弐
完全に勢いで飛び出してしまった僕だけど、気を取り直して当初の予定通りに聞き込みを開始する。まずは近場から。美岬館の隣で土産物屋を営んでいるおばさんだ。
「あのう、この辺で怪しい人影とか見掛けたことありませんか」
「は? 人なら幾らでも通ってるよ」
「あ、いや、そうじゃなくてですね……」
「アンタ、美岬館の客かい? 良い所だろうー? ここは。自然はいっぱいだし空気はおいしいし、海も山もある! おかげでおばさんは生まれてこのかた、風邪らしい風邪ってのを引いたことがないよ」
「は、はあ。関連性がわからないけどめちゃくちゃ健康的ってことですかね……あのっ、それで、」
「観光ならどうだい? 美岬饅頭。一つ食ってくかい?」
「え、あ、でも、僕、お金そんなに持ってきてなくて……。そ、それよりですね!」
「いいよいいよぉ、金なんて! お試しで一個やるからさあ!」
むんずと手を取られ、えいやと和紙に包まれたお饅頭を手渡される。問答無用だ。土産屋のおばさんは大変に人が良いようだ。ニコニコ笑顔で僕のリアクションを待っている。
あ、うん。これは、はい。食べなくてはならない流れですね。
「ありがとうございます……」
すっかり押し切られた勢いのまま美岬饅頭とやら口にする。──あ、美味しい!
「おばさん、これ美味しいです! 中は白餡ですか?」
「そうそう、その通り! やっぱり味のわかる子はいいねえ! かわいい坊やだこと。もう一つ食べるかい?」
答える前にまた手の平にお饅頭を乗せられていたので、此方もありがたく頂戴することにする。今度は黒のこし餡だ。舌触りが滑らかで実に美味だ。
お店の縁側へと腰掛け、美岬饅頭をお供におばさんと話に花を咲かせる。
「ここいらはねぇ……ほんとうに良いとこなんだあ。氏神様が護ってくれてっからねえ」
「氏神様……」
──確か、土地を護る神様のこと……だったか。前になにかで聞いた気がする。テレビかな。
すっかり美岬饅頭を気に入りながらも、仕事も忘れずにとメモ帳に『うじがみさま』と留めておく。
「でもなぁ──最近の子は氏神様を信じない。だから氏神様が怒ってらっしゃるんだ」
「むぐ……ぅむ、なるほど」
僕自身、最近の子に当てはまる年頃である為、なんともいえない気持ちになって頷く。信仰って、どうあっても盛り上げる努力をしない限り時が経つ程に薄まっちゃうものだもんな。信じ寄り添ってきたご老人や大人達にとっては、そういった若者離れは納得できない事の一つなのだろう。
「アンタも氏神様の怒りを買わんよう──気を付けなよ」
そう締めくくると、美岬饅頭の味別五種類ワンセットをオマケしてくれたおばさんは店の奥へと引っ込んでしまった。
──氏神様の怒り。
以前の僕ならば気にも留めなかった単語を記録する。すべては、探偵へと届ける為に。
「うーん、なんとも──だなぁ」
ぐるりと美岬館周辺を回ってみる。土産物屋の他に、花屋に飯屋、洒落たカフェに古本屋──目につく限りに聞き込みを試みてみたが、特に情報らしい情報は得られなかった。今日のところはこれが限界だろう。
「『うじがみさま』『美岬饅頭には幻の激辛唐辛子味がある』『昔は清海野旅館が此処等一帯の顔だった』『美岬館が繁盛し始めたのは七年程前から』──」
近場のベンチに腰掛け、改めてメモの内容とボイスレコーダーの録音とを照らし合わせる。誘惑に負けて買ってしまった美岬饅頭をむぐむぐと食しながらふと気付く。
そういえば氏神様のことを言ってたの、土産物屋おばさんだけだったな。
皆して黙している、というよりは、誰もそこまで気にしていない様子だった。「ああ、氏神さまね。はいはい。そうらしいね」この程度の感触だ。
若い子は信じない──おばさんの憂いはこういうことなのだろうか。いつかテレビで観た、現地の人々に忘れ去られ廃れていった神社の有り様を思い出してなんだか切なくなった。
空が茜色を溶かし始める。『黄昏』だ──と、落ちゆく陽の向かう先を見上げる。
──────あれ。
「白い──?」
山だ。そこには山があった。うっすらと白みがかった山は今や陽の光に照らされ、美しかった。神々しかった。おそらくは観光地の一つだろうと容易に推測できた。それくらい────山は異質だった。
僕には、なんだか茜を被った山が怨めしげに血を流しているように見えたのだ。きれいなのに、こわい。
「……戻ろう」
そう思うのに──目が離せない。
得体の知れない恐怖。ぞわりと奥底から冷たい何かが這い上がってくるような。足先から体温を奪われていくような。言い知れない心地。
名前のない嫌悪感すら込み上げてきたというのに、何を思ったのか僕の足はゆったりと山へ向かって歩先を進めて行く。
どうして。止まらない。止められない。
とうとう目の前に注連縄が迫ってきた。注連縄──何を、封じているのか。
いやだ。こわい。進みたくない。心はそう言っているのに。頭だって理解しているのに。足だけが────無情だ。
山の麓にまで差し掛かる。ああ。
きれいな、山だ。
「────駄目だよ」
声だった。山が答えたのだと思った。──そんな訳はなくて、男の声は後ろにあった。
振り返る。緋に侵食された空を背に、優しげな青年が微笑みを浮かべて立っていた。歳は二十代前半といったところか。茶髪が流行している現代では珍しい、艶やかな黒髪をしている。染めたことなんて一度もないのだろう。朱にも負けない色だ。
「君、ここの地域の子じゃないね。なら、仕方ないけど──この山はね、神様の住む山なんだ。だから、むやみに入ったり遊んだりしてはいけないよ。神様の怒りを買っちゃうからね」
そう諭すと、青年はそっと腫れ物に触れるように僕の頭を撫でた。すると、不思議なことにそれまで張っていた〝なにか〟が、ストン──と落ちていくように肩から足から全身から抜けていった。
一体何が────ナニが、僕の身体に纏わり付いていたのだろう。
「──もう大丈夫だろう。自分の足で帰れるね?」
数度、今度は背を叩かれる。その度に、重みが抜けていく。
不思議な人だ。──なんだか、時政さんみたいだ。
「あの──あなたは──」
名を問おうとした言葉は虚空へと消えた。青年の瞳に哀しい拒絶が見えたからだ。
「……さあ、もうお行き」
背を向けるまでもなく、彼の黒髪は紫の空に同化し消えていった。
◆◆◆
「──おせえッ!」
「へぶッ!?」
浴衣が飛んできた。宿泊室へと戻った瞬間に。ただいまを言う前に、浴衣が。顔面から縦模様の布を引き剥がして大きく息をする。
知らなかったなあ、時政さんが育った家庭ではおかえりの挨拶に衣服を投げ付けるのか。へえ……。まぁ別に布だから痛くはないけどさ。
「……って、なにするんですか!」
「飯までには戻ってこいっつったろうが。今、何時だと思ってやがる」
窓から見える外はとっくに闇色だ。腕時計を確認すれば、ああ、二十時を十五分も回っていた。
室内には夕膳が二つ、丁寧に並べられていた。箸はどちらとも付けられていなかった。……時政さん、もしかして僕のこと待っててくれたのか。
「……ごめんなさい。お待たせしました。あ、それと、今日の収穫ですけど、」
「それは後だ。まずは飯食って風呂入って、疲れを流してから聞く」
反論など許さないとばかりに時政さんが僕の手を取る。隣り合わせの膳の前へと座る。遠目からでも鮮やかで魅力的だった刺身の盛り合わせが、間近から「わたし美味しいわよ」と主張して僕の食欲を刺激する。
道中に美岬饅頭をひとケース食べきった筈なのに。……うむ、夕飯は別腹だ。
と、いうわけで。
「「いただきます」」
隅から隅まで──山の幸も海の幸も存分に堪能する。苦手な食材があれば時政さんへ。時政さんも勝手に僕の皿に乗せてくるので、暗黙の了解で交換っこしながら膳を平らげる。
意外にも時政さんは箸の扱いが美しい。指も形も全てが丁寧だ。そんな彼の様子も、食事と一緒に横目で楽しむ対象だった。
食事が終われば風呂だ。美岬館自慢の大浴場で身体をほぐす。贅沢だ。こんな貴重な体験を、所謂経費で落とせるなんてもしかして僕ってばかなりアタリなアルバイトを引いたんじゃないだろうか。──なんて。湯で思考もすっかりふやけてしまう。
ご機嫌に部屋へと戻れば、時政さんはとっくに髪も乾かして寛いでいた。浴衣姿の時政さんは、思っていた通り筋肉の引き締まった実に逞しい身体付きをしていた。細マッチョだ。チラリとはだけた胸元から見える胸筋が輝かしい。僕のちっとも焼けないなよっちい身体とは大違いだ。
風呂上がりでも変わらず目を覆う髪型に眼鏡な時政さんが、ガイドブックから顔を上げて僕へと何かを投げて寄越す。
「オラ」
「わっ──牛乳?」
近頃はスーパーなどで見掛けることも少なくなった牛乳瓶だった。同じ物を時政さんも手に持ち、先に蓋を取って飲んでいた。
「風呂上がりといえばこれだろ。──バイト君の初成果、飲みながら聞いてやるよ」
ニヤリ。時政さんお得意の妖しげな笑み。なお片手には牛乳瓶の新バージョン。ますます怪しい。
そんな時政さんの姿が妙にコミカルに見えてしまって、くっくと笑いを堪えながらボイスレコーダーを再生させる。
「……ろくな情報がねぇな」
「……ですよね」
聴き終えたところで時政さんは容赦なく切って捨てた。うん、僕もそう思う。
「七年前から繁盛、ねえ。それまでは清海野がここらの顔役をしていたわけだ。──やっぱり、清海野旅館が鍵を握ってると見て間違いねぇか」
清海野旅館──老舗であり、美岬館とも遠からずの関係にあるとされる同業施設。確か場所は山の近くで────あ。山といえば、そうだ。と、頭の引き出しを引っ張り出す。
「あの、うっかり録り忘れてたんですけど、ここには氏神様が居るらしくて」
「氏神?」
窓から例の山を見上げる。山は、とっぷりした暗闇の中に在るというのに不気味なくらいはっきりと見えた。白い──と、そう思えるくらい。
「あそこに────居るって」
「……お前、あの山に入ったのか」
「え? いえ、入る前に知らないお兄さんに止められちゃいましたから」
今になっても不思議で仕方ないのだ。どうしてあんな山に行こうとしたのか。行こうと思ったのか。──いいや、思ってない。僕は、山へ行こうなんて考えていなかった。それなのに────足が。
ここからでも、こんなにも不気味で仕方がないのに。
「……そうか。よし、今日は早めに寝んぞ。明日、朝から清海野とあの山に行くからな」
…………えっ?
「調査開始だ」




