも、よく戻りました」
「私もですか」
「ええ。リゼさんも、アルトさんも」
アルトは少し驚いた。
「僕も?」
「あなたも、強い反応の中で現在地を言って、声を届けたでしょう」
ミリアは言った。
「戻しただけではなく、自分も戻っていたわ」
アルトは左手首を見る。
確かに、あの瞬間、熱は強かった。
怖かった。
でも、声を出した。
現在地を失わなかった。
リゼを呼ぶために、自分も戻った。
リゼが静かに言う。
「良好です」
その言葉に、アルトは少し笑った。
そこへ、ラウルが近づいてきた。
カイが一瞬身構える。
リゼは静かに立った。
ラウルは礼をした。
「グレイスさん」
「はい」
「負けたことは悔しい。だが、感謝もしている」
「感謝ですか」
「ああ。君の剣は、僕が知っている学園の剣ではなかった。だが、最後の一手は確かに基礎剣術だった」
ラウルは真っ直ぐに言った。
「基礎の極限を見た気がした」
リゼは静かに受け止める。
「評価として受け取ります」
「そして、君が隠しているものについては、今は問わない」
カイが少し意外そうにする。
ラウルは続けた。
「聞けば答えられないだろうし、無理に引き出すべきではないと、今日わかった」
「ありがとうございます」
「ただし」
ラウルの目が鋭くなる。
「いつか、君が自分から語るなら聞きたい。君が何を背負って、その剣をここまで持ってきたのか」
リゼは黙った。
長い沈黙。
そして、静かに答える。
「その時が来れば」
「わかった」
ラウルはカイを見た。
「ロックハート君」
「何だ」
「君の次の目標が少し変わったな」
「そうか?」
「僕に近づくことだけでなく、彼女にも近づく必要がある」
カイは少し顔をしかめた。
「遠すぎるだろ」
「遠いね」
「言うなよ」
「だが、君は遠いものを見るのが得意そうだ」
カイは一瞬言葉に詰まり、それから笑った。
「次はもっと近づく」
「期待している」
ラウルは礼をして去っていった。
その背中を見送っていると、別の気配が近づいた。
濃紺の外套。
オルド・ハイマン監察官だった。
アルトの左手首が一気に熱を持つ。
リゼが即座に立ち位置を変えた。
しかし、オルドは一定の距離で足を止め、丁寧に一礼した。
「素晴らしい試合でした、グレイス嬢」
その声は穏やかだった。
だが、アルトの胸が冷える。
オルドは微笑んでいる。
「基礎剣術の範囲内で、あれほどの制御を見せるとは。王宮でも、ぜひ見たい剣です」
空気が凍った。
カイの拳が握られる。
ミリアの微笑みが静かに薄くなる。
リゼの表情は変わらない。
だが、アルトにはわかった。
今の言葉は、ただの褒め言葉ではない。
王宮でも、ぜひ見たい剣。
それは招待ではない。
評価。
利用価値。
取り込み。
リゼを、王宮の剣として見ようとする言葉。
リゼは静かに答えた。
「評価ありがとうございます。ただし、私は学園生徒として大会に出場しています」
「もちろんです」
オルドは柔らかく言った。
「ただ、優れた能力は、適切な場所でこそ生かされるものです。あなたのような護衛者がアルト君の安定に大きく寄与していることも、本日の試合でよく理解できました」
アルトの左手首が強く光る。
リゼがこちらを見ずに確認する。
「アルトさん、痛みは」
「なし」
声が少し震える。
「熱、強。声なし。現在地は第一訓練場の休憩場所。リゼさん、ミリアさん、カイ、オルド監察官がいる」
オルドが穏やかに見る。
「現在地確認。やはりよく機能していますね」
その言い方が嫌だった。
機能。
まるで、リゼの声も、ミリアの手も、カイの焼き菓子も、全部が王宮の報告書に並ぶ機能のように扱われる。
アルトは唇を噛みかけ、止めた。
リゼが言った。
「アルトさんの安定は、本人の訓練と周囲の支援によるものです。特定個人の所有物ではありません」
オルドは微笑む。
「ええ。だからこそ、保護体制全体を評価する必要があります」
ミリアが一歩前へ出る。
「監察官。試合直後です。選手への接触は、学園側の整理後にしていただけますか」
声は柔らかい。
だが、明確な制止だった。
オルドはミリアを見る。
「失礼しました。ファルネーゼ嬢」
ミリアの名前も知っている。
アルトは胸が冷たくなる。
オルドは一礼した。
「では、また改めて」
彼は去っていった。
濃紺の外套が観覧席の方へ戻る。
カイが低く言った。
「嫌な言い方だったな」
「はい」
リゼが答えた。
否定しなかった。
ミリアはリゼを見る。
「大丈夫?」
リゼは少しだけ沈黙した。
「警戒しています。怖い可能性があります」
「ええ」
「しかし、出場理由は維持しています」
アルトはリゼを見た。
「リゼさん」
「はい」
「今の言葉、嫌でした」
「はい」
「王宮でも見たい剣って、嫌でした」
「私も、不快と判断します」
リゼは静かに言った。
「私は、王宮の剣ではありません」
その言葉は低く、はっきりしていた。
カイが頷く。
「そうだ」
ミリアも言う。
「ええ」
アルトも頷いた。
「はい」
左手首の熱が少し下がる。
まだ怖い。
でも、言葉がある。
リゼは王宮の剣ではない。
リゼ・グレイスだ。
学園の中で、自分の理由で剣を握っている人だ。
午後の試合は続いたが、アルトの胸には午前の試合がずっと残っていた。
リゼの剣先が、危険な角度で止まった瞬間。
戻ってください、と叫んだこと。
リゼが戻ったこと。
最後の基礎剣術の一手。
ラウルの敗北。
オルドの言葉。
王宮でも、ぜひ見たい剣。
怖いことが増えた。
でも、今日のリゼは戻った。
それだけは確かだった。
夕方、本戦第二日目が終わる頃には、訓練場中がリゼの話題で満ちていた。
「グレイスさん、ラウルに勝った」
「途中、何かすごい空気にならなかった?」
「あれ、先生が止めるかと思った」
「でも最後は基礎で勝ったんだよな」
「基礎って何だっけ」
「ラウルが負けたの、初めて見た」
「首席候補、わからなくなってきたな」
名前が広がっていく。
リゼ・グレイス。
もう、静かな同級生だけではいられない。
それでも、彼女は中庭のベンチで静かに水を飲んでいた。
カイは隣で悔しそうに何度も空を見上げている。
「俺、遠いな」
「はい」
リゼが即答する。
「そこは否定しろよ」
「事実ではありません」
「でも近づく」
「はい」
「絶対近づく」
「良好です」
ミリアが焼き菓子の袋を出した。
「今日は何用でしょう」
アルトが尋ねる。
カイが袋を見て、少し考える。
「リゼが戻った用」
リゼが少し驚いたように見る。
「私用ですか」
「お前、戻っただろ」
「はい」
「だから、戻った用」
ミリアが嬉しそうに微笑む。
「とてもいい用途ね」
カイは少し照れくさそうに袋を開け、一つをリゼに渡した。
リゼは受け取る。
「ありがとうございます」
アルトにも一つ渡される。
「お前は呼んだ用」
「ありがとう」
ミリアには「支えた用」。
カイ自身には「次は近づく用」。
用途は相変わらず多かった。
でも、どれも今日には必要なものだった。
夕鐘が鳴った。
アルトの左手首が淡く光る。
今日は何度も強く光った。
でも、今は痛みがない。
「痛みなし。熱、少し。声なし」
リゼが尋ねる。
「現在地は」
「学園中庭。夕方。リゼさん、ミリアさん、カイといる。リゼさんがラウルさんに勝った。リゼさんは戻った」
ミリアが聞く。
「感情は」
アルトは少し考えた。
「怖かった。今も怖い。オルド監察官の言葉は嫌だった。でも、リゼさんが戻ってくれて嬉しい。最後の剣、怖いだけじゃなかった」
リゼは静かに頷いた。
「確認しました」
夜。
男子寮の自室で、アルトは紙片を書いた。
今日はリゼさんとラウルさんの試合だった。
朝から訓練場には人が多かった。
ラウルさんは昨日カイに勝った。
リゼさんは昨日、ほとんど動かずに勝った。
その二人が戦った。
最初、ラウルさんが攻めた。
リゼさんは基礎剣術で受けて、下がって、場所を選んでいた。
ラウルさんは、リゼさんの本当の剣を引き出そうとしていた。
なぜ本気を出さない、と言った。
リゼさんは、ここは戦場ではありません、と言った。
途中で、ラウルさんが深く踏み込んだ。
リゼさんの戦場反射が出かけた。
剣先が、危ないところへ向かった。
僕は怖かった。
左手首が強く光った。
でも、僕はリゼさんと呼んだ。
戻ってくださいと言った。
リゼさんは止まった。
戻った。
それから、基礎剣術の範囲で戦った。
最後は、ラウルさんの剣を根元で止めて、胸元へ一本を取った。
リゼさんは勝った。
ラウルさんは、まだ何かを隠していると言った。
リゼさんは、はい、と答えた。
でも、ここで見せるべきものは今の剣です、と言った。
その言葉が、すごくリゼさんらしいと思った。
試合後、ラウルさんは、最後の一手は基礎剣術だったと言った。
基礎の極限を見た気がしたと言った。
オルド監察官も来た。
王宮でもぜひ見たい剣です、と言った。
嫌だった。
リゼさんは、私は学園生徒として大会に出場しています、と言った。
あとで、私は王宮の剣ではありません、と言った。
その言葉を聞いて、少し安心した。
カイは、リゼが戻った用の焼き菓子をくれた。
僕には呼んだ用。
ミリアさんには支えた用。
カイ自身には次は近づく用。
今日は怖かった。
でも、リゼさんは戻った。
僕も、強い熱の中で声を出せた。
アルトはペンを止めた。
手が少し震えている。
試合の瞬間が、まだ目の奥に残っている。
危ない剣先。
リゼの揺れた瞳。
戻ってくださいという自分の声。
静かに半歩下がったリゼ。
最後の一手。
青い安全術式。
王宮の冷たい拍手。
全部が、胸の中で混ざっている。
アルトは最後に、一行を書いた。
リゼさんの剣は怖い。
でも、今日僕は、怖い剣が戻ってくる瞬間を見た。
だから、やっぱり信じたい。
紙片を折り、引き出しへしまう。
窓の外には夜の鐘楼が立っている。
剣術大会はまだ終わっていない。
王宮の目も消えていない。
むしろ、今日さらに強くなった。
リゼの名前も、もっと大きくなった。
それでも、今日の中で一番大事だったのは、勝ったことだけではない。
戻ったこと。
リゼが戻ったこと。
自分が呼べたこと。
アルトは左手首を胸の上に置いた。
「現在地は、男子寮の自室。夜。僕はアルト。今日はリゼさんがラウルさんに勝った。リゼさんは、戻った」
銀環は淡く光った。
痛みはなかった。
その光は、剣先を止めた一瞬の青い安全術式のように、けれどそれよりずっと温かく、手首の奥で静かに揺れていた。




