天と地
なんとか最低限の体力を取り戻したファルたちは、忌み地を出発し、再びリジーへ戻ることになった。
一緒にここを出て東の大陸に行こう、とファルはデンに懇願するように言ってみたのだが、彼は首を横に振った。
「……いや、そりゃ、いずれは出て行かなきゃいけねえんだろうけども」
眉を下げたファルに向かって、苦笑する。
「けど、その前に、俺は俺で、いろいろやってみようと思ってなあ。お前さんも知っていると思うけど、なにしろこの地にいるのはみんな、俺と同じで、臆病なくせに頑固なやつらばかりだろう? いきなり『ここを出て大陸に戻れ』って言われても、きっと混乱するばかりだよ。だから少しでも、心の準備っていうのをする手伝いが出来たらなあと……」
ファルが目を瞬いて見返すと、デンは慌てたように手を勢いよく振った。
「いや、あの、もちろん、天界とか、天人とか、そういうことは言わないようにするよ。それは内緒の話なんだろう? だからまあ……なんとか別の理由を考えて……俺は嘘は苦手だし、そもそも話も上手くねえんで、どこまで出来るのかはさっぱりわからねえんだけど」
言っているうちに自分でもよく判らなくなってきたのか、言葉がしどろもどろになりだした。赤くなった顔には、いくつも汗の珠が浮いている。
「デンさんが、ここの人たちに話をしてくれるの? 忌み地を出て大陸に戻ろう、って?」
ファルが目を見開いて聞くと、デンはますます困った様子になった。汗を拭って、意味もなくうんうんと首を振り続ける。
「いやあ、その、そんな大したことは出来っこねえと思うんだが……お、俺のやれる範囲で精一杯、話をしてみようと思ってる。キノイの里からはじめて、他の集落も廻ってみるよ。時間はかかるだろうし、簡単なことでもないだろうけど、今の俺が出来ることといったら、それくらいしか思いつかねえからさ」
「…………」
ファルはデンをまじまじと見つめた。なぜ、デンはこんな申し訳なさそうな顔をしているのだろう。自分がどれくらい大変なことを言っているのか、判っていないのか。
──あのデンが。
気が弱くて、臆病で、この世に生まれてきた自分が悪かったとでも思っているように誰かに遠慮して、いつも背中を丸め、キノイの里という小さな世界の中ですべてを諦めきった目をしていた、あのデンが。
この先のことを考え、他人の気持ちに寄り添い、自発的に動いて、勇敢にも未知の場所に足を踏み入れようとしている。
輝く眼差しが、前を向いている。
人は、こんなにも変われるものか。
「すごい。すごいね、デンさん。わたし、きっとデンさんなら、ここにいる人の心を動かすことが出来ると思う。クイートが何を言っても駄目かもしれないけど、デンさんの言葉なら、耳を傾けてくれる人はたくさんいると思う」
忌み地の住人たちは、みんな、以前のデンやニグルのように、自分自身を否定しがちな人ばかりだ。クイートのように、無闇やたらと自信家で、基本的に尊大な態度の人間の言葉など、まず委縮してしまって受け付けないだろう。彼らを説得するのなら、優しく思いやりがあり誠実な、デンのような人物が最も適している。
満面の笑顔でファルがデンの手を取り、勢い込んで言うと、彼はさらに汗だくになって赤面した。
「そうしてもらえると、正直、俺も助かるよ」
ファルの後ろで、クイートがほっとしたように笑った。
「なにしろここは、閉鎖された空間だからね。外部からこじ開けようとすると、デンの言う通り混乱状態になるだけだろう。ますます頑なになって、もっと奥に閉じこもってしまうかもしれない。デンのような人間に、内部から少しずつ働きかけてもらえれば、ちょっとは円滑に進むんじゃないかな」
それから、すでに疲れたようなため息をついた。
「実際、時間がかかるだろうしね……まずはあの検問所をなんとかしないといけないんだろうけど、他の国にどう話を通したものか……それに大陸に移住するとしたら、彼らの受け入れ地を探さないといけないわけだし……はっきり言って、王になるよりもよっぽど難問だよ」
ぶつぶつ言いながら、恨みがましい目をキースに向ける。キースはまったく同情しない顔で、ふんとそっぽを向いた。
「お前は暇になるとロクでもないことを考えそうだから、せいぜい身を粉にして働け」
すげなく言われ、クイートは面白くなさそうに、また大きな息を吐き出した。
「……しょうがない、俺にも間違いなく責任があることだしね。綺麗に後片付けをしてこそ、一気に数百年来の負債を返せるってもんだ」
その言葉に、ファルは首を傾げた。
「数百年来の負債って?」
クイートが、「あれ、まだ気づいてなかったんだ」と笑った。
「あのさ、天界との関係で、やけにリジーばかりが貧乏籤を引かされているように思わなかった? 大体、どうして天人が降りてくるのがリジーだったと思う? 他国の君主が集まるのって、結構金も人手もかかるんだよ。俺が大きな顔で検問所を通れるのも、この忌み地にかかる費用を最も多く負担しているのがリジーだからなんだよね、実は」
「いちばん大きな国だからじゃないの?」
「大国だからって、不公平を甘んじて受け入れるのは理由がある、ってこと。……これ、見てごらん」
クイートが首に手をやり、ごそごそと服の下から引っ張り出したのは、丸い形の石がついたペンダントだった。
鎖の先にある白く透き通った石に、何か図形のようなものが彫られている。
「リジー王家の紋章だよ」
「…………」
ファルはそれをじっと見つめた。どこかで見たことがあるような……と思って、はっとする。
「白雲宮の兵の制服にあったのと同じ!」
上から垂れて伸びた枝が中央にある二つの円を囲むかのような図形は、白雲宮の兵たちの制服の胸に刺繍されていたものと同一だ。いや、正確には、その図がくるりと上下逆さになっている。それがクイートの手の中の石にもある。
「金枝宮、ってのはこの紋章からつけられた名前なんだ。この枝が王家を、そして真ん中の円がリジー国とその国民を表している。王家が手を伸ばし、国と民を包んで守っていこう、って意味なんだけどね」
クイートが苦笑した。
「これが逆になると、妙に不気味に見えるから不思議だよ。白雲宮の紋は、まるで天界から伸ばされた二本の長い手が、下にある地界を呑み込もうとしているように見えないかい?」
「え……じゃあ」
ファルは唖然とした。
「天界の始祖って」
もとは、リジーの王族の一員?
「……なるほどな。それで王位継承の方法が似ていたわけだ。すべての元凶はお前か」
キースが腕を組んで忌々しそうに吐き捨てる。
「俺じゃないでしょ。どさくさにまぎれて何言ってるんだい、キース。──とにかくそういうわけでさ、リジーは長いこと、遠い昔の一族の者がしでかした不始末の尻拭いをさせられてきたんだ。天界との問題に決着をつけるのは、リジー王家の長きにわたる悲願でもあった。なんとか俺の代で達成できそうで、安心したよ」
「はあ……」
クイートはしみじみとした顔つきをしているが、ファルは驚いたものか呆れたものか、よく判らない。
しかし、はたと重要なことに気づいた。
じゃあ、ここにいるクイートも、始祖とは遠い血縁関係にあるということか。
「……なんだかわたし、ますますクイートのことが嫌いになりそう」
じりっと後ずさって、キースにくっつくように寄り添う。キースがよしよしというように頭を撫でてくれた。
「これからも一定以上こいつには近づくなよ、ファル。おれはもともとこいつのことが嫌いだった」
「なんか二人してひどいこと言ってるね! ちょっとどう思う? エレネ、ゴウグ」
不満そうなクイートが同意を求めてエレネとゴウグのほうを向いたが、二人は揃って両方の耳を手で塞いでいる。
「これ以上、国家機密に関わりたくありません」
「頼むから、もう俺らに怖いことを聞かせないでください」
エレネはにっこりと突き放し、ゴウグは泣きそうだ。
デンはおろおろしながら、
「ファル、キース、お前さんたち、本当にリジーに行って大丈夫かい? そこの人に苛められそうになったら、ここに逃げてくるんだよ。いつでも俺は待ってるからね、いいね?」
と、本気で心配そうな顔で言った。
***
ファルとキースは当分の間、赤の離宮に居着くことになった。
金枝宮との話し合いがどうなるのか判らないし、他の兄弟王子たちがどんな行動に出るのかも予測できないので、しばらく身を潜めていたほうがいいだろう、という判断からだ。ファルのことは伏せたままにしておく、とのことだが、それが上手くいくかどうかもかなり不確定である。
クイートは、ファルとキースを正式なリジー国民として登録するつもりらしい。国民登録されれば、ファルたちは地界人として大手を振って生きていける。確かに今後の人生において大きな助けにはなるが、もともと地界に存在しない人間を一からでっち上げる、というのだから、それは簡単なことではないだろう。
と思って訊ねてみたら、クイートはあっさりと手を振った。
「そういう裏工作は、あの人に任せておけばなんとかしてくれるよ」
「あの人って?」
「君たちが、『先生』と呼んでる人」
「…………」
あの小言の多い老人が、「すぐに厄介事を押しつけおって、クソガキが!」とカンカンになっている姿が頭に浮かんだ。なんでも屋みたいなもの、と本人も言っていたが、そんなことまでやらされるのか。先生は一体何者なのだろう。
しかしとにかくそういうわけで、環境が整うまで、ファルとキースの二人は赤の離宮に身を寄せている。
キースは日中何をしているのか姿が見えないことが多いが、ファルは何もすることがない。しかしただ食事だけをもらっているわけにはいかないので、離宮の中を何食わぬ顔をして廻り、あちこちを手伝うことにした。
あまりウロウロするなと言われているのだが、使用人としてのスキルが高いこともあって、厨房にいても、廊下掃除をしていても、ほとんど怪しまれない。見かけない顔だね、と言われても、新入りですと答えれば、あらそうと流される。意外と、建物の中の人々は、「せっせと働く娘」に対する警戒心が薄い。盲点だ。
そしてそのおかげで、かなり離宮の構造が判った。人間関係も大体把握できた。見張りの兵たちの間で起きた揉め事や、下働きのおばさんから最近の流行や物価などの話も聞けるようになった。
上の立場にいる人間には決して行き渡らないような細かい情報も耳に入ってくるので、今ではファルがエレネやゴウグに助言をすることもある。
クイートは、「いずれあの子がこの離宮の主になるんじゃないの」と戦々恐々としているらしい。
天界から戻って以来、ファルが突然ぱたんと寝入ってしまうことは、全くなくなった。
***
──それから三月ほどが経過した、ある日。
「デンさんから手紙をもらったんだよ」
久しぶりに昼間の時間が空いたキースと一緒に、「秘された中庭」を散歩しがてら、ファルは報告した。
「手紙?」
キースがファルの手許を覗き込む。ファルは嬉々としてその紙を広げてみせた。
「ゴウグさんが、忌み地へ様子を見に行ってくれたでしょ? その時、わたしの手紙をデンさんに渡してもらったの。その返事」
忌み地へ行ったゴウグの代わりに、キースがここしばらく、クイートの身辺警護をしていたのである。ゴウグが帰ってきて、ようやくあいつのお守りから解放された、とキースはうんざりした顔を隠しもしないで言った。
「デンはなんて?」
「うん、今はね、キノイの里を出て、二つ目の集落にいるところだって。最初は警戒されていたけど、それを乗り越えたら、なんとか話くらいは聞いてもらえるようになった、って」
「デンの人柄だな」
「そうだね」
白い紙にみっちりと書かれた小さな文字が、デンの生真面目な性格を表しているようで、微笑ましい。デンはあまり文章を書くのも得意ではないようなのだが、それでも一生懸命、細かいところまで伝えようという努力が読み取れる。
「あそこの住人相手じゃ、苦労してるだろうがな」
「あのね、それがね」
ファルはくすくす笑った。
「──わたしたちが地界に戻った時ね、忌み地の人たちもたくさん、あれを見ていたんだって」
「あれって」
「天人たちが光る翼で降りてくるところ。遠くからだと、きっと空に浮かぶ丸くて大きな発光体にしか見えなかったよね。それで、あれはなんだ、って大騒ぎになったんだって」
今までに一度として見たことのない、巨大に輝く白い光。その謎の現象に住人たちは、これは世界の終わりかと、怯え、怖れ、中には泣き出す人までがいたらしい。
怯え、怖れ、涙を落として──そして。
最初、一人で青くなって震えていた住人たちは、近くの人と身を寄せ合っていたほうが不安が和らぐ、ということに気づいた。自分の心の中だけで疑問を浮かべているよりは、他の人と「あれはなんだ」と話すほうが、恐怖心が紛れることを発見した。
自分ではない誰かの温もりが、自分に勇気と安心を与えてくれることを知った。
そしていつしか、みんなで集まり、手を取り合って、互いを励まし合いながら、揃って空を見上げた。
「それから、少し里の中の空気が変わったんだって。まだちょっとぎこちないけど、声をかけ合ったり、相手を気遣ったり、労わりの言葉を出すようになったんだそうだよ」
他人には干渉しない、関わらない、自分は自分で他人は他人だ、という態度を頑なに貫いていた忌み地の住人たちの、小さくて大きな変化だ。
「だから、デンさんの話も、頭から振り払われるようなことはなかったらしいの」
天界のことを抜きにして、どんな口実を立ててデンが住人たちを大陸へと誘う説得をしているのかはやや不明だが、そこはクイートが知恵をつけたようなので、なんとか上手くやっているのだろう。手紙の中で、デンが「あの人は天性の嘘つきだなあ」と感心しているあたり、若干不安を覚えるが。
「……そうか。じゃあ、いずれ、忌み地の住人たちも、外の世界に目を向けられるようになるかもな」
「うん。そうだね、いつか」
静かに言うキースに、ファルは力強く同意した。
「クイートが王さまになったら、もっと……」
と言いかけ、ふと思いつき、キースの顔を見る。
「……ていうか、そっちはどうなの? クイートは、キースから見て、いい王さまになれると思う?」
ファルが聞くと、キースは顔をしかめた。
「このところずっと、あいつの近くにいただろ?」
「うん」
「リジーの現王のことも、兄弟王子のことも、大体わかってきた」
「うん。で?」
「忌々しいが、本人の言うとおり、あれならクイートが王になったほうがまだ多少はマシだ、と判断せざるを得なかった」
「……ふうん」
そこまでイヤそうに言わなくても。
「良い王になるかどうかはなんとも言えないが、統治者に求められるのは確かに善良さばかりじゃないからな。たとえ性格は悪くても……ちゃんと国と民の行く末を考えている人間が、王になったほうがいいと思う」
キースが少し、目を伏せた。
彼が今、何を思い出し、何を考えているのか、「人の色」がまったく見えなくなってしまったファルにも、なんとなく判る。
肉体の怪我は治っても、心に負った傷はこれからも残り続けるのだろう。
腕を伸ばし、そっとキースの手に触れた。
キースはファルを見返し、黙って抱き寄せると、自分の首を傾けた。
ファルの頭の上にキースの頬が寄せられる。しばらく二人で、置き物になったかのようにそのままの格好でじっとしていた。
近くに立つ木の上から、チチチと鳥の鳴き声が聞こえてくる。
でも何を言っているのか、ファルには伝わらない。長いことファルの話し相手になってくれた動物たちは、今はもう、遠い存在となった。
花が枯れかけていても、また咲かせてあげることは出来ない。翼を失い、天人の力を失ったファルは、他にも多くのものを手離してしまった。
二度と空も飛べない。
……でも、いいんだ。
意志の疎通が出来なくたって、ファルはこれからきっといくらでも、動物たちと仲良くなれる。
力をあげることが出来なくても、水と肥料を与えて、太陽の光をいっぱい浴びさせてやれば、植物は美しい花を咲かせてくれる。
人の色は見えないし、表情だって見えないけど、ちゃんとキースの温もりは伝わってくる。
空は飛べなくても、ファルはしっかりと大地に両足をつき、どこまでだって歩いて行ける。
こんなにも自由で、幸せだ。
「キース?」
「……うん?」
キースの顎はファルの頭の上に置かれたままで、やっぱり彼がどんな表情をしているのかは見えなかったけれど、それはひどく穏やかな、優しい返事だった。
「──あのね、人の欲望には、涯があるのかもしれないけど」
キースがようやく頭を持ち上げ、ファルの顔を見る。訝しげなその碧の瞳に笑いかけ、ファルは続けた。
「でも、人の未来と希望には涯がないと、信じたいね」
大地にはいずれ涯がある。歩いて歩いて、行き着く先には、必ず行き止まりがあり、突き当たりがある。断崖絶壁の向こうに足を踏み出せば、深い海の中に呑み込まれてしまう。
際限のない欲は身を滅ぼす。人は、涯のその先には行けない。
天界からの干渉がなくなって、これからの地界がどう動いていくのか判らないが、もしも人間たちが利権を奪い合い、兵器を増産し、互いに争い傷つけるようになったなら──人の欲望が涯を越えてしまったなら、この世界もきっと滅びへと向かうことになるだろう。
……けれど、クイートが言うように。
世界の人々が手を取り合い、助け合って、進歩し、成長し、発展し、明るい方向へと進んでいく可能性だってある。それはもう、無限にある。
どこまでも続くこの広い広い空のように、未来と希望には、涯がない。
そう、信じていたい。
「……そうだな」
キースが眩しいものを見るようにファルを見つめて、目を細めた。
「──いつか、人は翼がなくても、空を飛べるようになるかもしれない。その時、雲の上にあるものを見て、何を思うんだろうな」
いつか、ずっと先の未来で。
空に昇った地界人は、何を目にするのだろう。
もう誰もいなくなった、無人の廃墟か。寂しい白亜の建物か。
それとも──
***
それから、二人で他愛のない話をした。
おもに話題になるのは、これからの予定についてだ。行きたいところがあり、会いたい人がいる、というのは、考えるたび胸がわくわくすることだった。それぞれに伝えなければいけないことがあるし、今の自分たちの姿を見せて驚かせてやりたい、とも思う。
まずはニグルに会いに行かないと。ヨレイクにも行って、博士からシェイラの話を聞きたい。馬車の窓から眺めるしかなかった外の世界はどんな感じなのだろう。忌み地で奮闘しているデンのことも気にかかる。
「そろそろ落ち着いたし、いい頃合いかもな」
「でも、キースはまだしばらく忙しいんでしょ?」
「いや、構わない。ゴウグも戻ってきたことだし、これ以上あの男のそばにいると、いつか殴りそうだ」
一体クイートに何をさせられているのやら。
「大体、国民登録の手続きだって、もうとっくに終わってるんだ」
「え。そうなの?」
「こっちが気づかないと思って黙ってやがる。まったくあいつは性悪だ」
「よっぽど離宮から出て行って欲しくないんだねえ……それだけ大事な時期ってことなんじゃない?」
「おれが一月や二月留守にしたからって行き詰まるようなら、それだけの器だったということだ。働いた分の金はせしめたから、今のところ懐も温かい」
「クイート、困るんじゃないかな」
「どうでもいい」
心底、「どうでもいい」という顔と口調でキースは断言した。
そうかあ、とファルは口の中で呟く。実を言えば、ずっと離宮から出ていないファル自身も、そろそろ限界を感じていたところだったのだ。
……早く、この目で見てみたい。
地界の国々を。海を。山を。ここに生きる人々を。
広い世界を。
ファルとキースの「約束の地」を。
「……じゃあ、こっそり出て行っちゃおうか?」
ふふふと笑いながら、悪戯の相談をするように声を潜めて言うと、キースもにやりと唇の端を上げた。
「エレネとゴウグにも黙ってろよ」
「驚くだろうから、置き手紙だけしていこうか」
「完全に家出だな」
「わたしたち二人とも今まで真面目にやって来たんだから、このあたりでちょっと羽目を外したっていいと思わない?」
二人で声を合わせて笑った。
キースの手が動いて、ファルの顔に触れる。指がするりと顔の線をなぞるように滑り、掌が頬を包んだ。
「……じゃ、またリジーに戻ってきたら」
お互いの顔が近づき、囁くような声が耳元に落とされる。
「その時は、二人でまた一緒に暮らそう、ファル。今度は、二十四の男と十八の娘として」
ファルは赤くなった。
子供の時のキースは傍にいるとひたすら安心感があったが、大人のキースは、ドキドキのほうが強い。小さくて可愛いキースがちょっと懐かしい──と思ったら、耳たぶを撫でていた指が動いてきゅっと頬を摘んだ。
「何か変なこと考えてたな?」
まったく目敏いんだから。
「約束よりも早いよね? 数年後って言ってたのに」
「そんなに待っていられるか。おまえ、おれが大人になったら、ピタリと隣で寝るのをやめやがって」
今も二人が使っている賓客用の部屋で、現在のファルが寝ているのはゴウグが持ってきたほうのベッドである。それについてキースは何も言わなかったが、いろいろと思うところはあったらしい。
「子供が大きくなったらもう添い寝はしないものだって、本に書いてあった」
「逆だろ、大人になったからこそ、添い寝が必要なんだろ」
「ごめん、なに言ってるのか、意味がわかんないや……」
「嘘つけ。絶対わかってるだろう。今さら子供のフリが通用すると思うなよ?」
頬を摘む指の力が強くなる。いたたた、とファルは声を上げた。
「……だって、まだキースを抱き潰せるほど、大きくなってない……」
目を逸らしてぶちぶち言うと、今までの自分の言動を完全に棚に上げて、キースが呆れた顔をした。
「おまえ、まだそんなこと言ってるのか。おれは大小にこだわらない、と何度言えばわかるんだ? そんなに大きくしたいなら、おれが手伝ってやる」
デリカシーがない。
むっつりと口を噤んでしまったファルを見て、キースは少し弱った顔になった。なんでも出来る器用なキースは、こういうところだけ不器用だ。彼のそんな表情を見られるのは、たぶんファルだけの特権だろう。
「……今のままのファルでいい、ってことだよ」
「そんなこと言って、実物を見た時に一瞬でも残念な顔をされたら、わたしもう穴を掘って隠れるしかないじゃない……」
「どこに穴を掘るんだよ。空を飛んだり、地中に潜ったり、忙しいやつだな」
頬から指が離れた。そのまま両腕がファルの身体に廻され、抱きしめられる。
少し伸びた蜂蜜色の髪に顔を埋め、キースの口からくぐもった声が洩れた。
「──どこにも行くな。ずっと、おれの隣にいてくれ」
「…………」
ファルの顔がさらに熱くなる。こんなことを言われては、もう降参するしかないではないか。
目の前の広い胸にもたれるように、自分の頭を寄せた。
「……うん、いるよ。ここに」
静かにそう言って、目を閉じる。
鳥は自分の意志で羽を落とし、この場所に留まる決心をしたのだから。
──もう、飛んでいかない。
頭上では、どこまでも続く青が広がっている。
天と地の間で、ふたつの長く伸びた影が重なり、いつまでも離れなかった。
完結しました。ありがとうございました!