臭い
「あ、レクト。お客さんが来てるよ」
夕食後、ライマーと談話室で少し話してから自分の部屋に戻ると、妙に緊張した顔のモリスがレクトを出迎えた。
「え? お客さん?」
レクトがモリスの肩越しに中を見ると、三年生の男子生徒が一人、レクトの椅子に腰かけていた。
細面の聡明そうなその顔を、レクトは知っていた。
モリスだってもちろん知らないはずがない。
彼は三年生の筆頭、三年一組のクラス委員なのだから。
「アインさん」
「アインでいい」
そう言って、アインは立ち上がった。
「少し時間をもらえるか、レクト」
「あ、はい。ええと」
アインの真剣な表情に、レクトはもじもじと指を動かした。
「なんでしょうか」
それに答えず、アインはモリスを振り返る。
「モリス、ありがとう」
「あ、はい」
モリスがぴょこんと頭を下げる。
「外に出よう」
そう言って、アインはレクトを連れて部屋の外に出た。
廊下を、アインは先に立ってすたすたと歩く。
何だろう。三年生のクラス委員が、僕に一体何の用だろう。
レクトはアインの背中を見ながら考えた。
アインは振り向きもせずに廊下を歩き、人気のない突き当りまで来たところでようやく足を止め、振り返った。
「この辺でいいだろう」
薄暗い廊下の明かりに照らされるアインの顔は、前髪がちょうど影になっていてレクトからはよく表情が見えなかった。
「あ、あの」
気まずさと不安で、レクトはきょろきょろと周囲を見回す。
「なんでしょう」
「エメリアから、気になる話を聞いたものでな」
アインは言った。
「君を訪ねる前にウルリケを訪ねたんだが、部屋にはいなかった」
「ウルリケ?」
胸がざわりとした。三年一組のクラス委員は、相変わらず表情のよく見えない顔のまま、続ける。
「彼女はどこに行ってるんだろう。レクト、君は知っているか」
レクトは黙って首を振る。アインはゆっくりと壁にもたれかかる。
「彼女のルームメイトも知らないと言っていた。ここ数日、夜遅くまで帰ってこないことがあるのだと」
「魔法の練習、とかじゃないでしょうか」
そう言ってから、レクトは昨日のウルリケの言葉を思い出して、慌てて付け加える。
「僕らができるのは、まだ瞑想だけですけど」
「魔法の練習なら別にいいんだ。管理人のマイアさんはいい顔はしないだろうがな」
アインは大人びた口調で言い、腕を組む。
「今の三年でいえばルクスのように、入学する前からもうすでに簡単な魔法を使いこなしている人間もいる。レイラのように夜遅くまでこっそりと練習を重ねている人間も。この学院で達成したい目標は人それぞれだ。僕は別に先生や職員ではないから、ウルリケもそういうことであるなら、まるで構わないんだ」
ウルリケにも、目標がある。
それは、レクトも知っていた。
ウルリケ自身がオリエンテーションの日に教えてくれたからだ。
この学院で治癒術と薬湯の技術を学んで、自分の母のような人を助けたいのだと。
だが、それを今ここでアインに話してもいいのだろうか。
レクトが黙っていると、アインは声を落とした。
「率直に聞こう。ウルリケ・アサシアはもう魔法が使えるのか?」
一瞬の躊躇。
さっきの話、誰にも内緒だからね。
ウルリケの声が蘇る。
僕とウルリケだけの秘密。
「分かりません」
レクトは首を振った。
「どうして、そんなこと僕に聞くんですか」
「君が彼女と一番仲がいいからだ。さっき、モリスもそう言っていたぞ」
「確かに僕ら、昨日の夜に少し植え込みの陰でおしゃべりしましたけど」
レクトは自分の中の何か得体の知れない不安を、声を出すことでかき消そうとした。
「それだけです。それよりも、さっき言ってた気になることって何ですか」
「レクト」
アインが壁から身体を起こす。その表情が灯に照らされて、レクトからも見えた。
「この学院は、君が思っているよりもずっと危険なところだ」
「え?」
思いがけない言葉だった。
「ここには世界中から才能ある少年少女が集まっている。だから、火に招き寄せられる蛾のように、それを狙う者もまた集まってくるということだ」
僕らを狙う者?
一年生相手だと思って幼稚な脅しをかけてきているのかと思ったが、アインの顔は真剣だった。
「狙う者って、何ですか」
先生からは、ノルクの街に出るときはおかしな客引きや勧誘には気を付けなさいと言われていた。
だが、学院で自分たちを狙う者なんて、聞いたことがない。
「様々な理由で、僕たちの才能を欲する者、利用しようとする者、妬む者、いくらでもいる。二年前、僕らが一年生の時の三年生がそれで一人、退校になっている」
「え? 退校?」
初耳だった。
「何をしたんですか、その人」
「詳しくは僕も知らないが、外部の人間とずっと連絡を取っていたらしい。夜中に寮を抜け出すことも頻繁にあったそうだ」
「外部の人と連絡を取ったらだめなんですか」
「退校になったからには、もちろんそれ以上の何かがあったんだろう。さっきも言ったが、その時の僕はまだ一年生だ。詳しくは分からなかったし、その後自分で調べたあれこれについて君に話すつもりはない」
アインはそう言った後、レクトをじろりと見た。
「ウルリケが夜遅くまでどこかに行っているのは、そういうことではないのか」
「いや、ええと」
混乱した頭でレクトはウルリケの様子を思い出す。
そんな、外部の人と会っているなんてことは別に。
お母さまよ。
レクトは腹のあたりからぞわっとした寒気のようなものを感じた。
お母さま。
そう言えば、ウルリケはおかしなことを言っていたぞ。
ウルリケのお母さんはもう亡くなったと自分で言っていたのに。
「何か思い当たることがあるのか」
「いいえ」
レクトは反射的に首を振っていた。
「ないです」
「そうか」
アインは首を傾げる。
「正規のルートではなく、わざわざこっそりと僕ら学生に接触を取ろうとしてくる外部の人間にまともな人間はいない。分かるだろう。やましいことがないのなら、学院を通じて接触すればいいだけのことだからな」
その言葉に、レクトは小さく頷く。
だが頭の中は、それどころではなかった。
アインはまだ外部の人間の注意事項のようなことを話していたが、レクトはほとんど聞いていなかった。
ウルリケは、誰と会っているんだろう。今もどこかで誰かと会っているんだろうか。
その疑問で頭がいっぱいだったので、危うくアインの次の言葉を聞き洩らしそうになった。
「だが最も恐ろしいのは、闇だ」
「闇?」
レクトは、聞き間違いかと思って思わず声を上げた。
「闇って、あの闇ですか」
「夜の闇。光に対する闇。そういう類いの闇だ」
話がおかしな方向に向かい始めた。
「闇は、人間の内側に侵食し、やがて破壊する。このノルク島というのは、おそらく闇の力が集まりやすい場所でもあるんだ。僕が思うに、この島の歴史が」
そう言いかけて、アインは首を振る。
「まあこれは単なる僕の仮説だ。それはいい。さっき君にも聞かれたが、エメリアが気になることを言っていたんだ。ほんの微かな臭いがしたと」
「臭い、ですか」
「エメリアは、見ての通りああいう野性味のある人間だから、五感が人よりも優れているんだ。そのエメリアが、昨夜君たちと話していた時に、ほんの微かな違和感のある臭いを感じたと」
何だ、それは。
レクトは思わず自分の服の匂いを嗅ぐ。
特別変わったにおいはしない。昨日のウルリケにだってなかった。
少なくとも、レクトは隣にいても気付かなかった。
「闇は、臭いを伴うと聞いたことがある。その力に触れた者からは、独特の臭いがするようになるのだと」
一体この人は何を言っているのだろう。
レクトはさすがに呆れた顔を隠しきれなかった。
いくら何でも、闇がどうこうだなんて。
僕らはまだ入学したての一年生だっていうのに。
レクトのその表情に気付いたのだろう、アインは自分でも、僕の考えすぎかもしれないが、と口にした。
「だが、万が一ということもあるからな。何かウルリケは言っていなかったか、気になることを」
「気になることって言われても」
レクトはもう一度首を振る。
「たとえば、どんな」
「いつもと違うことだ」
アインは言った。
「何か、些細なことでもいいんだ。いつもと違うおかしなことを言っていなかったか」
お母さまよ。
ウルリケの甘い声。
「……別に」
レクトは答えた。
「何も、僕には」
「そうか」
アインは息を吐いた。
「分かった。時間を取らせてすまなかった」
アインはレクトの肩を叩くと、歩き出した。
「何か思い出したことがあったら、いつでも教えてくれ」
そう言った後で、冗談めかして付け加える。
「ああ、もちろん今度行われる運動競技会の相談でも構わないからな」




