第3章 第5話:噂という見えない敵
朝の教室は、いつもより少しだけ静かだった。
王立アークレイン学園一年C組。
窓から差し込む朝の光は変わらない。黒板の前には昨日の授業で使われた魔術式の残りが薄く残り、机の上には生徒たちの教科書や筆記具が並んでいる。
何も変わっていないはずだった。
けれど、アルト・レインフォードは教室の入口に立った瞬間、空気が違うことに気づいた。
視線。
ひとつではない。
二つ、三つ。
それから、すぐに逸らされる。
誰かが露骨に見ているわけではない。声を上げて何かを言うわけでもない。ただ、こちらが入ってきた瞬間に会話がほんの少し途切れ、目が向き、そして何事もなかったように戻る。
それだけ。
でも、それだけで十分だった。
左手首が、布の下でわずかに熱を持つ。
痛みはない。
声もない。
ただ、じんわりとした熱が、胸の奥のざわめきに呼応するように広がった。
アルトは自分で確認した。
現在地は一年C組。
朝。
リゼさんが左。
ミリアさんが右。
カイは少し後ろ。
ここは学園。
旧領ではない。
王宮でもない。
ただの教室。
そう言い聞かせても、視線は消えない。
「痛みは」
左から、小さな声がした。
リゼだった。
彼女は前を向いたまま、アルトだけに聞こえる声で尋ねている。
「なし」
「熱は」
「少し」
「声は」
「なし」
「感情は」
アルトは少し迷った。
怖い。
でも、それだけではない。
恥ずかしい。
落ち着かない。
自分が何か変なものになったような感じ。
「見られてる感じがして、嫌だ」
リゼは一拍置いた。
「不快感、視線によるもの」
「記録する?」
「後で」
その答えに、アルトは少しだけ息を吐いた。
今すぐ記録されない。
それだけで、少し楽になる。
ミリアが横から、普段と変わらない声で言った。
「おはよう、ティナさん」
少し離れた席にいたティナ・ベルが顔を上げる。
「あ、おはよう、ミリアさん。アルト君も、グレイスさんも」
「おはよう」
アルトは返した。
リゼも短く「おはようございます」と言う。
ティナの表情には、悪意はなかった。
昨日と同じように明るく、少し気遣うような色もある。
だが、その隣にいた別の女生徒が、小声で何かを囁いた。
聞き取れない。
聞き取れないのに、自分のことだとわかる。
それが、いちばん嫌だった。
カイが背後から低い声で言う。
「何か、ざわついてるな」
「声を抑えてください」
リゼが即座に返す。
「抑えてる」
「顔も」
「顔?」
「怒っています」
「そりゃ、少しは」
カイは言いかけて、アルトを見た。
それから、口を閉じる。
彼なりに、今ここで怒りを見せると余計に目立つと判断したのだろう。
成長している。
リゼならそう言いそうだ、とアルトは思った。
その考えで、少しだけ笑いそうになる。
だが、次の瞬間、後ろの方から小さな声が聞こえた。
「やっぱり、いつも一緒なんだ」
「体調を見てるって言ってたよ」
「ただの友達で、そこまでする?」
「特別なんじゃない?」
左手首の熱が少し上がった。
アルトは机の端を握る。
特別。
その言葉は、悪い意味ではないのかもしれない。
けれど今は、体の中に小さな棘のように刺さった。
特別。
普通ではない。
違うもの。
見られるもの。
知られるもの。
鍵。
護衛対象。
王宮が管理する危険物。
価値ある危険物。
ユリウスの言葉が、遠くから蘇りかけた。
「アルトさん」
リゼの声がした。
「現在地を」
アルトは目を閉じない。
教室で目を閉じると目立つ気がした。
小さく息を吸い、前を見たまま言う。
「一年C組。朝。自分の席の近く。リゼさんが左。ミリアさんが右。カイが後ろ。ここは学園」
「はい」
「痛みなし。熱、少し上がった。声なし。感情は……嫌だ」
「嫌だと申告、確認しました」
リゼはそれだけ言った。
対策を押しつけない。
今すぐ誰かを問い詰めない。
ただ、確認した。
それが、今のアルトにはありがたかった。
ロウ教師が教室へ入ってくると、ざわめきは一度収まった。
授業が始まる。
王国史。
今日は貴族家と学園制度についてだった。
アルトはノートを取ろうとしたが、周囲の視線が何度も気になった。
誰かが振り返る。
すぐ戻る。
紙が回される。
小さな笑い声。
それが自分のことかどうかはわからない。
わからないのに、胸がざわつく。
噂は、姿が見えない。
剣も持っていない。
黒い札も使わない。
鐘も鳴らさない。
でも、こちらの呼吸を少しずつ浅くする。
アルトは、昨日リゼが言っていたことを思い出した。
噂は斬れません。
斬れない敵。
今、それが教室にいた。
昼休みになる頃には、アルトは少し疲れていた。
大きな事件は起きていない。
誰かに直接何かを言われたわけでもない。
それなのに、体が重い。
左手首の熱はずっと弱く残っている。
昼の鐘が鳴ると、銀環が淡く光った。
「痛みなし。熱、少し。声なし」
アルトは自分から言った。
リゼが頷く。
「感情は」
「疲れた。落ち着かない」
ミリアが静かに言う。
「今日は外で食べましょう。いつもの席で」
「人目の少ないところ?」
アルトが尋ねる。
ミリアは少しだけ考えた。
「いつもの休憩席。隠れすぎず、目立ちすぎず」
「うん」
カイが低い声で言う。
「変なこと言うやつがいたら」
「突撃前に確認」
リゼとミリアが同時に言った。
「……わかってる」
カイは悔しそうに言った。
中庭の休憩席は、いつものように穏やかだった。
噴水の水音。
風に揺れる木の葉。
昼食を取る生徒たちの声。
けれど今日は、その声の中に小さな棘が混ざっているように思えた。
こちらを見て、何かを話す生徒。
すぐに視線を逸らす生徒。
昨日課題会にいたノエルが遠くから会釈してくれたのは、少し安心した。
ティナも手を振ろうとして、隣の子に何か言われ、少し困った顔をしてから、それでも小さく手を振った。
アルトは小さく手を返した。
それだけで、少し救われた気がした。
カイが売店から戻ってくる。
今日も四人分。
ただし、焼き菓子が多い。
ミリアが眉を上げる。
「カイさん」
「今日は必要だろ」
カイは短く言った。
ミリアは少しだけ表情を和らげた。
「ええ。今日は許可します」
「許可制だったのか」
「今さら?」
アルトは思わず笑った。
食事を始める。
パンをちぎり、スープを飲む。
いつもの味。
だが、今日は喉を通りにくい。
半分ほど食べたところで、アルトは手を止めた。
リゼがすぐに気づく。
「食欲低下ですか」
「少し」
「無理に食べる必要はありません。ただし、水分は取ってください」
「うん」
カイが焼き菓子を差し出しかける。
ミリアが止める。
「今はまずスープ」
「そうか」
カイは素直に引っ込めた。
アルトはスープを少し飲んだ。
温かい。
少しだけ胃が落ち着く。
ミリアが静かに言った。
「噂、気になるわね」
誰も驚かなかった。
皆、気づいていた。
「はい」
リゼが答える。
「発生源は昨日の課題会と関係性確認。ただし、今朝の広がり方はやや速いです」
「速い?」
アルトが聞く。
「はい。通常の好奇心による拡散としても説明可能ですが、複数方向から似た内容が出ています」
ミリアの表情が少しだけ硬くなる。
「つまり、誰かが意図的に広げている可能性もある」
「可能性です」
カイが拳を握る。
「誰だよ」
「未確定です」
「見つけたら」
「突撃前に確認」
今度はアルトも一緒に言った。
カイは三人に見られて、少しだけ肩を落とした。
「わかってるって」
ミリアはアルトを見る。
「アルトさん。噂で一番つらいのは何?」
アルトは少し戸惑った。
「一番?」
「ええ。何を言われているか、全部を追うと苦しくなるわ。だから、今一番刺さっているものを言葉にしてみましょう」
アルトは手元のパンを見る。
特別なんじゃない。
ただの友達で、そこまでする?
体調を見てるって。
いつも一緒。
その中で、いちばん胸を重くしたもの。
「僕といることで、リゼさんまで変に見られること」
リゼが動きを止めた。
ミリアは静かに聞いている。
カイは眉を寄せた。
「僕は、もともと変に見られるのに慣れてるところがある。嫌だけど。でも、リゼさんは……僕のそばにいるから見られてる」
「それは違います」
リゼは即座に言った。
少し強い声だった。
アルトが顔を上げる。
「私は自分の意思であなたのそばにいます」
「でも」
「私がどう見られるかは、私の問題です。あなたが背負うものではありません」
「でも、僕といなかったら」
「仮定です」
リゼの声は硬い。
だが、怒りではない。
必死さに近かった。
「私はアルトさんといることを選んでいます。噂による不利益が発生した場合、対処します。あなたが自分を責める必要はありません」
アルトは何も言えなかった。
リゼの言葉は正しい。
でも、胸の奥の重さはすぐには消えない。
ミリアがそっと言う。
「リゼさんの言う通りよ。アルトさんが誰かを巻き込んだのではなく、噂を悪く使う人がいるなら、その人が問題なの」
「でも、僕がいなければ」
「その言い方は危険です」
リゼが言った。
アルトは息を止める。
リゼは少し声を抑えた。
「あなたがいなければ、という考えは、王の影側が望む孤立に近づきます」
その言葉は鋭かった。
けれど、必要だった。
アルトの左手首が光る。
少し強い。
「痛みは」
リゼが尋ねる。
「なし」
「熱は」
「中くらい」
「声は」
「なし」
「現在地は」
「学園中庭。昼。休憩席。リゼさん、ミリアさん、カイといる」
「感情は」
アルトは唇を噛んだ。
「怖い。申し訳ない。嫌だ」
「申し訳ないは、誰に対してですか」
「三人に」
カイが即座に言った。
「いらねえ」
アルトは驚いてカイを見る。
カイは真剣だった。
「謝られるようなことされてねえ。俺は自分でここにいる」
「カイ」
「飯も自分で買ってる」
「そこ?」
「大事だろ」
ミリアが少し笑った。
「そうね。大事ね」
カイは続けた。
「変な噂で俺が困ったら、俺が怒る。リゼが困ったらリゼが怒る。ミリアが困ったら……たぶん笑顔で相手を黙らせる」
「人聞きが悪いわ」
「でもできるだろ」
「否定はしないわ」
アルトは思わず笑ってしまった。
左手首の光が少し弱まる。
リゼはそれを確認し、小さく頷いた。
「反応低下。笑いによる緩和の可能性」
「今のも記録?」
アルトが聞く。
「後で」
その答えに、四人の空気が少し緩んだ。
しかし、問題は消えていない。
ミリアは食後、静かに作戦を提案した。
「噂は、否定して回るほど広がることがあるわ」
「では放置ですか」
リゼが問う。
「完全放置でもない。流れを変えるの」
「具体策は」
「まず、隠れすぎないこと。いつも通り過ごすこと。課題会への参加も、無理のない範囲で続けること。リゼさんは怖い顔を少し減らすこと」
「努力します」
「カイさんは、噂を聞いても怒鳴り込まないこと」
「わかってる」
「アルトさんは、自分のせいだと思いそうになったら、言うこと」
「……うん」
ミリアは最後に、自分の胸へ手を当てた。
「私は、必要な時に言葉を整えるわ。社交的に」
カイが小声で言う。
「やっぱり笑顔で黙らせるんだろ」
「必要なら」
ミリアは美しく微笑んだ。
その笑顔に、カイが少し後ずさった。
午後の授業では、噂はさらに形を変えていた。
リゼとアルトはいつも一緒。
グレイスさんはアルト君の体調を管理している。
アルト君はどこか悪いらしい。
実は王宮関係の事情があるらしい。
グレイスさんは誰かに頼まれてアルト君を見ているらしい。
どこまでが自然な推測で、どこからが意図的な混入なのか、リゼにもすぐには判断できなかった。
だが、ひとつだけ明確だった。
噂はアルトを「普通の同級生」から引き剥がそうとしている。
課題会でノエルたちと話したアルト。
ノートを褒められたアルト。
友達の作法を練習しているアルト。
それらを覆い隠し、また「特別な事情のある少年」に戻そうとしている。
それが、リゼには腹立たしかった。
怒り。
自覚する。
これは危険確認だけではない。
友人を傷つけられていることへの怒り。
授業後、カイが廊下で二人組の男子生徒の会話を聞いてしまった。
「やっぱり、グレイスさんってアルトの監視役なんじゃないの?」
「監視?」
「だって、いつも見てるし。あの手首の布も変だし」
カイの足が止まる。
拳が握られる。
リゼはすぐに気づいた。
「カイさん」
「……わかってる」
声は低い。
だが、彼は動かなかった。
大きな進歩だった。
しかし、顔は完全に怒っている。
その顔に、男子生徒たちが気づいた。
「あ」
一人が気まずそうに口を閉じる。
もう一人は視線を逸らす。
カイは一歩踏み出した。
リゼが腕で制する。
「確認」
「聞いただろ」
「確認」
カイは歯を食いしばる。
アルトは少し青ざめている。
自分のことより、カイが怒っていることに動揺しているようだった。
ミリアが前に出た。
笑顔。
柔らかい。
しかし、目は笑っていない。
「何か、気になることがあるのかしら」
男子生徒二人は固まった。
「あ、いや」
「別に」
「噂で人の事情を決めるのは、あまり品のよいことではないわ」
ミリアの声は静かだった。
廊下の空気が少し冷える。
「アルトさんの体調に関わることを軽々しく話すのも、本人に失礼です。そう思わない?」
二人は顔を赤くした。
「……ごめん」
「悪かった」
ミリアは微笑みを崩さない。
「謝る相手は私ではないわ」
二人はアルトを見る。
アルトは少し戸惑った。
けれど、逃げなかった。
「僕も、聞こえると少し嫌だから。できれば、やめてほしい」
二人は小さく頷いた。
「ごめん」
「もう言わない」
彼らは足早に去っていった。
カイが低く言う。
「今の、俺が言ったら駄目だったか?」
「あなたが言うと威圧になります」
リゼが答える。
「ミリアも威圧してたぞ」
「私は社交です」
ミリアが涼しい顔で言う。
「社交って怖いな」
「時には」
アルトは少しだけ笑った。
けれど、その後で俯いた。
「ごめん。皆に言わせて」
「また謝っています」
リゼが言う。
「だって」
「アルトさん」
リゼは名前を呼んだ。
アルトが顔を上げる。
「今の対応は、あなたも行いました」
「僕も?」
「はい。あなたは、嫌だからやめてほしい、と自分で言いました」
ミリアが頷く。
「そうよ。とても大事なことを言えたわ」
カイも言った。
「ちゃんと言ってた」
アルトは少し驚いたように三人を見る。
自分では、ただ小さく言っただけだった。
けれど、三人はそれを見ていた。
自分で嫌だと言えたこと。
それは小さなことではないらしい。
「そっか」
アルトは小さく頷いた。
放課後、四人は図書館塔ではなく、噴水横のベンチへ向かった。
今日は課題会に行く気力はなかった。
ノエルにはミリアが「今日は少し疲れているみたい」と伝えた。ノエルはすぐに「また今度」と言ってくれた。
それがありがたかった。
噴水の水音を聞きながら、アルトはベンチに座る。
リゼは左側に立っていたが、アルトが少し隣を示した。
「座って」
リゼは一拍置いて、隣に座った。
近すぎない。
でも、いつもより少し近い。
今日は、その距離がよかった。
ミリアは向かい側。
カイは石段。
しばらく、誰も話さなかった。
やがて、アルトが口を開いた。
「噂って、疲れるね」
「はい」
リゼが答える。
「敵より厄介です。斬れません」
「本当にそうだね」
「ただし、対処不能ではありません」
「うん」
ミリアが続ける。
「今日、アルトさんは嫌だと言えたわ。それは噂に飲まれないために大事なことよ」
「でも、全部に言って回るのは無理」
「だから、全部に反応しない。必要な時だけ、必要な相手に言う」
カイが言う。
「俺は怒鳴らない練習だな」
「はい」
リゼが頷く。
「大きな進歩でした」
「褒められてる?」
「はい」
「ならいい」
アルトは少し笑った。
夕鐘が鳴った。
鐘の音が空気を震わせる。
アルトの左手首が光る。
今日は少し強い。
朝からずっと噂に疲れていたせいかもしれない。
「痛みなし。熱、中。声なし」
アルトは目を閉じる。
リゼが尋ねる。
「現在地は」
「学園中庭。夕方。噴水横。リゼさんが隣。ミリアさんが前。カイが石段」
「感情は」
ミリアが聞く。
「疲れた。嫌だった。でも、少し安心してる」
「理由は」
リゼが問う。
アルトは目を開けた。
「嫌だって言っても、三人が離れなかったから」
その言葉に、リゼは静かに頷いた。
「離れません」
カイが即座に言う。
「当たり前だろ」
ミリアも微笑む。
「ええ」
銀環の光はゆっくり弱まった。
夜。
三〇七号室で、リゼは記録を書いていた。
噂発生。
内容。
リゼとアルトの関係性。
アルトの体調。
左手首の布。
リゼが監視役である可能性。
拡散速度、やや速い。
悪意の有無、未確定。
自然発生と意図的混入の両可能性。
アルトさんへの影響。
視線による不快感。
自己責任化傾向。
「自分といることでリゼさんまで変に見られる」と発言。
即時修正。
本人、廊下で嫌だからやめてほしいと発言成功。
カイさん、怒りあり。突撃せず。
ミリアさん、社交的防御に成功。
リゼはペンを止めた。
そして、今日の結論を書いた。
噂は斬れない。
しかし、流れを変えることは可能。
アルトさんを孤立させる方向へ噂が働く場合、即時対処が必要。
ただし、過剰反応は逆効果。
隠れすぎない。
本人が嫌だと言える場を作る。
友人として、離れない。
最後の一文を書いた時、リゼの手が少し止まった。
友人として、離れない。
護衛として、ではない。
いや、護衛としても離れない。
だが、今日必要だったのは、それだけではなかった。
アルトは、嫌だと言っても三人が離れなかったから安心したと言った。
つまり、彼にとって今日の最大の対策は、噂を消すことではなく、嫌だと言った後も関係が続くことだった。
リゼはその下にもう一行書いた。
関係の継続自体が、孤立化への対抗策となる。
ミリアがお茶を置いた。
「難しい一日だったわね」
「はい」
「リゼさんも、怒っていたでしょう」
「はい」
リゼは素直に認めた。
「アルトさんが自分を責めたことに対しても、噂そのものに対しても、怒りがありました」
「それは悪いことではないわ」
「怒りは判断を鈍らせます」
「でも、大切なものを傷つけられた時に怒るのは自然よ」
大切なもの。
リゼはその言葉を受け止める。
アルトは友人。
友人は大切なものに該当するのか。
おそらく、はい。
リゼはお茶を一口飲んだ。
温かい。
ミリアさんのお茶。
好きだと思うもの。
今夜はその温かさが、少し深く沁みた。
同じ頃、男子寮でアルトは紙片を書いていた。
今日は噂が広がっていた。
見られるのが嫌だった。
自分といることで、リゼさんまで変に見られると思った。
リゼさんに、自分の意思でそばにいると言われた。
カイにも、謝られることじゃないと言われた。
ミリアさんは、噂を流した人に静かに言ってくれた。
僕も、嫌だからやめてほしいと言えた。
少し怖かった。
でも、言えた。
夕鐘で光った。
痛みなし。
熱、中。
声なし。
疲れた。
嫌だった。
でも、三人が離れなかったので安心した。
アルトはペンを止める。
少し迷ってから、最後に書いた。
噂は怖い。
でも、ひとりで聞くより、四人で聞く方が少しだけ怖くない。
紙片を折り、引き出しへしまう。
窓の外には夜の鐘楼があった。
今日は、鐘よりも教室の視線の方が怖かった。
それが少し不思議だった。
黒い札よりも、誰かの小さな囁きが胸に刺さる日がある。
でも、刺さった場所を見てくれる人がいる。
嫌だと言った時に、そばに残ってくれる人がいる。
アルトは布の上から左手首に触れた。
熱はもうほとんどない。
「現在地は、男子寮の自室。夜。明日の朝、中庭で三人に会う」
そう言うと、胸のざわめきが少しだけ静かになった。
アルトは灯りを落とし、目を閉じた。
噂の声はまだ耳の奥に残っている。
けれど、それより少し大きく、カイの声が残っていた。
いらねえ。
謝られるようなことされてねえ。
そして、リゼの声。
私は自分の意思であなたのそばにいます。
その言葉を思い出しながら、アルトはゆっくり眠りに落ちていった。




