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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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第3章 第7話:人目の中の昼食


 朝、アルト・レインフォードは鏡の前で少しだけ立ち止まった。


 制服の襟は曲がっていない。


 髪も、寝癖はほとんどない。


 鞄には教科書とノートが入っている。


 左手首には、いつもの布。


 布の下にある銀環痕は見えない。けれど、そこにある。消えない。名前を得た日から文字は濃くなり、鐘の音にも噂の視線にも、ときどき熱を持つ。


 アルトは布の上から、そっと手首を押さえた。


 痛みはない。


 熱もない。


 声もない。


 けれど、胸の奥は落ち着かなかった。


 今日は、人目のある場所で昼食を取る。


 自分で言った。


 隠れてばかりは嫌だ。


 噂に負けたくない。


 そう思ったのは本当だ。


 でも、朝になってみると、怖さの方が大きくなっていた。


 教室で見られること。


 中庭で囁かれること。


 リゼさんといることで、また何か言われること。


 ミリアさんが気を遣うこと。


 カイが怒りを我慢すること。


 その全部が想像できた。


 想像できるから、怖い。


 アルトは机の上の紙片を開いた。


 昨日の夜に書いた言葉。


 四人で普通に昼を食べることが、対策になるらしい。


 普通って、思ったより難しい。


 でも、明日やってみる。


 やってみる。


 その言葉を見て、アルトは小さく息を吸った。


 完璧にやる必要はない。


 怖くなくなる必要もない。


 ただ、やってみる。


 怖いと言いながら。


 途中で戻ってもいいと決めながら。


 それでも、自分で決めた場所へ行く。


 朝の鐘が鳴った。


 窓の外から鐘楼の音が届く。


 左手首が淡く光る。


 昨日と同じくらい。


 アルトは目を閉じず、鏡の中の自分を見たまま言った。


「痛みなし。熱、少し。声なし」


 胸元に手を当てる。


「現在地は、男子寮の自室。朝。今日は人目のある場所で昼食を食べる。怖い。でも、行く」


 銀環の光は強くならなかった。


 それだけで、少しだけ安心した。


 中庭に出ると、リゼたちはいつもの場所で待っていた。


 リゼは今日も制服のリボンが整っている。灰銀の髪が朝日に光り、表情はいつも通り真剣だった。ただ、よく見ると眉間に少しだけ力が入っている。


 ミリアは穏やかな笑みを浮かべているが、周囲をさりげなく見ている。


 カイは腕を組んでいた。昨日よりもさらに声を抑えようとしているのか、口を固く結んでいる。そのせいで少し怖い顔になっていた。


 アルトは三人へ近づいた。


「おはよう」


「おはようございます」


 リゼは挨拶を返す。


 一拍。


「体調は」


「眠れた。夢は少しだけ。白鐘礼拝堂じゃなくて、中庭の夢だった。たくさん人がいて、何か言われているけど、言葉はわからなかった。朝鐘で少し光った。痛みなし、熱少し、声なし。朝食はパン一つとスープ半分。気分は……怖い」


 リゼは頷いた。


「昼食の件ですね」


「うん」


 ミリアがそっと言う。


「やめてもいいのよ」


 その言葉は優しかった。


 逃げ道を塞がないための言葉。


 けれど、アルトは首を横に振った。


「やめたい気持ちは少しある。でも、やりたい」


「わかったわ」


 ミリアはすぐに頷いた。


 リゼも言った。


「本人意思、実施。場所は中庭中央寄りの開けた席。人目あり。退避経路は三方向。教師巡回あり。危険は中。心理的負荷も中から高」


「今日も全部考えてくれてるんだね」


「はい」


 リゼは少しだけ表情を緩めた。


「ただし、過剰警戒にならないよう調整します」


 カイが低い声で言った。


「俺は普通に食う」


「それが重要です」


 リゼが答える。


「普通が一番難しい気がしてきた」


 アルトが言うと、カイは肩をすくめた。


「飯食うだけだろ」


「カイにはそうなんだね」


「そうだ。飯は飯だ」


 ミリアが微笑む。


「今日は、その単純さが心強いわ」


 朝の二度目の鐘が鳴る。


 四人は第一校舎へ向かった。


 教室に入ると、昨日と同じように視線が集まった。


 ただ、アルトは昨日より少しだけそれを見られた。


 見られている。


 でも、全部が敵ではない。


 ティナは小さく手を振った。


 ノエルは会釈した。


 リリアは一瞬こちらを見て、静かに目を伏せた。


 誰かの好奇心もある。


 誰かの悪意もあるかもしれない。


 でも、全部を一つの塊にしない。


 リゼが昨日言っていた。


 噂は、事実の断片を利用する。


 なら、こちらも一つずつ見るしかない。


 アルトは席へ着き、ノートを開いた。


 午前の授業は、思ったより普通に進んだ。


 王国史では貴族家の紋章について扱われた。


 レインフォード家という名前は出なかった。


 それだけで、アルトは少し安心した。


 魔術理論では属性魔力の流れを図にする課題の続きが出た。ノエルが休み時間に「昨日のまとめ、助かった」と小さく言ってくれた。


 それは噂の声より、小さいけれど確かな言葉だった。


 アルトは「よかった」と答えた。


 左手首は少しだけ温かくなったが、痛みはなかった。


 午前の最後の鐘が鳴る。


 昼休み。


 アルトの胸が一気に緊張した。


 リゼが左側へ来る。


「実施確認です。続行しますか」


 アルトは息を吸った。


「続行します」


「了解しました」


 ミリアが微笑む。


「では、堂々と行きましょう」


 カイが立ち上がる。


「売店行く。今日は普通の四人分と、噂に負けない用の焼き菓子」


「用途名が長くなっています」


 リゼが言う。


「でも必要だろ」


「はい」


 アルトは笑った。


 廊下へ出ると、何人かの視線を感じた。


 今日は逃げなかった。


 逃げないと言っても、睨み返すわけではない。


 ただ、歩く。


 リゼが左にいる。


 ミリアが右にいる。


 カイが少し前を歩きかけて、リゼに視線で注意され、半歩戻る。


 その様子に、アルトは少しだけ笑いそうになった。


 中庭に出る。


 昼の光は明るかった。


 生徒たちの声があちこちにある。


 噴水の周囲、花壇のそば、売店前、校舎の影。どこにも人がいた。


 いつもの休憩席よりも、今日選んだ席は少し中央寄りだった。


 噴水から近く、売店からも見える。


 隠れられない。


 逃げ込める木陰も少し遠い。


 けれど、開けている。


 人目がある。


 不審な誰かが近づけば、逆に目立つ。


 リゼが短く言った。


「この席でよいですか」


 アルトは席を見た。


 石造りの長椅子と、丸い卓。


 周囲に生徒がいる。


 何人かがこちらを見ている。


 怖い。


 でも、逃げたいほどではない。


「ここがいい」


 リゼは頷いた。


「了解しました」


 四人は席に着いた。


 アルトの左にリゼ。


 右にミリア。


 向かいにカイ。


 いつもの形に近い。


 けれど、周囲の視線の量が違う。


 カイが売店から戻ってくるまでの間、アルトは膝の上で手を握った。


 左手首が少し熱い。


 痛みはない。


 声もない。


 現在地は学園中庭。


 昼。


 人目のある席。


 リゼさん、ミリアさんといる。


 カイは売店。


 ここは危険だけではない。


 昼食を食べる場所。


 リゼが小声で尋ねる。


「痛みは」


「なし」


「熱は」


「少し」


「声は」


「なし」


「感情は」


「怖い。でも、まだ座っていられる」


「良好です」


 ミリアが言った。


「周りを見る?」


 アルトは少し迷った。


「見たい。でも、全部見ると怖いかも」


「では、少しずつ」


 ミリアは穏やかに言った。


「まず、あそこ。ノエルさんがいるわ」


 アルトはそちらを見る。


 ノエルが少し離れた席で友人と昼食を取っていた。目が合うと、彼は小さく会釈した。


 アルトも会釈を返す。


「次、ティナさん」


 ティナは友人たちと一緒にいた。


 昨日謝ってきた時のように少し気にしている顔だったが、目が合うと今度はしっかり手を振った。


 アルトも小さく手を振る。


 周囲の一部がそれを見た。


 でも、何も起きない。


「見られても、全部が悪いわけではないでしょう?」


 ミリアが言った。


「うん」


「次は、見なくていい場所もあるわ」


「見なくていい場所?」


「あなたを傷つけようとしているかもしれない視線を、全部拾う必要はないということ」


 リゼが頷く。


「脅威確認は私が行います」


「でも、リゼさんも全部拾うと疲れるよ」


 アルトが言うと、リゼは少しだけ目を瞬いた。


「私は」


 言いかけて、止まる。


 ミリアが静かに見ている。


 リゼは言い直した。


「私も、必要な範囲で拾います」


「うん」


 アルトは頷いた。


 その時、カイが戻ってきた。


 両手いっぱいの食事。


 ただし、量は本当に四人分だった。


 焼き菓子は少し多い。


「普通の四人分。あと、噂に負けない用」


 カイが卓に食事を置く。


 その声は少し大きかった。


 近くの生徒が何人かこちらを見る。


 ミリアがすぐに笑顔で言った。


「ありがとう、カイさん。今日は果実水もあるのね」


「濃いかは知らん」


 アルトは思わず笑った。


「昨日の話、覚えてたんだ」


「当たりの日は大事だからな」


 カイは堂々と座り、パンを配り始めた。


 その自然さは、少し乱暴で、少し雑で、でもとても強かった。


 人目があっても関係なく、彼は昼食を昼食として扱っている。


 それが、場の空気を少し変えた。


 ミリアは社交的に周囲へ軽く挨拶を返しながら、果実水を配った。


 リゼは周囲を警戒しているが、今日はペンを持っていない。食事中は食事、というミリアの教えを守っているらしい。


 アルトはパンを手に取った。


 喉は少し詰まりそうだ。


 でも、食べられないほどではない。


 一口。


 少し硬い皮。


 中は柔らかい。


 噛んで、飲み込む。


 できた。


 ただの昼食。


 でも、今日の一口は少し勇気が必要だった。


「食べられた」


 アルトが小さく言うと、リゼがすぐに答えた。


「良好です」


「今のも記録?」


「後で」


「うん」


 カイがパンを頬張りながら言う。


「飯は最初の一口食えば、だいたい何とかなる」


「そうなの?」


「そうだ」


 ミリアが苦笑する。


「いつも通りね」


「それが対策なんだろ」


 カイは真剣だった。


 その言葉に、アルトは胸の奥が少し温かくなるのを感じた。


 左手首が淡く光る。


 リゼが視線だけで確認する。


 アルトは小さく合図した。


 痛みなし。


 熱少し。


 声なし。


 感情、少し安心。


 食事が進むにつれ、周囲の視線は少しずつ薄まっていった。


 最初は見ていた生徒たちも、自分たちの話や食事へ戻る。


 四人がただ食べているだけだとわかると、興味を失う者もいる。


 もちろん、まだ見ている者もいた。


 囁く者もいた。


 けれど、昼食は続いていた。


 アルトは果実水を飲んだ。


「今日の果実水、濃い気がする」


 カイが得意げに言う。


「混ぜてくれって言った」


「また?」


「言った」


 ミリアが笑う。


「売店の方に覚えられそうね」


「いいだろ。濃い方がうまい」


「僕は嬉しい」


 アルトが言うと、カイは満足そうに頷いた。


 その時、ティナが少し離れた席から立ち上がり、こちらへ近づいてきた。


 彼女の手には果実水の瓶がある。


 周囲の友人たちが少し心配そうに見ているが、ティナは構わず歩いてきた。


「隣、少しだけいい?」


 アルトは一瞬、リゼを見る。


 リゼはすぐには答えない。


 待っている。


 アルトは自分で言った。


「うん」


 ティナは卓の端に立ち、少し照れたように笑った。


「今日、ここで食べてるんだね」


「うん」


「昨日のことがあったから、もしかしたら人の少ないところに行くかなって思ってた」


「少し迷った」


 アルトは正直に言った。


「でも、隠れてばかりは嫌だったから」


 ティナは少し目を見開いた。


 それから、柔らかく笑った。


「そっか」


 彼女は果実水の瓶を掲げた。


「じゃあ、応援ってことで。これ、売店で一つ余分に買っちゃったから」


「いいの?」


「うん。昨日のお詫びも少し」


「昨日も言ったけど、ティナさんだけのせいじゃないよ」


「でも、気になるから」


 ティナは瓶を卓に置いた。


 ミリアが微笑む。


「ありがとう。いただくわ」


 リゼも短く言った。


「感謝します」


 ティナはリゼを見て、少し笑った。


「グレイスさん、今日は顔がちょっと柔らかいかも」


 リゼが真剣に尋ねる。


「改善していますか」


「うん。少し」


「継続します」


 ティナはくすっと笑った。


 その笑いは、馬鹿にするものではなかった。


 アルトはそれを見て、胸の緊張がまた少し解けた。


 ティナが戻っていくと、周囲で小さなざわめきが起きた。


 だが、そのざわめきは昨日のものと少し違った。


 好奇心。


 困惑。


 それから、少しの安心。


 ティナが普通に話しかけた。


 アルトも普通に答えた。


 リゼも威圧しなかった。


 それを見た何人かは、噂の形を少し変えるだろう。


 ミリアが小声で言った。


「とてもよい流れね」


 リゼは頷く。


「社交的防御、成功」


「今日は皆で成功よ」


 カイが果実水を注ぎながら言う。


「ティナ、度胸あるな」


「うん」


 アルトは頷いた。


「助かった」


 しばらくすると、ノエルも近づいてきた。


 彼は手に課題用紙を持っている。


「アルト君。昨日の課題の続き、今日少しだけ見てもらえる? 今じゃなくて、放課後でいいんだけど」


 アルトは少し驚いた。


 この人目の中で、ノエルも声をかけてくれた。


「うん。今日は短い時間なら」


「ありがとう」


 ノエルはほっとした顔をした。


「場所は図書館塔で。前と同じ大机。無理なら言ってね」


「うん」


 ノエルはリゼたちにも軽く頭を下げて戻っていった。


 カイが呟く。


「課題会、継続だな」


 リゼはアルトを見る。


「本人意思は」


「行きたい。今日は三十分じゃなくて、二十分くらい」


「了解しました。短時間参加」


 ミリアが微笑む。


「自分で時間を決められているわね」


「うん」


 アルトは少しだけ誇らしかった。


 昼食の終盤、ダリオがカイへ声をかけてきた。


「ロックハート、次の基礎剣術、組もうぜ」


 カイが即座に顔を上げる。


「おう」


 声は少し大きかった。


 ミリアが視線を向ける。


 カイは咳払いして、声を落とした。


「いいぞ」


 ダリオが笑う。


「何で小声なんだ?」


「訓練中だ」


「何の?」


「声量」


 ダリオは一瞬きょとんとしてから、大声で笑った。


 周囲の何人かもつられて笑う。


 カイは少し不満そうだったが、怒りはしなかった。


 その笑いは、噂の笑いとは違った。


 誰かを遠ざけるためではなく、場を軽くする笑い。


 アルトはそれを聞きながら、自分が少しずつ中庭の音の中に戻っていくのを感じた。


 昼休みが終わる頃、リゼが静かに確認した。


「総合状態は」


 アルトは左手首に触れた。


「痛みなし。熱、少し。声なし。食事はパン一つ、スープ半分、果実水。焼き菓子一つ」


「感情は」


「怖かった。でも、思ったより大丈夫だった。ティナさんとノエル君が来てくれて、嬉しかった。少し疲れた」


「良好です」


 ミリアが柔らかく言う。


「今日は、大きな一歩だったわ」


 カイが頷く。


「飯食えたしな」


「そこなんだ」


「そこだろ」


 アルトは笑った。


 午後の授業では、朝より視線が少し変わっていた。


 完全になくなったわけではない。


 囁きもまだある。


 だが、昼食前より鋭さが減っているように感じた。


 ティナが普通に話しかけたこと。


 ノエルが課題会に誘ったこと。


 ダリオがカイと剣術の約束をしたこと。


 それらが、噂に別の文脈を混ぜた。


 アルトは「見られる少年」だけではなくなった。


 課題を手伝う同級生。


 昼食を取る友人。


 剣術の話題の近くにいる生徒。


 少しずつ、普通の形が戻ってくる。


 放課後、アルトは予定通り図書館塔の課題会へ二十分だけ参加した。


 リゼたちは前と同じように少し離れていた。


 今日はリゼの顔が昨日より怖くなかった。


 ノエルに課題の図のまとめ方を説明し、ティナと少し話し、リリアから「今日の昼、よかったね」と小さく言われた。


 アルトは少し照れながら「ありがとう」と答えた。


 ダリオはカイとの剣術の話で頭がいっぱいらしく、課題は半分しか進んでいなかった。


 二十分で切り上げると、ノエルは「また今度」と言った。


 また。


 その言葉が、今日は少し怖くなかった。


 夕方、四人は噴水横のベンチに戻った。


 アルトは深く息を吐いた。


「疲れた」


「はい」


 リゼが答える。


「今日は負荷が高かったです」


「でも、嫌な疲れだけじゃない」


 ミリアが隣に座る。


「達成感?」


「たぶん」


 カイが焼き菓子を差し出す。


「達成用」


「また用途が」


「今日はいいだろ」


 アルトは受け取って笑った。


「うん」


 夕鐘が鳴った。


 鐘の音が中庭に広がる。


 アルトの左手首が光る。


 今日は少し強い。


 でも、鋭くない。


 アルトは目を閉じた。


「痛みなし。熱、少し強め。声なし」


「現在地は」


 リゼが尋ねる。


「学園中庭。夕方。噴水横。リゼさん、ミリアさん、カイといる。人目のある昼食を終えた。課題会にも二十分行った」


「感情は」


 ミリアが聞く。


 アルトは目を開けた。


「怖かった。疲れた。でも、嬉しい。噂に少しだけ勝てた気がする」


 カイが笑った。


「勝っただろ」


「少しだけね」


「少しずつでいいだろ」


 リゼも頷いた。


「本日の対応は成功です」


 アルトは三人を見た。


 今日、自分は隠れなかった。


 でも、一人で戦ったわけでもない。


 四人で昼を食べた。


 ただそれだけ。


 けれど、それは確かに、自分を孤立させようとする何かへの返事だった。


 夜。


 三〇七号室で、リゼは記録を書いていた。


 人目のある昼食、実施。


 場所、中庭中央寄り。


 人目あり。


 アルトさん、開始時緊張あり。痛みなし、熱少し、声なし。


 食事摂取、パン一つ、スープ半分、果実水、焼き菓子一つ。


 ティナ・ベル、果実水を持参。直接接触。友好的。


 ノエル・バートン、課題会へ再誘導。友好的。


 ダリオ・エルム、カイさんへ剣術基礎の組手を提案。


 周囲の噂の鋭さ、昼食後やや低下。


 課題会、二十分参加。状態安定。


 噂への対抗として、普通の行動を人目の中で継続することは有効。


 リゼはペンを止めた。


 そして、今日の気づきを書いた。


 普通に食事をすることは、単なる日常ではなく、孤立化への対抗行動となる。


 ただし、本人が望むことが前提。


 強制すれば、管理となる。


 ミリアがお茶を置いた。


「今日は、リゼさんもよく頑張ったわね」


「私は何を」


「見守ること。怖い顔を抑えること。アルトさんの世界が少し広がるのを、止めなかったこと」


 リゼは少しだけ黙った。


「難しかったです」


「ええ」


「ですが、ティナさんとノエルさんの接触は有効でした」


「人は、危険にもなるけれど、助けにもなるわ」


「はい」


 リゼはノートの端に書いた。


 四人以外の関係も、アルトさんを支える可能性がある。


 その分、危険管理は複雑化。


 ミリアがそれを見て笑う。


「複雑化、なのね」


「事実です」


「ええ。でも、悪い複雑さだけではないわ」


 リゼは少し考えた。


 そして、もう一行書き足した。


 世界が広がることは、危険と支えの両方を増やす。


 ミリアは満足そうに頷いた。


 同じ頃、男子寮でアルトは紙片を書いていた。


 今日は人目のある場所で昼食を食べた。


 怖かった。


 でも、できた。


 リゼさんは左にいてくれた。


 ミリアさんは周りを見る場所と見なくていい場所を教えてくれた。


 カイは普通に食べた。


 それが助かった。


 ティナさんが果実水をくれた。


 ノエル君がまた課題会に誘ってくれた。


 ダリオ君はカイと剣術の約束をしていた。


 昼食の後、噂の感じが少し変わった気がする。


 完全に消えたわけじゃない。


 でも、僕は見られるだけの人じゃなくて、昼食を食べる同級生になれた気がした。


 夕鐘で光った。


 痛みなし。


 熱、少し強め。


 声なし。


 怖かった。


 疲れた。


 でも、嬉しい。


 最後に、アルトは少し考えて書いた。


 普通に昼を食べるのは、思ったより勇気がいる。


 でも、四人で食べるなら、またできるかもしれない。


 紙片を折る。


 左手首はもう熱くない。


 窓の外には、夜の鐘楼がある。


 今日も鐘は怖かった。


 けれど、それ以上に、昼の中庭の光が残っている。


 果実水の味。


 カイの声量訓練を笑ったダリオの声。


 ティナの「応援」という言葉。


 ノエルの課題用紙。


 リゼが少しだけ柔らかい顔をしようとしていたこと。


 ミリアが見なくていい場所を教えてくれたこと。


 それらが、噂の声より少し大きく残っていた。


 アルトは灯りを落とし、ベッドに入った。


 目を閉じる前に、小さく言う。


「現在地は、男子寮の自室。夜。今日は隠れなかった。明日も、できるところまで」


 銀環は光らなかった。


 ただ、布の下で静かに温かかった。


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